燕の軌跡

猫絵師

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戻って来たスーは俺と視線が合うといつもの調子で笑って見せた。

その自慢げな顔を見て眉を寄せた。

「何だよ、その顔?」と、スーは笑いながら俺の顰めっ面を指摘した。

そりゃそんな顔もするだろう?

スーは強がってるが、その顔には疲労の色が滲んでいた。足元もどこか覚束ない。

「悪いけどさ、これ外してくれないか?《暴君》の奴、まだ暴れ足りないって煩いんだ…」

スーはそう言いながら、俺に両手を差し出した。

迷わずにそのお願いを聞いた。

本当は、この不気味な篭手に触れるのも嫌だったが、これがスーの身体に触れている方がもっと嫌だった。

つなぎ目を緩めて外すと、呪われた篭手は地面に落ちて硬い音を立てた。

それにつられる様にスーの身体が傾いて、俺の身体にもたれかかった。

全く、無茶しやがって…

舌打ちしたくなる衝動を堪えて、スーの力の抜けた身体を支えた。

本当にムカついてるのは、こいつがこうなるまで放っておいた俺自身へだ…

「おい、大丈夫か?」

「《暴君》がさ…思った以上に魔力吸うからさ…腹減るし…眠い…」

「おい、しゃんとしろ。まだ終わっちゃいねぇぞ」

「…分かってるよ…水あるか?」

スーが水を欲しがった。近くにいた奴に用意するように声を掛けて、立ってるのがやっとの状態のスーを座らせた。

「スー!大丈夫か?!」

人混みから声がして、カミルとゲルトが顔を出した。

「おら、飲め。俺の驕りだ」と愛想のない声で告げて、爺さんは懐から水筒を出してスーに差し出した。水筒を受け取って、蓋を開けると強烈な酒の匂いが鼻を突いた。

「酒じゃん?」

「気付け用の強めの奴だ。それ飲んでシャキッとしろ」と無茶を言って、爺さんは腕を組んでスーを見下ろして、「ようやった」と、珍しくスーを褒めた。

その一言を受け取って、スーは「当然!」と答えて酒を煽った。勢いよく酒を口に含んだスーが驚いたように目を白黒させてむせるように咳込んだ。

「うっわぁ…これ喉焼けるんだけど…」

「何だ?目が覚めたろ?それともガキには早すぎるか?」

「ガキじゃねぇよ」と、いつもの生意気な調子を取り戻したスーの口元に不敵な笑みが戻る。

さっき用事を言いつけた団員が戻って来て水の入った瓶を差し出した。

その水を受け取って、スーは口をすすいで残った水を頭から被った。

「…ふぅ…ちょっと眠気が取れた」と呟いて立ち上がると、空になった瓶を捨てたスーが俺に手を差し出した。

「ディルク。預けてたの返してくれ」

預かっていた指輪や剣をスーに返した。全部身に着けて、スーは視線を上げた。

その視線は《赤鹿の団》に向けられていた。

「さて…勝った報酬を貰いに行くか?」

意地悪く笑う《妖精》は俺についてくるように目で合図した。

その堂々とした姿は、この綺麗な青年を《団長》らしく見せていた。

✩.*˚

目の前で起きたことが信じられない…

俺のマシューが…《人でなし》が負けただと?

立ち上がれなくなった《人でなし》の姿に、《赤鹿の団》に動揺が走った。

「旦那…マズいんじゃねぇか?」

「あの小僧…マジでマシューに勝ちやがったのか?」

場慣れしていたはずのフーゴやゲオルグですらこの現実を疑っていた。

勝ち誇るように狂った歓声が尽きることなく《燕の団》から上がっている。誇らしげに手を上げて団員に応える男から視線が外せない…

あいつは一体何者だ?

不正を疑ったが、もしそうだとしても、約束は約束だ。

こんな結果は予想していなかった…

「…マシュー」

絶対的な暴力の化身が、女みたいな頼りない容姿の青年に殴り負けて、未だに立ち上がれずにいる。

何でお前が負ける?約束したろう?

