燕の軌跡

猫絵師

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ニック

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「アーサーがやられた?!」

「対岸から飛んできた《鷹の目》の矢にやられたらしい…

重傷で意識もはっきりしてないようだ。足止めしてた男の行方も見失ったらしい…

今、弟たちが血眼になって捜索している」

《スウィッチ》を引き渡して、パウル様の話を聞いて驚いた。

いくら油断していても、アーサーの《拒絶》を破るのは俺でも難しい。

目の前の敵を気にし過ぎて、他のが疎かになっていたのだろうか?

それとも、《鷹の目》の《祝福》の方が強いということか?

どちらにしても、アーサーの身が心配だ。《アロガンティア》と話せるなら確認したいが、あいつが素直に応じてくれるとも思えない…

「パウル様、こいつ絶対に自由にしないでよ?」

ぐるぐる巻きにして捕まえていた男を預けて、アーサーに会いに行こうとした。

「待ちたまえ、私もフォーテスキュー卿の見舞いに行く」とパウル様も同行を申し出た。

一緒に出ていこうとした時に、侍女がパウル様を呼び止めた。

「閣下!ミラ様からです!」

「ミラ…だと?」

簀巻きになってた男が声を発した。

「君が攫った私の侍女だ」とパウル様は《スウィッチ》に答えた。

「君たちが今夜来ることは事前に分かっていたからね。少し用意していたのだよ」

「あのアマ…通じてやがったのか?!」

「その汚い口を改めてくれ。彼女は私の大切な侍女だ」

パウル様は、俺でもビビるくらい冷ややかな声で答えると、《スウィッチ》に歩み寄った。

「ミラもレニも返してもらう。悪ふざけが過ぎたな、《スウィッチ》…」

パウル様は《スウィッチ》を黙らせて、侍女が差し出した緑色の石を受け取った。

「引き続き監視を…」

「かしこまりました…」

「ミラって娘はなんだって?」

「とりあえず、フォーテスキュー卿の見舞いに行こう」とパウル様はその場での返答を控えた。

テントを出ると、パウル様はリューデル伯爵たちを呼び戻すように命じた。

「スー。君は《鷹の目》の矢を予測できるんだったね?」

「まぁ、ある程度は…」完全に予測できる訳じゃない。精霊たちが教えてくれるものしか分からない。

「警戒していてくれ。

ミラの連絡では、《鷹の目》に何らかの変化があったらしい…」

「それって、アーサーとも関係ある?」

「分からない。ミラが上手くコントロールできると良いのだが…」

パウル様は対岸に渡した侍女たちを心配していた。

とにかく、良くない事が起きてるのは間違いない…そう思って嫌な事が頭を過った…

「まさか…《神紋》とかじゃないよね?」

「…そうでないと願う、としか言えないな」

いつもなら余裕たっぷりに返すパウル様だが、今回ばかりはその余裕も無いらしい。

アーサーの治療中のテントに向かうと、困り顔の医者と治癒魔導師たちがテントの外でオロオロと怯えていた。

「こ、侯爵閣下!危険です、お下がりください!」

「何事だ?治療はどうなっている?」

「それが…黒い獣が…これでは治療ができませぬ」青い顔の治癒魔導師がパウル様に答えた。

「《アロガンティア》め…」

どうやらあいつが治療を邪魔してるらしい。

引き止める魔導師らを無視して中に入ると、黒い獣が迎えた。

「おぉ…《妖精の子》我輩が眷属を助けに来てくれたのか?」

「アーサーの治療を邪魔してよく言うよ。アーサーの治療が間に合わなかったらどうするつもりだよ?」

