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縁談
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「ほう…美しいではないか、オフィーリア」
妹の二度目の花嫁姿を褒めた。
十代半ばの息子のいる母親には見えない。彼女はお世辞抜きに美しかった。
笑顔を忘れた顔を除けば、彼女は完璧な人形のように美しい。
「晴れの日だ。笑顔くらい見せたらどうだ?」と言う私に、妹は冷ややかな視線を向けた。
「どの口がおっしゃいますの?
私から幸せを奪ったのはお兄様ではありませんか?」と妹は兄王である私に反抗した。
その指摘は本当のことだ。
彼女は私が見逃した、オークランド国王の血を継ぐ、数少ない生き残りだ。
「だから新しいものを与えたのだろう?まだ怒っているのか?いい加減諦めよ」
「夫と我が子を奪った相手を憎むのは当然です」
「ならば、我が身の不幸を呪って窓から身を投げるか?
そうなれば、後はどうなるか、再三教えたはずだ」
彼女はどんなに気に入らなくても、私の言う通りにするしかない。
紅を乗せた唇を噛み締め、彼女は私を睨んだ。
「あの子を…ヴィヴィアンを返してください」
「それは叶わぬ願いだ」と彼女の願いを突っぱねた。
「娘でなくて残念であったな。
まぁ、仮にも私の甥だ。殺しはしないさ」
「あの子は何処ですか?最後に一目会わせて下さい」
「諦めよ。今更会えば苦しむだけだ」
涙を溜めた目で妹は私を睨んだ。彼女にはそれしかできない。
無力で哀れで可愛い我が妹だ。だからこそ、生かしておいた。
ハンカチを手に、彼女の涙の零れそうな目元をそっと拭った。
「せっかくの化粧が崩れる。
花嫁が泣いていては、興が冷めるだろう?」
彼女は私の重要な手駒だ。
「忘れるなよ?ヴィヴィアンの寿命はお前次第だ」と脅すと彼女は大人しくなった。
仕上げとばかりに、妹の細い首に手をかけて呪いの言葉を与えた。
「オークランド国王の妹として、エヴァレット公爵の良い妻であれ。
他国に嫁ぐからと気を抜くなよ?
悪い噂とはすぐに広まる。
この私が、お前と同じ顔の甥を苦しめることのないようにな…」
彼女の返事は無かったが、そんなもの必要ないだろう。彼女の魂は呪いで縛られた。
花嫁の控え室を出て、広い廊下を歩いた。
彼女の新しい夫は、イザード王国の王族であるエヴァレット公爵だ。
よく肥えた醜い禿げ男を思い出して苦く笑った。
あの美しい妹に釣り合わない男だ…
妻だって、妹で三人目と聞く。あまりに良い噂は無いが、妹をやると決めたのは、彼に利用価値があるからだ。
妹の件は今日で片付く。
問題はヴィヴィアンの方だ…
「陛下…失礼致します」
スルスルと滑るように現れた相手は、私の放った間者だ。
彼が携えて来たのは、「ランチェスター公子の行方は未だ不明です」という不愉快な報告だった。
オフィーリアから引き離していたのが仇になった。
苦労して手に入れた人質は、亡きランチェスター侯爵の残党の手によって幽閉先から逃げ出した。
私の耳にそれが届いた頃には、甥が逃げてから既に一月も経過していた。
秘密裏に解決しようと、報告を怠った愚か者のせいで、私の玉座に揺らぎができてしまった。
全く不愉快だ…
この玉座の基礎を作るために、どれだけの犠牲を敷き詰めたと思っているのだ?馬鹿者めが…
「何処まで辿れた?」と確認すると、「国境を越えたのは間違いありません」と答えた。
「恐らく、アーケイイックを通り、フィーアに逃げ込んでいると思われます。
それらしい子供の目撃証言があります」
「…面倒な…」
こんな事ならさっさと殺してしまえば良かった…
舌を切り落として、不能にした程度では甘かったらしい。
身体に欠損のある無力な子供が、どうやって生き延びているのかまでは分からないが、誰かの庇護下にいるのだろう。
ヴィヴィアンを見つけたら、次はどうしてやろう…
ただ殺してしまうのは芸がない。
捕らえたら、今度こそ逃がさないように、手足も切り落とし、目も潰してやろう。
もしヴィヴィアンを匿っている者が居れば、その人間にも惨たらしい死をくれてやる。
誰一人、この私に逆らうことなど許さない。
オークランドの玉座を揺るがす存在は、何人たりとも許さない…
オークランドの太陽は一つで十分だ…
✩.*˚
「ユリア、お客様にお茶をお出しして」とお母さんに呼ばれた。
「はぁい」と返事をして、お母さんの用意を手伝った。
「うふふ。バルテル様がね、『是非、ユリアにお願いしたい』って仰ってくださったのよ」とお母さんは嬉しそうに教えてくれた。
「バルテル様が?!」
バルテル様、ユリアのこと覚えてくれてるんだ!
「旦那様とお父さんがバルテル様とお話してるわ。お邪魔しないようにね」
「もうひとつあるよ」と四個目のカップを見つけてお母さんに訊ねた。
お母さんはカップの行き先を答えた。
「それはバルテル様のご子息様の分よ」
そうか…バルテル様にも奥様や子供がいるんだ…
現実を見せられたようで、なんか少しガッカリした。
バルテル様は格好いいから、きっと奥様も綺麗な人だろうなぁ…
ご子息は似てるのかな?幾つだろう?ユリアより年上かなぁ…
好奇心が湧く。
ティーワゴンを押して応接間に向かった。
「失礼します」とお部屋に入ると、お部屋の空気が少し緊張していた。
お父さんと旦那様の表情が硬い。何だろう?
「お茶をお持ちしました」
「ありがとう、ユリア」と一番初めに声をかけてくれたのはバルテル様だった。
バルテル様の隣に、お兄ちゃんより年上の男の子が座っていた。
お茶の用意をしながら少年の顔を盗み見た。
バルテル様に少し似てる。
彼は私と目が合うと恥ずかしそうに視線を外した。
私たちの様子を見ていたバルテル様が、小さく笑って、私に彼を紹介した。
「息子のアダルウィンだ。今年で14になる」
バルテル様は今度はご子息に声をかけた。
「彼女がシュミットの娘のユリア嬢だ。お前からもご挨拶しなさい」
「こんにちは、ユリア嬢。アダルウィン・フォン・バルテルです」
少年は父親から促されて、恥ずかしそうに挨拶した。
何でそんなに緊張しているのだろう?女の子と話したことが無いのかな?
「ユリア、お前も挨拶しなさい」とお父さんが言った。
「ユリア・シュミットです」と奥様から教えてもらった淑女のお辞儀を披露した。
ふふん、ユリアちゃんとできるもん。どう?
お父さんの顔をチラリと見たけれど、上手にお辞儀したはずなのに、お父さんの顔は嬉しそうじゃなかった。
「ユリア、下がっていいぞ」と旦那様に言われて、お部屋を出た。
ユリア上手にできたと思ったのに…
「お母さん、行ってきたよ」
「ありがとう、ユリア。どうだった?ちゃんとできたかしら?」
「うん。ちゃんとできたよ。
でもね、お父さん難しい顔してた…ダメだったかな?」
「あら?ハンスが…」とお母さんは首を傾げた。
お母さんは少し黙って、唐突に話題を変えた。
「ねぇ、ユリア。バルテル様のご子息はどんな子だった?」
「アダルウィン様?