「団長、今動くのは…」

前に出ようとした俺をゲオルグが制止した。それでも俺にとってマシューは特別な存在だ。

「おい!《人でなし》を回収しろ!今すぐだ!急げ!!」とゲオルグが親衛兵らに下知を飛ばした。

慌てて数人がかりでマシューを回収してきたが、マシューは起き上がれそうになかった。

「い、痛いよォ…こ、怖いよォ…」

巨漢の口から漏れたのは、怯える子供のような舌足らずな言葉だった。

「マシュー!しっかりしろ!あいつがどんな卑怯な手を使ったんだ?!」

「わ、分かんねぇ…わ、分かんねぇよォ」

頭巾の下から聞こえる籠った声は恐怖で震えていた。今まで見たことのないマシューの姿に胸の奥がざわついた。

もしかしたら、俺はとんでもない奴を敵に回したのかもしれない…

「…旦那」とフーゴの呼びかけに顔を上げると、《燕の団》から数人が歩いてくる姿が見えた。

その一人の姿を見て、腹の奥の不快感がさらに増した…

その女みたいな綺麗な顔さえ不気味に映る。

その顔には勝者の余裕が見て取れる。

「ヴェンデル・フォン・バルヒェット。俺と話す用意はできてるか?」

俺を見上げる視線は鷹のような強い光を宿していた。若造のその目に気圧された。

「この結果にごねるならそれでもいいけど、そうするとお前たちは俺以上に怖い男を敵に回すことになるからな。どうする?泣きのもう一戦やるか?」

《燕》の団長が言う《怖い男》とはロンメル男爵の事だろう。

俺がこの勝負の結果を認めなければ、間に入ったロンメル男爵の顔に泥を塗ることになる。そうなれば、俺はこの国で《貴族》と《英雄》の肩書きを持つ男に喧嘩を売ることになってしまう。それこそ分が悪い…

「…いいや。男に二言はねぇ」と潔く負けを認めた。負けは認めたが、まだ俺はこの団の団長だ。

俺の団長としての仕事はまだ残っている。部下たちに見える背中をまっすぐに伸ばして胸を張り、堂々を装った。

「この勝負はお前たちの勝ちだ」

「へぇ…思ってたより潔く認めるんだな」

「当然だ。俺は本気で《燕》に勝って、お前らをうちの団に組み込む気でいた。

俺は無様を晒して、自分のおとことしての質を落とす気は無い」

「何で負けたくせに、自分格好いいみたいに言ってんだ?」

堂々と負けを認めた俺に、若い団長は呆れ顔だ。《黒腕》の爺さんは興味無さそうにわざとらしいため息を吐いて話を遮った。

「終いだろ?さっさと撤収しろ。俺は腹が減ってんだ」

「俺も腹減った。怪我人も出てるし、今日はお開きにしようぜ」と《燕》の団長も爺さんの意見に賛成した。

なんだこいつら?まるで遊び疲れて夕飯に帰る子供じゃないか?

「まだ、何も決めてないだろ?」と苦言を呈する俺に、若い団長は懐っこい顔で笑った。

「だって、あんた逃げたりしないだろ?なら、晩飯の方が先だ」

「《赤鹿》の旦那、気を悪くしないでくれよ?

あんたを舐めてる訳じゃねえのさ。うちの連中はこうなんだ」

ゲルトの世話役の男が、足らない言葉を継ぎ足して苦く笑った。

普段からこれか…

「なるほどな」

馬鹿なのは問題だが、図太いのはいい事だ。

そうでなきゃ、傭兵なんか向いてねぇよな。

無言を貫いて俺を睨んでいる、元|《赤鹿の団》の傭兵に声をかけた。

「そりゃ帰らねぇよな…良い団だ」

最良の世辞を贈って、俺は《燕の団》への敗北を認めた。

✩.*˚

お腹すいたぁ…

何も無いテーブルに突っ伏して旦那アルノーの帰りを待っていた。

よく分かんないけど、他所の団が来たってんで、女のあたしが厄介事に巻き込まれる前に帰してくれた。

『飯なら俺が作るから、鍋焦がさずに待ってろよ?』と言ってたのに、アルノーは全然帰ってこない。

あたしだって、自分で作りたくないんだけどなぁ…

だって、アルノーのご飯の方が絶対美味しいんだもん。同じ材料を使っても、アルノーには敵わない。

お腹を空かせながら待っていたけど、どうにも我慢できなくなってきた。

鍋に水を張って芋と卵を放り込んだ。鍋焦がさなきゃいいよね?