「あやつらでは信用出来ぬ」と獣は喉の奥で、拒絶するような唸り声を漏らした。

「この男も頑固でな…

我輩を《拒絶》し続ける、この《傲慢さ》にはほとほと困っているのだ…

我輩を受け入れれば、この程度の傷、問題ではないというのに…」

黒い獣はそうボヤきながら少しだけ縮んだ。

大きめの狼くらいの大きさに変わった《アロガンティア》は、俺にアーサーを救うように交渉した。

「この男、救ってくれたら、少しくらい我輩も貴様を助けてやろう」

「じゃあ、君には貸しひとつだ。後で『忘れた』とか言うなよ?」

「…むう…我輩より偉そうに…本当に《彼》の子か?」

《アロガンティア》はぶつくさと何かを呟いていたが、それよりもアーサーを助けるのが先だ。

呼吸が浅い、脈も弱い。

テレーゼに頼りたくなるが、そうも言っていられない。

魔力を指輪に流して、治癒を開始した。

傷口に上手く魔力が流れない。押し返されてるような圧が手に伝わってくる。

「《アロガンティア》。あんたの《祝福》が邪魔だ。治癒魔法の効果が削られてる。何とかしろ」

「むう…仕方ない」

耳を伏せて、黒い獣はアーサーの胸の辺りに前足を置いた。手を押し返すような圧が消え、魔法が浸透し始めた。

傷が少しずつ塞がって、危険な状態からは脱した。胸を貫かれたのに生きてるのは、彼が人並外れて丈夫だったのと、運が良かったからだ。

治療を続けながら、「何で治癒魔導師と医者を追い払ったんだ?」と訊ねた。

黒い獣は「ふん」と鼻息を荒くして、「信用が出来なかったからだ」と答えた。

「治療の仕方が雑だったのだ。

荒っぽく矢を抜くし、我輩が《祝福》の砕けて脆くなった場所に触れようとした。だから怒ったのだ」

「それって仕方ないだろ?」

「我輩に断りもないのだぞ!」

「ほとんどの人は君のこと知らないよ。

だいたいアーサーは怪我したことないじゃないか?彼を治療したことのある人間ってテレーゼくらいだろ?

君は人見知りでアーサーを死なせるところだったんだよ」

「ぐぬぬ…」

「だいたい、何で俺やテレーゼは良いんだよ?面倒くさいな」

「《春の女神》の化身が人を害するわけがないであろう?

それに、お前は《彼の子》ではないか?」

狼のような顔を傾げて、《アロガンティア》は俺を《彼の子》と呼んだ。

「そのさっきから言ってる《彼》って何の話だ?もしかしてワルターの事か?」

「違う。まさか血を分けた親を忘れたなどと言うまいな?」

「もしかして本当に俺の《父さん》を知ってるのか?」

「知ってるも何も、お前たちは有名なのだ。

《女神の聖戦》の《鍵》となる…」

「大馬鹿者め。そのおしゃべりな口を閉じよ」

突然、《アロガンティア》の言葉を遮って、狭いテントに別の獣が現れた。

ランプの灯りを頼りに現れた獅子は、黒い狼を大きな前足で踏みつけて、逃げられないように動きを封じた。

「お前はギルの…」

「神にも精霊にもなれぬ出来損ないの弟が迷惑をかけたな」と狼を咥えたまま、《炎獅子》が詫びた。

「《妖精の子》。こやつの話は忘れてくれ。

貴様もつまらぬ事をベラベラと喋りよって!おかげで《冬の王》の機嫌は最悪だ!

代わりに私が来たが、ただで済むと思うなよ?!」

《炎獅子》は踏みつけた《アロガンティア》を叱りつけると、黒い獣の首根っこを捕まえて回収した。

ポカンとしている俺を一瞥して、《炎獅子》は勝手に精霊の世界に帰って行った。

なんだったんだ?あいつら兄弟?

それよりも…

《アロガンティア》の奴、俺の《父さん》を知っていた?

あいつら、俺が知らない何かを知ってるのか?