普通だよ。14歳って言ってた。
ちょっとだけバルテル様に似てたと思うよ」
「あら、じゃぁきっと大きくなったらバルテル様みたいになるかしらね」とお母さんはおっとりと笑った。
「でも、バルテル様の方が素敵だよ」
「あらあら…全く、小さい頃の私みたいね」
「だってカッコイイもん!」と答えると、お母さんは、「おませさんね」と困ったように笑った。
「何の話ですか?」と厨房に現れたメリッサが話に加わった。
「ねぇ、メリッサ、バルテル様カッコイイよね?」
「あぁ、あのヴェルフェル侯爵の近侍のバルテル様?
確かに格好いいとは思うけど、ユリアは随分渋い殿方がお好きなのね?」
「だってお髭もハンサムだし、ユリアみたいな子供でも淑女として扱ってくれるのよ!ねぇ、素敵でしょ?」
メリッサは私の話を聞いて、お母さんと顔を見合わせた。二人とも、背伸びする少女の話に苦笑いを浮かべた。
✩.*˚
『返事は急がない。じっくり考えてくれ』
バルテル卿はそう言い残すと、息子を連れて帰って行った。
「…いかが致しましょうか?」
「いや…お前はどうしたいんだよ?
ユリアの親父はお前だろう?」
旦那様はこの件の口出しを避けた。
バルテル卿はユリアを気に入ってくれたらしい。
それはあの子が淑女として良い評価をなされたということで、喜ぶべきことだ。
「まさか…自分の娘にこんなに早く縁談が来るとは思っていませんでした…」
「まぁ、たしかにな…」と旦那様も頷いた。
長男でこそないが、相手は騎士の家柄で、バルテル卿は現ヴェルフェル侯爵が最も信頼する部下の一人だ。
『侯爵は息子をロンメル家の《騎士》にするおつもりです』とバルテル卿は言っていた。
カナルの岸で、多くの騎士が失われた。
その穴を埋めて、さらなる強兵を推し進めるために、既に失われた家名を、本来家が継げない騎士階級の次男や三男に与えると決定したらしい。
爵位は国王の承認が必要だが、騎士であれば侯爵家の権限で任命ができる。
バルテル卿の子息もその候補に名前が上がったらしい。
旦那様がかねてより侯爵に願っていた《騎士》が融通されるのだ。
本来なら喜ぶべきところだ…
素直に喜べないのは私の心が狭いからだろう…
娘の幸せを願うなら、これ以上の相手はいないだろうに…
「まぁ、ラウラと話し合って決めろ。俺に遠慮するな。
もしユリアが嫌だっていうなら、俺も無理にとは言わねぇよ。あいつは俺にとっても娘みたいなもんだ」
旦那様は重要な決定を私たち家族に任せた。
「ラウラ、ユリアも話がある」
夕食の後で二人に声をかけた。ラウラはすぐに察して、ケヴィンに弟たちを預けた。
「何で旦那様と奥様もいるの?」とユリアは怪訝そうに眉を寄せた。
「大事な話だからだ」と言って、ラウラとユリアをソファに座らせた。
「ユリア、昼はお茶を出してくれてありがとうな。バルテル卿も満足してたよ」と旦那様が褒めると、ユリアは気を良くした。
「ユリアも立派な淑女ですものね」と奥様もユリアを褒めた。
二人ともユリアを娘のように可愛がってくれていた。
「私はお会い出来なかったのですが、ユリアはバルテル様のご子息にはお会いした?」
「うん。ちょっとお父様のバルテル様に似てたよ」とユリアは奥様の質問に無邪気に答えた。
「まぁまぁ、男前だったろ?」
「えー?でも子供だよォ」とユリアは自分のことを棚に上げて、不満げに答えた。
「ユリア、バルテル様みたいなお髭の大人の男の人の方がカッコイイと思うよ」
「はー…言うねぇ」
「あらあら、ユリアは厳しいわねぇ」
旦那様と奥様は苦笑いで視線を交わした。
旦那様は私に視線を向けると、無言で話すように促した。私も腹を決めてユリアに話を切り出した。
「ユリア。落ち着いて聞きなさい。
バルテル卿からお前に縁談があった」
「え?」驚くユリアとは対照的に、ラウラは落ち着いた様子でユリアの手を握った。
「アダルウィン様との縁談が来ている」と教えると、ユリアは「私と?」と信じられない様子で訊ねた。
ユリアはキョロキョロと周りを見回した。
ようやく私の言葉を飲み込んで、ユリアは驚いた声を上げた。
「ええ?!だってユリア子供だよ!」と、今度は都合の良い事を言った。
ユリアの様子に奥様も笑った。
「ユリア、落ち着いて。まだ縁談が来ただけよ。お返事はしてないわ」と奥様はユリアを宥めた。
それでもユリアは不安そうにモジモジしながら視線を落とした。
「…だって…ユリアここにいたいもん…」
「ユリア…」
「ユリアはブルームバルト好きだもん…
離れたくないよぅ…」ユリアの目元にじわりと染み出した涙を見て言葉を失った。
まだ小さかった子供たちを、私の都合でこの街に連れてきた。特にユリアはまだ小さかったから、この街が彼女の育った故郷だ。
子供でも、嫁に行くなら家を出るのは女の方だと知っているのだろう。
「ユリア」とラウラが娘を呼んだ。
「お父さんのお話をちゃんとお聞きなさい。その上で、どうするのか決めましょう?
ハンス。貴方もしっかりなさい!そんなのじゃ私の娘は納得しませんよ」
「…すまない、ラウラ」
彼女はしっかりしてるな…全く、彼女には頭が上がらない…
「ユリア。バルテル卿は無理にとは言っていない。断るならそれでもいいそうだ。
それに、彼と婚約したとしても、お前は今まで通りブルームバルトで生活することになっている。
むしろ移住するのはアダルウィン様の方だ」
「…ほんとう?」
「あぁ、本当だ。
アダルウィン様は、ヴェルフェル侯爵の命でバルテル家を離れ、騎士としてロンメル家に仕えることになっている。
バルテル卿は、一人でブルームバルトに赴く息子を、お前に支えて欲しいと思っているんだ」
自分がブルームバルトを出るのではないと知って、ユリアは少し落ち着きを取り戻した。
「でも私、アダルウィン様とは今日会ったんだよ…挨拶しかしてない…」
「そうだな。でも向こうもそうだろう?」
「何だユリア?お前が一丁前に心配してるのか?」と旦那様が口を挟んだ。
「俺たちが初めて顔を合わせたのに比べりゃ全然いいだろ?
