燕の軌跡

猫絵師

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厭世

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「あらあら、素敵ね、フィー」

お誕生会用のドレスに着替えたフィーはお人形さんのように可愛かった。

フリルとリボンたっぷりの子供服は、華やかな薔薇色で、元気なフィーによく似合ってる。

お気に入りのガーネットの髪留めで纏めた金髪は柔らかい光を含んでキラキラ輝いていた。

フィーは自分のドレス姿が褒められてるのが分かっているようだ。

小さい歯を見せて笑うと、フライング気味にちょこちょこと歩いて部屋から出て行こうとした。

「お嬢様、どちらにいらっしゃいますの?」

トゥルンバルト夫人が慌てて手にしてたブラシを置いて、脱走しようとしたフィーを追いかけた。

フィーは素早くて、乳母に追いつかれる前に、手の届くようになったドアノブにぶら下がるようにしてドアを開けた。

「パパー!みてー!」と彼女は廊下に向かって叫んだ。どうやらワルター様を探していたみたいだ。

「お嬢様。旦那様はまだお帰りではありませんよ」とトゥルンバルト夫人はフィーを抱き上げて扉を閉めた。

おめかししたのを見せたかったのね、と娘を微笑ましく思いながらも、ワルター様が戻らないことを残念に思っていた。

今年は一緒に過ごせると思ったのに…

「はい、これでよし!

奥様、いかがですか?」

支度を済ませたフィーは、ワルター様の人形を抱いて私の方に歩いてきた。

「あら、結んでもらったの?素敵ね」

髪を結い上げるのに使ったリボンとお揃いのリボンを結んだお人形さんを見て微笑んだ。

「夫人、私にもそのリボン結んでちょうだい」とお願いすると、彼女は同じものを出して、結んだものを器用にピンで留めてくれた。

「どうかしら?」

髪に着けたリボンを娘に見せると、フィーは嬉しそうに笑って拍手した。どうやら彼女のお気に召したらしい。

フィーを連れて部屋を後にすると、広間に向かった。

普段は学校の代わりに解放していたが、今日はフィーのお誕生日のために空けていた。

広間は学校の子供たちが飾ってくれた特別仕様だ。

広間に入ったフィーは「わぁ!」と歓声を上げて喜んだ。

「お誕生日おめでとう」と祝福の声と拍手に包まれ、フィーは恥ずかしそうに私のスカートに隠れた。

「みんなお祝いしてくれてるよの」と彼女に伝えると、フィーはモジモジしていた。

嬉しいけど注目されて恥ずかしいのだろう。

私も抱っこしてあげたいけど…

なかなか挨拶が出来ずにまごついていると、お義父様がやって来てフィーの前に膝を折った。

「おいで、お姫様。抱っこしてあげよう」

大好きな祖父の姿を見て、フィーはお義父様に飛びついた。

お義父様は軽々と孫を抱き上げると、私に誰から挨拶するか確認した。

「リューデル伯爵令嬢から」と、この場で一番高位の人物から挨拶に回った。

「おめでとう、フィリーネ」

ヴェルフェル家とリューデル伯爵家の名代で訪れたアダリーシア嬢がフィーを祝福した。

「私たちからのプレゼントですよ。ゲリン、お出しして」

彼女から指示されたゲリンが、アダリーシア嬢のプレゼントを箱から出してフィーに差し出した。

「わぁ!」歓声を上げてフィーはプレゼントに手を伸ばした。

「おにんぎょうさん!」

女の子の姿をした人形は金髪で、瞳には大粒の宝石が嵌め込まれていた。

人形は手の込んだドレスを着ていて、指先までしっかり作り込まれている。手の込んだお人形だ。

「お約束のお母様の人形ですよ」と言われて、新年のお茶会での約束を思い出した。

「ありがとうございます。アダリーシア嬢」

「もう、お義母様。私のことはアダリーとお呼びくださいな。私たちは正式に婚約して、もう家族みたいなものなんですから」

アダリーシア嬢は明るくそう言ってくれた。

リューデル伯爵はゲリンを各方面の貴族に紹介して、正式に後継として娘婿に迎えてくれた。

多少強引ではあったが、ゲリンも真面目で努力家だから強い反対もなかったようだ。

何より、《英雄》ロンメルの縁者というのが、大きな声で反対できない理由になったのだろう。

「まぁ、可愛いお人形さん!」

フィーが貰った人形を見て、ウィルメット嬢が少女のように目を輝かせていた。

「テレーゼ様にそっくりね。でもこう見るとフィリーネ嬢にもそっくりね」と彼女は人形の出来栄えを褒めていた。

「ウィー。貴女のも用意してるからもうちょっと待ってちょうだい」

「着せ替えできるの?」

「もちろん!人気人形師のアーベレに依頼した作品よ!