大事なことを聞かそびれてモヤモヤしていると、テントの外から声がした。

「…スー、入ってもいいのかね?」

布を一枚へだてて、パウル様の声が聞こえた。

ヤバい!《アロガンティア》がいたからパウル様をテントの外に出しっぱなしだ…

「ごめん、パウル様。入って」

「治療は終わったのかね?」

「一応、傷は塞いだよ。

治癒魔導師にも入ってもらって。もう《アロガンティア》はいないから」

テントに数人を招き入れて、アーサーの容態を確認して貰った。

「私の治療はいりませんね」と駐在する治癒魔導師は肩を落として、治療に必要な水薬を用意するように指示して帰って行った。

「彼も王都で学んだ優秀な魔導師なのだが…」とパウル様は苦笑いを浮かべながら呟いた。

「なんか仕事取って悪いね…」

「悪いものか。君には色々と礼をしなくてはならんな」

「いいよ。アーサーがやられたのは予想外だったけど、概ね順調だ。

あとはラッセル兄弟を片付けるとしよう」

「うむ。君がいると心強いよ。

ところで、《鷹の目》のことだが…」

気の進まない話をするように、パウル様は声を低くした。

「アーサーの《祝福》を破るような矢を対岸から届けるなど尋常ではない。

攻城弩ですらアーサーを貫けなかったのだろう?」

「でも今までの矢ではそんな威力はなかったよ。確かにそれなりの勢いはあったけど、普通の矢だった…

実際に矢を止めた俺の感想からすれば、アーサーの《祝福》を貫けるようなものではなかったはずだ」

「益々持って分からん話だな…

対岸で《奇跡》でも起きたというのかね?」

「俺はその方が納得できるよ…」と答えて眉を寄せた。

情報が多すぎて纏まらない。

《アロガンティア》のせいで話が中途半端になってるし、アーサーの意識が戻るまで《鷹の目》の矢の話も聞けない。

オマケにラッセルの兄の方も見失って、まだこの岸に残ってる状態だ。

ええい!面倒くさい!

