燕の軌跡

猫絵師

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ブルームバルトから戻って、娘婿を送り届けてから帰宅すると、ビッテンフェルトの屋敷の周りには厳重な警備が敷かれていた。

「フリッツ様、何があったのでしょうか…

ブルーノに何か…」

マヌエラは息子の身を案じていた。俺もそれが心配だった。

「マヌエラ、ジビラ。エマと大御所と少し待っていてくれ」と言い残して、門の前で馬車を降りて近づいた。

「何かあったのか?」と門扉を守っていた奴らに声をかけた。

見覚えのない顔ばかりで、向こうも俺を知らなかったようだ。

「何者だ?」と逆に誰何すいかされた。辺りは薄暗くなってるから仕方ないが、自分の家でこの扱いは少し苛立たしさを感じる。

「ビッテンフェルトだ。

今、ブルームバルトから戻った」と答えると、相手は慌てて馬車が通れるように門を開けた。

先に馬車を行かせて、門を守っていた奴らに問いただした。

「これはなんの騒ぎだ?ブルーノの奴はどうした?」

「ご無礼をお許し下さい。

ビッテンフェルト令息はご無事です。

我々はブランド男爵家から派遣されて警備を任されております」

「ブランド男爵家?」

「只今、こちらにはヴェルフェル侯爵閣下がご滞在中です」

「それを早く言え!」

侯爵だと?!なんだってそんなのが…

慌てて馬車を追いかけて、馬車から降りるところだった大御所に「南部侯が来てるらしい」と伝えた。

大御所も驚いていたが、「そうか」と応えて、抱っこしていたエマをマヌエラに返した。

「用事は何だ?」

「いや…それは聞いてなくて…」

「お前は相変わらずそそっかしいな…」と呆れたようにボヤきながら、大御所は俺に着いてくるように合図して屋敷に入った。

「お爺様!父上!」

俺たちが戻ったと知ったブルーノが玄関まで出迎えに来た。

その顔を見て、何か問題があったのだと知った。ブルーノの表情は何かに怯えてるように見えた。

「申し訳ありません」とブルーノは俺たちに頭を下げた。

「どうした、ブルーノ?何があった?」

「何からお話すれば…まさかこんなことになるなんて…」

「落ち着け、ブルーノ。

俺たちはお前から話を聞かなきゃ、状況が分からんのだ」

「…はい」と頷いたブルーノは深呼吸して、「実は」と説明を始めた。

「実は…昨日、トゥーマン殿に頼まれて、アルドをお預かりしていたのです。

なんでも、アルドに付き纏う男がいたとかで…」

「アルド?」

ヨナタンが引き取った小僧か…

何やら訳アリのようだが、人当たりが良く、上品で好感の持てる子供だ。

そのアルドを預かった後に、新年会を終えて帰る途中のヴェルフェル侯爵が、大御所に挨拶に立ち寄ったらしい。

侯爵夫妻はアルドを気に入って、買い物と食事の名目で外に連れ出してしまった。そして外に出て、問題が起きてしまったと言う事だ…

「私がお止め出来れば良かったのですが…」とブルーノは悔いていた。

それでも相手は侯爵だ。

ブルーノでは手に余る相手だ。俺がいたところで同じくだったろう。

どうしようもないことで、気落ちするブルーノが不憫だった。

「ヨナタンはどうしてる?」ともう一人気がかりな男の様子を訊ねた。

あの気難しい男が、アルドだけは大事にしてるのは知っていた。

あいつは普段は冷静で止める側の立場だが、突発的に暴走する時がある。

それを心配してたが、もう遅かったらしい。

「トゥーマン殿にはカペルマンを護衛に付けていたのですが、手がかりを得て途中で別れたそうです。

どうやら居場所を教える手段があるそうで、今からカペルマンが加勢を連れて出るところです」

「ヨナタンを一人で行かせたのか?」

「いえ…カペルマンの話だと、同行してるイザード人がいるそうです」

「はあ?」一体どうなっているんだ?

