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告白
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「大丈夫か?」
緊張した面持ちのアルドに声をかけた。
ヴェルフェル侯爵は忙しい中、俺が回復するまで今回の一件の説明を保留にしてくれた。
それでも説明を保留にしただけで、目を瞑ってくれるという訳では無い。
今回の件で、アルドのことを隠し通すのは無理だった。
内容が内容だけに、俺の立場はかなり悪い。アルドは自分の処遇より、俺の事を心配していた。
最悪、国外追放で済めば良いが…
一番まずいのは、アルドがオークランドの交渉材料にされることだ。
オークランドに戻されることになれば、アルドは無事ではいられないだろう。
アルドの亡命だけでも認めて貰えたら、という淡い期待を持たずにはいられなかった。
「ヨナ。僕の手を握って下さい」
アルドはそう言って手を差し出した。
差し出された手は緊張したように震えていた。
「…約束、守って下さいね」とアルドは小さな声で俺に念を押した。
『侯爵とは僕が話します。都合が悪くても、嘘を言っても、涼しい顔で耐えて下さい』
口裏を合わせようと提案したが、アルドはあくまで自分で弁明することにこだわった。
アルドはウィンチェスター公子として、ヴェルフェル侯爵と話をするつもりだ。
アルドがドアをノックすると、入室を許可する返事が返ってきた。
アルドは俺の手を握ったまま部屋に入った。
「お待たせ致しました、閣下」
アルドは緊張を隠すように笑顔で侯爵に挨拶した。
アルドは堂々としていたが、内心不安で仕方ないはずだ…
ヴェルフェル侯爵はアルドの挨拶に鷹揚に頷いて見せた。
同席する侯爵夫人やフリッツ、大御所も既に席に着いていた。
「二人とも座りたまえ」
座ることを許されて空の椅子に歩み寄った。
隠すように繋いでいた手が離れると、アルドは椅子の傍らに立ったまま席に着こうとしなかった。
「アルド、どうした?早く座りなさい。侯爵閣下が話を始められないだろう?」
見かねた大御所の指摘にアルドは落ち着いた様子で応えた。
「大御所様。座る前に、侯爵閣下に僕の自己紹介をするお時間をちょうだいしてよろしいでしょうか?
座ってから名乗るのでは失礼に当たります」
「…うむ」アルドの意図を察して、大御所は唸ると、許可を求めるように侯爵に視線を向けた。
侯爵は頷いて背中を椅子に預けると、アルドを注視した。
アルドはその場の視線に萎縮することなく、堂々としていた。
俺が止めたところで、こいつは考えを変えないだろう…
「恐らく、もうお気づきかと思いますが、僕の本当の名前はアルドではありません。
ヴィヴィアンが僕の本当の名前です。
姓はランチェスター…
神聖オークランド王国、前ランチェスター侯爵の一人息子、ヴィヴィアン・セドリック・ランチェスターです」
アルドの自己紹介に、その場の空気が凍りついた。
侯爵夫妻でさえアルドの告白に返す言葉もない。
あの大御所さえ言葉を失っている。
唯一、意味が分かっていない男が空気を読まずに「なんだ、お前?オークランド人だったのか?」とアルドに声をかけていた。
フリッツの馬鹿さに救われた気がしたのは、俺もアルドも一緒だろう。
アルドは苦笑いを浮かべて、フリッツに頷いた。
呑気なフリッツの傍らで、大御所は苦い表情を浮かべて、口を開いた。
「そんなんこの際どうでもいい…
アルド。お前、本当に《ランチェスター》なのか?」
「何だ、大御所?《ランチェスター》ってのは有名なのか?」
まだ、状況が理解出来ていないフリッツに大御所が雷を落とした。
「馬鹿野郎!新聞見ろ!
ランチェスター公子といえば、今やオークランドの王位継承順位一位の有名人だぞ!」
「…は?…こいつが?王様になれるってのか?」
「内戦以降行方知れずって話だったが…道理で…」
フリッツを叱りつけた後に、大御所はぼやくように呟いて、席を立って侯爵に頭を下げた。
「侯爵閣下、申し訳ございません…
今回の件は、確認を怠っていた私の責任です」
「いや…しかし…どうしたものか…」
事が事だけに、侯爵も言葉少なく扱いあぐねていた。
そりゃそうだろう…
侯爵夫妻はアルドを気に入って、引き取りたいとまで言っていた。それでも、それはアルドがランチェスター公子だと知らなかったからだ。
言葉を失った夫に代わって、侯爵夫人が柔らかな口調でアルドに話しかけた。
「アルド…いえ、ランチェスター公子とお呼びすべきですね。
立ったままでは都合が悪いですね。どうぞお座りなさいな」
「はい。失礼します」と、アルドも素直に夫人の言葉に従った。
「ランチェスター公子。突然のお話で、私たちも混乱しています。
差し支えなければ、なぜドライファッハに滞在していたのかお聞かせくださいな」
「ありがとうございます、侯爵夫人。
今からお話する話は、あまり良い話ではありません…オークランドの恥です…
ご気分を悪くされるかもしれませんので、その時はどうぞ仰ってください」
アルドは前置きをして、哀れな貴公子の話を始めた。
忌まわしい記憶を思い出しながら、自分の身に起きた不幸を語るのは、アルドにとっても苦しい事だろう…
それでも泣きそうになりながらも、アルドは諦めずに最後まで話を続けた。
腹の底から上がってくる不快感を飲み込んで、だんまりを決め込んだ。
黙っているのは、アルドとの約束だ…
アルドが話終えるのを待って、ヴェルフェル侯爵は口を開いた。
「…まぁ、事情は分かった…その若さで随分苦労したようだな」
「僕はたまたま運が良かっただけです。
親切にしてくれる人も少なからずいました。だから僕はここに辿り着いて、彼に拾って貰えたんです」
アルドはそう言って俺に視線を向けると、柔らかく微笑んだ。
「ヨナがいなければ、今の僕はありません。君には本当に感謝しています」
その言葉に答えられずに、だんまりを続けた。
アルドは少し残念そうに笑って、侯爵に視線を戻した。
「この度は、皆様を巻き込んで申し訳ございませんでした。
僕はオークランドもランチェスターも忘れて、彼と静かに一緒に暮らしていたかっただけなんです…
この騒動は僕の甘えが招いた結果です。ヨナタンやビッテンフェルト家には寛大な御配慮を賜りますようお願い致します」
「…なるほど。それで、君はどうするのかね?」
自らの処遇に関して言及しなかったアルドに、侯爵は試すように訊ねた。
アルドはその質問に苦く笑って応えた。
「侯爵閣下にお任せします」
アルドは潔く侯爵に自分の処遇を委ねた。
貴族の手本のような姿勢に、侯爵は惜しむようにため息を吐き出した。
「パウル様…なんとかなりませんか?」
アルドの話に、ハンカチを濡らしていた侯爵夫人が口を開いた。彼女はアルドに情けをかけるようにと、夫を説得した。
「パウル様…どうか、お情けを…
私はランチェスター公子をオークランドに戻す事は反対です。
国王陛下に嘆願して、なんとか亡命だけでもお認めいただけないでしょうか?」
「…うむ…私としても…それはそうなのだが…」
侯爵の返事は非常に歯切れが悪かった。
侯爵が頷けないのは当然だろう。
