燕の軌跡

猫絵師

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「ねえ、ライナ。私たちから話があるんだけど、少しいいかしら?」

急にラウラ様とシュミット様に呼ばれて、何事かと身構えた。

《祝福》が出てから、みんなに迷惑をかけてばかりだ。

旦那様たちは『気にするな』と言ってくれていたけど、私はこの御屋敷じゃ雑用の使用人の一人でしかない。

今ある仕事を任せられないと言われて、仕事を減らされてもおかしくないとは思っていた。

自分なりに一生懸命頑張っていたつもりだけど、もしそうなったらどうしよう…

不安なまま着いて行くと、シュミット様たちの私室に通された。ここに来るのは初めてだ。

シュミット様たちのプライベートなお部屋は、用事がない限り子供たちでも来ない。

悪い話かもと身構えていたけど、ラウラ様はずっとニコニコしていたし、シュミット様もあたしに席を勧めて、お茶まで用意してくれた。

二人とも仲良さそうに言葉を交わして、ちょっとした休憩のようだ。

悪い話ではないのだろうか?だとしたら何だろう…

「あの…話って…」

あたしから話を切り出すと、シュミット様たちは顔を見合わせて笑顔を作った。

「あぁ、そうだったね。

ライナ、君もここに来て随分経つだろう?今の仕事は気に入っているかな?何か困ってることなんかはないかい?」

「困ってることや心配があったら何でも相談してちょうだいね。私たちもこのお屋敷が貴女にとって居心地の良い場所と思ってもらいたいの」

「あ、ありがとうございます…」

二人の温かい言葉に、心配はなりを潜めて、代わりにちょっとした罪悪感が鎌首をもたげた。あたしを心配してくれる優しい二人の気持ちが嬉しかった。

二人はまた視線を交わして、ラウラ様が少し申し訳なさそうに話を切り出した。

「こんな話、あまりするものじゃないんだけど…

貴女がここに来たばかりの時は、私たちも少し心配してたのよ。

貴女が引き取られた時の話を聞いて、何か問題を起こしたらどうしようと思っていたんだけど…」

「君は私たちが心配するようなことは何もなかった。むしろ、自分たちの考えが恥ずかしくなるほど君は良い子だった。

仕事は何でも頑張って取り組んでいたし、大変だったろうが行儀を覚えて、今では素敵なお嬢さんになった」

「こんな話してごめんなさいね。でも、そうだったからこそ、私たちは本当に貴女の事を高く評価しているの」

シュミット様たちはずっと思っていたであろうことを、隠さずにまっすぐに話してくれた。

手癖の悪さで捕まった子供だ。しかも、ここに来る前は傭兵団で雑用をしていたし、問題のある子供を引き取ることに、二人とも頭を悩ませたことだろう。

それでも、二人から真面目に仕事をしてたと認められていて、色眼鏡の無い評価を貰えた事が嬉しかった。

二人の言葉に目頭が熱くなった。泣きそうになったあたしの前に、シュミット様がハンカチを差し出してくれた。

お礼を言って、ハンカチの形をした優しさを受け取って泣き顔を隠した。

あたしの涙が止まるまで待って、ラウラ様はまたゆっくりとした口調で話を切り出した。

「ねぇ、ライナ。貴女が良ければだけど、私たちの子供になってくれないかしら?」

「…え?」

「本当はもっと早く伝えようと思っていたんだけどね。色々あって、遅くなってすまない。

君はケヴィンと年齢も近いし、あの子も私たちもよく知ってる娘さんだ。旦那様たちも、君ならと喜んでくれるはずだ。

是非、あの子の婚約者になってくれないか?」

二人からの突然の申し出に驚いて固まっていると、シュミット様は困ったように笑って、今迄の経緯を教えてくれた。