テレーゼ様の絵を元に作らせたのだけど、試行錯誤して、『できません』って何度言われたことか…

とにかく間に合って良かったわ。

着せ替えのドレスもご用意してますからね」とアダリーシア嬢は自慢げに親友に答えた。

随分手の込んだ人形だ。

お人形を大事そうに抱いて、フィーはプレゼントをくれたお姉さんに舌っ足らずな言葉でお礼を伝えた。

その姿がアダリーシア嬢には堪らなく可愛く映ったらしい。

「可愛いー!

ゲリン、私も女の子欲しいわ!」

「お、お嬢様…こんな人の多いところで…」

婚約者の大胆な台詞にゲリンはタジタジだ。

そういえば、と寝室に飾られてる置物のことを思い出した。二人のために、お義父様に用意してもらおうかしら…

そんなことを考えながら、参加者に挨拶を続けて、フィーの誕生会はつつがなく進んだ。

お義父様がいてくれたおかげで、フィーのご機嫌も良かった。

途中ワルター様を探してグズる場面もあったけれど、概ね機嫌は良かった。

パーティーも終わる頃に、早足のケヴィンが朗報を持ってきた。

「旦那様たちがお戻りになられました」

ケヴィンの報せからすぐに、ワルター様が広間に現れた。

着替えもせずに広間に現れたワルター様は、私たちを見つけると早足で駆け寄った。

「パパ!」

フィーはずっと探してたワルター様の姿を見つけて、嬉しそうに駆け出した。

「パパ!みて!おにんぎょうさん!」

貰ったプレゼントを自慢する娘を、ワルター様は屈んで抱き締めた。

「…パパ?」

ワルター様に抱き締められながら、フィーは困惑したように私を振り返った。

「ママ。パパ、ないてりゅ」

「え?」こんなに人のいる前で?

フィーは小さな手を伸ばして「よしよし」と父親の頭を撫でていた。

ワルター様に歩み寄ると、彼はフィーに何度も「ごめんな」と謝っていた。

誕生会に間に合わなかったのがそんなにショックだったのかしら?

後から現れたアーサーが慌ててワルター様を立たせた。

「やめろ、こんなめでたい席で…

夫人、申し訳ありません。少しだけ旦那様とお嬢様が席を外してよろしいでしょうか?」

「えぇ、構わないけど…」

一体何事だろう?

ワルター様を叱ったアーサーの言葉が、妙に気にかかった。

「男爵はどうされましたの?」

一部始終を見ていたアダリーシア嬢が、広間を後にするワルター様を見咎めて訊ねた。

「さぁ?多分フィーに会えて気が緩んだんだと思います」

「ふぅん…それなら…

コートが必要にならなきゃいいんだけど…」

アダリーシア嬢はワルター様の《祝福》が暴走するのを案じたようだ。

さすがにそれはないだろうと思ったが、そう言われると少しだけ不安になった。

フィーは大丈夫かしら?アーサーが一緒なら大丈夫よね?

