燕の軌跡

猫絵師

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鈍感

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この服に袖を通したのは久しぶりだ…

ヴェルフェル侯爵から拝領した礼服を引っ張り出して着替えながらため息を吐き出した。

『悪いな、アダム。親父がお前の世話焼くって言ってきかねぇんだ。断るなら断っていいから、親父の顔だけ立ててやってくれよ』と、旦那様にまで頼まれて仕方なく見合いをすることになってしまった。

『一番いい服着てこい』と言われ、引っ張り出したのがこの服だ。

まさか、こんなことで着るとは思っていなかった…

こんな立派な仕立ての服を着て行って、期待していると思われないだろうか?

この礼服は自分には不相応な高価な品だ。変な勘違いをされても困る…

そもそも、何でこんなことになった?

相手は私の事をどのように聞いているのだろうか?

私みたいな経歴の男との見合いを受け入れるなんて、いったいどのように話がいっているのだろう?

考えれば考えるだけ鬱になっていく…

何回目か分からない深いため息を吐きだしたが、鬱な感情は簡単には追い払えなかった。

それでも私の気持ちとは関係なく、約束の時間は容赦なく迫ってくる。

人を待たせるのは良くない…

そう自分に言い聞かせて、気が進まないまま、身なりを再度確認して部屋を出た。

私には親族がないから、旦那様が親族の代わりに付き添いをしてくれるそうだ。いないよりは心強いが、なんとも複雑な気分だ…

用意ができたので旦那様を待たせている居間に足を運ぶと、お嬢様と遊んでいた旦那様は私の姿を見て意地悪い顔で笑った。

「お!なかなか男前に仕上がってるじゃないか?」

「からかわないでください…」

「そうか?フィーもアダムこっちの方がカッコいいと思うだろ?」

「うん。かっこいいよ。でも剣持ってないの?」

お嬢様のカッコいいは少しずれているな、と思いながら苦笑いで返した。

「それは今日必要ないからいいの。今からちょっと用事があるから、また後でな」

「お爺様は?」

「親父も用事だから、ミリーたちと遊んで来いよ。用事が済んだら後で顔出すよ」

「はぁい」と、つまらなそうに返事をして子供部屋に行くお嬢様を見送ると、旦那様は「行くか」と告げて席を立った。

「あんまり緊張するなよ」と、気さくな感じで肩を叩かれたが、今から見合いをするというのに緊張しない方がおかしい。

旦那様に付き添われて客間に向かうと、綺麗に整えられた部屋には既に大ビッテンフェルト卿の姿があった。

机の上には綺麗な花が飾られていて、このためだけに準備された部屋の雰囲気に居心地の悪さを感じた。ここまでして引き合わせたい相手とは一体…

今更、アンネ様の提案に乗っておけばよかったかもしれないと、狡い考えが頭を過ったが、そんな都合の良い理由で彼女を巻き込むのは申し訳ないと考え直した。

「おう、なかなか似合っているじゃないか?」

私を上から下まで眺めて、卿は満足げに笑った。褒められたのは私なのに旦那様も自慢げに頷いて答えた。

「だろ?こいつ小綺麗にして、良い服着せたらなかなか男前なんだ。名のある騎士の家柄って嘯いても疑われないだろうよ」

「はっはっはっ!そいつは良い!何なら俺の息子って紹介してやろうか?」と豪快に笑う卿はご機嫌だ。本当に悪乗りでそう紹介されそうで、どうお断りしたものかと困った。

見合いが始まる前から気疲れしていた。できる事ならもう逃げ出したい…

楽しそうな親子の会話を愛想笑いと空返事で聞き流している間も、無情にも時間は進んでいた。

しばらくして、見合い相手の用意ができたと、シュミット様が部屋に報せに来た。

「おぉ、来たか」と出迎えるように笑顔を作った卿は、シュミット様に相手をお通しするように指示した。

「お待たせいたしました」と聞きなれた声が部屋に響いた。

シュミット様が抑えていたドアから入って来たのは奥様だ。

突然の奥様の登場に驚きを隠せないでいると、奥様はクスクスと面白そうな笑顔で旦那様に目配せした。