「少し前に旦那様を通じて、大ヴィンクラー殿から縁談を頂戴したんだ。

大ヴィンクラー殿ももうご高齢だし、君のことが心配だったんだろう。

私たちもケヴィンにいい相手が無いかと思っていたところでね。君がケヴィンの相手であればシュミット家にとっても良い話だ。

ケヴィンも君の事を気に入っているようだし、このまま話を進めたいと思っているのだけど、どうだろう?」

「ライナ。これはお願いであって強制ではないのよ。私たちが勝手に決めて、貴方たちの気持ちが置き去りになるようなら、それはそれで良い結果にはならないでしょうから…

だから、貴女の返事を大切にしたいの。まだケヴィンには伝えてないわ。あの子に変に期待させるのは可哀そうですもの」

「でも…ケヴィンの気持ちは?」

「あぁ、それは気にしなくていい。もうケヴィンの気持ちは決まっているようだしね」

「…それって」

「君次第ってことさ」

意味深な答えかたをして、シュミット様とラウラ様が顔を見合わせて笑顔を交わした。

そうなの?

ケヴィンはいつもラウラ様みたいにニコニコして、誰にでも優しくて、あたしを特別に思っている様子なんてなかった。

あたしが気付いてなかっただけ?

そう言えばユリアもそんなこと言って…

今までの自分の鈍さに気付いた瞬間、とんでもなく恥ずかしくなる。

帽子の件も?いや、もっと前からだったかも知れない…

自分の事でいっぱいいっぱいで、ケヴィンの気持ちに全く気付いてなかった。

「突然こんな話をされても返事なんかできないだろう?返事は急かさないし、私たちも君に強制したいとも思ってないよ。

私たちだって今のような関係になるまで時間がかかったし、一筋縄ではいかなかったからね」

「そうよ。何度振っても諦めないんだから…最後には私が折れちゃったわ」

「諦めが悪くて良かったよ」と嬉しそうに笑うシュミット様と、困り顔を作りながらも、夫の隣で微笑むラウラ様の姿は幸せそうな夫婦に見えた。

この人たちは、あたしとは縁遠い、理想の夫婦で両親だろう…

あたしの心に誰もいなければ、きっと頷いていたはずだ。

「あの…あたし、ケヴィンは好きですけど…そういう好きじゃなくて…」

「そうかい?まあ、嫌いでないなら少し考えてくれないか?

あの子は賢くて優しいけど、男として頼りになるかと言われると微妙だ。

でも、あれから剣術にも真面目に取り組んでいるし、弱かった自分を悔いている。あの子もこれから成長するはずだ」

「ライナがいてくれたら、あの子ももっと成長できると思うわ。だから、お願い。少しだけ考えてあげてちょうだい」

二人に《考えて》とお願いされて、断ることはできなかった。

シュミット様たちにお茶のお礼を言って、部屋を後にした。

二人とも、あたしを本当に家族に迎えてくれる気でいるのだろう。その気持ちはとても嬉しい。

厳しい時もあったけど、あたしを自分たちの子供と差別したりすることは無かった。むしろ愛情深く、あたしがお屋敷に溶け込めるようにと、心を砕いて接してくれていたと思う。

ケヴィンとの縁談を引き受けてくれたのも、きっと優しさからだ…

だって、シュミット家には、私を引き取ったところで何のメリットもないのだから…

その優しさを無下にすることはできなかった。

でも…好きなのはケヴィンじゃないんだもん…

そんな事を想って、胸の奥でキュッと縮むような痛みを覚えた。

こんな話、誰にもできない…誰も聞きたくないだろう…

重い憂鬱を抱えたまま、ふと窓の外に視線を向けて、ルドが言っていたことを思い出した。

『アダムは何でもお話聞いてくれるよ。内緒は内緒にしてくれるの』

アダムは元々聖職の仕事をしていて、他人の懺悔などを聞いていたとケヴィンも言っていた。

あたしのも聞いてくれるのかな?