胸騒ぎを覚えつつも、私まで席を外すことも出来ずに、広間に残った。

✩.*˚

「アダリーおねえしゃま、くれたの」

舌っ足らずで人形を見せながら、フィーは一生懸命喋っていた。

2歳って割と喋るんだよな…小鳥みたいだ…

ぼーっとする頭でそんなことを思った。

「ママなの。おにんぎょうさん、ママ」

「…うん、似てるな」

「かわいい?」と彼女は人形を俺に自慢した。

「お前の方が可愛いよ」と言って、フィーを抱き寄せた。また涙が出そうになる。

この子はまだ2歳なんだぞ…

パウル様から呼ばれて聞かされたのは、《人質》としてオークランドへフィーを差し出すというとんでもない話だった。

事前にカーティスがあの紐を結ばなかったら、夏が冬に変わったかもしれない。

『私とて反対だ…

それでも、陛下がこの条件を許諾したら、私は臣下としてこの条件を受け入れなければならない』

パウル様も悩んだのだろう…

疲れた顔には苦悩が張り付いていた。

パウル様もフィーを可愛がっていた。彼はテレーゼに注げなかった愛情を肩代わりするかのように、フィーに愛情を注いでいた。

『とりあえず、テレーゼとフィーはこのアインホーン城で預かる。

《人質》として要求されてるとはいえ、二人とも非常に危うい立場だ。

ないとは思うが、交渉次第では両陣営のどちらかから誘拐される危険もある。もちろんそれ以上もありうる…

リューデル伯爵からは、アダリーシアも預かるように依頼されている。

あの子の母親と姉の二の舞にさせる訳にはいかないのでな…』

その言葉が重く響いた。

リューデル伯爵の家族は誘拐されて、要求を飲まなかったから殺された。

同じことが俺に起きないとも限らない。

そうでなくとも、国王が条件を飲めばフィーはカナルの向こうに渡されることになるだろう…

どう足掻いても、俺に彼女らを守ることなど出来なかった…

「フィー…ごめんな…」

俺の子として生まれただけで、とんでもない業を背負わせてしまった…

親になったことを後悔した…

「パパァ?たいたい?」フィーは俺が怪我してると思ったらしい。怪我を探してぺたぺたと手のひらで触れた。

「違うよ、大丈夫だ」

「だいじょうぶ?」心配そうに首を傾げる姿が愛らしい。

「フィー…パパ好きか?」

「うん。だいすきらよ」フィーはそう言って、自分の覚えてる名前を並べた。

「ママもちゅき。ルーちゃまもちゅき。クーもなかよしなの」

「うん…」

「あかちゃんもちゅき。ユリアもケヴィンもちゅき」

「だよなぁ…」

何でこんないい子がそんな目に会わなきゃならん?

理不尽を嘆いた…

いっそ、俺がカナルの向こうに渡って、二度とおかしな気が起きないように力を見せつければいいのならそうするのに…

《祝福》を使いすぎて心臓が止まっても、この子を向こう岸にやるより遥かにマシだ…

どれだけ人を殺しても、結果、人間を辞めたとしても、テレーゼとフィーを守れるならそんなことはどうでもいい。

悲しみに押しつぶされそうになっていると、手首に結んでいた紐からプチプチと嫌な音がした。

結ばれた紐が、途中から毛羽立つように千切れようとしていた。

「あ…」

まずい!これが切れたら…

「アーサー!アーサー!来てくれ!」

慌ててアーサーを呼んだ。廊下で待っていたアーサーがすぐに顔を出した。

「カーティスの紐が…」

その言葉で察したアーサーが慌てて俺からフィーを引き離そうとした。

「やー!」

「フィリーネ様、ちょっとだけ離れましょう」

「やー!パパ!」

甲高い子供の声に胸が痛くなる。手首の紐からまたプツプツと切れる音がした。

出てくるな!お節介め!

俺の願いも虚しく、手首に結ばれた紐は音を立てて切れた。

「クソッ!アロガンティア!この部屋の外を《拒絶》して守れ!」

フィーを庇うように抱いたアーサーが眼帯をはずした。

「おや?面白いことになったな」と朝笑うような声がして、アーサーの眼窩から黒い狼に似た獣が姿を現した。その姿は少し透けているように見えた。

「懐かしいな、《冬の王》」

黒い獣はいつの間にか顕現した《冬の王》に話しかけた。

「《驕慢》、貴様か?」

冬の王は不愉快を露わにして、大きな角の頭を振った。それを面白がるように、黒い獣は赤く目立つ口を釣り上げるように嘲笑した。

「いかにも、《兄上》。我だ。

まぁ、兄上のように顕現まではできないので、ちょっと透けてるがね。

随分お怒りではないか?なんぞ楽しいことでもあるのかね?」

「貴様などに用はない。

我が眷属を侮るは、我を侮る事だ。我が眷属を悲しませた者を呪いに来た」

「ま、待ってくれよ!そんなつもりは…」

「相変わらず怖い事を言う…

この街ごと呪うというのかね?」

俺の言葉を遮って、黒い獣はくつくつと喉の奥で笑った。

「それも一興。なかなか面白そうだ」

黒い獣が《冬の王》を煽った。その言葉に、《冬の王》は苛立たしげに蹄を鳴らした。

「この忌々しい結界を解け、《驕慢》。我が無理やり解いても良いのだぞ」

不機嫌な《冬の王》は黒い獣を脅したが、相手は小馬鹿にするように笑った。

「それも一興。

まぁ、試してみるかね?