苦しげに逡巡して、侯爵はようやく口を開いた。
「現状、ランチェスター公子はオークランドの王位継承順位一位の重要人物だ…
我が国としても、簡単に亡命を許すことはできない」
侯爵は貴族としての考えを優先させた。
当然と言えば当然だが、僅かに淡い期待を抱いていた分、その返事に落胆した。
「私の一存では答えられない問題だ…
恐らく、国王陛下と七大貴族の承認が必要になるだろう。
何はともあれ、一度ヴォルガシュタットに戻って報告せねば…」
「ご迷惑をおかけして申し訳ございません」と詫びたアルドに、侯爵は「すまない」と詫びで返した。
「君が亡命できるように手は尽くそう。
私に出来るのは、亡命の機会を与える事くらいだ。あとは君次第だろう…
ガブリエラの願いでもあるが、私も君を気に入っているのだよ。
あとは、まぁ、あれだ…今のオークランド王が嫌いなのでね。あの男が困ることなら万々歳さ」
侯爵は冗談か本気か分からない事を言って、アルドへの助力を約束してくれた。
侯爵から確約は貰えなかったが、オークランドに戻される可能性は減った。アルドの表情も少し和らいで、緊張していた肩が少し下がった。
「ありがとうございます…
ヨナタンやビッテンフェルト家は…」
「不問だ。今回の件は私たちにも原因がある。
他所の子供を連れ回して、出先で誘拐されてしまった、などと醜聞はあまりにも都合が悪い。
無かったことにしてもらいたい。
よろしいかな、大ビッテンフェルト卿?」
「閣下の望まれるままに…
我が家の不手際に目を瞑って頂き感謝します」
大御所も侯爵の提案を受け入れて頭を下げた。
侯爵の采配でビッテンフェルトも俺も見逃された。
幾分か和らいだ空気に変わったところで、侯爵がアルドに声をかけた。
「ランチェスター公子。
君は今後どうするつもりかね?」
侯爵の口調は詰問するような問いかけではなく、世間話を降るような軽い質問だった。
「多くは望みません。
可能であれば、僕はこのままフィーアで生活したいです。
仕事をして、今の生活を続けることができるなら、贅沢は言いません」
「王という立場には興味がないのだな?」
「ご勘弁下さい。お話した通り、僕は身体的な問題で王としての条件を満たしていません。
玉座を望めば、徒に争いを増やすだけです。
《アルド》として、彼と暮らせれば満足です」
そう言って、アルドは笑顔で俺に手を伸ばした。
柔い手のひらが握り返す手を求めた。
「ヨナ、これからも僕と一緒にいて下さい。僕はパートナーを解消する気はありませんよ」
あざとい奴だな…
俺だって本当は手放したくないんだ…
差し出された手を握り返して、さらに胸の奥が傷んだ。
そんなこと言ったって、俺の気持ちなんて関係ないんだ…
今のアルドに俺を選ぶメリットは無い。
俺じゃ守ってやれない。そんなこと、俺だって百も承知だ…
何事も損得で判断してしまう、自分のこの考え方が恨めしがった。
でも、それはある意味正解なのだ…
アルドが生き延びるために必要なのは俺じゃない。
未練がましく握った手は、柔らかく沁みる温度を分けて俺を傷付けた。
✩.*˚
ランチェスター公子から、トゥーマンとの関係を聞いた時は驚いたが、その関係を悪し様に言う気はなかった。
フィーアでは同性であろうと年の差があろうと、本人たちの合意があれば違法では無い。
フィーアで問題になるのは、親子や兄弟、他人の配偶者と関係を持つことくらいだろう。
ヴォルガ様は多様性を認める神で、ヴォルガ神を主神とするフィーアではさほど珍しい話では無かった。
そんな事より、方々に出す手紙を用意しながら頭を悩ませていた。
事が事だけに、考えが纏まらない。
「少し気分を変えられては如何でしょうか?」と見かねたガブリエラに休憩を勧められた。
「…そうさせてもらおう」と頷いて、気分を変えるためにバルテルを連れて部屋を出た。
バルテルはあの失態をまだ引き摺っていた。
バルテルには似合わない珍しい失態だ。
仕方ない事ではあったが、本人は仕方ないとは思っていないのだろう。
真面目なのはいいことだが、これでは私まで気が滅入ってしまう…
廊下を歩いていると、角で荷物を抱えていた男とぶつかりそうになった。
慌てて身を引いた男の手から書類がこぼれ落ちた。
「申し訳ございません」
ぶつかりそうになった男は、慌てて落とした紙束を拾った。
「病み上がりなのに仕事か?」と拾った紙束をトゥーマンに返した。
チラッと見たが、見やすい良い書類だ。彼の会計士としての有能さが見て取れた。惜しい人材だ…
「療養中にも仕事が溜まってますから…
アルドが…いえ、ランチェスター公子が代理で頑張ってくれたので、何とか捌ける量ですが、そろそろ予算等も纏めないといけない時期なので…」
「全部君がしているのか?大変だな…」
「この業界は万年人材不足ですから。
数字や文字に明るい者が居れば良いのですが、なかなか任せられるほどの人材は無いのが現状です」
「確かにな…私もそれに関しては同じ考えだ」
その仕事の重要性から、会計士を任される人材は貴族や一部の家に限られる。
子供の頃から高度な教育が必要になるため、狭き門だ。人材が足らないから、端々の数字が適当な帳尻合わせになるのは否めない。
一騎士の家でこの会計処理は特殊と言わざるを得ない。
「君は誰から仕事を学んだのかね?」
「自分はエッダの商人に拾われてから商売を学びました。事務処理に関しては独学です。自分のやりやすいように続けた結果、このやり方になりました」
独学でこれか?
仕事ができる人間ならビッテンフェルトも簡単には手放したくないだろう…
トゥーマンは紙束を集めると一礼して立ち去ろうとした。
ふと、好奇心が湧いて、彼を呼び止めた。
「ランチェスター公子がここを出ていくことになったら、君はどうするのかね?」
私の質問に、立ち去ろうとしていたトゥーマンは振り返った。彼の顔の変化を見逃さないように注視していた。
「…見送るだけです」
あまりにあっさりとした答えに首を傾げた。存外簡単に身を引くつもりなのだろうか?
「パートナーなんだろう?一緒にとは思わないのか?もし必要なら私もそのように口利きするつもりだ」
「必要ありません。
ランチェスター公子も、もう自分を必要とする理由はありませんから…
元々、金で契約して繋いでただけの関係です。宛もなく放り出すのは後味悪いですが、出ていくと言うなら止める理由はありません」
「…それで良いのかね?」
命懸けで助けたのだろう?そんなにあっさりと手放すと話した彼が薄気味悪く感じられた。
トゥーマンは小さく笑うと、私の疑念を見透かしたように口を開いた。
「公子の世話をしていた間のご褒美でも頂戴できるのでしたら、自分はそれで十分です。
住み慣れて、仕事もあるのに、自分までドライファッハを離れる理由はありません。
なんにせよ、自分はこれ以上厄介事を抱える気は無いので…
引き取っていただけるなら自分も願ったりです。
まだ仕事があるので、失礼してよろしいでしょうか?」
「あぁ…引き止めてすまなかった」
そそくさと立ち去る背中を見送って、ため息を漏らした。
とんだ嘘吐きだな…
平静さを装いながらも、痛みを堪えるような顔をしていた事に、私が気付かないと思っているのか?