そんなことを思いながら、あの明るい茶色の髪をした背の高い影を探しに、お屋敷の裏に足を運んだ。

✩.*˚

馬場に連れ出した馬たちを眺めて、ひっそりとため息を吐いた。

アーサーと話をして、やはり今回のアンネ様の件は異常なのだと理解したが、やはり断る理由が見つからない。

「…どうしたものか…」と呟いてまたため息を吐くと、目の前にやって来た黒い仔馬が不思議なものを見るような顔で、首を傾げながら私を見ていた。

「やあ、ナハト」

名前を呼ぶと、仔馬は見ていたのを誤魔化すように頭を振り回して、跳ねるような足取りで母親の元に戻って行った。

ナハトはアイリスのお腹の下に潜り込むと、母親の陰に隠れながらまた私の様子を伺っているようだった。

黒い仔馬は好奇心が強いようで、しばらく私を見張っていたが、大好きなザラが近づいてくると母親の陰から出て、仲良く足並みを揃えて馬場で遊び始めた。

子供らしい反応に癒されて、悩みを振り払うようにため息を吐いて、空になった馬房に戻った。

掃除して、寝藁も交換しなければ…

することは沢山ある。悩んでる暇なんてないはずだ。

屈んで古い藁を集めていると、不意に後ろから私を呼ぶ声がした。

「いま、忙しい?」と訊ねた少女の顔を見て、藁を集める手を止めた。

何やら助けを求めるような、困った顔している少女に、『忙しいので、後で』と言う事は出来なかった。そうすれば、きっと彼女は遠慮して、もう私に相談には来ないだろう。

「どうしましたか、ライナ?」

「あ、あの…アダム…話、聞いてくれる?」

不安そうな声が私の気を引いた。

彼女の手は、緊張した様子でスカートを強く握っていた。

きっと彼女は勇気を出して、私のところに来たのだろう。

誰かに話を聞いて欲しいが、きっと他の近しい人には話せないような話のように思えた。

「話を聞くのは得意ですよ。秘密にした方が良いお話ですか?」

「…うん」

「そうですか」と頷いて、彼女を新しい干し草の上に座らせた。

彼女は確認するように「誰にも言わないでね」と前置いて話を始めた。

「アダムはさ、《自分が好きな人》と、《自分を好きな人》とならどっちを選んだらいいと思う?」

これはまた難問を持ってきたものだ…

理想的なのは《好きな人》だろうが、彼女はそういう答えを求めてはいないのだろう。

「《好きな人》とは両思いではないのでしょうか?」

「うん。でも好きのままなの…

《自分を好きな人》のことは友達とか、家族とか、そんな感じの人…」

「これは難しいですね」

彼女の抱える問題は、私の抱えている問題と似ているように思えた。

アンネ様は妥協で私を選んだが、本命はこのお屋敷に残り続けて、奥様のために人生を捧げることだ。

相手が誰かは知らないが、ライナも妥協すれば幸せになれる未来があるのかもしれない。でも、そうなれば、彼女の心には残念な遺恨が残り続ける事だろう。

それを青春だと割り切るには、彼女はまだ幼すぎる気がした…

「すみません。私ではその難問にお答えすることはできそうにないです」

「アダムは…そういう人いないの?」

「私は若い頃から聖職に就いていましたし、環境的にも聖職以外の女性との接点はほとんどありませんでした」

「でも、今は関係ないんでしょ?好きな人とかいないの?」

答えの無い自分の問題を置き去りにして、彼女は私に質問を続けた。

「私は…」

応えようとして言葉が詰まった。

私の淡白な感情の中にも、わずかに人らしい感情があることはある。

女性との交わりを嫌悪する聖職者もいたが、私の感情はそれとは違っていた。

人は等しく《救い》の対象なのだ。それが私の心に刻まれた、シェリル様の尊い教えだ。

そこに特別な感情が宿れば、私は人を平等に扱うことはできなくなってしまうだろう。

それは聖職者としては致命的な欠陥になりうる。

崇高な神の代理人である聖職者に、個人の感情は必要ない。そう考えて、私が無視し続けていた問題だ…

今でもそれを避け続けて、あまつさえ返事を後回しにしている。私はアンネ様のせいにして、彼女に向き合うのを避けているのだ…

こんな私が、少女の懸命な恋に口出しするのはおこがましいだろう…

「私は《愛》を説くことはありましたが、《恋》という感情については未知です。お役に立てず、申し訳ありません」

「今まで誰もいないの?」と訊ねるライナは信じられない様子だ。その正直な視線は私の未熟さを責めているように感じられた。