状況を確認したつもりがさらに訳が分からなくなる。

さらにブルーノを問いただしているところに、武装した姿のカペルマンがやってきた。

「大御所様、旦那様。有事でしたので、お出迎えせずに申し訳ございません」

「うむ。そのようだな」と応じた大御所はカペルマンにも説明を求めた。

「先程 《案内》が届いたので、今からトゥーマン殿と合流する予定です。

ヴェルフェル侯爵閣下より直々にご依頼頂いております」と言って、カペルマンは書簡を取り出して大御所に見せた。

難しい単語が並んだ書簡に目を通して、大御所の顔色が変わった。

「…なるほど、詳しく話している時間はなさそうだな」

言葉少なく応じた大御所は、俺に「お前はどうする?」と訊ねた。

状況は飲み込めていないが、単純な俺の答えは一つだ。

「行く。直ぐに用意する」

悩んで足踏みで留まるのは俺の性分じゃない。そういうのはもっと適任がいる。

「ブルーノ、お前は大御所とここで待っていろ。いいな、大御所?」

「いちいち俺に確認するな。今のビッテンフェルトはお前だ」

大御所は当たり前のようにそう言って俺の勝手を許した。

余所行きの服から傭兵の姿になると、手に馴染んだハルバードを持って部屋を出た。

早足で出ていこうとした俺の背に、マヌエラの呼び止める声がした。

心配そうに見上げる彼女の腕の中には、寝息を立てているエマの姿があった。

「すまんな。すぐ戻る」

二人を抱き寄せて約束した。

マヌエラは良い女だ。

美人だし、教養もある。愛情深い母親で、俺には勿体ない自慢の嫁だ。

俺は本当の《ビッテンフェルト》じゃない。

それでも彼女は、こんな品も学のない野蛮な傭兵だった男を、亭主として受け入れてくれた。

だから、彼女を悲しませるようなことは絶対にしないと心に決めていた…

「大丈夫だ。アルドもヨナタンも必ず連れて帰る。全部丸く収めるから、お前は何も心配するな」

「…はい…ご武運を」

「応。ありがとうよ」

彼女の前では不敵に笑って見せた。

俺だって、彼女の前では格好良くて頼られるような亭主でありたい。

彼女らと別れて外に出た。

外に出ると、既に用意された馬と傭兵たちに混ざって、先程置いていくと伝えたはずのブルーノの姿があった。

「父上、自分も…」

「風邪引くぞ、中に入ってろ」

何か言いかけた、血の繋がりのない息子の言葉を遮った。

今回の件はブルーノの手には余る事だ。

それをこいつの負い目にするのは酷というものだろう。

「お前はまた留守番だ。悪いな」と言って用意された馬に乗った。

本当に置いていかれると知って、ブルーノは俺に食い下がった。

「父上、挽回の機会はいただけないのでしょうか?」

「そんなもんはない」と言いきって、ブルーノの同行を拒否した。

突き放された息子は悔しさを滲ませていた。その気持ちがあるなら十分だ。

「お前はよくやってた。なんなら俺が残ってた方が不味かったかもしれんな…

だが、今のビッテンフェルトは俺で、お前は息子だ。

息子なら親父に譲れ。俺に格好くらいつけさせろ。

まだ責任を子供に押し付けるほど歳とっちゃいねぇよ」

「父上…」

「留守はお前に任せた。こっちのことは俺に任せておけ」

我ながらよく言うな…

これだけ啖呵を切ったのだ。もう後には引けん…

「出るぞ!」と号を発して、カペルマンらと屋敷を後にした。

「ご武運を!」と叫ぶブルーノの声にハルバードを掲げて応えた。

✩.*˚

関を越えてからも馬車を進めた。

追手を差し向けられても、直ぐに捕まらないように距離を稼いでおきたかった。

暗くなってからも馬車を進めていると、荷台からドンッと物音がした。

薬が切れたのか?