褒美を欲しがったのも、そう思わせた方が都合が良いからだろう…
ランチェスター公子とも話す必要がありそうだ。
彼らの平和を乱した気がして、後味が悪かった。
✩.*˚
部屋に戻って背中でドアを閉めた。
『ランチェスター公子がここを出ていくことになったら、君はどうするのかね?』
知るかよ…そんなもん…
ドアを閉めた状態のまま、ズルズルとその場に座り込んだ。
潔く手放す気でいるが、本当にあいつを手放せるかと言われれば微妙だ…
それに母親の事もある…
本当はそっちにアルドを返してやりたかった…
あいつは結局、イザード行きを断った。
アルドがイザード行きを断ったのは、オークランドとの不安定な情勢を懸念してということだが、半分は俺のせいだった。
『僕はこれからもヨナと暮らします』と答えたあいつは、本当はどう思っていたのだろう…
本当は母親に会いたかったはずだ…
フィッシャーはアルドの手紙を預かって、一旦帰国するためにドライファッハを後にした。
またすぐに戻ってくるつもりだという。
「どうしました、ヨナ?」
ドアの前で動けなくなった俺に、アルドが声を掛けた。アルドが部屋に残っていたのを忘れていた。
アルドは俺の体調が悪いのかと心配していた。
「どこか痛むんですか?立てますか?」
そう言いながら、アルドは俺が持っていた書類の束を抜き取って脇に置くと、俺の顔を覗き込んだ。
「誰か呼びましょうか?」
「何でもない…」と強がったが、声は弱くて誤魔化せなかった…
「ヨナ、立てますか?少し休みましょう?」
アルドは俺を立たせると、ベッドに移動させた。
また、ベッドか…そろそろ本気で飽きていた…
「ずっと仕事で座ってたからですね。少し横になったら良くなりますよ」などと言いながら、アルドはベッドを用意していた。
そんなの、もうお前がすることじゃないだろう…
お前はもう、薄汚れて道端で物乞いをしていた子供じゃない…
「サインを貰った書類は僕が片付けておきます。少し休んで…」
アルドの言葉を遮って、後ろからアルドを抱いた。
「ヨナ?」顔を上げたアルドの驚いたような目がすぐ近くにあった。
アルドを抱いたままベッドに倒れ込んだ。ベッドに倒れ込むと、俺の腕の中でアルドが驚いた声を上げた。
「びっくりした…ヨナ、どうしたんです?何かあったんですか?」
「…俺は…ドライファッハに残る。もう…お前とは暮らさない…」
「…ヨナ?」
困惑したアルドの声を聞きながら、後ろを見ないように、アルドの背を強く抱いた。
「亡命でも、母親の所に行くでもいい…好きに選べ」
「何で?ヨナ、僕は…」
「お前の面倒はもう見ない。
…違うな、もう面倒見切れないって言うのが正しいな」
我ながら酷い別れの告げ方だ…
顔も見れない。突き放す言葉を口にしながら、未練がましくアルドを抱いていた。
「…ヨナ…僕は…迷惑ですか?」
腕の中で大人しくなったアルドは、俺に背中を向けたまま、震える声で訊ねた。
胸が痛くなる…
誰かに代わって欲しかったが、こいつは俺が拾ったんだ…
俺が突き放さなきゃ、こいつは俺に気を使って何処にも行けないだろう…
「あぁ…迷惑だ」
たった一言言うのに数年分の寿命を削った気がした。アルドを手放して、すぐに背中を向けた。
俺は逃げたんだ…
面と向かって言えないから、アルドの背中に話して、アルドに背を向けた。
アルドの啜り泣きが背中に刺さった。
「…ごめんなさい」
何も悪くないあいつに、そんな台詞まで言わせてしまった…
悪いのは俺だ…
こんなことなら、拾うんじゃなかった…
無責任に傍に置くんじゃなかった…
アルドなんて名前を与えるんじゃなかった…
こいつを愛したのが間違いだったんだ…
悪いな、オーラフ…
俺は生きるのが下手くそなんだ…
✩.*˚
ヨナタンの背中は僕を拒絶していた…
唐突に出た別れ話に傷付いて、彼の部屋を出た。
どうしてあんな事を言ったんだろう?
本当にそう思っていてもおかしくは無い。僕が彼の生活を乱したのは事実で、迷惑も沢山かけた。
彼の心が僕から離れたとしても、何ら不思議は無かった。
涙を拭いながら廊下を歩いていると、ブルーノ様と出くわした。
「アルド?どうしました?」
ブルーノ様は驚いた様子で僕に訊ねた。優しくされて、また涙が零れた。
「ヨナが…迷惑だって…僕の事…」
嗚咽混じりに話すと、ブルーノ様は困った顔をしながら、「こちらへ」と僕を自分の部屋に案内した。
「とりあえず落ち着きましょうか?何か飲み物を用意しますね」と言って、僕を部屋に残して出て行った。
ブルーノ様は優しいな…
ソファで膝を抱えながら鼻を啜った。
そういえば、あの事件以来、ヨナタンとの会話が極端に減っていた。
『何で母親の所に帰らないんだ?』
エヴァレット公爵からの使いを返した時も、ヨナタンは不機嫌そうだった。
あれも、本当は出て行って欲しかったからなのかな?
「お待たせしました」と紅茶の乗った盆を持ってブルーノ様が戻ってきた。
「紅茶は母上が入れてくれましたよ。お菓子はジビラがくれました」
「ありがとうございます…」
「私は運んだだけですね」
おどけた様子で笑ってブルーノ様は僕の前に紅茶を並べた。
ビッテンフェルト夫人の用意してくれた紅茶は、鬱を払うような明るい香りを立ち昇らせていた。
「ブルームバルトでロンメル男爵夫人から頂戴したそうです。私には善し悪しは分かりませんが、いい香りですね」
ブルーノ様はそう言って、同じソファに座ると、紅茶を口に運んでいた。
僕も彼に習って紅茶を手に取った。
ベルガモットとオレンジの香りが強い。
フィーアの紅茶はシンプルな物が多いから、これは多分輸入品だろう。珍しい高価なもののようだ…
僕のためにわざわざ出してくれたのだろう。
ビッテンフェルトの家族は本当に良い人たちだ…
「美味しいです」と感想を伝えると、ブルーノ様は嬉しそうに笑った。
「母上に伝えます。きっと喜びますよ。
ところで、トゥーマン殿と何があったんですか?私で良かったら話を聞きますよ」
「ヨナに…僕は迷惑だと言われてしまいました…」
さっきあった事を話すと、ブルーノ様は困ったように眉を寄せた。
「トゥーマン殿が?」
「僕は、ヨナが大好きなのに…『もう一緒に暮らさない』って…僕は…『迷惑だ』って…」
自分でヨナタンの言葉を反芻して、胸がキュウっと締め付けられるような痛みを覚えた。
ブルーノ様は、動けなくなった僕の手からティーカップを取り上げて、ソーサーに戻した。
「…酷いですね」
ボソリと呟いたブルーノ様の声は少し怒ってるようだった。
普段滅多に見せない感情に驚いた。
大きな手が僕の頭を撫でた。
「すみません。
君たちの間で話し合うべき問題ですが、私もそれでは納得できないです。
トゥーマン殿は勝手過ぎます」
ブルーノ様は僕のために怒ってくれた。その気持ちが嬉しかった。
「ブルーノ様は優しいですね」
僕の言葉に、ブルーノ様は少し照れたように笑って、頭に添えた手で僕を撫でた。
「君がこんなに傷ついてるのに放って置けないですよ…余計なお節介だったらすみません」
「そんなことないです。少し気持ちが落ち着きました。ありがとうございます」
「良かった」と笑って、ブルーノ様はお菓子を僕に勧めた。差し出されたお皿から焼き菓子を摘んで口に運んだ。
紅茶に合う焼き菓子の甘さが口に拡がって、僕を癒してくれた。
「まぁ、私は恋愛についてはさっぱりですから、トゥーマン殿の意図も分かりかねますが、トゥーマン殿の言い方が悪いのは分かります。
私じゃ役不足ですので、お爺様や父上に叱ってもらいますか?」
「…それは…なんというか…」
それでは、僕がヨナタンを悪者にしたみたいで気分が悪い…
「ヨナが本当に迷惑に感じて、僕を拒否するならそれはそれで仕方ないと思います…
でも、もし違うなら…僕はヨナと一緒に居たいんです…」
この気持ちは本当だ。
この先、ヨナタン以上に僕を愛してくれる人はいないと思う。
僕は欠陥品で、問題を多く抱えている。
それでも、見捨てずに助けてくれた…
僕は何も返すことなんてできないのに…それでも愛してくれた…
僕にとって、ヨナタンを選ぶ理由なんてそれだけで十分だ…
ランチェスター公子であることより、アルドでいられる方が僕にとっては幸せだ。
「愛してるから…僕も、ヨナを愛してるから…一緒に居たいんです」
彼への気持ちを口にして涙が溢れた。
ちゃんと気持ちを伝えて、それでもヨナタンの心が僕から離れてしまっているなら、僕は彼を諦めるしかない…
でもそうじゃないなら…
「ヨナと…ちゃんと話してきます」と涙を拭ってソファを立った。
「一人で大丈夫?」とブルーノ様は心配してくれた。それでも一人でないと意味が無い。
「誰かがいたら、多分ヨナは話してくれないでしょうから、僕一人で話してきます」
「アルドは偉いね。私も解決するように祈ってるよ。何かあったら相談して、力になるよ」
ブルーノ様はそう言って、僕を部屋の前まで送ってくれた。
「何かあったらいつでも私の部屋においでよ」
ブルーノ様は僕の背中を優しく叩いて送り出してくれた。
ブルーノ様の優しさに頷いて、ドアのノブを回した。
ちゃんと伝えなきゃ…
この気持ちが迷惑でも、このまま彼と別れるのは嫌だから…
僕は《君のアルド》でいたいんだって…
✩.*˚
自己嫌悪に苛まれながら、ベッドから動けずにいた。
ベッドに転がったまま、目の前にある手首の傷を数えていた。
よくもまぁこんなにもやらかしたもんだ…
大小残る傷で、一番新しいのはアルドを引き止めるために作った傷だ。
あんなに必死につなぎ止めたのに、手放すなんてな…これも無駄だったな…
無駄は嫌いなくせに、俺の人生無駄なことの方が多かった。
結局、俺は何がしたかったんだろうな?