「《赤鷲》はしばらくお預けかぁ」

残念がってぼやくと、パウル様は「君の、そういうところ好きだよ」と笑った。

「まぁ、とにかく…

《スウィッチ》は捕まえることができて良かった。残りの問題も一つずつ片付けよう」

「そうだね。

でも、《鷹の目》は早いところ何とかしたいよ…」

「確かに…

対岸から狙われては、こちらからは手も足も出ないな。いつ狙われるか気が気じゃない」

「パウル様は極力出歩かない方が良いよ。いつ狙われるか分からないからね」

「そうも言ってられない。

私が逃げ回ればフィーアの士気は下がる。

早急に対策せねば…」

「対策って?」

「…これから考える」

「…なるほど」と頷いた。でもそれしかない。

「無謀だと思うだろう?」

パウル様は自嘲したようだったが、自嘲と言うには爽やかで品がある。

彼は勝つ気でいるのだ。死を恐れる時間すら惜しいのだ。

「まぁね。賢い人のやり方ではなさそうだよ」と答えて肩を竦めて見せた。

「でも、俺はそういうの好きだよ。

シンプルだし、何より、性に合ってんだ」

「そうか。やっぱり君とは仲良く出来そうだよ」

差し出された硬い手のひらと打ち合って、彼のために戦うと誓った。

✩.*˚

ヴィクターの纏う空気が変わった…

彼は目を覆う布を外したままで、1人で歩いてテントに戻ってきた。常に世話を焼く兄の姿は無い。

その姿に胸騒ぎを覚えた…

「ヴィクター…ニコラスは?」

私の質問に、ヴィクターの目がつり上がった。青い瞳は前に見たものとは違って見えた。

「…兄ちゃんは戻ってくるよ…」と歯切れの悪い返答をして、ヴィクターは私の顔に視線を注いだ。

その目は猛禽の瞳だった…

「どうしたの、ミラ?俺が怖い?」

「貴方…やっぱり、目が…」

「うん。さっき、急に見えるようになった…

知らない人が、俺の目を見えるようにして、この弓をくれたんだ。

慣れないから少し気持ち悪いけど、君の顔も見えるよ。やっぱり美人だ」

ふふっ、と小さく笑ってヴィクターは私の頬に触れた。彼の変わりように気圧されて、身体を引いてしまった。

「どうしたの?」

「本当に…ヴィクターなの?」

「何言ってるの?俺だよ?」答える声は少し苛立っていた。

「俺の目が見えるようになったのに、嬉しくないの?」

何があったのか分からないけど、彼の機嫌を損なうのは良くなさそうだ…

「い、いえ…でも…雰囲気が変わったから…」

「そう?俺もまだ慣れないから、怖がらせてたらごめんよ?

何か上手く言えないけど、生まれ変わったみたいな気分だよ」

「何があったか教えてくれないかしら?

私たちは《家族》なんでしょう?」

狡い言い方で彼の身に起きた変化を引き出そうとした。

《祝福》は稀に変異する。進化というのが正しい気もするが、飛躍的に能力が向上することがあるのだ。

元々の《鷹の目》だって十分脅威だったのに…

早く確認して、侯爵様に知らせなければ…

ヴィクターは、私の《家族》という言葉に気を良くした。