「がっかりさせて申し訳ありません。

こんなことを年頃の女の子に話していいものか分かりませんが、私は女性とお付き合いしたことも、交わったこともありません」

「…マジ?」

「残念ながらマジですよ」と彼女の若い素直な反応に苦笑いが漏れた。

どうやら私は彼女にとって理解できない生き物らしい。確かに、私のこれは生き物として致命的な欠陥と思われるようなものだろう。

「私も一つ、君に意見を貰ってもいいですか?」

「え?何?」

「そんなに構えないでいいですよ。女性の視点からの忌憚の無い意見を頂戴したいだけです」と伝えて、女性代表としての意見をライナに求めた。

「ライナ。君は結婚する相手に何を求めますか?」

「…求めること?」

「えぇ。《男らしさ》とか、《養ってくれる》とか、そんな簡単な答えでいいんです。結婚相手に望む、最低限のことって何でしょうか?」

私の漠然とした質問に、彼女はしばらく黙り込んで考えこんで、迷いながら自分の言葉で答えをくれた。

「…あたしは…《一緒にいてほしい》かな…」

彼女の答えは驚くほどささやかなものだった。

「だって、好きな人なら一緒にいて欲しいもん…一緒に居たいから、結婚するんじゃないの?」

なるほど…

彼女の幼い答えは尊い真理のように私の心に馴染んだ。

私は、《一緒にいてほしい》存在を目指すべきなのだろうか?

この答えはあくまでライナの結婚相手に求める条件だ。アンネ様に当てはまることではないのかもしれない。

では私はどうなのだろう?私はアンネ様に、《一緒にいてほしい》と望むのだろうか…

彼女の言う《夫としての役割》が肉体的な意味だけでなく、存在として必要ないという意味なら、確かに私はアーサーの言う通り彼女に必要とされていないのだ…

私に彼女は救えない…

私はもっと彼女を知るべきなのだ…

彼女がなぜそんなことを望むのか、知らずにその役割を引き受けるべきではない。

「…ありがとう、ライナ。おかげで少しだけ、分かった気がします」

「え?何が?」

「私が愚かだったということに気付きました」

「…ふーん…まぁ、良いけど…あたしもアダムの質問でちょっと答え出たし」

そう言って彼女は干し草のソファから立ち上がった。

「やっぱり、《一緒にいたい人》が一番だね」と彼女は少し寂しそうに笑った。どうやら、私とライナの悩みはどこか共通しているものだったらしい。

少しだけ大人びた表情になった少女を見送って、残っていた自分の仕事に戻った。

✩.*˚

『お役目が終わりましたら、少しお話できますか?』

奥様と学校から戻った時に、アダムから声を掛けられた。

やっと返事がもらえると思った。随分時間がかかったが、あの人の良い彼が色の良い返事をくれるものだと期待していた。

『厩舎でお待ちしております』と、彼は人目を避けられる場所を指定した。

どちらかの部屋に行くより良い。誰かに見られるのも面倒だし、話を聞かれては元も子もない。

奥様を寝室にお送りして、裏庭に足を運んだ。

月明かりのおかげで、灯りを持たなくても足元ははっきりと見えていた。

厩舎の前に立っている人影も、誰かはっきりと分かるくらいだ。

「このような場所にお呼び立てして申し訳ありません」

待っていた男は私に気付くと、そう詫びて頭を下げた。

「いえ、私もこの方が都合が良いです。それより、お話とは?」

「いくら考えても、お返事が思いつかなかったのです。

そういえば、アンネ様の真意を聞いておりませんでした。これでは私もお返事ができません」

「そんなことを言うために呼び出したのですか?」

求めていたものとは異なる彼の言葉に苛立ちを覚えた。

受けるか、受けないか。

私はその返事を待っているというのに…

「お返事を頂けないならそうおっしゃってください。他を当たりますから」

苛立ちは棘を纏った言葉に変わって口からあふれた。それを聞いたアダムは困ったような顔を作ったが、それは不快というより、相手は心配するような表情だった。

「申し訳ありません。しかし、私はアンネ様の事を知らなすぎます」

「形だけなら問題ないはずです。貴方はそれ以上を求めるのですか?」

「アンネ様。そのように構えないでください。私はこの歳まで童貞だった男です。今更、女性を求める気はありません。

しかし、結婚するとなれば、周りはそうは見てくれません。少し風変りに思われる程度ならいいでしょうが、奥様たちに怪しまれるような関係では意味がないのではないですか?」