そんな答えもあるはずなく、ベッドに寝転がったまま、袖から覗く傷だらけの腕を眺めていた。
一人でいじけていると、部屋の外で声が聞こえた。
あいつ戻ってきたのか?
アルドと向き合う気にならなくて、寝たフリを決め込んだ。
ドアノブの回る音に、ドアの軋む音が続いた。
誰かすぐに分る、軽い足音が一人分部屋に戻って来た。足音は俺のすぐ傍で止まった。
「…ヨナ」と呼ぶ声に続いて、肩に手のひらが触れる感触が乗った。
「起きてますか?話しませんか?」
柔らかい声は届いていたが、応じることは出来なかった。
無言で背を向けたままの俺の背に、アルドの静かなため息が聞こえた。
ベッドが軋んで、増えた重さの形に沈んだ。
「ヨナ…本当に僕が嫌いになっちゃいましたか?」
同じベッドに転がって、アルドは俺に向けて話し始めた。
「ヨナが僕を必要としなくても、僕にはヨナが必要なんです…
だってそうでしょう?ヨナが僕を必要とする理由はほとんど無いはずです…
出会った頃の僕は…何も無い乞食だったんですから…」
言葉を詰まらせながら、アルドは俺に抱いてた感情を語った。それは初めてアルドから聞く話だった。
「本当は…最初は怖かったんです…
ヨナは怖い顔してたし、今までの人たちと違う反応だったから…
それでも、あの時はどうしてもお腹が空いてたから、君に着いて行ったんです…
ヨナは僕の身体の欠損を知っても、追い出そうとしなかったし…実は何かもっと良くないことがあるんじゃないかって…そんな心配もしてました…」
そんなこともあったな…
今となっては懐かしい話だ。
しかし、俺はそんなに悪党みたいな面してるのか?
アルドは今までを振り返って、これまで思ってたことを遠慮なく話した。
あの逃げ出した雪の日も、舌を癒すためにブルームバルトに行った事も、俺がアルドを殺そうとした時の事も…その後も…
アルドはそれら全てを、良い思い出のように語った。
今の俺には、その思い出全てが痛みの原因になっていた。
一度突き放したのに、やっぱり手放さないなんて言えるわけない…
もっと厳しく突き放さなきゃ、こいつは離れていかないのか?
手放すのも苦しいのに、お前はどこまで俺を苦しめる気だ?
どうするべきか迷っていると、アルドの動く気配がして、不意に、背中にアルドの温もりが重なった。
「ヨナ…僕は君を愛してます…
君がどんなに僕を疑っても…何を言われても…僕は君を愛してます」
アルドの告白に、突き放そうと決めたはずの心が揺らいだ…
俺の弱さが、その言葉を否定することを拒んだ。
苦しくて鼻を啜った。じわじわと、隠しておこうとしたものが溢れて止まらなくなる…
俺は、アルドを…こいつを愛してる…
既に寝たフリを保てなくなっていた俺の背を、アルドの手のひらが慰めるように撫でていた。
起きてたことを咎める代わりに、アルドは狡い質問をした。
「ヨナ、僕が嫌いですか?」
簡単な、《はい》と《いいえ》で答えられる質問だ。
それでも、答えようにも嗚咽が口を塞いだ。
震える背中を撫でた小さな手は移動すると、今度はそっと頭を撫でた。
「ヨナ、僕の質問に答えてください。
ヨナは僕を愛してますか?」
言葉は相変わらず出てこない。
言葉を返す代わりに、重い頭を上げ、身体を起こしてアルドに向き合った。
俺も酷い顔だろうが、向き合ったアルドも酷い顔だ…
泣き腫らした目は美少年には似合わない。
その顔を前に、滅多に湧かない罪悪感を覚えて視線を逸らしそうになる。
俺と向き合ったアルドは、泣き腫らした顔で小さく笑った。
「同じだ」と呟いたのは何に対してだろうか?
アルドは手を引っ込めた袖を差し出して、俺の顔を拭いた。
子供扱いされたような気がしたが、相手がアルドだから世話をされても嫌な気はしなかった。
むしろ、何故か安堵している自分がいた…
「…アルド」
「はい。何ですか?」
「何で…母親のところに行かなかった?」
俺の質問に、アルドは驚いた顔で瞬きをした。アルドの中では終わった話だろうが、俺はこの答えに納得していない。
「お前にとって、たった一人の肉親だろう?家族だ…会いたくないのか?」
「会いたいです。もし会えるなら…会いたいですが…」
「じゃあ、何でだ?フィッシャーやエヴァレット公爵が信じられないからか?」
「…それは…フィーアに戻れなくなるから…」とアルドは寂しそうな顔で目を伏せた。
「イザード王国が本当に僕を保護するとして、お母様とまた一緒に暮らせるとしても、そこにヨナはいないでしょう?
イザード王国が引き取ると言ったのは僕だけです。フィーアに戻る理由もないし、僕を帰すはずありません。
ヨナとお別れするくらいなら、僕はイザードには行かないと決めたんです」
「母親はどうするんだ?お前を探してるんだろ?」
「イザードに亡命しない理由は手紙に書きました。
《どうしてもお別れできない方がいるから》と…
《それでも、もし会いに来てくれるなら、僕はお母様に会いたいです》と伝えました。
僕はお母様を諦めたのではなく、ヨナを選んだだけです」
アルドはそう言って、俺の手を握って、口元に寄せると手の甲にキスをした。
顔を上げたアルドは、俺の顔を覗き込むように見上げて、はにかむように笑った。
「ヨナ。お願いです。ヨナの残りの人生を僕に下さい」
大胆な言葉に耳を疑った。言葉を失った俺に、アルドが言葉を重ねた。
「もう《お小遣い》はいりません。僕もお給金から生活費を出します。
僕たちは、平等な人生のパートナーになりましょう。
ヨナの残りの人生は僕が責任持ちます。だから、ヨナの残りの人生を僕に下さい」
「なんだよ、それ…」
まるで求婚じゃねぇか?
お前な…相手は先の無いオッサンだぞ…
手を握ったまま、俺の返事を待つアルドの表情は、冗談を言ってるようには見えなかった。
この告白は、アルドには一切メリットがない…
この告白を受け入れるべきじゃないと、頭では分かっている。それでも…
『俺はもういいから…あの子大事にしろよ』
夢の中で聞いたあの声が蘇った…
「…いいのか?」と訊ねたのはどっちに対してだろう?