「いいよ。教えてあげる。《家族》だもんね」

ヴィクターは笑って、私を抱き寄せた。

「ミラは俺の事知りたいんだね」

脳天気な様子で、私を疑わない彼に安堵した。彼は相変わらず心は少年のように純粋だ。

とにかく、今は私にできることをしなければ…

「ミラ様…」テントの隅で小さくなっていたレニが小声で私を呼んだ。

「そういえば、あの子も居たね」とヴィクターはレニを見て呟いた。彼はレニに歩み寄ると、彼女の前に腰を落として話しかけた。

「隊長はもう戻らないと思うよ。俺が君も《家族》にしてあげるよ」

ヴィクターはそう言ってレニに手を伸ばした。

「レニ!ダメ!」咄嗟に叫んでいた。

ヴィクターだけならなんとかなると踏んだのだろう。

ヴィクターを殺そうと襲いかかったレニは、瞬く間に彼に抑え込まれていた。

信じられない…あのレニが手も足も出なかった…

「何で…俺の事殺す気だったの?」

レニの首を腕で締め上げて、ヴィクターは冷たい声で彼女に問い質した。

止めなければ、と思っていても、恐怖で声すら出なかった。それはレニも同じだった…

「君とは《家族》にはなれないね…」

なんの迷いもなしに、ヴィクターは腕に力を込めた。

テントの中に骨の砕ける不気味な音が響いて、レニの身体は小さく跳ねて動かなくなった。

「…レニ」

「危ないから殺しちゃった。いいよね?だって彼女、俺の目を狙ったんだ。俺を殺す気だったんだよ」

悪びれる様子もなく、彼は笑顔を見せた。

彼は私に向かって、レニを殺した腕を伸ばした。

「あぁ、ごめんよ、怖かったね?

そんなに怯えなくても、君を殺したりしないよ。ミラは俺の《家族》だもんね?」

私はとんだ思い違いをしてたかも知れない…

今頃になって怖くなった。

一番操り易そうだった青年は、この岸で一番の化け物だったと気付いて、今更背筋が凍る思いだった…

✩.*˚

まずいなんてもんじゃねぇ…

俺は割と楽観的な人間だが、今回ばかりは希望を失いかけていた。

「隊長め…しくじりやがったのか?」

独り言に答える相手はなかった。

でも、俺がオークランドに戻れないのは、隊長がしくじったか、裏切ったかのいずれかだ。

だが、隊長が俺を裏切るわけはない。

あいつはヴィクターが必要なはずだ。ヴィクターが《鷹の目》が使えなくなれば、困るのはあの男だ。

何とか追っ手は振り切ったものの、完全に帰る手段を失っていた。

「しっかしなぁ…ここは何処だ?」

全く分からん。

俺は読み書きもできないし、あったとしても地図なんて見方もよく分からん。

喋れるのはパテル語のみだ。

林に逃げ込んだが、明かりも無しに進むにつれて、道も険しくなった。

早く、ヴィクターのところに戻らなきゃならねぇってのに…

どこか休めるところがないか探してさ迷ったが、気が付くと空が白み始めていた。

汗まみれの傷だらけだ…

腹が減って、喉も渇いていた…

「…クソっ!」

仕方なく休むことにした。

大木に背中を預けて一休みした。

ヴィクターはどうしてる?