俺なんかテレーゼに絶望されたぞ」
「うふふ、そんなこともありましたね」と奥様も笑った。
「ユリア、聞きたい?」と奥様がユリアに訊ねると、旦那様は「よせよ」と苦い表情を浮かべた。
「参考にもならねぇだろ?」
「私たち、出会いが悪かったですものね」と笑いながら、奥様は旦那様と初めて顔を合わせた時のことをユリアに教えた。
父であるヴェルフェル侯爵に連れられて、汚い泥まみれの中年の傭兵隊長と顔を合わせ、《未来の旦那様》と聞かされた時は泣きそうになったらしい。
それもそうだろう…
ユリアがそんな男と結婚しなければならないとしたら、私は正気ではいられないだろう。
どんな嫌がらせかと思う。
それに比べれば、アダルウィン少年は娘にはもったいないほど贅沢な人選だ。
「でも今は、あの時のみすぼらしい格好をした、汚い中年の傭兵隊長さんと結ばれて良かったと思ってます」
「どうせ小汚いオッサンだよ、俺は…」
「あらあら、拗ねちゃいましたか?」
面白そうに笑って、奥様は旦那様の顔に手を伸ばした。二人の睦まじい姿に、ユリアは少し羨ましそうな眼差しを向けた。
「ユリア。私は良い御縁だと思うわ」とラウラがユリアの背中を押した。
「バルテル様は賢くて素敵なお方よ。
きっと自信がおありだから、アダルウィン様をブルームバルトに送り出そうと思ったはずだわ。
バルテル様が大切な我が子の相手に、貴女を選んでくれた事を私は誇り思うわ」
ラウラはユリアの不安を優しく和らげた。
「ハンス、お返事は急ぎませんでしょう?
よく知らない相手なら、私もユリアも不安は残るわ。私もアダルウィン様たちとお話する機会をいただけるかしら?」
「それは、可能だが…」相手は忙しい身の上だ。おいそれと呼ぶのは気が引けた。
「なんなら飯にでも誘うか?」と旦那様が提案した。奥様も「いいですね」と乗り気だ。
「ワルター様のお誕生会にご招待すればよろしいではありませんか?」
「げっ…そんなものがあったな…」
「そんな嫌そうな顔しないでください。皆さんお祝いに来て下さるのですから…」
「この歳になって誕生日なんてめでたいもんか!」
「そうですか?私は楽しみですよ」
「旦那様のお誕生会にアダルウィン様も来るの?」
「バルテル様もお父様のお付きでいらっしゃるはずですから、一人二人増えたところで変わりませんわ」と奥様はバルテル卿の家族の分の招待状を用意するように指示した。
「ユリアも可愛いドレスを用意しないとね。
ケヴィンの分も必要ね」
「お祝いだ、そのくらい出すさ」と、旦那様は気前よく子供たちの衣装を約束した。
「良かったわね、ユリア」
嬉しそうに祝福してくれる母親に、ユリアも小さく頷いた。
少しは自分の意思も尊重してもらえると知って安心したのだろう。
複雑な気持ちを残したまま、私は新しい招待状を用意した。
✩.*˚
「忘れてたな…」
ヨナタンは届いた手紙の束から一通の封筒を抜き出した。
綺麗な封筒から出てきたのは招待状のようだった。家紋は見たことがある。
ロンメル男爵家の《白鹿》だ。
「今年は無いと思っていたんだがなぁ…」とボヤきながら、ヨナタンは招待状を手に席を外した。
団長に届けるのだろう。
ヨナタンの机に広げられた、読みかけの新聞に視線が留まった。
その記事に目を疑った…
嘘だ…
思いもよらぬ形で、家族の身に起きた不幸を知った…
《オークランド王女・オフィーリア王女再婚。お相手はイザード王国の王族・エヴァレット公爵。イザード王国の海軍が目的か?》
新聞を手に、膝から崩れ落ちた。
お母様が…
子供は僕だけだったけど、お父様もお母様も仲睦まじかった。
お父様が亡くなったのは何となく察していた。
あの執着心の強い伯父が、王太子だった従兄弟に味方したお父様を許すはずがなかった…
自分だけ逃げた事が、罪悪感となって、僕の心を揺さぶった。
『ヴィヴィ…生きて…』
お母様とお父様は、僕に人として最低限の事しか望まなかった。
仇を打つことも、家を立て直すことも、助けに戻ることも望まなかった…
ただ、弱い子供に望めるのはそれくらいしかなかったのだろう…
僕は…弱い…
新聞を握って泣いた。
僕にできるのはそれだけだ…
無力な僕は、理不尽を押し付けられた母のために、涙を流すことしか出来なかった…
新聞には、僕が行方不明で、何処かに幽閉されているであろうと推測されていた。
でもいつかバレる…
相手はあの伯父だ…執着して、必ず僕を殺しにくる…
そう思ったら途端に怖くなった…
もし見つかったら…ヨナタンはどうなるの?
彼の事が心配になった。
相変わらず、歪な《恋人》の契約は続いていたが、彼のことは好きだ。
いつの間にか、頼るだけの存在ではなく、本当に好きになっていた…
僕がここにいたら、きっと彼は伯父の憎悪の対象になる。
どうしたらいいのか、答えは分かっているのに、その答えを受け入れたくない自分がいた…
ヨナタンの声に顔を上げた。彼はいつの間にか戻ってきたみたいだ。
慌てて取り繕おうとしたが、出来なかった…
「あ…ヨナ…」
「どうした?何が…」
彼の視線は僕の持っているものに注がれた。
慌てて新聞を畳んで、記事を隠した…
彼は眉を寄せた顔で僕を見下ろした。
「何があった?何で泣いてる?」
彼の問に答えることが出来ずに、口を閉ざして、なんでもないと首を横に振った。
ヨナタンは僕の手から新聞を取ろうとした。変に抵抗せずに、素直に渡せば良かった…
僕の行動が、逆に彼の気を引いてしまった。
「何が書いてあった?お前に関係あるのか?」
僕のことを知ったら…
彼は僕を捨てるだろうか?
騙していたと怒るかな…
勝手に暴走した感情は、恐怖に変わって、ここから逃げなきゃいけないと強迫観念に取り憑かれた。
「アルド!」
呼び止めるヨナタンの脇を抜け、その場から逃げ出した。
✩.*˚
なんだってんだ?
新聞を手にしたまま、逃げ出したアルドの後を追った。
何度も呼び止めたが、あいつは立ち止まらずに俺を振り切って逃げた。
一体何が書いてあったんだ?あいつに関係することか?
新聞なんてあれだけじゃない。買ってくれば同じ内容を確認できる。
アルドを追うか、新聞を買って内容を確認するかで迷った。
そうしてる間にアルドを見失った。
拠点から出て辺りを見回したが、アルドの姿を見つけられなかった。
「兄さん、どうしたんっすか?」
拠点の外にたむろしていた傭兵が怪訝そうに訊ねた。知ってる顔を捕まえて訊ねた。
「お前ら、アルドを見なかったか?」
「あぁ、兄さんのツレの?」
「なんか走っていきましたぜ。用事でしたかい?」
「どっちに行った?」と訊ねると、彼らは揃って同じ方向を指さした。
金を出して暇そうな奴らに投げた。
「誰か新聞を買ってきて、経理の机に置いておけ!」
「手伝いますかい?」と暇な奴らが着いてこようとしたが、それこそアルドがビビる。
「お前らが追い回したら余計に逃げるだろうが!団長には俺が席を外すと伝えろ!」
伝言を残して、アルドが走り去ったであろう方向に足を向けた。
「…何処に行った?」北風の吹く街並みは、普段に比べれば人は少ないが、それでもすぐに見つけられそうにない。
慌てて出てきたから、上着も置いてきた。
冬も本番で、時折雪もチラつく。
このままじゃ風邪を引きそうだ。
早く探さないと…あいつだって上着も取らずに出ていったはすだ。
あいつはそんなに必死に何を隠している?そんなにまずいことなのか?