過去の男は笑って『いいよ』と答えるだろう…
未来を求めた少年は、眩しい笑顔で「愛しています」と応えた。
緊張した面持ちのアルドに声をかけた。
ヴェルフェル侯爵は忙しい中、俺が回復するまで今回の一件の説明を保留にしてくれた。
それでも説明を保留にしただけで、目を瞑ってくれるという訳では無い。
今回の件で、アルドのことを隠し通すのは無理だった。
内容が内容だけに、俺の立場はかなり悪い。アルドは自分の処遇より、俺の事を心配していた。
最悪、国外追放で済めば良いが…
一番まずいのは、アルドがオークランドの交渉材料にされることだ。
オークランドに戻されることになれば、アルドは無事ではいられないだろう。
アルドの亡命だけでも認めて貰えたら、という淡い期待を持たずにはいられなかった。
「ヨナ。僕の手を握って下さい」
アルドはそう言って手を差し出した。
差し出された手は緊張したように震えていた。
「…約束、守って下さいね」とアルドは小さな声で俺に念を押した。
『侯爵とは僕が話します。都合が悪くても、嘘を言っても、涼しい顔で耐えて下さい』
口裏を合わせようと提案したが、アルドはあくまで自分で弁明することにこだわった。
アルドはウィンチェスター公子として、ヴェルフェル侯爵と話をするつもりだ。
アルドがドアをノックすると、入室を許可する返事が返ってきた。
アルドは俺の手を握ったまま部屋に入った。
「お待たせ致しました、閣下」
アルドは緊張を隠すように笑顔で侯爵に挨拶した。
アルドは堂々としていたが、内心不安で仕方ないはずだ…
ヴェルフェル侯爵はアルドの挨拶に鷹揚に頷いて見せた。
同席する侯爵夫人やフリッツ、大御所も既に席に着いていた。
「二人とも座りたまえ」
座ることを許されて空の椅子に歩み寄った。
隠すように繋いでいた手が離れると、アルドは椅子の傍らに立ったまま席に着こうとしなかった。
「アルド、どうした?早く座りなさい。侯爵閣下が話を始められないだろう?」
見かねた大御所の指摘にアルドは落ち着いた様子で応えた。
「大御所様。座る前に、侯爵閣下に僕の自己紹介をするお時間をちょうだいしてよろしいでしょうか?
座ってから名乗るのでは失礼に当たります」
「…うむ」アルドの意図を察して、大御所は唸ると、許可を求めるように侯爵に視線を向けた。
侯爵は頷いて背中を椅子に預けると、アルドを注視した。
アルドはその場の視線に萎縮することなく、堂々としていた。
俺が止めたところで、こいつは考えを変えないだろう…
「恐らく、もうお気づきかと思いますが、僕の本当の名前はアルドではありません。
ヴィヴィアンが僕の本当の名前です。
姓はランチェスター…
神聖オークランド王国、前ランチェスター侯爵の一人息子、ヴィヴィアン・セドリック・ランチェスターです」
アルドの自己紹介に、その場の空気が凍りついた。
侯爵夫妻でさえアルドの告白に返す言葉もない。
あの大御所さえ言葉を失っている。
唯一、意味が分かっていない男が空気を読まずに「なんだ、お前?オークランド人だったのか?」とアルドに声をかけていた。
フリッツの馬鹿さに救われた気がしたのは、俺もアルドも一緒だろう。
アルドは苦笑いを浮かべて、フリッツに頷いた。
呑気なフリッツの傍らで、大御所は苦い表情を浮かべて、口を開いた。
「そんなんこの際どうでもいい…
アルド。お前、本当に《ランチェスター》なのか?」
「何だ、大御所?《ランチェスター》ってのは有名なのか?」
まだ、状況が理解出来ていないフリッツに大御所が雷を落とした。
「馬鹿野郎!新聞見ろ!
ランチェスター公子といえば、今やオークランドの王位継承順位一位の有名人だぞ!」
「…は?…こいつが?王様になれるってのか?」
「内戦以降行方知れずって話だったが…道理で…」
フリッツを叱りつけた後に、大御所はぼやくように呟いて、席を立って侯爵に頭を下げた。
「侯爵閣下、申し訳ございません…
今回の件は、確認を怠っていた私の責任です」
「いや…しかし…どうしたものか…」
事が事だけに、侯爵も言葉少なく扱いあぐねていた。
そりゃそうだろう…
侯爵夫妻はアルドを気に入って、引き取りたいとまで言っていた。それでも、それはアルドがランチェスター公子だと知らなかったからだ。
言葉を失った夫に代わって、侯爵夫人が柔らかな口調でアルドに話しかけた。
「アルド…いえ、ランチェスター公子とお呼びすべきですね。
立ったままでは都合が悪いですね。どうぞお座りなさいな」
「はい。失礼します」と、アルドも素直に夫人の言葉に従った。
「ランチェスター公子。突然のお話で、私たちも混乱しています。
差し支えなければ、なぜドライファッハに滞在していたのかお聞かせくださいな」
「ありがとうございます、侯爵夫人。
今からお話する話は、あまり良い話ではありません…オークランドの恥です…
ご気分を悪くされるかもしれませんので、その時はどうぞ仰ってください」
アルドは前置きをして、哀れな貴公子の話を始めた。
忌まわしい記憶を思い出しながら、自分の身に起きた不幸を語るのは、アルドにとっても苦しい事だろう…
それでも泣きそうになりながらも、アルドは諦めずに最後まで話を続けた。
腹の底から上がってくる不快感を飲み込んで、だんまりを決め込んだ。
黙っているのは、アルドとの約束だ…
アルドが話終えるのを待って、ヴェルフェル侯爵は口を開いた。
「…まぁ、事情は分かった…その若さで随分苦労したようだな」
「僕はたまたま運が良かっただけです。
親切にしてくれる人も少なからずいました。だから僕はここに辿り着いて、彼に拾って貰えたんです」
アルドはそう言って俺に視線を向けると、柔らかく微笑んだ。
「ヨナがいなければ、今の僕はありません。君には本当に感謝しています」
その言葉に答えられずに、だんまりを続けた。
アルドは少し残念そうに笑って、侯爵に視線を戻した。
「この度は、皆様を巻き込んで申し訳ございませんでした。
僕はオークランドもランチェスターも忘れて、彼と静かに一緒に暮らしていたかっただけなんです…
この騒動は僕の甘えが招いた結果です。ヨナタンやビッテンフェルト家には寛大な御配慮を賜りますようお願い致します」
「…なるほど。それで、君はどうするのかね?」
自らの処遇に関して言及しなかったアルドに、侯爵は試すように訊ねた。
アルドはその質問に苦く笑って応えた。
「侯爵閣下にお任せします」
アルドは潔く侯爵に自分の処遇を委ねた。
貴族の手本のような姿勢に、侯爵は惜しむようにため息を吐き出した。
「パウル様…なんとかなりませんか?」
アルドの話に、ハンカチを濡らしていた侯爵夫人が口を開いた。彼女はアルドに情けをかけるようにと、夫を説得した。
「パウル様…どうか、お情けを…
私はランチェスター公子をオークランドに戻す事は反対です。
国王陛下に嘆願して、なんとか亡命だけでもお認めいただけないでしょうか?」
「…うむ…私としても…それはそうなのだが…」
侯爵の返事は非常に歯切れが悪かった。
侯爵が頷けないのは当然だろう。
苦しげに逡巡して、侯爵はようやく口を開いた。