ミラは大人しくヴィクターの世話をしているだろうか?

あの女は賢そうだったから、少し心配だ…

気掛かりばかりが頭を過った。

とにかく、今はあのデカイ河を越えることが先決だ。

泳ぎは得意じゃない。

どこかで舟を手に入れれたら一番だが、辺りに人の気配はなかった。

不意に、頭上で木の枝が揺れて、葉っぱが落ちてきた。

見上げると、一羽の烏が、木のウロに何かを隠してまた飛んで行った。

「《ヨイドレカラス》か?」その姿にピンと来て、烏の飛び去った木に手をかけてよじ登った。

俺は運に見放されていないらしい。

木のウロに溜まった水には、烏の集めた果実が浮いていた。

どうやら、まだ《酒》を作るのに慣れてない個体だったらしい。

雨水もまだ新しかった。葉っぱを丸めて作った即席のコップですくって飲んだ。

少し甘い果実の溶け込んだ雨水は疲れた身体に滲みた。

どこからか、「ウィー、ウィー」と悔しそうに鳴く烏の声が聞こえた。

「悪いな。馳走してくれ」と声の主に詫びると、また烏の鳴く声が聞こえてきた。

恨み言でもあるのかと、鳴き声の方に向かうと、赤い実をつけた木を見つけた。

小振りだが林檎っぽいな…

感謝して拝借した。

これで少しは希望が持てた。

「待ってろ、ヴィクター」独り言を呟いて、自分を励ました。

上着のポケットに赤い木の実を詰め込んで、またどこへとなく歩き始めた。

その逃避行に、子供の頃の記憶が蘇る。

目の悪い弟は、よく遠くのものを言い当てた。

拙い言葉で一生懸命伝える弟を、周りは嘘か戯言だと信じなかった。

でも俺は弟を《嘘つき》にしたくなかった。可能な限り、弟の言った事を確認しようとした。

あいつはやっぱり嘘つきじゃなかった。

俺が生き残ったのは、あいつの《鷹の目》のおかげだ。

『怖い!怖い!みんな逃げようよ!』

夜中に酷く怯え始めたあいつを抱いて、落ち着かせるために家を出た。

後から分かったことだが、あいつは屋根裏の明り取りの窓から盗賊の集団が人を殺すのを見たらしい。

町外れの家に知らせが来るのは遅かっただろう。もしかしたら来なかったかもしれない。

ヴィクターをなだめて帰ると、それはもう俺たちの家ではなくなっていた…

親父もお袋も、夢を見たのだと、ヴィクターを信じなかったから死んだ。

俺はヴィクターの言うことを信じた訳じゃないが、あいつに合わせたから運良く生き延びた。

それからがむしゃらに生きた。

二人だから生きてこられた。

俺はあいつを《お荷物》だと思ったことは一度もない。

あいつは俺の大切な可愛い弟だ。

心配してるであろう弟を想って、疲れを振り払って足を動かし続けた。

アテもなく歩き続けて、やっと休めそうな場所を見つけた。

それは猟師が使うような小さな山小屋だった。中には毛布が残っていた。

他に何かないかと小屋を漁ると、斧と鍋、皮の鞄も見つかった。

「おう、いいな」と喜んで拝借した。

とりあえず毛布に包まって休むことにした。ここまで休憩らしい休憩もしてなかったから、ボロ小屋の汚い毛布でもありがたい。

横になると、すぐに眠りに落ちた。

疲れ切っていて、後先のことなんて考えもしなかった。

小屋の中に射し込む太陽の角度が変わって、目が覚めた。

どのくらい経ったのかは分からないが、数時間は眠れたようだ。

おかげで身体は軽くなった。

喉の乾きと空腹を覚えて、木の実を取り出して食べた。

山小屋があったということは、山を降りれば村か町があるかもしれない。

迷ったが、向かうことにした。

ヴィクターのところに戻るためだ。多少の危険は覚悟の上だ。

目立つ上着を脱いで、丸めて腰に巻いた。名前があるから、こんなの着て歩いてたら馬鹿だろう。

拝借した鍋と斧と鞄の代わりに、銀貨を一枚置いて山小屋を出た。これなら持ち主も大して困らないはずだ。

山小屋の前に、踏まれた道らしいものを見つけて、それに沿って歩くと、それらしい道に出ることができた。

街道らしき道に出ると道標があった。これなら分かる。近くの村か町を指していた。

歩いていると、後ろから駄馬に引かれた幌馬車が通りかかった。

幌馬車を操っていたのはパイプを咥えた老人だった。

「お兄さん、旅行者か?もう暗いけど大丈夫かい?」

訛ってるがパテル語だ。

爺さんは親切に俺の心配をしてくれた。この爺さんは良い人だ。

「この辺りは、少し物騒でな。熊も狼も野盗も出るんだよ。わしも孫も心細いから乗って行かんか?」と爺さんは荷台を指さした。