竈に火を入れて湯が沸くのを待っていると、家の扉を叩く音が聞こえた。

このタイミングで帰って来たの?

「なに?開いてるよ!」と返して、音を立てるドアに駆け寄ると、向こう側から扉が開いた。

てっきりアルノーが帰って来たものだと思っていたのに、顔を出したのはカイだった。険しい表情で、カイは訪問の理由を告げた。

「悪い、ティナ。アルノーが怪我したんだ。入れてくれ」

「え?!」驚いているあたしを家の中に押し込んで、カイは振り返ると誰かに合図を送った。

扉を抑えているカイの脇を通って、《燕》の男たちが担架を担ぎこんだ。

担ぎ込まれた男を見て声を失った…

「…ただいま」と誤魔化すような笑いを張り付けた顔で、アルノーはあたしに挨拶した。

バツの悪そうな顔は青ざめていて、あっちこっち傷だらけだ。右足に至っては、大げさなくらい分厚く包帯が巻かれている。動かさないようにご丁寧に添え木まで当ててあった。

男たちはアルノーを寝室に運んで、担架を片付けて帰って行った。

「何で…」最後に会ったときは元気だったのに…

あたしの飯の心配までしてくれたのに…

「《赤鹿の団》と《燕の団》で決闘になった」と、カイは淡々と何があったのか話してくれた。アルノーも試合して負けたらしい。

ハルバードで抉られた右足は重傷で、処置はしたが元通りになるかは分からないという事だった。

悔しそうに話すカイの声は震えていた。

「アルノーの奴、どうしても『帰る』っていうから…連れてきた…」

そう言ってカイはポケットから何かを出して、あたしに握らせた。手を開くと手のひらには見慣れない小金貨が乗っていた。

「これで世話してやってくれ」と、旦那の親友は大金を渡した理由を話した。

「今は怪我して動けねぇけど、治ったらまた元みたいになるから…

それまで世話してやってくれ、頼む…」

あたしが愛想を尽かして出ていくと思ったのだろうか?