「現状、ランチェスター公子はオークランドの王位継承順位一位の重要人物だ…
我が国としても、簡単に亡命を許すことはできない」
侯爵は貴族としての考えを優先させた。
当然と言えば当然だが、僅かに淡い期待を抱いていた分、その返事に落胆した。
「私の一存では答えられない問題だ…
恐らく、国王陛下と七大貴族の承認が必要になるだろう。
何はともあれ、一度ヴォルガシュタットに戻って報告せねば…」
「ご迷惑をおかけして申し訳ございません」と詫びたアルドに、侯爵は「すまない」と詫びで返した。
「君が亡命できるように手は尽くそう。
私に出来るのは、亡命の機会を与える事くらいだ。あとは君次第だろう…
ガブリエラの願いでもあるが、私も君を気に入っているのだよ。
あとは、まぁ、あれだ…今のオークランド王が嫌いなのでね。あの男が困ることなら万々歳さ」
侯爵は冗談か本気か分からない事を言って、アルドへの助力を約束してくれた。
侯爵から確約は貰えなかったが、オークランドに戻される可能性は減った。アルドの表情も少し和らいで、緊張していた肩が少し下がった。
「ありがとうございます…
ヨナタンやビッテンフェルト家は…」
「不問だ。今回の件は私たちにも原因がある。
他所の子供を連れ回して、出先で誘拐されてしまった、などと醜聞はあまりにも都合が悪い。
無かったことにしてもらいたい。
よろしいかな、大ビッテンフェルト卿?」
「閣下の望まれるままに…
我が家の不手際に目を瞑って頂き感謝します」
大御所も侯爵の提案を受け入れて頭を下げた。
侯爵の采配でビッテンフェルトも俺も見逃された。
幾分か和らいだ空気に変わったところで、侯爵がアルドに声をかけた。
「ランチェスター公子。
君は今後どうするつもりかね?」
侯爵の口調は詰問するような問いかけではなく、世間話を降るような軽い質問だった。
「多くは望みません。
可能であれば、僕はこのままフィーアで生活したいです。
仕事をして、今の生活を続けることができるなら、贅沢は言いません」
「王という立場には興味がないのだな?」
「ご勘弁下さい。お話した通り、僕は身体的な問題で王としての条件を満たしていません。
玉座を望めば、徒に争いを増やすだけです。
《アルド》として、彼と暮らせれば満足です」
そう言って、アルドは笑顔で俺に手を伸ばした。
柔い手のひらが握り返す手を求めた。
「ヨナ、これからも僕と一緒にいて下さい。僕はパートナーを解消する気はありませんよ」
あざとい奴だな…
俺だって本当は手放したくないんだ…
差し出された手を握り返して、さらに胸の奥が傷んだ。
そんなこと言ったって、俺の気持ちなんて関係ないんだ…
今のアルドに俺を選ぶメリットは無い。
俺じゃ守ってやれない。そんなこと、俺だって百も承知だ…
何事も損得で判断してしまう、自分のこの考え方が恨めしがった。
でも、それはある意味正解なのだ…
アルドが生き延びるために必要なのは俺じゃない。
未練がましく握った手は、柔らかく沁みる温度を分けて俺を傷付けた。
✩.*˚
ランチェスター公子から、トゥーマンとの関係を聞いた時は驚いたが、その関係を悪し様に言う気はなかった。
フィーアでは同性であろうと年の差があろうと、本人たちの合意があれば違法では無い。
フィーアで問題になるのは、親子や兄弟、他人の配偶者と関係を持つことくらいだろう。
ヴォルガ様は多様性を認める神で、ヴォルガ神を主神とするフィーアではさほど珍しい話では無かった。
そんな事より、方々に出す手紙を用意しながら頭を悩ませていた。
事が事だけに、考えが纏まらない。
「少し気分を変えられては如何でしょうか?」と見かねたガブリエラに休憩を勧められた。
「…そうさせてもらおう」と頷いて、気分を変えるためにバルテルを連れて部屋を出た。
バルテルはあの失態をまだ引き摺っていた。
バルテルには似合わない珍しい失態だ。
仕方ない事ではあったが、本人は仕方ないとは思っていないのだろう。
真面目なのはいいことだが、これでは私まで気が滅入ってしまう…
廊下を歩いていると、角で荷物を抱えていた男とぶつかりそうになった。
慌てて身を引いた男の手から書類がこぼれ落ちた。
「申し訳ございません」
ぶつかりそうになった男は、慌てて落とした紙束を拾った。
「病み上がりなのに仕事か?」と拾った紙束をトゥーマンに返した。
チラッと見たが、見やすい良い書類だ。彼の会計士としての有能さが見て取れた。惜しい人材だ…
「療養中にも仕事が溜まってますから…
アルドが…いえ、ランチェスター公子が代理で頑張ってくれたので、何とか捌ける量ですが、そろそろ予算等も纏めないといけない時期なので…」
「全部君がしているのか?大変だな…」
「この業界は万年人材不足ですから。
数字や文字に明るい者が居れば良いのですが、なかなか任せられるほどの人材は無いのが現状です」
「確かにな…私もそれに関しては同じ考えだ」
その仕事の重要性から、会計士を任される人材は貴族や一部の家に限られる。
子供の頃から高度な教育が必要になるため、狭き門だ。人材が足らないから、端々の数字が適当な帳尻合わせになるのは否めない。
一騎士の家でこの会計処理は特殊と言わざるを得ない。
「君は誰から仕事を学んだのかね?」
「自分はエッダの商人に拾われてから商売を学びました。事務処理に関しては独学です。自分のやりやすいように続けた結果、このやり方になりました」
独学でこれか?
仕事ができる人間ならビッテンフェルトも簡単には手放したくないだろう…
トゥーマンは紙束を集めると一礼して立ち去ろうとした。
ふと、好奇心が湧いて、彼を呼び止めた。
「ランチェスター公子がここを出ていくことになったら、君はどうするのかね?」
私の質問に、立ち去ろうとしていたトゥーマンは振り返った。彼の顔の変化を見逃さないように注視していた。
「…見送るだけです」
あまりにあっさりとした答えに首を傾げた。存外簡単に身を引くつもりなのだろうか?
「パートナーなんだろう?一緒にとは思わないのか?もし必要なら私もそのように口利きするつもりだ」
「必要ありません。
ランチェスター公子も、もう自分を必要とする理由はありませんから…
元々、金で契約して繋いでただけの関係です。宛もなく放り出すのは後味悪いですが、出ていくと言うなら止める理由はありません」
「…それで良いのかね?」
命懸けで助けたのだろう?そんなにあっさりと手放すと話した彼が薄気味悪く感じられた。
トゥーマンは小さく笑うと、私の疑念を見透かしたように口を開いた。
「公子の世話をしていた間のご褒美でも頂戴できるのでしたら、自分はそれで十分です。
住み慣れて、仕事もあるのに、自分までドライファッハを離れる理由はありません。
なんにせよ、自分はこれ以上厄介事を抱える気は無いので…
引き取っていただけるなら自分も願ったりです。
まだ仕事があるので、失礼してよろしいでしょうか?」
「あぁ…引き止めてすまなかった」
そそくさと立ち去る背中を見送って、ため息を漏らした。
とんだ嘘吐きだな…
平静さを装いながらも、痛みを堪えるような顔をしていた事に、私が気付かないと思っているのか?