「なるほど。じゃあ乗せてくれ」と爺さんの親切に応じた。

荷台に上がると、俺の姿に驚いた孫娘が、爺さんの背に張り付いた。

「あんたら、こんな遅くにどこに行ってたんだ?」

「カナルの岸まで荷物を届けに行ってたんだよ。この子の父親がいるのさ。

でも、帰りに検問があってね。なんだろうね?無駄に時間がかかっちまって、遅くなったんだ」と爺さんは帰りが遅くなった経緯を説明してくれた。

なるほど…俺のせいか?それは悪い事をした…

ポケットから残っていた木の実を出して少女に差し出した。

「美味いぞ、食べるか?」

赤い木の実を見て、女の子は爺さんの服を引っ張った。爺さんは俺の持っていた木の実を見て驚いたようだ。

「おや?珍しい、《オータムジュエル》だね」

「珍しいのか?」

「珍しいよ。わしの子供の頃は、これを山で見つけて食べたら《運が付く》って言われたもんさ」

「たかが木の実だろ?」

「《オータムジュエル》は数年に一度しか実を結ばないのさ。しかも、気候に左右されるから、見つけたあんたはラッキーさ」

爺さんはそう言って孫娘にジェスチャーで食べる真似をした。

孫は恐る恐る木の実を受け取るとお辞儀をした。

「礼は言えないが悪く思わんでくれ。その子は耳が不自由なんだ」

その言葉に「そうか」と頷いた。

「俺にも目の不自由な弟がいる」と応えると、爺さんは俺と同じく「そうか」と頷いた。

林檎のような木の実を齧って少女は笑顔を見せた。木の実は口に合ったらしい。

「爺さんも食うか?」と最後の一つを馬車代として差し出した。

爺さんは白い髭を撫でながら「嬉しいね」と応えて、皺の刻まれた手で木の実を受け取った。

「お兄さん、あんた名前は?」

「ニックだ」と答えた。

名前を偽れるほど器用じゃない。嘘を吐いてもどうせボロが出るし、《ニック》なんて珍しくもない。

「わしはトムだよ。トム爺って呼ばれとるよ。その子はシェリーだ」

善良そうな爺さんはあれこれ詮索しなかった。

俺もこの善良そうな二人に手を出す気は無かった。

ガタガタと音を立てる車輪で道を進むと、また道の脇に導石が現れた。

「もうすぐだ」とトム爺は目的地が近い事を告げた。

孫娘は疲れていたのか、馬車の隅で丸くなって寝息を立てていた。

そこまで順調に進んでいた馬車が急に止まった。馬が進むのを嫌がって下がろうとした。

「なんじゃ?」と訝しんで、トム爺が馬車の御者台を立とうとした。

「爺さん!動くな!」と咄嗟に声を上げた。

生臭い獣臭が鼻に届いた。道端の木々の隙間から黒い獣が飛び出して馬を襲った。

「ビイィ」と悲鳴をあげた馬は獣に対抗しようと、前足を上げた。

「おう」と悲鳴をあげてトム爺が御者台から転がり落ちた。

馬車が大きく揺れて、何が起きたか分からないシェリーが悲鳴を上げた。

御者を放り出した馬は、悲鳴を上げながら命からがら逃げ出した。

「チィッ!」舌打ちして、少女を抱えて馬車から飛び降りた。

「おい!トム爺!生きてるか?!」

地面に伏せたままのトム爺に駆け寄ると、爺さんは俺の呼び掛けに反応して動いた。

「ブォ!ブフォウ!」背後で威嚇する獣の声がして、強い衝撃が背中を襲った。

背負ってた鍋が身代わりにならなかったら大怪我を追っていたはずだ…

振り向きざまに斧を振るった。だらしなく、粘つく唾液を垂らす赤い口が目の前にあった。

斧に手応えを残して、黒い塊は悲鳴をあげて後退った。

熊だ。よく肥えたデカい熊は涎を撒きながら、汚い声で吠えた。

「トム爺、シェリー。離れてろ」

少女をゆっくり下ろして、斧を両手で握り直した。

さっきの一撃は熊の右前脚に当たって怪我を負わせていたが、致命傷ではなかった。

反撃を食らった熊は怒り狂っていた。

「このニック様を食う気か、熊公?!

ど頭かち割るぞ!」

怒鳴りつけたが、熊はさらに大きな声で吠えた。

獲物を前に、退く気は無いようだ。

振り上げた熊の左手には、大きく凶悪な爪が並んでいた。

退けば、トム爺たちがやられる。

恐怖で泣き叫んでいる少女の声を聞いて、退るという選択肢は俺には無かった…

振り下ろされた爪は服を切り裂いて、肉にも引っかかった。腰に巻いてた上着が爪に引っかかって、獣は少し動きを鈍らせた。

「うぉりゃァ!!」

渾身の力を込めて斧を振るって、熊の眉間に叩き込んだ。

硬ってぇ!