「…それは…そうですが」

「私もその件を追及されれば、旦那様や奥様に隠し通すことは難しいかと思います。良心に逆らい続けるのは難しいです」

彼の言う事は正しいのだろう。確かに、結婚してしばらくは隠せるだろうが、長くなれば隠し通すのは難しくなる。アダムはそのことを言っているのだろう。

「アダムの考えは分かりました。確かにその通りですが、私には結婚した事実があればいいのです。それではいけませんか?」

「私は不服です」と、アダムははっきりと私の考えを否定した。

彼がこれほどはっきりものを言うとは思っていなかったので、少し驚いた。

「アンネ様。私はアンネ様がお困りであれば、できる限りその悩みを取り除くお手伝いはしたいと思っています。

ただ、今のままであれば、私はアンネ様のお力にはなれません。

旦那様も奥様も、アンネ様の幸せを望んでおられます。きっと望まない結婚を押し付けるよりは、アンネ様のお気持ちを大切にされるはずです」

「…でも…」

「アンネ様が申し上げにくいのであれば、私が代わりにお二人にお伝えいたします。お二人とも、必ず耳を傾けて下さることでしょう。

ですから、アンネ様はアンネ様の想う方を見つけて、幸せになってください」

アダムは本当に私のために心を砕いて、私の馬鹿な願いに対してこの答えを出したのだろう。

それでも…私の恋は叶わないのだ…

喉に言葉が引っ掛かって、言葉の代わりに涙が溢れた。

アダムの言う通り、好きな人と幸せになれるなら、そんな理想的な事は無いだろう…

「無理だもの」と泣き言が洩れて、視界が滲んだ。

涙は気持ちに反して止まらない。

堪えていた分、一度堰を切った感情はなかなか抑える事は出来なかった。

自分を慰めるために、こっそりと撫で続けた黒貂の毛皮が手元にないのが悔やまれた。

「すみません」と詫びる言葉がして、涙で滲んだ視界に何かが差し出された。

申し訳なさそうな顔のアダムが差し出したのは薄汚れた布だ。

「綺麗なものではありませんが…とりあえず、これしかないので…」

元々は白かったであろう布は使い古されて、薄汚れて少し湿っていた。

受け取って顔に近づけると、布からは男の汗の匂いと土の匂いがした…

「どなたか…お好きな方がいらっしゃるのですか?」と訊ねるアダムの言葉に逡巡してから、観念して頷いた。

彼の笑う気配がした。きっと呆れているのだろう…

普通なら私の身勝手な行動を責めるはずなのに、彼の口から漏れた言葉は、「よかった」という安堵の言葉だった。

「アンネ様のお気持ちを確認できて良かったです」

「…身勝手だと…怒らないのですか?」

私の言葉に、アダムは柔らかく笑って応えた。夕日のような色合いの瞳は、薄暗い月明りの中でも温かな光を宿していた。

「私にアンネ様を叱る権利などないのです。

私はアンネ様とは比べる事さえできないほどの罪を犯した人間なのですから…