《母神》も無く、《春の女神》も居ない。《炎獅子》が居ればまだ戦えたかもしれないが、あいにく奴なら結界の外だ。

弱っている兄上となら、我も互角に渡り合えるかと思うがね?」

奢るような台詞を吐いて、獣は透けた身体で《冬の王》に歩み寄った。

「我だけ仲間外れにしないでくれよ、兄上…

《聖戦》に加わる気は無いが、それも一興。興味はあるのだよ」

「今頃になって表に現れたのはそれが目的か?」

「さぁねぇ…まぁ、我は《母上》も《大兄様》にも興味は無いのさ。あるのは暇つぶしさ」

獣は訳の分からん話を続けて、《冬の王》に退くように勧めた。

「我も時には良いことをするのだよ。

唯一世界と繋がった、この目玉を捨てられては面白くないのでね」

ふざけた獣はそう言ってアーサーの方を振り返った。その視線はアーサーの抱いたフィーに注がれていた。

「おやおや、愛らしい子供だ。

この子の目には、我と兄上のどちらが恐ろしく見えているのだろうね?」

その言葉に《冬の王》が僅かに怯んだ。

「貴様の興には乗らん」と言い放つと、《冬の王》は俺に歩み寄って顔を覗き込んだ。

深い藍色の瞳と目が合った。

「何かあれば我を頼れ。其方の嘆きは胸に刺さる…

我は其方の味方だ」

《冬の王》はそう言って、黒い獣に「帰る」と告げた。

黒い獣は「つまらん」と呟いてそのまま消えた。

後を追うように、《冬の王》もその姿を消した。どうやら大事にはならなかったようだ。

「うぇぇ」とフィーが泣き出した。

その声にハッとして慌ててフィーに駆け寄った。

「ごめんな、フィー!大丈夫か?」

「怖かったんだろ?怪我はないし、《冬の王》の冷気にも当てられてないはずだ」と答えて、アーサーはフィーを俺に返した。

小さい身体を抱きしめると、短い腕が伸びて、怯えたフィーが俺に縋った。

頼りない小さな身体から伝わる体温は、生まれた時からずっと抱いてきた馴染んだものだ…

今更手放すなんて出来るわけない…

テレーゼがこれを知ったら、どれほど悲しむだろう…

また体調を崩すかもしれない…

そしたら腹の赤ん坊だって…

悪い想像は簡単に膨れ上がって手に負えなくなる。

「ロンメル、悪く考えすぎるな。キリがない…」

アーサーの慰めも、心には響かなかった。

最高のはずの一日が地獄のような日に変わった…

✩.*˚

勅命を帯びた国王陛下の遣いとして、レーヴァクーゼン伯爵がアインホーン城に到着したとの報告を受けた。

随分早いという印象を受けたが、飛竜を使うようになって、便利になった事もあり、あまり気にしなかった。

睡眠不足で頭痛を抱えたまま、重い足取りで出迎えに向かった。

酷い顔をしてる自信はあったが、到着した陛下の名代も優雅とは程遠いなりをしていた。

「お久しぶりです、ヴェルフェル侯爵」

挨拶をした殿下は随分とくたびれた姿をしていた。顔にも疲れが滲んでいる。

当然だ。王都は馬車なら一週間以上かかる。

早く見積もっても、三、四日は必要だ。

「わざわざ殿下がお越しくださるとは…」

「陛下の名代という大役を拝命致しました。

それより、随分お疲れの様子ですが…大丈夫ですか?」

「カナルを想うと休んでなどいられません」と答え、その場で膝を折って陛下の代理人に許しを乞うた。

「誠に…此度の件は、フィーア貴族として有るまじき失態です。

フィーアの南部を預かりながらこのような…陛下のご期待を裏切る結果となり申し訳ございません。

私に贖える事でしたらなんなりと…」

「侯爵、やめて下さい。

私は陛下の名代として、陛下のご意志をお伝えに参上したのです。謝罪なら陛下になさってください。

とりあえず話をしましょう」

レーヴァクーゼン伯爵は手を差し伸べると、私を立たせた。

時間が惜しいのだろう…

議場として使われていた応接室にお通しすると、レーヴァクーゼン伯爵は早速手紙を取り出して、机に並べた。

「こちらが陛下からの書状です。

こちらの手紙はワーグナー宰相よりお預かり致しました」

「拝見致します」と断って手紙を預かり、封を切った。一体どんな処分が待っているのかと緊張した。