褒美を欲しがったのも、そう思わせた方が都合が良いからだろう…
ランチェスター公子とも話す必要がありそうだ。
彼らの平和を乱した気がして、後味が悪かった。
✩.*˚
部屋に戻って背中でドアを閉めた。
『ランチェスター公子がここを出ていくことになったら、君はどうするのかね?』
知るかよ…そんなもん…
ドアを閉めた状態のまま、ズルズルとその場に座り込んだ。
潔く手放す気でいるが、本当にあいつを手放せるかと言われれば微妙だ…
それに母親の事もある…
本当はそっちにアルドを返してやりたかった…
あいつは結局、イザード行きを断った。
アルドがイザード行きを断ったのは、オークランドとの不安定な情勢を懸念してということだが、半分は俺のせいだった。
『僕はこれからもヨナと暮らします』と答えたあいつは、本当はどう思っていたのだろう…
本当は母親に会いたかったはずだ…
フィッシャーはアルドの手紙を預かって、一旦帰国するためにドライファッハを後にした。
またすぐに戻ってくるつもりだという。
「どうしました、ヨナ?」
ドアの前で動けなくなった俺に、アルドが声を掛けた。アルドが部屋に残っていたのを忘れていた。
アルドは俺の体調が悪いのかと心配していた。
「どこか痛むんですか?立てますか?」
そう言いながら、アルドは俺が持っていた書類の束を抜き取って脇に置くと、俺の顔を覗き込んだ。
「誰か呼びましょうか?」
「何でもない…」と強がったが、声は弱くて誤魔化せなかった…
「ヨナ、立てますか?少し休みましょう?」
アルドは俺を立たせると、ベッドに移動させた。
また、ベッドか…そろそろ本気で飽きていた…
「ずっと仕事で座ってたからですね。少し横になったら良くなりますよ」などと言いながら、アルドはベッドを用意していた。
そんなの、もうお前がすることじゃないだろう…
お前はもう、薄汚れて道端で物乞いをしていた子供じゃない…
「サインを貰った書類は僕が片付けておきます。少し休んで…」
アルドの言葉を遮って、後ろからアルドを抱いた。
「ヨナ?」顔を上げたアルドの驚いたような目がすぐ近くにあった。
アルドを抱いたままベッドに倒れ込んだ。ベッドに倒れ込むと、俺の腕の中でアルドが驚いた声を上げた。
「びっくりした…ヨナ、どうしたんです?何かあったんですか?」
「…俺は…ドライファッハに残る。もう…お前とは暮らさない…」
「…ヨナ?」
困惑したアルドの声を聞きながら、後ろを見ないように、アルドの背を強く抱いた。
「亡命でも、母親の所に行くでもいい…好きに選べ」
「何で?ヨナ、僕は…」
「お前の面倒はもう見ない。
…違うな、もう面倒見切れないって言うのが正しいな」
我ながら酷い別れの告げ方だ…
顔も見れない。突き放す言葉を口にしながら、未練がましくアルドを抱いていた。
「…ヨナ…僕は…迷惑ですか?」
腕の中で大人しくなったアルドは、俺に背中を向けたまま、震える声で訊ねた。
胸が痛くなる…
誰かに代わって欲しかったが、こいつは俺が拾ったんだ…
俺が突き放さなきゃ、こいつは俺に気を使って何処にも行けないだろう…
「あぁ…迷惑だ」
たった一言言うのに数年分の寿命を削った気がした。アルドを手放して、すぐに背中を向けた。
俺は逃げたんだ…
面と向かって言えないから、アルドの背中に話して、アルドに背を向けた。
アルドの啜り泣きが背中に刺さった。
「…ごめんなさい」
何も悪くないあいつに、そんな台詞まで言わせてしまった…
悪いのは俺だ…
こんなことなら、拾うんじゃなかった…
無責任に傍に置くんじゃなかった…
アルドなんて名前を与えるんじゃなかった…
こいつを愛したのが間違いだったんだ…
悪いな、オーラフ…
俺は生きるのが下手くそなんだ…
✩.*˚
ヨナタンの背中は僕を拒絶していた…
唐突に出た別れ話に傷付いて、彼の部屋を出た。
どうしてあんな事を言ったんだろう?
本当にそう思っていてもおかしくは無い。僕が彼の生活を乱したのは事実で、迷惑も沢山かけた。
彼の心が僕から離れたとしても、何ら不思議は無かった。
涙を拭いながら廊下を歩いていると、ブルーノ様と出くわした。
「アルド?どうしました?」
ブルーノ様は驚いた様子で僕に訊ねた。優しくされて、また涙が零れた。
「ヨナが…迷惑だって…僕の事…」
嗚咽混じりに話すと、ブルーノ様は困った顔をしながら、「こちらへ」と僕を自分の部屋に案内した。
「とりあえず落ち着きましょうか?何か飲み物を用意しますね」と言って、僕を部屋に残して出て行った。
ブルーノ様は優しいな…
ソファで膝を抱えながら鼻を啜った。
そういえば、あの事件以来、ヨナタンとの会話が極端に減っていた。
『何で母親の所に帰らないんだ?』
エヴァレット公爵からの使いを返した時も、ヨナタンは不機嫌そうだった。
あれも、本当は出て行って欲しかったからなのかな?
「お待たせしました」と紅茶の乗った盆を持ってブルーノ様が戻ってきた。
「紅茶は母上が入れてくれましたよ。お菓子はジビラがくれました」
「ありがとうございます…」
「私は運んだだけですね」
おどけた様子で笑ってブルーノ様は僕の前に紅茶を並べた。
ビッテンフェルト夫人の用意してくれた紅茶は、鬱を払うような明るい香りを立ち昇らせていた。
「ブルームバルトでロンメル男爵夫人から頂戴したそうです。私には善し悪しは分かりませんが、いい香りですね」
ブルーノ様はそう言って、同じソファに座ると、紅茶を口に運んでいた。
僕も彼に習って紅茶を手に取った。
ベルガモットとオレンジの香りが強い。
フィーアの紅茶はシンプルな物が多いから、これは多分輸入品だろう。珍しい高価なもののようだ…
僕のためにわざわざ出してくれたのだろう。
ビッテンフェルトの家族は本当に良い人たちだ…
「美味しいです」と感想を伝えると、ブルーノ様は嬉しそうに笑った。
「母上に伝えます。きっと喜びますよ。
ところで、トゥーマン殿と何があったんですか?私で良かったら話を聞きますよ」
「ヨナに…僕は迷惑だと言われてしまいました…」
さっきあった事を話すと、ブルーノ様は困ったように眉を寄せた。
「トゥーマン殿が?」
「僕は、ヨナが大好きなのに…『もう一緒に暮らさない』って…僕は…『迷惑だ』って…」
自分でヨナタンの言葉を反芻して、胸がキュウっと締め付けられるような痛みを覚えた。
ブルーノ様は、動けなくなった僕の手からティーカップを取り上げて、ソーサーに戻した。
「…酷いですね」
ボソリと呟いたブルーノ様の声は少し怒ってるようだった。
普段滅多に見せない感情に驚いた。
大きな手が僕の頭を撫でた。
「すみません。
君たちの間で話し合うべき問題ですが、私もそれでは納得できないです。
トゥーマン殿は勝手過ぎます」
ブルーノ様は僕のために怒ってくれた。その気持ちが嬉しかった。
「ブルーノ様は優しいですね」
僕の言葉に、ブルーノ様は少し照れたように笑って、頭に添えた手で僕を撫でた。
「君がこんなに傷ついてるのに放って置けないですよ…余計なお節介だったらすみません」
「そんなことないです。少し気持ちが落ち着きました。ありがとうございます」
「良かった」と笑って、ブルーノ様はお菓子を僕に勧めた。差し出されたお皿から焼き菓子を摘んで口に運んだ。
紅茶に合う焼き菓子の甘さが口に拡がって、僕を癒してくれた。
「まぁ、私は恋愛についてはさっぱりですから、トゥーマン殿の意図も分かりかねますが、トゥーマン殿の言い方が悪いのは分かります。
私じゃ役不足ですので、お爺様や父上に叱ってもらいますか?」
「…それは…なんというか…」
それでは、僕がヨナタンを悪者にしたみたいで気分が悪い…
「ヨナが本当に迷惑に感じて、僕を拒否するならそれはそれで仕方ないと思います…
でも、もし違うなら…僕はヨナと一緒に居たいんです…」
この気持ちは本当だ。
この先、ヨナタン以上に僕を愛してくれる人はいないと思う。
僕は欠陥品で、問題を多く抱えている。
それでも、見捨てずに助けてくれた…
僕は何も返すことなんてできないのに…それでも愛してくれた…
僕にとって、ヨナタンを選ぶ理由なんてそれだけで十分だ…
ランチェスター公子であることより、アルドでいられる方が僕にとっては幸せだ。
「愛してるから…僕も、ヨナを愛してるから…一緒に居たいんです」
彼への気持ちを口にして涙が溢れた。
ちゃんと気持ちを伝えて、それでもヨナタンの心が僕から離れてしまっているなら、僕は彼を諦めるしかない…
でもそうじゃないなら…
「ヨナと…ちゃんと話してきます」と涙を拭ってソファを立った。
「一人で大丈夫?」とブルーノ様は心配してくれた。それでも一人でないと意味が無い。
「誰かがいたら、多分ヨナは話してくれないでしょうから、僕一人で話してきます」
「アルドは偉いね。私も解決するように祈ってるよ。何かあったら相談して、力になるよ」
ブルーノ様はそう言って、僕を部屋の前まで送ってくれた。
「何かあったらいつでも私の部屋においでよ」
ブルーノ様は僕の背中を優しく叩いて送り出してくれた。
ブルーノ様の優しさに頷いて、ドアのノブを回した。
ちゃんと伝えなきゃ…
この気持ちが迷惑でも、このまま彼と別れるのは嫌だから…
僕は《君のアルド》でいたいんだって…
✩.*˚
自己嫌悪に苛まれながら、ベッドから動けずにいた。
ベッドに転がったまま、目の前にある手首の傷を数えていた。
よくもまぁこんなにもやらかしたもんだ…
大小残る傷で、一番新しいのはアルドを引き止めるために作った傷だ。
あんなに必死につなぎ止めたのに、手放すなんてな…これも無駄だったな…
無駄は嫌いなくせに、俺の人生無駄なことの方が多かった。
結局、俺は何がしたかったんだろうな?