神の名の許に、人の命を奪い、救える人を見殺しにした大罪人です。私はその罪滅ぼしに、このブルームバルトのために命を捧げる覚悟でいます。

アンネ様が悩まれているのでしたら、私は問題が解決するために、できる限りの手助けをするつもりでいます。

でも、その場しのぎでは意味がありません。アンネ様の納得される形で解決されることが私の望みです」

聖職を離れてもなお、彼は他人のために生きている。

身勝手な自分の考えが恥ずかしくなるくらい、彼は優しく清らかな人だった。

彼の綺麗な瞳に映る自分はなんて醜いのだろう…

まっすぐに彼を見上げる事が出来なくなって、逃げ出した視線は下を向いてしまった。

いたたまれない思いで、手の中のくたびれて汚くなった布を見つめていた。

「…もう…戻ります」

「アンネ様?」

「無理を言って申し訳ありませんでした。おやすみなさい…」

一方的に告げて踵を返した。

身勝手な酷い女だ…

アダムの無欲な優しさが、私には痛いほど眩しい。

私は利用しようとしていただけなのに…彼に何も与えようとしていなかったのに…

それなのに…こんなの惨めすぎる…

早足で逃げ出した私の後ろから、追いかけてくる足音と男の声が聞こえた。

「アンネ様」と呼ぶ声は何やら必死な響きを含んでいた。

「私で宜しければ、いつでもお話を聞きます。答えは出せないかもしれませんが、秘密は守ります。それでよろしければ、またお声をおかけください」

背中に届いたその言葉を最後に、追ってくる足音は止まった。

狡いわ…最後までそんな優しいなんて…

自分の部屋に逃げ込んで、持って帰って来てしまった布の存在に気付いた。

今更これを返しに行くのも気が引けた。

くしゃくしゃになった布を広げて、キレイに畳んでいると、布からアダムと同じ匂いがした。

汗と土の匂い…

その布が汚いとか臭いとか、そんな風には思わなかった。むしろ彼の分身のように思えて、畳んだ布を胸に抱いた。

私はなんて馬鹿だったのだろう…

今更、彼を好きになる資格なんて、私には無い。

私は自分から、その権利を手放してしまったのだから…

✩.*˚

アルノーが久しぶりに《燕の団》に顔を出した。

杖を支えにして足を引き摺っていたが、まあ、それ以外は元気そうに見えた。

「迷惑かけたな」

「もう良いのかよ?」

「ああ。ちょい歩きにくいぐらいだ。俺は運が良かったみたいだな」

親友はそう答えると、杖を支えに右足のズボンを捲って見せた。

酷い傷だったのに、傷口は裂けた痕を残してキレイに塞がっていた。それはまるで、ずっと昔に負った傷のようだ。

「信じらんねぇだろうがよ、ライナが治してくれたんだぜ」

「…は?ライナが?」

「あぁ、あいつの《祝福》らしい。少し痺れが残ってるけどキレイなもんだろ?あいつには感謝しきゃな」と答えてアルノーは思い出したように笑った。

そんな話は初耳だ。あの雨を降らすへんてこなヒヨコにそんな能力があったのだろうか?