「侯爵」

不意に殿下に呼ばれて、手紙に目を通そうとした視線を上げた。

「侯爵、ご安心ください。

陛下は誰よりも慈悲深い父親です。この王国の全ての民が、陛下の子供なのです」

「胸に刻みます、殿下」

一礼して応えると、また手紙に視線を落とした。

ヴェルフェル侯爵として責任を負うつもりでいた私にとって、手紙は意外なものだった。

「…これは…御無礼ですが、陛下のご意志ですか?」

驚いて確認した私に、レーヴァクーゼン伯爵は、自慢げに、はにかむように笑った。

「陛下の自らお決めになられた事です。

信じられないようでしたら、ワーグナー公爵のお手紙をご確認ください」

「…しかし…これは」

手紙を持ったまま呆然と言葉を失った…

《フィーア王国は、旧玉旗を放棄する。

敵国、オークランド王国の要求は玉旗の価値に釣り合わず、交渉には応じられない。

カナルにて、余が自ら《玉旗の放棄》を宣言をする。

今後、オークランド王国への返事は、余の到着を待つように》

「陛下の意志は固いようです。既に新たな旗をご用意するように予算を組んでおります」

「宰相閣下はこれをお許しになったのですか?」

「《許す》とは適当な言葉ではありません。

侯爵もご存知の通り、陛下はこの国で最も尊ばれる存在です。そして公爵であり、宰相を任されるワーグナー公爵はその臣です。

宰相は、陛下が全ての責任を負うとの言葉に感銘を受け、陛下の決定を支持しました」

殿下はそう言って、父を自慢した。

「私は父の英断を喜ばしく思っております」と語る殿下はどこか清々しい面持ちになっていた。

レーヴァクーゼン伯爵はこのような人物だったろうか?

いつもどこか不満を抱えているような印象の青年は、別人のように見えた…

「ところで、侯爵。お願いがあるのですが」

「なんでしょうか?」

レーヴァクーゼン伯爵のお願いとは意外なものだった。

「ルドルフと話をしたいのです」と彼は不仲だったはずの弟の名前を出した。

「会って、どうなさるおつもりですか?」と訊ねた私に、レーヴァクーゼン伯爵は、またはにかむように笑った。

「褒めてやりたいのです。カナルにて、苦労を覚えたようですので」

そう答えたレーヴァクーゼン伯爵は、陽の光の差し込む窓に視線を向けた。

少しだけ開いた窓からは、爽やかな緑の香りを含んだ夏の風が吹き込んだ。

「兄として、こんなに嬉しいことはありません。

弟は少し大人になったようです」

その言葉に、彼もまた成長したように思えた。

✩.*˚

テレーゼとフィーの荷物を用意させている時に、パウル様の遣いとして飛竜が届いた。

正直な話、もう会って話を聞く気にはならなかった。

せっかくのフィーの誕生会は一緒に祝ってやることもできなかったし、客が帰った後に、事情を知ったテレーゼは嘆いて、珍しく俺を責めた。

『ご承知なさったのですか?』と彼女は断りきれなかった俺の不甲斐なさを責めていた。

俺にとって地獄のような時間だった…

俺だって…断れるものなら断りたい…

いっそ全部捨てて、彼女らを連れてバックれたかったが、何もかも捨てて行くには、今の俺には守るものが多すぎた。

そういえば…スーの手紙が放ったらかしになっていた…

読むには読んだが、返事を用意する気力はもうなかった。

「俺が出る。お前は少し休んでろ」

俺の様子を見かねた親父が嫌な役を引き受けてくれた。

こんな状態の俺を出したところで、まともな話し合いができるとは思えなかったのだろう。

テレーゼはフィーの部屋から出てこないし、俺を拒絶して中に入れてくれなかった。

こんな旦那、幻滅だろうさ…

寝室のベッドに倒れ込むように転がった。

やっぱり、俺に関わる人間は不幸になるのか?

久しぶりにそんなことを思い出した。

幸せすぎて忘れてたんだ…

首から提げたままのカーティスに貰ったお守りも役には立たなかったようだ…

回らなくなった頭に、ふと良くない考えが過ぎった。

俺のせいで彼女らを不幸にするなら、俺が死んだら済む話じゃないのか?