あいつは俺に、自分の出自やこれまでの事は何も話さなかった。
俺も無理に立ち入ろうとはしなかった。その方が、あいつのためだと思って、確認することを避けていた。
それが間違いだったのか?
街外れの石造りの橋の上に、寒そうに背を丸めたあいつの姿を見つけた。
新聞はどこかに捨てたらしい。手ぶらだ。
川を覗いているその姿に嫌なものを感じた。アルドは橋の欄干に足をかけて登ろうとした。
「アルド!」
俺の声に反応して、彼は驚いた顔で振り返った。
泣いて赤くなった目が俺を見つけた。
「やめろアルド!こっちに来い!」
もっと優しく言えばいいのに出来なかった。
怯えたような目をしたアルドは、首を横に振って俺を拒否した。
彼は欄干に登った。
その姿に血の気が引いた。寒さはもう感じてなかった。
「やめろ!」どうしたらいいのか分からない。
必死に彼の気を引く方法を探した。
持っていたダガーを抜いて自分に向けた。
近くを歩いていた通行人の悲鳴を聞いて、アルドが振り返った。
「お前がそこから飛び降りたら、俺はこれで死ぬぞ!
分かったらそこから降りてこい!お前は俺を殺す気か?!」
卑怯な脅しだが、これ以外の方法もない。あいつが俺を嫌って出ていったのでないのなら、この脅しは有効なはずだ。
アルドは橋の上で迷って止まった。
動けなくなったあいつの目の前で、本気だと教えるために手首を傷つけた。
久しぶりに手首の傷が増えた…
滴る血が地面に落ちて、通行人が悲鳴をあげた。
「あぁ!」
青い顔をしたアルドが悲鳴をあげて、慌てて欄干を降りた。
とりあえずアルドを思いとどまらせるのに成功したが、今度はアルドが俺からダガーを取り上げようと飛びついた。
「おい!そんな無茶な…怪我するぞ!」
危なっかしいアルドを叱ったが、彼は泣きながらダガーを取り上げようと腕を伸ばした。
このままでは、怪我してでも取り上げようとするだろう。
「分かった、分かったから。捨てるよ、それでいいだろう?」
そう言ってダガーを捨てると、アルドは俺の傷付いた左手を掴んで傷を確認した。
「ヨナ…ヨナ…」
喋りにくそうな、舌っ足らずの子供みたいな声が、俺の名前を繰り返し呼んだ。
「悪いな、これしかなかったんだ…」
我ながら頭の悪いやり方だったと反省した…
震えるアルドの背に右手を添えた。冷たくなった身体を抱き寄せた。
「寒いな…戻ろう。
帰ったら手当してくれ」そう言うとアルドは黙って頷いた。
何で逃げたのかは、今は訊かない方がいいだろう…また逃げられても面倒だ…
だが、それもいつかは確認しなきゃならない。それに、知ってしまえばこっちのものだ。
どんな理由でも、『それがどうした?』と言うつもりでいた。
俺はアルドを手放す気は無い。
少なくとも、こんな別れ方をするのは認められない。
帰り道で二人分の上着を買った。
つまらん出費だが、風邪を引くよりはマシだ。
「寒くないか?」と訊ねると、アルドは頷いて笑った。
逃げないようにアルドの手を握った。アルドは嫌がらずに俺の手を握り返した。
それに少しほっとした。
訳ありで逃げたが、それは俺のせいでは無さそうだ…
「アルド」と俺がやった名前で彼を呼ぶと、彼は俺を見上げた。
「俺が信用出来ないか?」
俺の質問にアルドは首を横に振った。
「なら、逃げるなよ。何かあったらな俺に話せ。今日みたいなのはさすがに傷付く…」
アルドは黙って俺の言葉を聞いて、繋いだ手の甲に《ごめん》と指先を這わせた。
書くものがないから、それが彼の精一杯の謝罪だろう。
その一言で彼を許した。
少し迷って、アルドは俺の手を引いた。
《死なないで》と手の甲に綴った指が震えた。
「あぁ。大丈夫だアルド、死ぬほどの傷じゃない。ビビらせて悪かったな」と、俺も彼に詫びた。
拠点に戻ると、フリッツに捕まって怒鳴られた。
「馬鹿野郎!何で俺に頼らねえんだ!」と理不尽に叱られたが、それどころじゃなかっただけだ。
「おいおい、アルドがビビるだろうが?
文句なら手当の後にしてくれ」
「何だ?怪我したのか?」
「頭に血が上ってたんでな…」と苦く笑って答えた。
フリッツは、俺の影に隠れるように小さくなっていたアルドを見つけて、彼に声をかけた。
「お前はウチで雇ってるんだ。勝手に居なくなろうとするなよ?
悩みがあるなら相談に乗ってやる。遠慮するな。
こいつが嫌ってんなら、俺の屋敷の部屋を空けてやる」とフリッツは勝手に世話を焼いた。
アルドは慌てて首を横に振った。
「だとよ。振られたな」
「ふん。俺はそいつが仕事を放り出さなければ何でもいい。お前らの痴話喧嘩なんて興味はねぇよ」
フリッツはそう言い残すとどこかに行ってしまった。
経理の部屋に戻ると、頼んでおいた新聞が机の上にあった。新聞に気付いたアルドの表情が強ばった。
余程都合の悪いことでもあるのか?
新聞の置かれた机の前に椅子を並べて、アルドを呼んだ。
彼はおずおずとやってきて俺の前に座った。
「アルド。大事な事だから、ちゃんと聞いてくれ。
俺はお前が好きだ。できることなら、手離したくないと思ってる」
言葉に出して思いを伝えると、アルドは小さく頷いた。
「お前が自分の事を言いたくないならそれでもいい。勝手に消えられるよりはな…
だけど、お前が何に怯えているのか、何から守ってやれば良いのかまでは俺にも分からない。分からないものからは守ってやれない。
だから、言い難いかもしれないが、俺を信じてくれるなら教えてくれないか?」
俺の提案に、アルドは俯いてしまった。
このままでは埒が明かない。
引き出しから紙と鉛筆を出してアルドに渡した。
「嫌なら嫌って書けばいい。
そうだとしても、俺はお前と別れる気はないからな」
《絶対に?》と綴った文字の上に涙が落ちた。
「あぁ、約束だ」と彼の涙に安く請け負った。
アルドの鉛筆は迷いながら何かを綴った。
《僕を伯父様に渡さないで》
「…どういうことだ?」
彼が怯えている相手は自分の伯父なのか?