旦那様は知っていたのか、驚いた様子もなければ、奥様と同じようにいたずらっぽく笑っている。

「彼女の親族は来れないから、テレーゼが相手の身元保証人になったんだ」と旦那様が私にこっそり耳打ちした。

奥様はお辞儀して後ろを振り返ると「入って」と誰かを呼んだ。

奥様の合図で、奥様より少しだけ背の高い女性が部屋に入って来た。彼女は黒いレースのヴェールの付いた帽子をかぶっていて、顔を確認することはできなかった。

まるで未亡人のような見合い相手の姿に、何か訳ありなのだと察した。そうでなければ訳ありの男の見合いなど引き受けないだろう…

「そろいましたな。お二人ともどうぞおかけください」

場を預かる大ビッテンフェルト卿が仲人の仕事を始めた。

向かい合う席を勧めて、見合いが始まったが、相手の女性はヴェールも帽子もそのままだ。彼女は会釈をしたのみで、一言も声を発することは無かった。

見合いというのは初めてだが、これが普通の見合いではないことはなんとなく理解できた。

しかし、私の違和感を他所に、仲人の司会で見合いは進んでいた。

卿は慣れた様子で世間話程度の挨拶を済ませて、お互いの自己紹介になった。

どうやら男の方から名乗るのが筋のようだ。旦那様に肘で催促された。

「ロンメル男爵家預かりのアダム・マクレイです」と名乗ると、ヴェールの下で頷いた女性は隣に座っている奥様に視線を向けた。

「ヘルゲン子爵家にお仕えする騎士バーデン卿の長女アンネローゼ嬢です」と奥様が代わりに彼女を紹介した。

奥様は微笑みながら彼女の帽子とヴェールの理由を告げた。

「顔を隠したままで不作法でごめんなさいね。でも、彼女とてもシャイなの。慣れるまでこのままでお願いできるかしら?」

なるほど…そういうこともあるのか…

彼女の身なりからそれなりに良い家柄だと想像できた。

彼女も私と同じく、異性が苦手なのかもしれない。

話を進めていくうちに分かったことは、彼女は長く奉公に出ていたので家族とは疎遠になっており、良縁を結ぶには難しい年齢になってしまっているということだった。

生家からの支援は無く、このままだと彼女は独り身を通すことになるか、引き受けてくれる相手が現れるまで見合いを続けなければならないから困っているのだという。

そんな彼女を不憫に思って、大ビッテンフェルト卿が丁度良いと私と引き合わせたそうだ。

話を聞いて、彼女の境遇には同情したが、私には彼女の人生を預かるという選択肢は持ち合わせていなかった。

彼女もこんな困った状況でなければ、私のようなオークランドからの亡命者を見合い相手に選んだりしないだろう。

彼女の境遇に耳を傾けながら、私の頭の中には、結婚を持ちかけた別の女性の顔がちらついていた。

妙な違和感を抱えたまま、見合いの話はつつがなく進んだ。

こんなに奇妙な見合いなのに、話が問題なく進んでいるのは、大ビッテンフェルト卿の司会が上手いからだろう。

アンネローゼ嬢は相変わらず奥様を通して話をしていたが、それももう気にならなくなっていた。

彼女は見合いが終わればすぐに帰るだろうし、申し訳ないが彼女とはそれまでの縁だ…

それにしても、見合いがこんなに疲れるものだと知らなかった。アンネ様が断り続けた理由がなんとなく分かるような気がした。

彼女は美人だし、行儀も完璧だ。普通の男性なら彼女を妻にと求めるだろう。

その気の無い相手と顔を合わせただけでも面倒なのに、断ることを考えればうんざりするのは間違いないだろう。

不思議な事に、目の前の顔も声も分からない女性より、この場にいない女性の存在が私の中で大きくなっていた。

最近は彼女の方から私を訪ねてくることが増えた。彼女からすれば、私は吐き出すには丁度良い相手だったのだろう。

誰とは聞いてないが、アンネ様にも好きな人がいたことを聞いた。奥様への想いも、結婚をしたくない理由も話してくれた。

最初は堅かった表情も少しずつ柔らかくなり、先日は話をしながら少しだけ微笑んでくれた。あれは何の話だったろうか?本当に些細な事で忘れてしまった…

彼女は私が見合いをしたと知ったらもう会いに来てくれないだろうか?