俺が俺だけじゃなく、周りに不幸を呼び込んでいるなら、俺がいなくなりゃいいだけの話だ。

そうすれば、フィーは…

手が腰に伸びて、常に持ち歩いていたダガーに触れた。親父に貰ったものだ…

ちょっと冷静になればありえない考えだろう。

でもこの時ばかりは、絶望に飲み込まれて理性は沈黙していた。

ベッドから身体を起こして、部屋を眺めた。

迷惑にならないよう気をつけながら、自分の死に場所を選んだ。

絨毯を避けて、部屋の隅の床にシーツを重ねて敷いた。床に血が染みないように、掃除しやすいように…

こんな死に方か…くだらねぇな…

自嘲しながら上着のボタンを外して、心臓の場所を確かめた。

服で滑って失敗するのは面倒だ。やるなら一回で終わらせたかった。

「何をしている?」ダガーを握り直した俺の耳に、低い声が届いた。

「自死して全てを終わらす気か?」

「まぁ…そうだな…」と力なく笑って答えた。

現れた《冬の王》は俺の凶行を止めに現れたのだろう。奴は説教を垂れ始めた。

「それで解決するとでも?其方には…」

「いいよ…もう、疲れたんだ…」

本心から出た言葉だった。

自分への理不尽ならどんな事でも我慢できた…

自分だけなら耐えられた…それが家族に向かった途端、恐ろしくなった…

生きてる限り、俺はこの《祝福》から逃れられない。しかも自分だけじゃなく、他人をも不幸にするという厄介なおまけ付きだ…

俺が生きてる限りこの先もこれは続くだろう…

「あんたが、俺の事を可哀想に思うなら、テレーゼとフィーに《愛してる》って伝えてくれ…」

「人の子、諦めるな!其方は…」

何か言いかけた《冬の王》の言葉は途中で途切れた。

最後まで待たずに、ダガーを手に床に倒れ込んだ。

その勢いで、ダガーは胸に深く穿たれた…

「馬鹿者!死ぬな!」俺を叱る声がボヤけて遠くなる。

冷たい…

久しぶりに凍える感覚を味わった。

初めてこの感覚を覚えたのは、お袋を殺した時だ…

優しかったお袋がどんどん変わってしまって怖かった…

俺なんて、あの時、死んでしまえば良かったんだ…

あれは俺を一人にさせないようにっていう母親なりの優しさだったんだ…

これで全部終いにしよう…

そうすれば…彼女たちも…

次に生まれ変わるなら、幸せの続く人生を期待した…

✩.*˚

私は酷い妻だ…

少しずつ冷静さを取り戻すと、彼の傷ついた顔を思い出して胸が痛んだ。

ワルター様は誰よりも私やフィーを愛してくれていた。

その彼がこの決定を苦しまないはずがないというのに…

妻なら支えるべきなのに、そう出来なかった…

ワルター様の姿を模した人形を眺めながら、謝る言葉を探していた。

「ママ、パパかちて」とフィーは私の持っていた人形を求めた。

「はい、どうぞ」

差し出した人形を受け取って、フィーは嬉しそうに歯を見せて笑うと、人形を抱きしめた。

フィーは私をかたどった人形と並べておままごとを始めた。

おままごとの内容は他愛もない会話で、彼女の中の私たちは仲が良いように見えた。

感情的になったことを後悔していると、ドアを叩く音がした。

アンネが出て、「大ビッテンフェルト卿です」と伝えた。

「失礼します。テレーゼ様、お話が…」

「ちょっと待ってね、フィー」

ワルター様じゃないことにどこか安堵を覚えて、アンネにフィーを預けてお義父様に歩み寄った。

お義父様は手にしてた手紙を見せて「朗報です」と私に伝えた。

「フィリーネをオークランドに渡す理由が無くなりました」

「…本当に?」

慌ててお父様からの手紙を確認すると、国王陛下直々に、《玉旗の放棄》を命じられた旨が記されていた。

「これは…」信じられない…一国の王が《玉旗》を諦めるなんて…

「つい今しがた来た伝令から受け取りました。

一番新しい侯爵の書状になります。

《玉旗》は失いますが、カナルの土地もフィリーネもフィーアのものです!」

お義父様の言葉に全身から力が抜けて、そのまま床に崩れ落ちた。

安堵から溢れた涙で何も見えなくなる。

良かった…フィー…本当に良かった…

溢れる涙で霞む視界に、ワルター様の悲しい顔が頭を過った。

謝らなくちゃ…私は彼に酷いことを言ってしまった…

「お義父様…ワルター様は…」

「まだ、知りません。

あまりに酷い状態だったので、私が代わりました。

先ずはテレーゼ様にと思い、息子にはこれから伝えるところです」

「私も…」

そう言いかけた時、廊下を冷たい風が吹き抜けた。

お義父様が慌てて私を庇ってくれたお陰で怪我こそはなかったけど、近くにあった花瓶の砕ける音や、窓の硝子が割れる音が辺りに響いた。

「《白い手の》!」

覚えのある、響くような声が私を呼んだ。

目の前に現れた白く大きな雄鹿は酷く取り乱していた。

「来てくれ!我が眷属をその手で救ってくれ!」

《冬の王》は確かにそう言った。

何が起きてるの?

理解出来ずにいると、雄鹿は私の服を咥えて引き摺って行こうとした。

「急いでくれ!彼が…我が愛した《人の子》が死んでしまう!」

その呼び方が示すのは一人しかいない…

一気に血の気が引いた…

《冬の王》は泣きそうな声で私に訴え続けた。

「自らの不幸を嘆いて、我が眷属は自死しようと自分の胸を刺してしまった!