アルドはさらに鉛筆を走らせて、今まで隠していた自分の名前を俺に教えた。
「…嘘だろ…これって」
新聞でしか見たことの無い名前だが、間違いない。でも、これは…
《僕の本当の名前はヴィヴィアン・セドリック・ランチェスター。
お父様はオークランド王国ランチェスター侯爵オーガスタス、お母様は現国王の実妹オフィーリア王女です》
あまりの事実に言葉を失った。
それが本当なら、彼の今までの行動や、読み書きの知識、所作などの説明もつく。
とんでもない奴を拾ってしまった…
オークランド王国は、女児には王位継承権が無い。その代わり、親類で近い順に王位継承権が与えられる。
ランチェスター公子といえば、今やオークランド王国の王位継承権第一位で、最も王に近い存在だ。
内乱の末、新国王は親類の男たちを次々と抹殺した。
最後に残った一番近い血筋が、実妹の実子であるランチェスター公子だ。
どこかに幽閉されていると噂で聞いたが、まさかフィーアに逃げてきてたとは…
「…ヨナ」アルドは弱々しい声で俺を呼んだ。
縋るような声に胸が痛んだ…
その姿は、捨てられた子供のように頼りない。
「お前を…そんな風にしたのはお前の伯父か?」
俺の問いにアルドは頷いて項垂れた。
震える鉛筆の線が綺麗な文字に変わったが、それはとても見ていられないものだった。
彼の手を握って鉛筆の動きを止めた。
「もういい…いいんだ、アルド…」
その綴られた文字の重さは俺がよく知っている。
「俺はお前を捨てない。本当に、絶対だ…」
アルドを抱きしめた。
紙が裏返しに床に落ちて《捨てないで》と哀願する文字を隠した。
捨てるものか…こいつを捨てたら俺は絶対に後悔する…
震えながら泣くアルドの背を撫でた。こんなに頼られたら、捨てるなんてできない…
幾分か落ち着いてからアルドに話しかけた。
「アルド、よく聞け。
俺はこれからもお前を《アルド》って呼ぶ。いいな?
《ヴィヴィアン》も《ランチェスター》も忘れろ。
お前は俺に隠さずに話してくれた。だから、必ず俺がお前を守ってやる」
俺はいつからこんなに情に流される馬鹿になったのだろう?
捨てりゃいいのに、それができない…
この縋り付く手を振り払うのは、俺には無理そうだ…
フリッツに《馬鹿》と言う資格は、俺にはもう無いのだろう。
俺も相当な馬鹿野郎だ…
自嘲して、頼りない少年を抱きしめた。
妹の二度目の花嫁姿を褒めた。
十代半ばの息子のいる母親には見えない。彼女はお世辞抜きに美しかった。
笑顔を忘れた顔を除けば、彼女は完璧な人形のように美しい。
「晴れの日だ。笑顔くらい見せたらどうだ?」と言う私に、妹は冷ややかな視線を向けた。
「どの口がおっしゃいますの?
私から幸せを奪ったのはお兄様ではありませんか?」と妹は兄王である私に反抗した。
その指摘は本当のことだ。
彼女は私が見逃した、オークランド国王の血を継ぐ、数少ない生き残りだ。
「だから新しいものを与えたのだろう?まだ怒っているのか?いい加減諦めよ」
「夫と我が子を奪った相手を憎むのは当然です」
「ならば、我が身の不幸を呪って窓から身を投げるか?
そうなれば、後はどうなるか、再三教えたはずだ」
彼女はどんなに気に入らなくても、私の言う通りにするしかない。
紅を乗せた唇を噛み締め、彼女は私を睨んだ。
「あの子を…ヴィヴィアンを返してください」
「それは叶わぬ願いだ」と彼女の願いを突っぱねた。
「娘でなくて残念であったな。
まぁ、仮にも私の甥だ。殺しはしないさ」
「あの子は何処ですか?最後に一目会わせて下さい」
「諦めよ。今更会えば苦しむだけだ」
涙を溜めた目で妹は私を睨んだ。彼女にはそれしかできない。
無力で哀れで可愛い我が妹だ。だからこそ、生かしておいた。
ハンカチを手に、彼女の涙の零れそうな目元をそっと拭った。
「せっかくの化粧が崩れる。
花嫁が泣いていては、興が冷めるだろう?」
彼女は私の重要な手駒だ。
「忘れるなよ?ヴィヴィアンの寿命はお前次第だ」と脅すと彼女は大人しくなった。
仕上げとばかりに、妹の細い首に手をかけて呪いの言葉を与えた。
「オークランド国王の妹として、エヴァレット公爵の良い妻であれ。
他国に嫁ぐからと気を抜くなよ?
悪い噂とはすぐに広まる。
この私が、お前と同じ顔の甥を苦しめることのないようにな…」
彼女の返事は無かったが、そんなもの必要ないだろう。彼女の魂は呪いで縛られた。
花嫁の控え室を出て、広い廊下を歩いた。
彼女の新しい夫は、イザード王国の王族であるエヴァレット公爵だ。
よく肥えた醜い禿げ男を思い出して苦く笑った。
あの美しい妹に釣り合わない男だ…
妻だって、妹で三人目と聞く。あまりに良い噂は無いが、妹をやると決めたのは、彼に利用価値があるからだ。
妹の件は今日で片付く。
問題はヴィヴィアンの方だ…
「陛下…失礼致します」
スルスルと滑るように現れた相手は、私の放った間者だ。
彼が携えて来たのは、「ランチェスター公子の行方は未だ不明です」という不愉快な報告だった。
オフィーリアから引き離していたのが仇になった。
苦労して手に入れた人質は、亡きランチェスター侯爵の残党の手によって幽閉先から逃げ出した。
私の耳にそれが届いた頃には、甥が逃げてから既に一月も経過していた。
秘密裏に解決しようと、報告を怠った愚か者のせいで、私の玉座に揺らぎができてしまった。
全く不愉快だ…
この玉座の基礎を作るために、どれだけの犠牲を敷き詰めたと思っているのだ?馬鹿者めが…
「何処まで辿れた?」と確認すると、「国境を越えたのは間違いありません」と答えた。
「恐らく、アーケイイックを通り、フィーアに逃げ込んでいると思われます。
それらしい子供の目撃証言があります」
「…面倒な…」
こんな事ならさっさと殺してしまえば良かった…
舌を切り落として、不能にした程度では甘かったらしい。
身体に欠損のある無力な子供が、どうやって生き延びているのかまでは分からないが、誰かの庇護下にいるのだろう。
ヴィヴィアンを見つけたら、次はどうしてやろう…
ただ殺してしまうのは芸がない。
捕らえたら、今度こそ逃がさないように、手足も切り落とし、目も潰してやろう。
もしヴィヴィアンを匿っている者が居れば、その人間にも惨たらしい死をくれてやる。
誰一人、この私に逆らうことなど許さない。
オークランドの玉座を揺るがす存在は、何人たりとも許さない…
オークランドの太陽は一つで十分だ…
✩.*˚
「ユリア、お客様にお茶をお出しして」とお母さんに呼ばれた。
「はぁい」と返事をして、お母さんの用意を手伝った。
「うふふ。バルテル様がね、『是非、ユリアにお願いしたい』って仰ってくださったのよ」とお母さんは嬉しそうに教えてくれた。
「バルテル様が?!」
バルテル様、ユリアのこと覚えてくれてるんだ!