スーでさえ『難しい』と言っていたくらいの重傷だったのに…

いぶかしむ俺にアルノーはスーの所在を訊ねた。

「いるよ」という俺の返事にアルノーは頷いて、杖をつきながら建物に向かって歩き出した。

杖を支えに歩くアルノーの姿にショックを受けた。

こうなる前の彼の姿を知っているだけに、胸の奥がざわついた。

「待てよ、俺も行く」と告げて、アルノーの隣に並んだ。拠点内にも階段や段差があるから心配だ。

「足の具合は?」黙っていられなくてアルノーに足の具合を訊ねた。

「まあ、痺れてるような感じだな。慣れるまでなんか気持ち悪いけどよ、慣れたら普通に生活できるさ」

アルノーは前向きな返事を返したが、それが強がりのように聞こえた。

俺たち傭兵にとって怪我で済んだら《運がよかった》って部類だ。それでも、それは復帰できるぐらいの怪我の話だ。

中途半端な怪我なら死んだ方がましとも思える…

本当に確認しなきゃならないことを口にすることができずに、気が付けばアルノーと二人で団長の部屋の前に立っていた。

「よお」と軽い挨拶を投げたアルノーに、スーは似たような軽い返事を返した。

あまり驚いていない様子を見ると、スーはアルノーが来ることを知っていたようだ。部屋にはいつもの顔ぶれが並んでいた。

「座れよ。俺に話があるんだろ?」とスーはアルノーを部屋に招いた。

その空気に嫌なものを感じて部屋を離れようとしたが、スーがそれを許さなかった。

「カイ、お前もだ。座れ」

「俺も?」

「当たり前だろ?俺たちは《河越え》した仲だろ?」

「だってよ?いいからドア閉めてこっち来いよ」とイザークも軽口をたたいた。その軽い口調も、いつものイザークからすれば違和感のあるものだ…

全員が席に着いたのを見て、スーがアルノーに「で?」と話を促した。

そのスーらしい横柄な態度に苦笑いを浮かべて、アルノーが口を開いた。

「負けちまった。悪かったよ…」

「まあ、結局勝ったのは俺を抜いたらカイだけだったしな。

ディルクはそもそも試合してないし、イザークも引き分けだ。でも負けて足引っ張ったのはお前だけだよ」

「厳しいの…」

「何だよ?『気にするな』とか『お前は頑張ったよ』って優しくしてもらえると期待してたのか?」

「いや。それこそ気持ちわりぃや」とアルノーは厳しいスーの言葉に苦く笑った。その顔は寂し気でもありながら現実を受け入れていた。

微妙な沈黙を挟んで、スーは大きなため息を吐くと、気が進まない様子でアルノーに訊ねた。

「…ワルターから話は聞いてる。右足は?どうなんだ?」

「支えがあれば歩く分には問題ねぇよ。ただ、痺れてるから踏ん張りはきかねぇな…でもこれ以上は望んじゃいねぇよ。満足だ」

「そうか…」と呟いたスーの声は残念そうな響きを含んでいた。

「あぁ」と頷いて、アルノーは首から下げていた《犬》の証を外して目の前の机に置いた。

俺も同じのを持っている。スーが《犬》に配った《首輪》だ。

《首輪》を返す理由は一つだ…

「世話んになった…あんたの《犬》は楽しかったよ」

「随分潔くやめるんだな」と呟いて、スーはアルノーの《首輪》を拾った。

「足手纏いになるのは御免だ。それに、残って煙たがられて辞めるより、こっちの方が格好がつくだろ?」

「その足でこれからどうすんだよ?」と、黙っていられなかったイザークが口を挟んだ。

イザークもアルノーのこれからが心配なのだろう。イザークだけじゃない。口にしないだけで、俺もディルクも同じ気持ちだ。

その気持ちはアルノーにも伝わったようだ。

「まぁ…予定は狂っちまったが、やりたかったことするよ」と、アルノーは少し明るい声で答えた。

「やりたい事?何だよ、それ?」

「傭兵辞めたら飯屋やろうと思ってたんだよ。さすがにゲルトの爺さんほど傭兵続ける気もないしな…

嫁さんももらったし、俺は飯作るのも食わせるのも好きだからよ、天職だろ?」

「お前、金勘定できるのかよ?」

「まぁ、その辺は自信ないけどよ。何とかなるだろ?」

細かいことを気にしない、アルノーらしい言葉にスーも呆れて返す言葉が無いらしい。

確かにアルノーは前にそんなことを言ってたような気がする。マジで言ってるとは思ってなかったが、本人はマジだったらしい。

「へぇ、じゃあ、俺ちゃん毎日食いに行ってやるよ」

「ちゃんと金払えよ?前払いだ。ツケはしねぇからな」と、アルノーはしっかりイザークに釘を刺した。

イザークと軽口をたたく姿は悲壮感とは無縁で、それだけが俺にとっては救いだった。

「まぁ、当分先だろうけどな…店の用意もあるし、すぐにってわけじゃねぇよ。

それまではしばらく《燕》で雑用として雇ってくれよ」

「潔く辞めるんじゃ無かったのか?」

「そのくらい良いだろ?それともお前らしばらく不味い飯食う気か?」と、アルノーは痛いところを突いた。

確かに飯ならアルノーが作るのがいい。

スーもアルノーに仕事を与えることを承諾した。

見舞いだと言って、スーはアルノーにいくらか纏まった金を渡した。

「こんなにもらっていいのか?」

「前払いの分も入れとけよ?

それと、店を開けたら俺たちに今回の負け分の酒ぐらい馳走しろ」

「へぇ。そんなんで良いんだな」期待をされたアルノーは嬉しそうだ。

「なぁ、店出すなら《燕の団》の近くにしてくれよ」と、イザークが我儘を言った。アルノーもそれは考えていたようだ。

「近場で店が用意できるといいんだけどな。領主様が許してくれるかね?」

「ワルターならいいって言うさ。話しておいてやるよ」と、スーも乗り気だ。

「お前も食いに来いよ?」と上機嫌のアルノーが俺にも話を振った。

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