勝手な考えだが、それがとても残念に思えた…

少しばかりぼんやりしていて、話を聞き漏らしていた。

「アダム、話聞いてたか?」と旦那様の呼びかけで慌てて視線を上げた。

大ビッテンフェルト卿が咳ばらいをして、おそらく繰り返しになる話を続けた。

「失礼。彼も緊張しているようです。

慣れない場でお疲れでしょう?お互いにお返事はすぐには出せないでしょうから、追ってお返事することで宜しいでしょうか?」

卿の提案にアンネローゼ嬢も頷いて、奥様に何か囁いていた。彼女の言葉を受け取った奥様は小さく笑うと私に視線を向けた。

「彼女貴方の事が気に入ったそうよ。お返事が楽しみですって」

「は、はは…光栄です」

「うふふ。バーデン令嬢は今日は当家に逗留されるわ。今からお帰りになると夜になってしまうものね。夕餉はご一緒しましょうね」

奥様の言葉に驚いて、慌てて旦那様の顔を見たが、旦那様は他人事のように涼しい顔で「そうだな」と頷いている。

まさか…まだ続くのか?

「夕餉にはヴェールは邪魔だから取るそうよ。アダムも一緒してくれるわよね?」

「は、はぁ…私がですか?」

「あら?何か不都合かしら?」と、奥様は残念そうな表情を見せた。私が喜ぶと思っていたのだろうか?

アンネローゼ嬢をちらりと盗み見たが、彼女の表情も感情も読み取ることはできなかった。

見合いはまだ終わらないようだ…

ため息をこらえて、笑顔を作ったが、その顔はとても滑稽に見えた事だろう。

いっそ私もヴェールが欲しかったな、とつまらない考えが頭を過った。

✩.*˚

「もういいわよ、アンネ」

アダムらと別れて、《バーデン令嬢》に用意された部屋で帽子を取ってヴェールを外した。

アダムは最後まで私に気付かなかったようだ。

顔を合わせてすぐに破談になるのは私としても辛いから、話が進むまで正体を隠しておこうという事で帽子とヴェールを着けていたのだが、それが仇になった。

私は本名も出していたし、家族の話なども作ったものでは無い。話はぼかしていたけど、それでも嘘を吐いたりなどはしていないのに、ここまで気付かれないのは少し罪悪感が湧く。

「彼…本当は気付いてますよね?」と奥様にも訊ねたが、奥様も同じように感じていたらしく、苦笑いを浮かべていた。

「うーん…正直、ここまで気付かないとは思わなかったんだけど…

なんかずっと上の空みたいだったから、緊張してそれどころじゃなかったのかも…」

本当にそれだけかしら?

指摘されたらすぐに正体を明かすつもりだったのに、あの様子だったら声を聞いても私だと気付かなかったのではないだろうか?

最初はノリノリで楽しんでいた奥様や大ビッテンフェルト卿が心配になるレベルだ。旦那様はあまり気にしてなかったようだが、それでもアダムの真横で時々驚いたような顔をしていた。