「旦那様とお父さんがバルテル様とお話してるわ。お邪魔しないようにね」
「もうひとつあるよ」と四個目のカップを見つけてお母さんに訊ねた。
お母さんはカップの行き先を答えた。
「それはバルテル様のご子息様の分よ」
そうか…バルテル様にも奥様や子供がいるんだ…
現実を見せられたようで、なんか少しガッカリした。
バルテル様は格好いいから、きっと奥様も綺麗な人だろうなぁ…
ご子息は似てるのかな?幾つだろう?ユリアより年上かなぁ…
好奇心が湧く。
ティーワゴンを押して応接間に向かった。
「失礼します」とお部屋に入ると、お部屋の空気が少し緊張していた。
お父さんと旦那様の表情が硬い。何だろう?
「お茶をお持ちしました」
「ありがとう、ユリア」と一番初めに声をかけてくれたのはバルテル様だった。
バルテル様の隣に、お兄ちゃんより年上の男の子が座っていた。
お茶の用意をしながら少年の顔を盗み見た。
バルテル様に少し似てる。
彼は私と目が合うと恥ずかしそうに視線を外した。
私たちの様子を見ていたバルテル様が、小さく笑って、私に彼を紹介した。
「息子のアダルウィンだ。今年で14になる」
バルテル様は今度はご子息に声をかけた。
「彼女がシュミットの娘のユリア嬢だ。お前からもご挨拶しなさい」
「こんにちは、ユリア嬢。アダルウィン・フォン・バルテルです」
少年は父親から促されて、恥ずかしそうに挨拶した。
何でそんなに緊張しているのだろう?女の子と話したことが無いのかな?
「ユリア、お前も挨拶しなさい」とお父さんが言った。
「ユリア・シュミットです」と奥様から教えてもらった淑女のお辞儀を披露した。
ふふん、ユリアちゃんとできるもん。どう?
お父さんの顔をチラリと見たけれど、上手にお辞儀したはずなのに、お父さんの顔は嬉しそうじゃなかった。
「ユリア、下がっていいぞ」と旦那様に言われて、お部屋を出た。
ユリア上手にできたと思ったのに…
「お母さん、行ってきたよ」
「ありがとう、ユリア。どうだった?ちゃんとできたかしら?」
「うん。ちゃんとできたよ。
でもね、お父さん難しい顔してた…ダメだったかな?」
「あら?ハンスが…」とお母さんは首を傾げた。
お母さんは少し黙って、唐突に話題を変えた。
「ねぇ、ユリア。バルテル様のご子息はどんな子だった?」
「アダルウィン様?
普通だよ。14歳って言ってた。
ちょっとだけバルテル様に似てたと思うよ」
「あら、じゃぁきっと大きくなったらバルテル様みたいになるかしらね」とお母さんはおっとりと笑った。
「でも、バルテル様の方が素敵だよ」
「あらあら…全く、小さい頃の私みたいね」
「だってカッコイイもん!」と答えると、お母さんは、「おませさんね」と困ったように笑った。
「何の話ですか?」と厨房に現れたメリッサが話に加わった。
「ねぇ、メリッサ、バルテル様カッコイイよね?」
「あぁ、あのヴェルフェル侯爵の近侍のバルテル様?
確かに格好いいとは思うけど、ユリアは随分渋い殿方がお好きなのね?」
「だってお髭もハンサムだし、ユリアみたいな子供でも淑女として扱ってくれるのよ!ねぇ、素敵でしょ?」
メリッサは私の話を聞いて、お母さんと顔を見合わせた。二人とも、背伸びする少女の話に苦笑いを浮かべた。
✩.*˚
『返事は急がない。じっくり考えてくれ』
バルテル卿はそう言い残すと、息子を連れて帰って行った。
「…いかが致しましょうか?」
「いや…お前はどうしたいんだよ?
ユリアの親父はお前だろう?」
旦那様はこの件の口出しを避けた。
バルテル卿はユリアを気に入ってくれたらしい。
それはあの子が淑女として良い評価をなされたということで、喜ぶべきことだ。
「まさか…自分の娘にこんなに早く縁談が来るとは思っていませんでした…」
「まぁ、たしかにな…」と旦那様も頷いた。
長男でこそないが、相手は騎士の家柄で、バルテル卿は現ヴェルフェル侯爵が最も信頼する部下の一人だ。
『侯爵は息子をロンメル家の《騎士》にするおつもりです』とバルテル卿は言っていた。
カナルの岸で、多くの騎士が失われた。
その穴を埋めて、さらなる強兵を推し進めるために、既に失われた家名を、本来家が継げない騎士階級の次男や三男に与えると決定したらしい。
爵位は国王の承認が必要だが、騎士であれば侯爵家の権限で任命ができる。
バルテル卿の子息もその候補に名前が上がったらしい。
旦那様がかねてより侯爵に願っていた《騎士》が融通されるのだ。
本来なら喜ぶべきところだ…
素直に喜べないのは私の心が狭いからだろう…
娘の幸せを願うなら、これ以上の相手はいないだろうに…
「まぁ、ラウラと話し合って決めろ。俺に遠慮するな。
もしユリアが嫌だっていうなら、俺も無理にとは言わねぇよ。あいつは俺にとっても娘みたいなもんだ」
旦那様は重要な決定を私たち家族に任せた。
「ラウラ、ユリアも話がある」
夕食の後で二人に声をかけた。ラウラはすぐに察して、ケヴィンに弟たちを預けた。
「何で旦那様と奥様もいるの?」とユリアは怪訝そうに眉を寄せた。
「大事な話だからだ」と言って、ラウラとユリアをソファに座らせた。
「ユリア、昼はお茶を出してくれてありがとうな。バルテル卿も満足してたよ」と旦那様が褒めると、ユリアは気を良くした。
「ユリアも立派な淑女ですものね」と奥様もユリアを褒めた。
二人ともユリアを娘のように可愛がってくれていた。
「私はお会い出来なかったのですが、ユリアはバルテル様のご子息にはお会いした?」
「うん。ちょっとお父様のバルテル様に似てたよ」とユリアは奥様の質問に無邪気に答えた。
「まぁまぁ、男前だったろ?」
「えー?でも子供だよォ」とユリアは自分のことを棚に上げて、不満げに答えた。
「ユリア、バルテル様みたいなお髭の大人の男の人の方がカッコイイと思うよ」
「はー…言うねぇ」
「あらあら、ユリアは厳しいわねぇ」
旦那様と奥様は苦笑いで視線を交わした。
旦那様は私に視線を向けると、無言で話すように促した。私も腹を決めてユリアに話を切り出した。
「ユリア。落ち着いて聞きなさい。
バルテル卿からお前に縁談があった」
「え?」驚くユリアとは対照的に、ラウラは落ち着いた様子でユリアの手を握った。
「アダルウィン様との縁談が来ている」と教えると、ユリアは「私と?」と信じられない様子で訊ねた。
ユリアはキョロキョロと周りを見回した。
ようやく私の言葉を飲み込んで、ユリアは驚いた声を上げた。
「ええ?!だってユリア子供だよ!」と、今度は都合の良い事を言った。
ユリアの様子に奥様も笑った。
「ユリア、落ち着いて。まだ縁談が来ただけよ。お返事はしてないわ」と奥様はユリアを宥めた。
それでもユリアは不安そうにモジモジしながら視線を落とした。
「…だって…ユリアここにいたいもん…」
「ユリア…」
「ユリアはブルームバルト好きだもん…
離れたくないよぅ…」ユリアの目元にじわりと染み出した涙を見て言葉を失った。
まだ小さかった子供たちを、私の都合でこの街に連れてきた。特にユリアはまだ小さかったから、この街が彼女の育った故郷だ。
子供でも、嫁に行くなら家を出るのは女の方だと知っているのだろう。
「ユリア」とラウラが娘を呼んだ。
「お父さんのお話をちゃんとお聞きなさい。その上で、どうするのか決めましょう?