慌てて馬車を止めて確認すると、子供は寝かせていた位置から少し後ろに移動していた。

「う…ぁ…」俺の姿を見て、子供は苦しそうな声を出した。

もう声も出せるのか?

死なせないようにと、用心しながら与えたから薬の効きが甘かったようだ…

「動いてる馬車から逃げる気か?

その状態じゃ大怪我するぞ、諦めろ」

腰に縄を結って、御者台の近くに結んだ。これで逃げる心配は限りなく低くなった。

口が乾いているようだったから水を飲ませて、様子を見た。まだ自由に動けそうにはない。

念の為、もう一度薬を飲ませるか?

しかし、やり過ぎると死ぬかもしれない。

結局、死なせる訳にはいかないので、追加で薬を飲ませるのは諦めて御者台に戻った。

✩.*˚

少しだけ動けた…

直ぐに気付かれてしまったが、少しだけ身体の感覚が戻ってきた。

僕を攫った男は、僕が動けるようになったのが意外だったようだ。

何もできないけど、手のひらを握って開くのを繰り返した。

まだ力は入らないけど、少しずつ指の感覚が戻ってきた。

腰に結ばれた縄の結び目を指で確認した。

案の定、縄は堅く結んであったが、それでも難しい結び方では無さそうだ。

少しずつ緩めたら解けるかも…

このまま助けを待つだけじゃダメだ…

今までは運良く、助けてくれる人がいたけど、今は一人だ。

どうにかして逃げなきゃ…

感覚の戻った指先で、縄の結び目を揺すって少しずつ緩めた。

心の中で彼の名前を何度も呼んだ。

もう僕が攫われたのは知ってるだろう。

きっと心配してるはずだ…

彼が無茶なことをする前に、何とか戻らないと…

彼は、素直じゃなくて、口が悪くて、ちょっと意地悪だけど、それでも本当は優しい人だ…

僕に差し出される手のひらは、固くても温かい温もりを分けてくれる。

彼は寂しがりだから、触れる度に少し嬉しそうな表情を見せてくれる。

最初はただ、生きるためだけに彼を求めた。

でも、僕は君に出会えて本当に良かったと思ってるんだ。

ずっと一緒に居たいって…そう本当に思ってたんだ…

その気持ちは今も変わってない…

ねぇ、ヨナ…

君もそうだよね?

僕の帰る場所は君の隣でいいよね?

✩.*˚

「お前はアルドを連れ戻したら、どうするつもりだ?」

同じ馬に乗っていた男が、私の後ろから声をかけた。

「どうする、と言いますと?」漠然とした質問に答えるために、質問を質問で返すと、トゥーマンは舌打ちして答えた。

「あいつをイザード王国に連れて帰ったとして、あいつの安全は保証されるのか?」

「あぁ、そういう事ですか…」

どういう風の吹き回しか知らないが、私がアルド少年を連れ帰った場合、どうなるのか知りたいらしい。

まぁ、どうせこの男と二人きりだ。

話すにはいい機会だろう…

「前に申し上げましたが、彼のお母上が探しているのです。

我々の主は奥様の憂いを少しでも取り除きたいのです。

あの少年を母親の元に戻ったとして、その後を問われても私には分かりかねます」

「そんな答えで俺が納得すると思うか?