「まぁ、気付かないなら気付かないでおもしろ…ううん!何でもないわ。夕餉の時に驚かせましょう!」

多少本音が見え隠れしているが、奥様は奥様でやる気みたいだ。私もここまで来てしまったら引っ込みようがない。

「ちゃんとお化粧して、髪型も変えましょう。ドレスも貸してあげる。ラウラにも手伝ってもらいましょう!」

奥様はいたずらを考える少女のような顔で《バーデン令嬢》の部屋を後にした。

協力者を連れて戻って来た奥様は、色の違うドレスの束と宝石箱を部屋に並べた。

「いやはや…とんでもない鈍感ですな…」

卿のその言葉で、アダムが全く気付いてないのだと察する。旦那様も苦笑いを浮かべていた。

「いや…まぁ、なんでも受け入れる懐の広さが裏目にでたというか…」

「旦那様、それは懐が広いのではなく、興味が一切ないのです」

シュミット夫人の容赦のない言葉に旦那様は返す言葉もないようだ。でも確かにその通りなのだろう。アダムは女性に興味が無いのだ…

「こんなおもしろ…難しいことならもっと早くご相談頂きたかったですわ。

とにかく、あの取り付く島もない聖騎士様の堅いうなじを縦に動かすお手伝いをすればよいのですよね?!」

シュミット夫人は新しい遊びを見つけた子供みたいな目をしている。

「やっぱりラウラは頼もしいわ。他に必要なものある?」

「お化粧もドレスもこれでいいと思います。問題は…髪型ですね。

殿方は女性の髪が大好きですのよ。見合いなら、本当はちゃんとした髪結いを呼んだ方が良いのですが…呼んでなさそうですね…」

「それは気付かなかったわ。今から手配しても夕餉には間に合わないわね…」

「髪なら当てがある。俺ちょっと呼びに行ってくるわ」と言い残して旦那様はそう言い残して席を外した。

「ドレスをあわせますから、卿もお引き取り下さいな。用意ができたら主人か息子を呼びに行かせますから」

シュミット夫人はそう言って卿も部屋から閉め出してドアに鍵をかけた。

「さて!見合いは女の戦ですよ!覚悟はよろしくて?」

大げさなシュミット夫人の言葉に、奥様と二人で顔を合わせて苦笑いした。

✩.*˚

『ロンメルの旦那がお前に用だってよ』

イザークに呼ばれて嫌な予感がしたが、そもそも俺が呼ばれる理由なんてほとんどない。

旦那は俺の顔を見るなり人懐っこい感じで「髪結んでくれねぇか?」と言ってきた。

「俺、もうそれ辞めたんっすよ」と一応断ったが、俺の意思なんで関係ないようだ。

「そうなのか?まぁ、そう言わずにさ、うちの侍女が嫁さんに行けるかどうかの大事な見合いなんだ。今回だけ頼むよ」

俺もロンメルの旦那は嫌いじゃないし、頼られるのも嫌な気はしない。でも屋敷に行くのはどうにも気まずい…

「もう辞めるつもりだったから、道具は全部処分したんで…」

「あぁ、そんなことか。テレーゼのがだいたい揃ってるだろうからそれは問題ないだろ?とりあえず一緒に来てくれよ」と、旦那に押し切られ、屋敷に連れて行かれた。

まさか、ルカと顔を合わせるのが気まずいからなんて言えない…

顔を会わせないことを願いつつ、案内されるままに屋敷に上がった。

通された部屋にはドレスで着飾った女と、それを飾り立てる夫人たちの姿があった。片方はロンメルの奥方様で、もう一人は俺が前に髪の結い方を教えた人だ。

彼女も俺の事は覚えていたらしい。

「カイさん。来てくれたのね」

夫人は笑顔で挨拶すると、横にずれて自分の場所を譲った。

机の上には高そうな化粧品や装飾品が並べられていて、見たことない珍しい品もあった。どんな出来栄えかと思って女の顔を覗き込んで言葉を失った。

ひでぇ…

「ちょ…きつくない?」思ったことがつい口から出てしまったが、ぶっちゃけそう思ったから仕方ない。貴族の流行なのか何なのか知らないが、紅の色は強いし、目元の化粧もケバい…