そんな答えもあるはずなく、ベッドに寝転がったまま、袖から覗く傷だらけの腕を眺めていた。
一人でいじけていると、部屋の外で声が聞こえた。
あいつ戻ってきたのか?
アルドと向き合う気にならなくて、寝たフリを決め込んだ。
ドアノブの回る音に、ドアの軋む音が続いた。
誰かすぐに分る、軽い足音が一人分部屋に戻って来た。足音は俺のすぐ傍で止まった。
「…ヨナ」と呼ぶ声に続いて、肩に手のひらが触れる感触が乗った。
「起きてますか?話しませんか?」
柔らかい声は届いていたが、応じることは出来なかった。
無言で背を向けたままの俺の背に、アルドの静かなため息が聞こえた。
ベッドが軋んで、増えた重さの形に沈んだ。
「ヨナ…本当に僕が嫌いになっちゃいましたか?」
同じベッドに転がって、アルドは俺に向けて話し始めた。
「ヨナが僕を必要としなくても、僕にはヨナが必要なんです…
だってそうでしょう?ヨナが僕を必要とする理由はほとんど無いはずです…
出会った頃の僕は…何も無い乞食だったんですから…」
言葉を詰まらせながら、アルドは俺に抱いてた感情を語った。それは初めてアルドから聞く話だった。
「本当は…最初は怖かったんです…
ヨナは怖い顔してたし、今までの人たちと違う反応だったから…
それでも、あの時はどうしてもお腹が空いてたから、君に着いて行ったんです…
ヨナは僕の身体の欠損を知っても、追い出そうとしなかったし…実は何かもっと良くないことがあるんじゃないかって…そんな心配もしてました…」
そんなこともあったな…
今となっては懐かしい話だ。
しかし、俺はそんなに悪党みたいな面してるのか?
アルドは今までを振り返って、これまで思ってたことを遠慮なく話した。
あの逃げ出した雪の日も、舌を癒すためにブルームバルトに行った事も、俺がアルドを殺そうとした時の事も…その後も…
アルドはそれら全てを、良い思い出のように語った。
今の俺には、その思い出全てが痛みの原因になっていた。
一度突き放したのに、やっぱり手放さないなんて言えるわけない…
もっと厳しく突き放さなきゃ、こいつは離れていかないのか?
手放すのも苦しいのに、お前はどこまで俺を苦しめる気だ?
どうするべきか迷っていると、アルドの動く気配がして、不意に、背中にアルドの温もりが重なった。
「ヨナ…僕は君を愛してます…
君がどんなに僕を疑っても…何を言われても…僕は君を愛してます」
アルドの告白に、突き放そうと決めたはずの心が揺らいだ…
俺の弱さが、その言葉を否定することを拒んだ。
苦しくて鼻を啜った。じわじわと、隠しておこうとしたものが溢れて止まらなくなる…
俺は、アルドを…こいつを愛してる…
既に寝たフリを保てなくなっていた俺の背を、アルドの手のひらが慰めるように撫でていた。
起きてたことを咎める代わりに、アルドは狡い質問をした。
「ヨナ、僕が嫌いですか?」
簡単な、《はい》と《いいえ》で答えられる質問だ。
それでも、答えようにも嗚咽が口を塞いだ。
震える背中を撫でた小さな手は移動すると、今度はそっと頭を撫でた。
「ヨナ、僕の質問に答えてください。
ヨナは僕を愛してますか?」
言葉は相変わらず出てこない。
言葉を返す代わりに、重い頭を上げ、身体を起こしてアルドに向き合った。
俺も酷い顔だろうが、向き合ったアルドも酷い顔だ…
泣き腫らした目は美少年には似合わない。
その顔を前に、滅多に湧かない罪悪感を覚えて視線を逸らしそうになる。
俺と向き合ったアルドは、泣き腫らした顔で小さく笑った。
「同じだ」と呟いたのは何に対してだろうか?
アルドは手を引っ込めた袖を差し出して、俺の顔を拭いた。
子供扱いされたような気がしたが、相手がアルドだから世話をされても嫌な気はしなかった。
むしろ、何故か安堵している自分がいた…
「…アルド」
「はい。何ですか?」
「何で…母親のところに行かなかった?」
俺の質問に、アルドは驚いた顔で瞬きをした。アルドの中では終わった話だろうが、俺はこの答えに納得していない。
「お前にとって、たった一人の肉親だろう?家族だ…会いたくないのか?」
「会いたいです。もし会えるなら…会いたいですが…」
「じゃあ、何でだ?フィッシャーやエヴァレット公爵が信じられないからか?」
「…それは…フィーアに戻れなくなるから…」とアルドは寂しそうな顔で目を伏せた。
「イザード王国が本当に僕を保護するとして、お母様とまた一緒に暮らせるとしても、そこにヨナはいないでしょう?
イザード王国が引き取ると言ったのは僕だけです。フィーアに戻る理由もないし、僕を帰すはずありません。
ヨナとお別れするくらいなら、僕はイザードには行かないと決めたんです」
「母親はどうするんだ?お前を探してるんだろ?」
「イザードに亡命しない理由は手紙に書きました。
《どうしてもお別れできない方がいるから》と…
《それでも、もし会いに来てくれるなら、僕はお母様に会いたいです》と伝えました。
僕はお母様を諦めたのではなく、ヨナを選んだだけです」
アルドはそう言って、俺の手を握って、口元に寄せると手の甲にキスをした。
顔を上げたアルドは、俺の顔を覗き込むように見上げて、はにかむように笑った。
「ヨナ。お願いです。ヨナの残りの人生を僕に下さい」
大胆な言葉に耳を疑った。言葉を失った俺に、アルドが言葉を重ねた。
「もう《お小遣い》はいりません。僕もお給金から生活費を出します。
僕たちは、平等な人生のパートナーになりましょう。
ヨナの残りの人生は僕が責任持ちます。だから、ヨナの残りの人生を僕に下さい」
「なんだよ、それ…」
まるで求婚じゃねぇか?
お前な…相手は先の無いオッサンだぞ…
手を握ったまま、俺の返事を待つアルドの表情は、冗談を言ってるようには見えなかった。
この告白は、アルドには一切メリットがない…
この告白を受け入れるべきじゃないと、頭では分かっている。それでも…
『俺はもういいから…あの子大事にしろよ』
夢の中で聞いたあの声が蘇った…
「…いいのか?」と訊ねたのはどっちに対してだろう?
過去の男は笑って『いいよ』と答えるだろう…
未来を求めた少年は、眩しい笑顔で「愛しています」と応えた。
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