我の氷では命を繋げない!頼む!早く助けてやってくれ!我はまだ彼を失う訳にはいかないのだ!」

「…ワルター様が…」

私のせいだ…

私が、ワルター様に『フィーを愛してないのですか?』と言ったから…

『信じてたのに』となじったから…

『オークランドに娘を渡すくらいなら、死んだ方がましです!』なんて言うんじゃなかった…

「ワルター様!」

慌てて走り出した私を案内するように、《冬の王》は前を走った。

寝室のドアの前で冷たい風に変わった《冬の王》に続いてドアノブを掴んだ。

焦って手が震える。上手く掴めずにドアノブは手から逃げて私を焦らした。

「失礼、テレーゼ様」

痺れを切らしたお義父様が手を貸してくれた。

「早く!」と先に部屋に入った《冬の王》が私を呼んだ。

白い雄鹿の足元に広がったシーツの上に、倒れた彼の姿を見つけて悲鳴を上げた。

「ワルター様!」

「ワルター!」私より先にお義父様がワルター様の元に駆け寄った。

「馬鹿野郎!この親不孝者が!」

怒鳴りながら倒れた息子を抱き起こしたお義父様の顔が曇った。

おぼつかなくなる足でワルター様に元に歩み寄ると、白いシーツに染みた血の色が鮮やかに映った…

「…馬鹿者が…早まったことをして…」と呻くように呟く声が虚しく聞こえた。

ワルター様のはだけた胸元には短剣が穿たれていた…

「失血は氷で塞いだ。今ならまだ蘇生も間に合うはずだ。

頼む、《白い手の》…

《フリューリング》に《祝福》された其方にしか彼は救えぬ」

神に近い存在が、か弱い人間の女に頼った。

「ワルター様」と彼の名前を呼んだ。

もちろん返事などない。

短剣を握ったままの手と傷に《白い手》を伸ばした。

どんな思いで、この悲しい決定を下したのだろう…

「死なないで…」

私たちはこんな終わり方なんですか?

光る《白い手》が凍った手からダガーを引き抜いた。傷口から鮮血が溢れる。

力を下さい…彼の命を繋げるだけの力を…

『お前は凄い奴だ。決めたらやり切る強い女だ。そうだろ?』

以前、彼のくれた言葉で自分を励ました。

いつだって支えてくれた、優しい人…

貴方は私を信じてくれたのに、ごめんなさい…

大好きだった彼の手を握った。手に熱は戻らない。

《白い手》は幾度となく傷を癒してきたじゃない?

お願いします…彼を助けて…

心が折れそうになりながら、翳してた《白い手》にあるはずのない手が重なった。

「その人を救いたいのですか?」

背中に、柔らかい女性の声がかかった。

振り返った私に、女神はフードの下で悲しげに告げた。

「テレーゼ。彼の灯火は消えかけています。

彼を救えば、貴女は大切なものを失いますよ…」

フリューリング様は親切でそう告げたのだろう。それでもそれに頷けるわけがない…

「彼は…私の大切な人です…」

「テレーゼ…彼を選ぶのですか?」

「私が彼を傷付けて、こんな選択をさせてしまったんです…私の命を分けることができるなら、彼に与えてください…

謝らなきゃ…いけないんです…」

《白い手の女神》は悲しげな顔で私を見つめた。

「我が妻…」

《冬の王》が冠のような角の頭を垂れて、女神に懇願した。

「我からも頼む…彼はまだすべきことがあるはずだ…」

「…貴方まで」

女神はため息を吐いて、私の傍らに膝を折ると、膨らみかけた私のお腹に触れた。

「私もこんなことをするのは心苦しいのですが…

来るべき《母神の復権》のために、これ以上私が力を失うことはできません。

彼の命を繋ぐ対価として、この子の命で、彼の灯火を繋ぎましょう」

「それって…」非情な選択に耳を疑った。

彼女は、ワルター様の代わりに、お腹の子供を諦めろと言っているのだ…

それでも女神は柔らかな声で私を諭した。

「貴女が代わるなどと言わないでくださいね、優しいテレーゼ…

貴女が身代わりになれば、結局この子も死んでしまいます。

本来、一人にひとつしか命は与えられません。

本来のあるべき姿を歪めれば、その魂は歪んでしまいます。

歪んだ魂は安らぎを得ることが出来なくなります。それはあまりにも苦しい、死ぬより辛いことになります…

これは私に出来る最大限の譲歩です。

彼から派生した生命で、彼の生命を繋ぎます。

よろしいですね?」

「この子は…どうなるんですか?」

「可哀想ですが、この子は《雲雀ラーチ》になって、また《巡る船》に戻ることでしょう…

運が良ければ、また貴女方の元に巡ってくるかもしれません」

女神はそう言って、白い手で私のお腹から命の輝きを取り上げた。

煌めく小さな卵…

《白い手の女神》はその煌めく命をワルター様の傷口に押し込んだ。

「さぁ、出ておいで」と女神が告げると、ワルター様の胸から一羽の雛鳥が顔を出した。

小鳥の雛は甘える声で鳴きながら、差し出された女神の手に乗った。

女神は雛を大事に抱いて、膝を折った《冬の王》の背に乗った。

「この子は《ニクセ》に預けます。

また巡って来るまでお待ちなさい」

《白い手の女神》は私にそう言って《冬の王》と共に姿を消した。

✩.*˚

『馬鹿!』

夢の中で彼女に叱られた…

空色の瞳が俺を睨んで『帰りなさい!』と怒鳴りつけた。

久しぶりに会ったのに、そりゃないだろう?