まるでこれじゃ…

「いい…要らないよ」と金貨をカイに押し返した。カイの驚いた顔を睨み返した。

「あたしはアルノーと結婚したんだ。あたしはアルノーの嫁なんだから、自分たちの事は自分たちで何とかするよ。あたしだってまだ稼げるし…

あんたからこれを受け取ったら、アルノーが嫌な顔するに決まってる」

金を貰って世話するなら、それは嫁としてじゃなくて、仕事になっちゃう…

「あたしは流れ者の《エッダ》だけど、《エッダ》は家族は大切にするんだよ」

都合が悪くなったからって、アルノーを捨てるなんて考えられない。

カイは「悪い」と呟くと、返した金を受け取って帰って行った。

彼は彼でアルノーが心配だったんだろう。金が大好きな傭兵がポイっと渡すような金額じゃない。それでも彼の親切を受け取るわけにはいかなかった。

これはあたしの勝手な意地だ。

アルノーのいる寝室に戻ると、二人で寝るためのベッドには、痛々しい姿の動けない男が横になっていた。

「…悪ぃな…腹減ってたろ?」と、アルノーはあたしの飯の心配をした。

その額にはつらそうな汗が滲んでいて、声も弱々しかった。

彼の問いかけに「うん」と素直に頷くと、今になって涙が溢れた。彼の太い指の並んだ大きな手を拾い上げて両手で握った。

こんな厳つい手なのに、彼はとても器用だ…

「もう遅いけどよ…酒場なら開いてるだろうから、何か食ってこいよ」

「…いい。今、芋と卵茹でてるから」

「そっか…」

「塩あるし…それで食べれるよ」

「悪いな…美味いもん食わせてやれなくて…」と彼はまたあたしに謝った。

そういう約束で一緒になったから…

でも、あたしは、それだけで彼と一緒になったわけじゃない。

料理なんてしたこと無かった。する必要も、する場所もなかったから。

家族はあたしが子供の頃にいなくなってしまったし、それからずっと根無し草で、物乞いしたり、春を売って生きてきた。

あの日初めてした料理が大失敗に終わって、やっぱり仕事が無くなると思ったのに…

『俺が作り直すよ。お前らあんまり文句言うな』と言って、アルノーは手際よくあたしの尻拭いをしてくれた。

焦げた鶏肉も、火の通りの悪かった野菜も、焦げの浮いた味のないスープも、上手に使って食べれるものに作り替えてくれた。

『こいつら結構食い物にはうるさいんだ。あんたも料理覚えろよ』

そう言ってアルノーは付き合いよくあたしに料理を教えてくれた。

少しだけ作れるようになった。簡単なのをほんのちょっとだけ…

だから、あたしはやっぱりアルノーが作ってくれる料理が食べたい。

どうせ食べるなら彼の料理が良い。それ以外なら何でもするから、あんたが台所に立ってよ。女だって苦手なものあるんだよ。

「…ねぇ、芋と卵食べる?塩しかないけど…」

「そうだな…血が足りねぇから、卵の方がいいな…」

アルノーの返事に頷いて、鍋に戻った。

「あ…」ほったらかしになってたから、とっくにお湯は蒸発してしまっていた。またやっちゃった…

わずかに残ったお湯から、ぐずぐずになった芋と、殻の隙間から白身を覗かせた卵を引っ張り上げた。

これじゃ全然美味しそうじゃない…

「ごめん…こんなんなっちゃった…」

謝るあたしと皿に乗った不細工な卵を見て、アルノーは苦笑いを浮かべた。

「これは俺にはできねぇな…」と言いながら、彼はぼそぼその卵を口に運んだ。

塩振っただけの形の悪い卵を半分食べて、彼は水を欲しがった。黄身がパサパサだから喉につっかえたのだろう。

「悪いな」

水をゆっくり飲んだアルノーはあたしに謝った。

その弱い声があたしの不安を誘った。

「あんたのご飯食べたい…」

多分、嫁としては失格な言葉だ。でも、この好条件を出して、あたしと一緒になったのはこの男だ。

「鶏肉と、ニンニクと、ニンジンと芋の炒めたやつ…あたしあれが好き」

「あー…あれな。野菜嫌いな奴でも割と好評だ」

「卵包んだ、ひき肉の団子も好き」

「あれちょっと面倒くさいんだけど…」

「野菜いっぱいの…ベーコンのスープ…美味しかった…」

食べ物の話をしながら涙が溢れた。あたしの幸せな時間と、彼の手料理はセットだ。温かな思い出はいつもテーブルの上に並んでいた。

「また作ってやるよ…怪我したのは足だからな…」

「…約束だよ」と、あたしの胃袋を掴んだ手を握った。

応えるように握り返した手は優しかった…

✩.*˚

思ったより時間食った…

テレーゼたちはもう夕食を済ませたろうか?

「遅くなっちまったな。腹減ってるか?」

帰り道で馬の背に揺られながら、前に乗せたライナに声を掛けた。

クレメルを抱いたライナは「大丈夫」と答えて、また口を噤んだ。

連れてきたのは間違いだったか?

そんな考えが頭を過ったが、これもライナの為だ。

俺がこんな事言うのはおかしいが、傭兵なんてろくでなしだ…

カイは悪い奴じゃないが、まっとうに生きるならケヴィンを選んだ方がいい。ライナが自分の意志でその選択をしてくれることを願った。

黙って馬の背で揺られていたライナが、不意に口を聞いた。

「…旦那様」

「ん?なんだ?」

「あたし、《祝福》あるんだよね?」

「まぁ、そういう話だな」彼女の意図が分からず、適当に答えた。

俺もクレメルがどんな《祝福》なのかいまいちよく分からん。クレメルは《出来損ない》と《冬の王》が言っていたが、それで《祝福》と呼べるのだろうか?

「《祝福》ある人って、魔力あるんだよね?」と、ライナはなぜかそんな話をしたがった。

「まぁ、一概には言えないが、そういう話だな」

「あたしもあるんだよね?」

「みたいだな。でも、俺は魔導師でもなんでもないから、詳しくは分からないぞ」

俺の返答にライナはまた黙り込んだ。適当な俺の返事にがっかりしたのだろうか?