ハンス。貴方もしっかりなさい!そんなのじゃ私の娘は納得しませんよ」
「…すまない、ラウラ」
彼女はしっかりしてるな…全く、彼女には頭が上がらない…
「ユリア。バルテル卿は無理にとは言っていない。断るならそれでもいいそうだ。
それに、彼と婚約したとしても、お前は今まで通りブルームバルトで生活することになっている。
むしろ移住するのはアダルウィン様の方だ」
「…ほんとう?」
「あぁ、本当だ。
アダルウィン様は、ヴェルフェル侯爵の命でバルテル家を離れ、騎士としてロンメル家に仕えることになっている。
バルテル卿は、一人でブルームバルトに赴く息子を、お前に支えて欲しいと思っているんだ」
自分がブルームバルトを出るのではないと知って、ユリアは少し落ち着きを取り戻した。
「でも私、アダルウィン様とは今日会ったんだよ…挨拶しかしてない…」
「そうだな。でも向こうもそうだろう?」
「何だユリア?お前が一丁前に心配してるのか?」と旦那様が口を挟んだ。
「俺たちが初めて顔を合わせたのに比べりゃ全然いいだろ?
俺なんかテレーゼに絶望されたぞ」
「うふふ、そんなこともありましたね」と奥様も笑った。
「ユリア、聞きたい?」と奥様がユリアに訊ねると、旦那様は「よせよ」と苦い表情を浮かべた。
「参考にもならねぇだろ?」
「私たち、出会いが悪かったですものね」と笑いながら、奥様は旦那様と初めて顔を合わせた時のことをユリアに教えた。
父であるヴェルフェル侯爵に連れられて、汚い泥まみれの中年の傭兵隊長と顔を合わせ、《未来の旦那様》と聞かされた時は泣きそうになったらしい。
それもそうだろう…
ユリアがそんな男と結婚しなければならないとしたら、私は正気ではいられないだろう。
どんな嫌がらせかと思う。
それに比べれば、アダルウィン少年は娘にはもったいないほど贅沢な人選だ。
「でも今は、あの時のみすぼらしい格好をした、汚い中年の傭兵隊長さんと結ばれて良かったと思ってます」
「どうせ小汚いオッサンだよ、俺は…」
「あらあら、拗ねちゃいましたか?」
面白そうに笑って、奥様は旦那様の顔に手を伸ばした。二人の睦まじい姿に、ユリアは少し羨ましそうな眼差しを向けた。
「ユリア。私は良い御縁だと思うわ」とラウラがユリアの背中を押した。
「バルテル様は賢くて素敵なお方よ。
きっと自信がおありだから、アダルウィン様をブルームバルトに送り出そうと思ったはずだわ。
バルテル様が大切な我が子の相手に、貴女を選んでくれた事を私は誇り思うわ」
ラウラはユリアの不安を優しく和らげた。
「ハンス、お返事は急ぎませんでしょう?
よく知らない相手なら、私もユリアも不安は残るわ。私もアダルウィン様たちとお話する機会をいただけるかしら?」
「それは、可能だが…」相手は忙しい身の上だ。おいそれと呼ぶのは気が引けた。
「なんなら飯にでも誘うか?」と旦那様が提案した。奥様も「いいですね」と乗り気だ。
「ワルター様のお誕生会にご招待すればよろしいではありませんか?」
「げっ…そんなものがあったな…」
「そんな嫌そうな顔しないでください。皆さんお祝いに来て下さるのですから…」
「この歳になって誕生日なんてめでたいもんか!」
「そうですか?私は楽しみですよ」
「旦那様のお誕生会にアダルウィン様も来るの?」
「バルテル様もお父様のお付きでいらっしゃるはずですから、一人二人増えたところで変わりませんわ」と奥様はバルテル卿の家族の分の招待状を用意するように指示した。
「ユリアも可愛いドレスを用意しないとね。
ケヴィンの分も必要ね」
「お祝いだ、そのくらい出すさ」と、旦那様は気前よく子供たちの衣装を約束した。
「良かったわね、ユリア」
嬉しそうに祝福してくれる母親に、ユリアも小さく頷いた。
少しは自分の意思も尊重してもらえると知って安心したのだろう。
複雑な気持ちを残したまま、私は新しい招待状を用意した。
✩.*˚
「忘れてたな…」
ヨナタンは届いた手紙の束から一通の封筒を抜き出した。
綺麗な封筒から出てきたのは招待状のようだった。家紋は見たことがある。
ロンメル男爵家の《白鹿》だ。
「今年は無いと思っていたんだがなぁ…」とボヤきながら、ヨナタンは招待状を手に席を外した。
団長に届けるのだろう。
ヨナタンの机に広げられた、読みかけの新聞に視線が留まった。
その記事に目を疑った…
嘘だ…
思いもよらぬ形で、家族の身に起きた不幸を知った…
《オークランド王女・オフィーリア王女再婚。お相手はイザード王国の王族・エヴァレット公爵。イザード王国の海軍が目的か?》
新聞を手に、膝から崩れ落ちた。
お母様が…
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彼は僕を捨てるだろうか?
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勝手に暴走した感情は、恐怖に変わって、ここから逃げなきゃいけないと強迫観念に取り憑かれた。
「アルド!」
呼び止めるヨナタンの脇を抜け、その場から逃げ出した。
✩.*˚
なんだってんだ?
新聞を手にしたまま、逃げ出したアルドの後を追った。
何度も呼び止めたが、あいつは立ち止まらずに俺を振り切って逃げた。
一体何が書いてあったんだ?あいつに関係することか?
新聞なんてあれだけじゃない。買ってくれば同じ内容を確認できる。
アルドを追うか、新聞を買って内容を確認するかで迷った。
そうしてる間にアルドを見失った。
拠点から出て辺りを見回したが、アルドの姿を見つけられなかった。
「兄さん、どうしたんっすか?」
拠点の外にたむろしていた傭兵が怪訝そうに訊ねた。知ってる顔を捕まえて訊ねた。
「お前ら、アルドを見なかったか?」
「あぁ、兄さんのツレの?」
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「どっちに行った?」と訊ねると、彼らは揃って同じ方向を指さした。
金を出して暇そうな奴らに投げた。
「誰か新聞を買ってきて、経理の机に置いておけ!」
「手伝いますかい?」と暇な奴らが着いてこようとしたが、それこそアルドがビビる。
「お前らが追い回したら余計に逃げるだろうが!団長には俺が席を外すと伝えろ!」
伝言を残して、アルドが走り去ったであろう方向に足を向けた。
「…何処に行った?」北風の吹く街並みは、普段に比べれば人は少ないが、それでもすぐに見つけられそうにない。
慌てて出てきたから、上着も置いてきた。
冬も本番で、時折雪もチラつく。
このままじゃ風邪を引きそうだ。
早く探さないと…あいつだって上着も取らずに出ていったはすだ。
あいつはそんなに必死に何を隠している?そんなにまずいことなのか?