やってるうちにどんどん修正できなくなったようなそんな感じ…

「だって、この方が可愛くなると思ったんですもの…」と子供のような言い訳をしながら、奥方は意気消沈していた。

どうやら奥方の加筆がこの強烈な作品を仕上げてしまったようだ。

「一回顔洗って、やり直した方がいいっすよ。もう少し薄い化粧で良いでしょ?」

「何?お前化粧もできるのか?」

「おふくろの見てたんで覚えたんっすよ。男は男の好きな化粧があるんっすよ」と旦那に答えて机の上を見た。

おしろいとは別に、キラキラ光る粉が目を引いた。仕上げか何かに使う物だろうか?見たことない珍しい粉に興味をひかれた。

俺の視線に気づいた夫人が「それは肌を綺麗に見せる粉ですよ」と教えてくれた。

「髪に使っても?」と訊ねると、夫人は「良いですね」と同意した。

とりあえず髪の前にこの化粧を何とかしないとな…

ケバい化粧を落とすと、顔がきつくなった理由がすぐに分かった。

そもそも目じりが高く眉もキリリとしている。可愛い感じ顔ではない。美人ではあるが、元が少しキツいのだ。

どうしたもんかね…

少し悩んで、彼女の顔をどうやって柔らかくするか頭の中で試行錯誤した。

夫人と相談しながら目元の配色を少し工夫して、心なしか目尻を下げさせることに成功した。

眉のカーブも工夫することで、キツめだった顔も少しかわいらしい感じに変わった。

頬紅は控えめにして、地の色の強い唇にはオレンジ色の口紅を乗せた。

『あんたガキだから知らないだろうけど、男は男の好きな化粧があんのよ』と俺に教えた母親は、会う男を代えるたびに化粧を変えていた。

子供だった俺にはあれが魔法みたいに見えていた。今ならあの女の言っていた意味が少し分かる。

髪は邪魔にならないように緩くまとめて、項の辺りに遊びを残した。耳を半分出しているのは、その方が艶っぽいからだ。

依頼人は仕上がりを見て、俺の仕事を満足して気前よく金を渡してくれた。

褒められたのも感謝されたのも嬉しかったが、何より俺自身が楽しんでいた。

やっぱり俺はこういうの好きなんだよな…

辞めるって決めたはずなのに、未練はまだ残っていた…

✩.*˚

「見合いしたんだって?」

今日は暇をしていたのか、アーサーがわざわざ私の部屋を訪ねてきた。彼は幼い息子を抱いていて、その姿はすっかり父親らしくなっていた。

「どこで聞いたか分からないけど、君を満足させるような面白い話は無いよ」

「いやいや。別に俺はロマンチックな恋物語を求めて友人に顔を見に来たわけじゃないぞ。むしろ、お前が困ってるんじゃないかと思って、アドバイスに来てやった優しい友人代表だ」