テレーゼより背の高い彼女は、容赦なく俺の顔を平手で打って、よろけた背中を蹴飛ばした。

歓迎されないにしてもそれは酷くないか?

彼女は何か怒ってたようだ。

『巡って来てって言ったくせに!』

普段は大人しいくせに、そういうところは兄貴に似てるよな…

そんな散々な目に遭って、夢を追い出された。

ぼんやりとした視界に天井が見えた。

見慣れた寝室の天井だ。

瞼が重い…身体も怠くて動かない…何となく息苦しい…

この感覚は覚えてる…死に損なった後の感覚だ…

あぁ、そうだ…俺、死のうとしたんだった…

心臓を突いたのに、何で死ななかったんだ?俺はいよいよ人間をやめたのか?

視線を動かして、辺りを確認した。

部屋は暗くて明かりはなかった。カーテンの隙間から差す明かりも弱く、十分なものじゃなかった。

身体を起こしたかったが動かない。すぐに諦めてぼんやりと天井を眺めた。

一体、あれからどれくらい時間が経ったのかも分からない。

テレーゼやフィーはもうパウル様の所に向かったのだろうか?

何も出来ずにいると、誰かの訪問を告げる控えめなノックの音が響いた。

気まずい…寝たフリでもしとくか?

そんな子供じみた真似をしてると、ドアの軋む音が聞こえて女の靴音が聞こえてきた。聞きなれた足音は、目を閉じていても誰のものかすぐ分かる。

彼女の足音はベッドの傍らで止まった。

ベッドの軋む音がして、顔に何かが触れた。

多分手のひらだろう…

手のひらの感触は柔らかく、暖かくてしっとりとしていた。

柔らかい手が顔を撫でて、また離れた。

同じベッドに人の気配を感じて、すぐ近くから息遣いが聞こえる。また柔らかい感触が身体に触れた。

「…ごめんなさい」と泣きそうな彼女の声に胸が痛んだ。

ダガーを胸に突き立てた時より、言葉の方が胸に鋭く刺さった。

馬鹿だろ、俺…何で寝たフリなんかしてんだよ…

今更やっぱり起きてたなんて言える訳もなく、目を閉じる芝居を続けた。

「ワルター様…ごめんなさい」と子供のように謝る彼女の声に耐えながら感情を殺した。

彼女は俺の手を握って、何かに触れさせた。

「やっぱり…亡くなってるそうです…

そのうち出てくるそうですが…ごめんなさい、私の責任です」

何を言ってるのか理解できなかった。

誰が死んだって?俺じゃないのか?

こっそりと目を開けると、俯いたテレーゼの姿と、自分の触れてるものがぼんやり見えた。

俺の手は彼女の膨らむはずの腹に触れていた…

それを見て、何で自分の命が助かったのか、何となく理解した…

「…ごめん」

「…ワルター様?」突然、俺が口を利いたから彼女は驚いているようだった。

「ごめん…ごめんな…」

傷口から溢れる血のように謝罪が溢れた。少しでも、この心の痛みから救われたくて彼女に懺悔した。

「ごめん」と繰り返すことしかできなくて、彼女を慰めることも、何でこんなことしたのかって言い訳すらできない。

ただ壊れたようにひたすら謝罪した。俺は取り返しのつかないことをした…

「私こそ、ごめんなさい…」

彼女はそう言って俺の手を離して、柔らかい手のひらで俺の顔や髪を撫でた。

「私がワルター様を追い詰めてしまったから…酷いことを言ったから…

全部私が悪いんです…」

彼女はそう言って、俺の意識の無い間にあったことを教えてくれた。

フィーはオークランドに行かなくて良くなったと聞いて安堵した。

あの頼りない印象の王様が、カナルの土地を渡すことを拒否してくれたらしい。

俺が早まったことをしなければ、子供は死なずに済んだのに…

もしかして、エマの言っていた『巡って来てって言ったくせに』って…あの子供は…

どうしようもない後悔と、の話が頭の中を巡った。

生まれてくるはずの自分の子供の命を奪って、俺は生きていた…
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