あいつは俺に、自分の出自やこれまでの事は何も話さなかった。
俺も無理に立ち入ろうとはしなかった。その方が、あいつのためだと思って、確認することを避けていた。
それが間違いだったのか?
街外れの石造りの橋の上に、寒そうに背を丸めたあいつの姿を見つけた。
新聞はどこかに捨てたらしい。手ぶらだ。
川を覗いているその姿に嫌なものを感じた。アルドは橋の欄干に足をかけて登ろうとした。
「アルド!」
俺の声に反応して、彼は驚いた顔で振り返った。
泣いて赤くなった目が俺を見つけた。
「やめろアルド!こっちに来い!」
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怯えたような目をしたアルドは、首を横に振って俺を拒否した。
彼は欄干に登った。
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「やめろ!」どうしたらいいのか分からない。
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そう言ってダガーを捨てると、アルドは俺の傷付いた左手を掴んで傷を確認した。
「ヨナ…ヨナ…」
喋りにくそうな、舌っ足らずの子供みたいな声が、俺の名前を繰り返し呼んだ。
「悪いな、これしかなかったんだ…」
我ながら頭の悪いやり方だったと反省した…
震えるアルドの背に右手を添えた。冷たくなった身体を抱き寄せた。
「寒いな…戻ろう。
帰ったら手当してくれ」そう言うとアルドは黙って頷いた。
何で逃げたのかは、今は訊かない方がいいだろう…また逃げられても面倒だ…
だが、それもいつかは確認しなきゃならない。それに、知ってしまえばこっちのものだ。
どんな理由でも、『それがどうした?』と言うつもりでいた。
俺はアルドを手放す気は無い。
少なくとも、こんな別れ方をするのは認められない。
帰り道で二人分の上着を買った。
つまらん出費だが、風邪を引くよりはマシだ。
「寒くないか?」と訊ねると、アルドは頷いて笑った。
逃げないようにアルドの手を握った。アルドは嫌がらずに俺の手を握り返した。
それに少しほっとした。
訳ありで逃げたが、それは俺のせいでは無さそうだ…
「アルド」と俺がやった名前で彼を呼ぶと、彼は俺を見上げた。
「俺が信用出来ないか?」
俺の質問にアルドは首を横に振った。
「なら、逃げるなよ。何かあったらな俺に話せ。今日みたいなのはさすがに傷付く…」
アルドは黙って俺の言葉を聞いて、繋いだ手の甲に《ごめん》と指先を這わせた。
書くものがないから、それが彼の精一杯の謝罪だろう。
その一言で彼を許した。
少し迷って、アルドは俺の手を引いた。
《死なないで》と手の甲に綴った指が震えた。
「あぁ。大丈夫だアルド、死ぬほどの傷じゃない。ビビらせて悪かったな」と、俺も彼に詫びた。
拠点に戻ると、フリッツに捕まって怒鳴られた。
「馬鹿野郎!何で俺に頼らねえんだ!」と理不尽に叱られたが、それどころじゃなかっただけだ。
「おいおい、アルドがビビるだろうが?
文句なら手当の後にしてくれ」
「何だ?怪我したのか?」
「頭に血が上ってたんでな…」と苦く笑って答えた。
フリッツは、俺の影に隠れるように小さくなっていたアルドを見つけて、彼に声をかけた。
「お前はウチで雇ってるんだ。勝手に居なくなろうとするなよ?
悩みがあるなら相談に乗ってやる。遠慮するな。
こいつが嫌ってんなら、俺の屋敷の部屋を空けてやる」とフリッツは勝手に世話を焼いた。
アルドは慌てて首を横に振った。
「だとよ。振られたな」
「ふん。俺はそいつが仕事を放り出さなければ何でもいい。お前らの痴話喧嘩なんて興味はねぇよ」
フリッツはそう言い残すとどこかに行ってしまった。
経理の部屋に戻ると、頼んでおいた新聞が机の上にあった。新聞に気付いたアルドの表情が強ばった。
余程都合の悪いことでもあるのか?
新聞の置かれた机の前に椅子を並べて、アルドを呼んだ。
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「アルド。大事な事だから、ちゃんと聞いてくれ。
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俺の提案に、アルドは俯いてしまった。
このままでは埒が明かない。
引き出しから紙と鉛筆を出してアルドに渡した。
「嫌なら嫌って書けばいい。
そうだとしても、俺はお前と別れる気はないからな」
《絶対に?》と綴った文字の上に涙が落ちた。
「あぁ、約束だ」と彼の涙に安く請け負った。
アルドの鉛筆は迷いながら何かを綴った。
《僕を伯父様に渡さないで》
「…どういうことだ?」
彼が怯えている相手は自分の伯父なのか?
アルドはさらに鉛筆を走らせて、今まで隠していた自分の名前を俺に教えた。
「…嘘だろ…これって」
新聞でしか見たことの無い名前だが、間違いない。でも、これは…
《僕の本当の名前はヴィヴィアン・セドリック・ランチェスター。
お父様はオークランド王国ランチェスター侯爵オーガスタス、お母様は現国王の実妹オフィーリア王女です》
あまりの事実に言葉を失った。
それが本当なら、彼の今までの行動や、読み書きの知識、所作などの説明もつく。
とんでもない奴を拾ってしまった…
オークランド王国は、女児には王位継承権が無い。その代わり、親類で近い順に王位継承権が与えられる。
ランチェスター公子といえば、今やオークランド王国の王位継承権第一位で、最も王に近い存在だ。
内乱の末、新国王は親類の男たちを次々と抹殺した。
最後に残った一番近い血筋が、実妹の実子であるランチェスター公子だ。
どこかに幽閉されていると噂で聞いたが、まさかフィーアに逃げてきてたとは…
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俺の問いにアルドは頷いて項垂れた。
震える鉛筆の線が綺麗な文字に変わったが、それはとても見ていられないものだった。
彼の手を握って鉛筆の動きを止めた。
「もういい…いいんだ、アルド…」
その綴られた文字の重さは俺がよく知っている。
「俺はお前を捨てない。本当に、絶対だ…」
アルドを抱きしめた。
紙が裏返しに床に落ちて《捨てないで》と哀願する文字を隠した。
捨てるものか…こいつを捨てたら俺は絶対に後悔する…
震えながら泣くアルドの背を撫でた。こんなに頼られたら、捨てるなんてできない…
幾分か落ち着いてからアルドに話しかけた。
「アルド、よく聞け。
俺はこれからもお前を《アルド》って呼ぶ。いいな?
《ヴィヴィアン》も《ランチェスター》も忘れろ。
お前は俺に隠さずに話してくれた。だから、必ず俺がお前を守ってやる」
俺はいつからこんなに情に流される馬鹿になったのだろう?
捨てりゃいいのに、それができない…
この縋り付く手を振り払うのは、俺には無理そうだ…
フリッツに《馬鹿》と言う資格は、俺にはもう無いのだろう。
俺も相当な馬鹿野郎だ…
自嘲して、頼りない少年を抱きしめた。
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還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
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全7話
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
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母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
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