《英雄》なんて呼ばれてるが、俺は《祝福》が使えるだけの一般人だ。

《祝福》に詳しいわけでも、魔導師みたいに知識があるわけでも、スーみたいに魔法が使えるわけでもない。

期待するような言葉で適当に答えるのは無責任ってやつだ。

「…おねぇちゃん?」ライナの腕の中に納まっていたクレメルが、彼女を見上げて首を傾げた。

俺の角度からだと俯いたライナの顔は見えない。オロオロとせわしなく視線を動かすクレメルの反応から、ライナが泣いているのかと思った。

でも、ライナは俺が思っていたほど弱くは無かった…

「旦那様、お願いあるの」

そう切り出したライナは顔を上げて、まっすぐに俺を見た。潤んだ瞳は思いつめたような強い目をしてた。

「あたし、治癒魔法覚えたい」

「はぁ?!」

「お願い!みんなの役に立ちたいの!」

さすがにこれは俺の想定外だ!何でそうなる?!

「待て待て!気持ちはあれかもしれんが…いや…だって、お前…その、あれだぞ!そう、大変なんだぞ!」

「ちゃんと勉強する。途中で投げ出したりしないって約束する!

だから、団長に教えて貰えるように話して欲しいの」と、ライナは真剣な顔でお願いを口にした。

俺だって、普段から頑張ってるライナの願いなら聞いてやりたいが、これはちょっと問題だ…

「あのな、ライナ。治癒魔導師ってなりたいからなれるもんじゃねぇぞ。

スーだって簡単そうにしてるが、あいつは基準にならねぇよ。

だいたい、お前、魔力があるから魔法使えるってもんじゃねぇだろ?」

「でも、あたしにできそうなのってそれだけだから…」

「そんなの気にするなよ。お前はもう《燕の団》じゃない。関係ないだろ?」

俺の言葉に、ライナの表情が曇った。

彼女を思い留まらせたくて発した言葉は、彼女を深く傷付けた。

「あ…あたしは…」

少女の目に涙が滲んで、あっという間に決壊した。泣かせたのは俺だ…

「ライナ…」

ボロボロ涙を零しながら、ライナは必死に何か言おうとしていた。

大人が無理やり引き離したから、ライナの心はまだ《燕》を離れられずにいる。

こいつの好きな男も《燕》にいるのだ…

酷いことを言ってしまったと思ったが、もう遅い。口から出た言葉は消えない…

泣いてるライナが馬から落ちないように支えていることしか、今の俺に出来ることは無かった…

「おねぇちゃん」と、涙の雨を浴びていたクレメルがライナを呼んだ。

「おねぇちゃん、本当に治癒魔法使えるようになりたいの?大変でも?」

子供みたいな質問に、ライナは頷いて答えた。綿毛はライナの気持ちを確認して、もぞもぞとライナの腕から這い出した。

「おねぇちゃん、ぼくちょっとお出かけしてくるね」

「おいおい、どこ行くんだよ?」

「《お母様》のところ。しばらく帰らない」と、子供の声で答えて、クレメルはタンポポの綿毛のようにふわふわとライナの手を離れた。

「おねぇちゃん。ぼく、ぼくにできる事するよ」

「…クレメル?」

「いってきます」と言い残して、クレメルの綿毛のような灰色の身体は夜の風に溶けて消えた。

馬の背にライナと二人だけで取り残される。

何だったんだ、あいつ?自分にできる事をするってどういう意味だ?