俺を納得させるような答えをよこせ。アルドをどうするつもりだ?」

脅すような口調だが、その言葉の裏には怯えているような響きが含まれていた。

それもそうか…

この男はランチェスター公子を大切に匿っていた。恐らくランチェスター公子だと知っていながら一緒にいたのだろう。

ランチェスター公子が生き延びる事ができたのは、この男の存在が大きいとも言える。

《ウミネコ》としては失格だが、彼には本当の事を教えても良い気がした。

「…ランチェスター公子をオークランドに渡すことは有り得ません。それだけはお約束します。

それは我々の主の望みではありませんから…」

私がアルド少年の正体を口にした事で、相手の息を飲む気配が伝わった。一度出した言葉は元には戻らない。

彼が納得させられるように、そのまま話を続けた。

「《ウミネコ》の主は公的にはイザード国王となっていますが、その実は現国王の叔父である《エヴァレット公爵》です。

エヴァレット公爵は今、一人の女性の心を癒すことに必死なのです。

その方は兄に全てを奪われ、笑顔も忘れて、常に亡霊を求めています。

生きながら死んでると言っても間違いないでしょう。

トゥーマン殿は、愛する人のそんな姿を見て耐えられますか?」

「…嫌だろうな」と彼は意外と素直に応じた。

「エヴァレット公爵は悪評も多いですが、それは政治的な理由からの悪評です。

公爵を直接知っている人間は、口を揃えて《情の深い方》だと言うはずです」

「お前はどうなんだ?」とトゥーマンは私にエヴァレット公爵を知るための材料を求めた。

「私はあの方を《父》と思っています。拾われた身なので…」

「拾われた?」

「えぇ。私の能力は風変わりでしょう?

イザードは多くの人と文化が行き着く場所です。

私は物心着いた頃には、見世物小屋で人形を踊らせる見世物になってました。

そこでエヴァレット公爵とその時の夫人の目に留まり、引き取って頂けました」

酷く劣悪な環境で、獣と同じ檻の中で見世物として扱われていた。

人形の動力は魔力で、踊らせるのには魔力を消費する。

幼かった私には大変な重労働だった。

それでもそうしないと、大人たちから檻を蹴飛ばされたり、暴力や怒号を浴びせられたり、最悪食事すら貰えなくなる。

生きるためには、《悪魔の子》を演じるしか無かった…

『かわいそうに…』

初めて人としてかけられた言葉を、私は生涯忘れないだろう…

私はエヴァレット公爵と夫人のおかげで人間になれたのだ…

「エヴァレット公爵は、ランチェスター公子を助けるとオフィーリア王女に約束なさいました。

ですから、エヴァレット公爵の力が及ぶ限り、ランチェスター公子の生命や身体の安全は保証していただけるはずです。

エヴァレット公爵の望みは、親子を引き合わせて、オフィーリア王女に笑顔を取り戻させる事です」

「…随分安い話だな…」

「金では買えないものがこの世にはあるんですよ」

『安い』という言葉に苛立ちを感じて言い返すと、彼は私の反応を笑った。

馬鹿にされたように感じたが、トゥーマンの続く言葉にそうでないと知った。

「アルドと話してくれ」と彼は私にランチェスター公子と直接話すのを許した。

「どういう風の吹き回しですか?」

「お前がそう望んだんだろ?

アルドが母親を選ぶなら、俺に止める理由はない」

「本気で言ってます?」と疑う私に、トゥーマンはまた小さく笑って、「さぁな…」と返した。

それ以上会話は無く、意志の疎通は途切れた。

私が話をしても、ランチェスター公子が自分から離れて行かないと信じているのか?

それとも、私を油断させるつもりだろうか?

あるいは、本当に母親の元に帰してやるつもりなのか?