柄が折れるほどの力で叩き込まれた斧は熊の額にめり込んで頭蓋にくい込んだ。

熊は悲鳴をあげて、後ろ足で数歩下がると尻もちを着いた。熊はしばらくもがいて、そのまま舌を垂らしたままひっくり返ると動かなくなった。

「あぁ、クソっ…痛えな…」

服を広げて爪の痕を確認した。そこまで深くないが、獣の傷は膿んでくると厄介だ…

「トム爺、シェリーも大丈夫か?」

「あ、あんた…本当に倒しちまったのかい?」とトム爺は驚いていた。

とりあえず二人が無事だったから良かった。

孫娘を抱き抱えて、爺さんは俺に何度も礼を言って頭を下げた。

どこからか人の声が聞こえてきた。

本当に村のすぐ傍だったようで、松明やランプを持った村人が、大きな音を立てながらこちらに来るのが見えた。

慌てて熊に引っ掛けられて解けた上着を拾った。

爪の引っかかったところが裂けてボロくなってたが、捨ててくのはまずい。

薄情にも逃げた馬は真っ先に安心できる場所に逃げ込んだらしい。

熊の爪痕があったから、村の連中も慌てて駆けつけたそうだ。

「うげぇ!《青主》じゃねぇか!」

松明の明かりで熊の死骸を確認して、村人たちは悲鳴をあげた。

「あんた、よく生きてたな…

こいつが村の傍に来てたなんてゾッとするよ…」

「今年の春くらいから時折姿を見せるようになってな。

人を避けないから危ねぇってんで、ご領主様に嘆願してたんだが、戦のせいで後回しになっていてな…

このままだったら死人が出てた。ありがとうな」

なんか、成り行きで熊を退治しただけなのに、村人に感謝された…

まぁ、悪い気はしないが、目立ち過ぎれば誰かに勘づかれるかもしれない。

村人たちは熊を倒した俺を歓迎してくれた。

傷の治療をして、村長の家で酒や食事を振舞ってくれた。

純粋にいい所だと思った。こんな時じゃなきゃ、ここでしばらく過ごしたいと思えるほどに…

「《青主》を倒してくれたこと、ご領主様に報告するよ。あんたもお礼くらいは貰えるだろうさ」

村の連中は親切に言ってくれたが、それは困る。

俺は早くヴィクターの元に戻らなきゃならない。

「悪いが、一晩泊まったら出て行く。

弟を待たせてるんだ」

「そうなのかい?どこの村から来たんだ?」

「定住してない。必要ならあっちこっち行く」

「あんた《エッダ》かね?見たところ芸人じゃなさそうだから、賞金稼ぎか傭兵ってとこか?」

「まぁ、そんなもんだ」と答えて酒を飲み干した。嘘はバレるし面倒だからそう答えた。

村長はそれを信じたらしい。

「おかわりを用意してくれ」と村長が気を利かせた。

お勝手から、デキャンタを持った女がやってきて、新しいものと取り替えた。

村長は「娘だ」と彼女を紹介した。

「一度他所に嫁いだんだが、旦那を亡くしてから独り身でな。俺のところに戻って来ちまった」

「ふーん、そうかい」と軽く受け流して、娘を盗み見た。

若くはないが、まあまあ美人だ。田舎臭い感じは否めないが、尻も大きくていい女だ。

「ニックさんよ、あんた嫁さんいるかい?」

唐突に降って湧いた話に返事が出来なかった。

「ちょっとお父さん!旦那困っちまってるよ!」と娘が親父を叱った。

「だってよ、いい人じゃないか?」と酔っている父親は悪びれずに答えた。

「ただでさえ、戦ばかりで男手が足りんのだ。

あんたがこの村に婿さんで来てくれたら、俺は喜んで迎えるよ。

身体も立派で豪胆だ。自分だけで逃げられたのに、トム爺やシェリーを見捨てずに、《青主》をやっつけてくれた。

こんないい男が他にいるかい?」

「こんなのたった寡婦を押し付けられて嬉しいもんかい」

彼女はそう言って、空になったデキャンタと皿を持って下がって行った。

村長はやれやれと肩を竦めて見せた。

「悪いな、あいつは恥ずかしがり屋なんだ。

俺はあんたがこの村に残ってくれたらって思ってるよ」

「世話になったが、俺は弟のところに帰らなきゃなんねぇんだ」と断って、酒を飲んだ。

それからなんの話しをしたか忘れちまったが、窓から指す朝日に気付いて目が覚めた。

テントじゃなくて、木の板の敷かれた天井が見えた。

硬いがちゃんと寝床で寝ていた。

毛布とは別に、柔らかい温もりを背中に感じて寝返りを打って驚いた。

やらかした!

同じベッドに裸の女が寝ていた。

これってそういうことだよな…

人知れずに頭を抱え込んだ。

全く記憶が無い…

でもこれは、誰がどう見てもアレなわけで、極めつけに自分も裸だから、恐らくすることはやったわけだ…

俺が起きたのに気付いて、彼女もモゾモゾと恥ずかしそうに起き出した。

嫁に勧められた、村長の娘だ。

何も言わないから余計に気まずい…

彼女は黙って用意を済ませると、一礼して部屋を出て行った。

言い訳するのは男らしくない。

「…マズイな」とボヤきながら、無精髭の生えた顎を撫でた。

俺はヴィクターのところに戻れるのだろうか?
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