まあ、そのうちまた顔を出すだろう。それより今はライナの事が大事だ。

「ライナ、ひどい事言った。ごめんな」と謝ると、ライナは小さく頷いた。

「…あたし…《燕》が好き」と彼女は自分の気持ちを口にした。

知ってるよ…うちに来た時からずっとそう言ってたから…

《帰りたい》って、あそこが自分の家みたいに言ってたもんな。そのうち忘れるもんだと思っていたのに、ライナの気持ちは変わってない。

「旦那様たちには感謝してる…でも、あたし…あそこが好きなの…あそこで、みんなの役に立ちたい…」

ライナの一途な思いが、生まれた巣に帰ろうとする燕に重なった。

ゲルトが追い出しても、俺たちが引き留めても、巣に帰ろうとする少女の気持ちは変わらないのだ。その一途さが悲しかった…

「何がそんなに良いんだ?」と、訊ねると、彼女は俺を見上げて、寂しそうに小さく笑った。

「分かんない。でもあそこが好きなんだ…」

ライナの返事は曖昧で、俺の質問の答えになっちゃいない。でもそれが彼女の答えなのだ。

自分の家に帰るのに理由なんていらないだろう…

《燕の団》が、彼女の家であるなら、その答えで十分なんだ…

今の俺にはその気持ちが痛いほど分かった。

家族の待つ家に帰る楽しみも、娘たちを抱きしめる幸せも、テレーゼの顔を見た時に感じる安らぎも、全てが俺にとってかけがえのない大切なことだ…

家族の思い出に恵まれなかった俺にとって、今が一番幸せなのは言うまでもない。

正しいと分かっていても、ライナに幸せを押し付けるのは心苦しかった…

✩.*˚

『ぼくにできる事をする』って言っておねぇちゃんの傍を離れた。

春風の気配を辿って、《お母様》を探した。

ぼくのお母様は決まった場所にはいない。いつもどこかの空を漂っていて、草木の蕾を見つけるとくすぐって芽吹かせ、飛び去ってしまう。

お母様を探すのは大変だった…

「あら、《おチビちゃん》久しぶりね」

やっと見つけたお母様は、ぼくの他の兄弟と雲の上で寛いでいた。

「《名無し》何しに来たの?」

お母様との時間を邪魔された兄の《西風ゼピュロス》が、ぼくを睨んだ。

ぼくは《クレメル》と呼ばれてるのは、精霊としての役目と名前が無いからだ。

だから、人間の名前で《パンくず》とか《とるに足らないもの》という《クレメル》と言う名前で呼ばれるようになった。

「お母様にお願いがあってきたの」

「そうでしょうね。私を探してわざわざ来たんですもの」とお母様はぼくに手を伸ばした。

差し出された優しい白い手に乗ると、お母様は温かい胸にぼくを招いてくれた。

《西風》に睨まれたけど、今日は逃げ出すわけにはいかないんだ…

「お母様。ぼくのお願い聞いてくれる?」

「あらあら、どんなお願いかしら?」

「ぼくにお母様の力を分けてほしいの。《御祖母様》の癒しの力を分けてもらったお母様なら、ぼくに癒しの力を与えられるよね?」

お母様へお願いをしたのに、《西風》が割り込んでぼくを𠮟りつけた。

「《名無し》!現れたと思ったら、そんな我儘を言いに来たのか?!」

強い風を起こす翼がぼくを襲った。

綿毛の身体は風に煽られてお母様の手から零れ落ちた。

「帰れ、《名無し》!この醜い出来損ない!」

何度聞いたか分からない、ぼくを否定する言葉に心が折れそうになった。

いつもなら風に巻かれて追い払われていた。でも今日は、ぼくはおねぇちゃんのために来たんだ…

「いやだ」と兄さんに反抗した。小さな翼を必死に羽ばたかせて、ぼくを追い払おうとする旋風つむじかぜに抗った。

綿毛のような羽毛が毛羽立ってぼくから剥がれ落ちた。風の音に負けそうになりながら、大きな声でお母様を呼んだ。

「お母様!ぼくにお母様の力を分けてよ!少しで良いんだ!」

「《おチビちゃん》、それを貰ってどうするの?」

風の中でお母様のゆったりとした声がぼくに応えた。ありったけの声で答えた。

「ぼくの!大切な人にあげるんだ!ぼく、おねぇちゃんの役に立ちたい!