私には彼の腹の中は分からなかった。

無言で馬を進めて、月明かりも無い道を進んだ。

明かりを灯せば、相手にすぐに見つかってしまう。

暗がりには慣れているから問題ないが、問題は敵と遭遇した時にどうするかだ…

できる限り戦闘は避けたいが、相手も仕事だ。

簡単に退いて、ランチェスター公子を返すとは思えない。

「トゥーマン殿。何か武器はお持ちですか?」

「ダガーと簡易的な飛び道具ならある」と答えて、トゥーマンは何かを取り出した。

それは畳まれていて、本来の形ではなかったので何か分からなかった。

トゥーマンは慣れた様子でそれを組み立てると、馬の前に乗っていた私に脇から差し出して見せた。

「試作品だ。飛距離は微妙だが、5メートル以内なら殺傷能力もある」

「ボウガンですか?折り畳みは初めて見ました」

「強度が足りないから壊れたら使い捨てだ。それでも無いよりマシってやつだ」

「そうですね。じゃあ、自分の身は自分で守ってください。

できる限り足止めするつもりですが、公子を取り返したら、直ぐに離れてください。

貴方方が離れたら私もさっさと逃げます」

「囮になるつもりか?」

「仕方ないでしょう?

貴方に死なれたら困るんですよ。

アルド少年との仲を取り持ってくれる人がなければ、私はただの子供を付け回す不審者です」

私の自虐的な言葉に、「なるほどな…」と苦笑いを含んだ声が返ってきた。

「逃げ切ったらビッテンフェルトの屋敷で落ち合おう」と言うトゥーマンの提案を受け入れた。

最初のお互いの印象は最悪だったが、トゥーマンはそこまで悪い人間では無さそうだ。

彼はパートナーを守ろうとしていただけだ。

私はランチェスター公子を保護する事を優先して、その結果お互いに良くない印象を持ってしまった。

とりあえず、今必要なのは、彼から信用を得ることだ。

ランチェスター公子を預かるに足る人間だと、彼を納得させる必要がある。

『公爵様をよろしくね…』

病床で痩せてしまった手を握って、私を拾ってくれた夫人と最後に交わした約束だ…

あの冷たくなってしまった指先を、私は誰よりも温かく感じていた。

エヴァレット公爵が望まれるなら、どんな難しい事であろうが関係ない。

私はそのためにここに来たのだから…

✩.*˚

馬車の揺れが止まった。

休憩だろうか?

腰に巻かれた縄目は少し緩んでいた。

逃げるチャンスかもしれない。

耳を澄ませて、相手の出方を伺っていると、突然ドンッと大きな音がして、男が荷台に入ってきた。

逃げる算段を悟られないように、まだ動けないふりをした。

男は僕を抱えて起こすと髪を撫でた。

彼はカツラの具合を確認して、僕の顔を覗き込んだ。

「お前はランチェスターか?」

その言葉に反応しそうになった。

分かりきってた事だけど、やっぱり僕を探してたんだ…

なんて答えるのが正解なのか分からない。

肯定しようが否定しようが、この状況が良くなるとは思えない。

助けて…ヨナ…

目の前の男が、僕の反応で答えを出さないように、必死に違うことを考えた。

男は、僕が反応を返さなかったから、ランチェスター公子だと確信を持てなかったようだ。

「…まだ、話すのは無理か…」と呟くと、僕に毛布をかけ直して荷台から離れた。

緩めていた縄には気付かれなかったようだ…

あと、隠れていた同乗者にも…

男がいなくなると、荷物の隙間に隠れていた小鳥が跳ねながら戻ってきて、毛布の隙間に身体を押し込んだ。

小鳥の小さな身体がモゾモゾと毛布の中を進んで、毛布に隠れていた手をつついた。

早く解け、とでも言いたいのだろうか?