ぼくは!おねぇちゃんのために!ぼくにできることをするって!約束したんだ!」

剥がれ落ちた羽毛が風に飛ばされて、羽が抜け落ちた身体はひりひりと痛んだ。声を張り上げたから、喉も枯れてしまいそうだ。

ぼくは今までこんなに頑張ったことない。

でも、おねぇちゃんの気持ちはぼくの心と繋がってるから、ぼくはおねぇちゃんと同じ気持ちだ。

どうせ、ぼくは出来損ないだ。でも、だからと言って、何も出来ないわけじゃない。何もせずに諦めるなら、ぼくは本当の《出来損ない》で《クズ》だ。

「《西風》、《おチビちゃん》をいじめるのは止めて」

お母様の声がして、ぼくを吹き飛ばそうとする風が緩んだ。

《西風》の風に抗った小さな羽はもげそうなくらい痛かった。体中がひりひりして、頭もクラクラする。

雲にも乗れずに転がり落ちそうになったぼくを、お母様の優しい腕が拾ってくれた。

「あなたは与えられることなく、自分で役目を見つけたのね…」

お母様はそう言ってぼくの頭にキスをくれた。キラキラと光る金色の髪が目の前で揺れた。

「わたしの末息子、あなたの優しさと決意を《祝福》します」

ぼくを包むように乗せていたお母様の手が白く輝いた。

身体中の痛みが消え、代わりに全身が痒くなった。

皮膚がメリメリと音を立て、亀裂のような隙間ができて皮が剥けた。

「わあ、わぁぁ…」

嘴が割れてポトリと落ちる。灰色の綿毛を残した皮膚が剥がれ落ちて、不完全だった頃のぼくの面影が、別人のような力強い猛禽の足元に散らばった。

「さあ。あなたの大切な人の元に帰りなさい、《プシケー》」

「…お母様…それ、ぼくの名前?」

「そうですよ。随分遅い成長ですが、わたしはあなたの羽化をよろこんでいます。

さあ、その四枚の翼で風を捉えて、大切な人の元に帰りなさい」

お母様は優しく微笑んでぼくを雲からの上から送り出した。

確かに、お母様の言う通り、ぼくの背中には大きな翼が四枚並んでいた。

力強い翼は、ピュウピュウと鳴く強い風を捉えると、一度の羽ばたきで遠くまで飛べた。力のみなぎった身体はまるで自分のじゃないみたいだ…

ふと、目の前に広がった景色に湖を見つけた。

自分の今の姿が気になって、湖畔に寄り道をするために立ち寄った。

「わぁ!」と自分の姿を見て歓声を上げた。

すごいじゃないか?!

もう誰もぼくを《クレメル》とは呼ばないだろう。

艶のある翼は明るい茶色とくすんだ金色の混ざった素敵な色合いで、顔から腹には豊かな象牙色の羽毛が並んでいる。

不細工と酷評された嘴も、鋼のように鋭い鈍色で、月の光で輝く姿は格好いい。

お情け程度であった尾羽も、今では風を自在に操る舵のように立派だ。

自分の姿に見惚れていたが、ふと大切なことを思い出した。

ぼくはお母様に《癒し》の力を貰いに行ったのに…

浮かれていた気分が一気に冷めた。やっぱり、ぼくって《役立たず》かも…

しょんぼりと湖に映る自分の姿を眺めていると、湖の近くに小鹿が蹲っていた。

お母さんと離れたのかな?

そう思っていると、小鹿の匂いを嗅ぎつけた狼が現れた。

周りを見回してみたけど、小鹿を守ってくれる親の姿はどこにもない。ぶるぶる震えている小鹿が可哀想になった…

ぼくが翼を広げて威嚇すると、狼は驚いて逃げて行った。

「大丈夫?」と小鹿に近づくと、小鹿は黒い潤んだ目でぼくを見上げてぶるぶると震えていた。

「君を食べたりしないよ。お母さんは?いないの?」

声を掛けてみたが、小鹿は蹲ってさらに身体を小さくした。

もぞもぞと動いた足を見て、ぼくから逃げなかった理由を理解した。細い小さな足は怪我をしてて、どこにも行けなかったんだ…

ぼくが治してあげれたらいいけど、ぼくにはその力が無い。

せめてお母さんが来るまで温めてあげようと、大きな翼の下に小鹿を抱き寄せた。

しばらく小鹿を温めてあげていたら、湖畔に角の無い大人の鹿が現れた。

翼の下に隠れていた小鹿はお母さんに気付いて、ぼくの翼から勢いよく飛び出した。

怪我してたはずなのに?

驚いて翼を畳むのも忘れていると、小鹿は何もなかったようにお母さんに並んで立ち去った。足は引き摺ってなかった。

まあ、いいや…

元気な小鹿の姿を見送って、空を見上げた。僕もおねぇちゃんの所に帰ろう。
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