励ましてくれた小鳥は、毛布から出ると、荷台の後ろから暗闇に飛び立った。

ここまで一緒にいてくれた小鳥がいなくなって、僕の味方はいなくなってしまった。

いいな…飛んでいけるの…

そんなことを思いながら、またこっそりと腰縄を弄った。もう少しで解ける。

しばらく頑張っていると、手探りの毛布の下で緩んだ縄が真っ直ぐになるのを感じた。

あとは、あの男の人の目を盗んで逃げるだけだ。

身体の感覚はだいぶ戻ってきていたけど、走るのは自信が無い。

何とか逃げるきっかけがあればいいけど…

暗闇に慣れた目で馬車の中を見回すと、荷台の床に転がっている酒瓶が目に入った。

少し身体をずらして酒瓶に手を伸ばして、毛布の下に引きずり込んだ。

心許ないが、今の僕にとっては貴重な武器だ。

瓶を握る手は緊張で汗ばんだ。ろくに喧嘩したことも無い僕には簡単なことじゃない。

やるんだ…ヨナのところに帰るんだ…

心の中で自分を奮って、あの男が戻ってくるのを待った。

耳を澄ませて辺りの音を拾っていると、人の足音が聞こえてきた。

馬車が人の重みで少し揺れて、軋む音が耳に届いた。鞭打つ音に続いて、馬の嘶く声が聞こえると馬車はゆっくりと動き出した。

どうしよう…

心が揺らいだ。

馬車が動く前に逃げたかったのに…

でも、もしかしたら馬車の音で気づかれないかも…

でもさっき動いたのバレたし…どうしよう…

パニックで泣きそうになりながら瓶を強く握った。

迷っている間にも、馬車は進む。もう南部侯の管理する領地を抜けてしまうかもしれない…

瓶の細くなった方を強く握った。迷ってる時間が惜しい。

毛布を脱ぎ捨てて、御者台に座っていた男の背後から、瓶を全力で振り下ろした。

硝子の砕ける音と驚いた馬の悲鳴が暗闇に響いた。

毛布を手に、怯えて走り出した馬の引く馬車から身を投げた。

一応毛布をクッションにしたけど、馬車から落ちて傷だらけで全身痛い…

「うぅ…」初めて人を殴った手は痺れていた。

逃げるのを手伝ってくれた毛布を捨て、痛む身体を引き摺って、道の脇に生い茂った草むらに逃げ込んだ。

後ろを見る余裕もない。

ただ前に…

少しでも逃げるために、言うことをきかない足を引きずりながら、明かりも無い中、草木に隠れて移動した。

後ろから怒鳴る男の声が聞こえて怖くなった…

逃げなきゃ…

捕まったら、何をされるか…

縺れそうになる足を叱咤して、木々を支えにしながら逃げた。

暗くて方向感覚も狂っている。

それでも、立ち止まったらダメな事くらい分かっている。

今諦めてしまったら、僕は二度とヨナタンに会えないような気がした…

足に力が入らなくて何度も転びそうになった。

気持ち悪い…息苦しい…

身体の軸はグラグラだ。もう随分長い時間走ってるような疲労を感じていた。

「…助け…て…」

宛のない言葉が口から漏れた。

ふらつく足は限界で、その場に崩れた。

立とうと頑張ったけど、足は震えて言うことを聞かなかった。

そうこうしていると、どこからか草を掻き分けるような音が聞こえてきた。

こっちに近づいてくる…

「ヨナ…」

心細くて涙が溢れた。

捕まったら…

そう思うと怖くて気が狂いそうだ。

今度はどんな目に会わされるだろう…

殴られるだろうか?またあの薬を飲まされるかもしれない。そうしたら今度こそ、オークランドに連れ戻される…

恐怖と疲労で身動き取れなくなっていた僕の耳元で、パタパタと何かの音がして風を感じた。

顔を上げると、目の前に居たのは、場違いな愛らしい声で囀る小鳥の姿だった。

「…君は…戻ってきたの?」

「チー」と返事をするように鳴いて、小鳥は嘴から人の言葉を発した。

「《アルド。すぐに行く。諦めず待ってろ》」

僕の希望がそういう風に聞こえたのかと思ったけど、小鳥は同じ言葉を繰り返した。

間違いなく、僕を知ってる誰かの言葉だ…

「ヨナ?」僕の問いかけに小鳥は答えなかったが、それでも、小鳥から希望を受け取った。

涙を拭って、再び足に力を込めた。

ヨナ、君を信じてるよ。

だから僕を迎えに来て…

僕は君のところに帰りたいんだ…
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