「よくそんなことを自分で言えるね…」

「まぁ。面白半分というのも無くはないがな。

それにしてもその服懐かしいな。お前が侯爵から頂戴した一張羅じゃないか?」

そう勝手に語りながら、アーサーは部屋に上がり込むと粗末なベッドに腰を下ろした。

私には招くような相手もないし、座れそうなところはそこしか無かった。

「で?見合いはどうだった?美人か?」

「本当に面白い話なんてないよ…

ヘルゲン子爵の縁者らしいが、私には不似合いのきちんとした家柄の女性だ。向こうも今頃、次を探していると思うよ」

「ふぅん…随分消極的だな」

「残念ながら、私は君のように女性を喜ばすような言葉や特技はないからね。アンネローゼ嬢もガッカリしてるだろうね…」

「アンネローゼ嬢?」

相手の名前を聞いて、子供を目で追っていたアーサーの青い瞳が私に向けられた。

「ん?あ、あぁ…名前は言わない方が良かったかな?まぁ、これきりの縁だし忘れてくれ」

「…まぁ…そうだな、フィーアじゃ珍しくない名前だしな…」

彼は自分に言い聞かせるように呟いて、危なっかしげに歩き回る息子に視線を戻した。

何も無い私の部屋は子供を歩かせるのにはちょうど良いスペースなのだろう。

物が無いから、庭を散歩させるより安心で安全だ。

「おいで、ヘンリー」

しゃがんで父親譲りの黒髪の幼児を呼んだ。子供は素直に手を伸ばして抱かれに来てくれた。

腕に抱かれた子供からは、甘い汗の匂いがした。

子供は好きだ。

ぺたぺたと遠慮なく顔に伸びる手はしっとりと柔らかい。ミルクの匂いを纏った幼子を抱くと、さっきまでの緊張が解れた。

「子供は良いぞ」

ヘンリーと遊んでいると、アーサーはからかうようにそう言った。

子供は好きだがそれは難しい。自分の子供を望むなら、その前に必要な事がある。それが自分にとって最も縁遠い事だと知っているから、その先も無理だと思っていた。

何と答えてもアーサーは上手く話を持って行くのが目に見えていたので、苦笑いをして、憧れの温もりを手放した。

幼児は手を伸ばしながら危なげな足取りで父親の元に戻って行った。

ヘンリーが覚えたての「パパ」という言葉で父親を求めると、アーサーは照れたような優しい顔で息子を抱き上げた。

息子を抱くアーサーは本当に幸せそうだ。

それが手の届かない尊いものとして、私の目には眩しく映った。

「羨ましいか?」と友人は息子を自慢した。旦那様も相当だが、アーサーもなかなか親馬鹿だ。

「難しい話じゃないだろ?まぁ、見合い頑張れよ」

「粗相しないようにするよ」と答えた私に友人は呆れたように笑った。

「誰もそんな心配してないさ。

まぁ、よく考えて返事をすることだ。お前が断りたいならそうすればいいが、少しだけ相手のことも考えてやれ。本当にお前を気に入ってくれているのかもしれないだろう?」

「そんな奇特な女性はいないよ」

「馬鹿だな。お前の部屋に鏡は無いが、鏡を見た事が無いわけじゃないだろうに…」

意味深なぼやきを残して、アーサーは子供を連れて部屋を後にした。

一人に戻ってベッドに腰かけ、さっき抱いた温もりを思い出してため息を吐いた。

✩.*˚

いつの間にか時間だけが過ぎて、窓から赤い西日が差し込む時間になっていた。

「アダム。旦那様が呼んでるよ。一緒に食事するんでしょう?」

旦那様に頼まれたのだろう。ケヴィンが私を呼びに来た。

「ありがとう。すぐに行くと伝えてください」と彼を返して、一通り身だしなみを確認した。姿見は無いが、小さな鏡くらいはある。

鏡の中には立派な服に着られた冴えない男がいた。

タイを整えて部屋を出ると、旦那様を待たせているであろう食堂に向かった。

テーブルマナーを忘れていないか心配ではあるが、失敗したら旦那様たちに迷惑をかけてしまう。

緊張しながら食堂に顔を出すと、既に席に着いていた大ビッテンフェルト卿と旦那様が談笑していた。

長い机の私の席は既に決まっていて、向かいに座る相手も決まっているのだろう。

夕餉には顔を見せると言っていたから、嫌でもアンネローゼ嬢と顔を会わせることになる。

彼女の顔を見て話すことができるだろうか?既に変に意識してしまっているので不安しかない…

「緊張しすぎだろ?」

「お前が人の事を言える立場か?お前の時の粗相を話してやってもいいんだぞ」

私をからかう旦那様をたしなめて、卿は仲人らしく世話を焼いてくれた。

「マナーはあまり気にするな。それより相手と向き合うことに集中することだ。小さい事でもいい、褒めろ。

俺やワルターに恥をかかせるくらいなら許すが、アンネローゼ嬢にだけは恥をかかせるな。これだけは絶対許さん。

後は大概どうとでもなることだ」

「は、はぁ…そんなものでしょうか?」

「そんなもんだ。とにかく相手をよく見て細かい事を褒めてやることだな。

《指が綺麗だ》とか《髪が綺麗だ》なんてことだ。少し踏み込むなら目や唇を褒められるのも女は嬉しいものだ」

「なるほど…」随分難しいことを言う…

私も、なんとなく《可愛い》とか、《美しい》は理解できるが、どこをどう褒めるかなんて分からない。

「指を褒められて嬉しいものでしょうか?」

「アダム…お前さん全く分かっとらんな…

ご婦人はな、柔く華奢でサラサラの白い手を保つのに苦労を惜しまんのだ。爪だって磨いて整えている。

お前さんだって、自分の丹精込めて世話した馬の毛艶が褒められるのは嬉しいだろう?」

「それは、もちろんそうです」

「それならよく見て褒めてやれ。

ワルター。他人事のように聞いてるが、お前にも言ってるんだからな」

「俺はちゃんと褒めてるよ」

「どうだか…俺は細かいところを褒めろと言ってるんだ。どうせお前は《可愛い》とか大雑把にしか褒めんのだろう?」

旦那様は図星だったようで黙って視線を逸らした。その嘘がばれた子供みたいな行動が笑える。

「まったく…これが俺の息子とはな…」と残念そうにぼやいて、卿は息子を「悪い見本だ」と言っていた。それでも本人の前で悪口を言うのはそれだけ仲が良いからだろう。

親子になれたのは最近だというが、それでもこの関係になれたのであればよい事ではないか?

家族というものに縁遠い自分の目には彼らの関係は好ましく映った。

そのまま三人で軽い談笑をしていると、シュミット様が来て、奥様とアンネローゼ嬢の到着を報せた。

「お待たせいたしました」と、先を歩く奥様が会釈した。昼間にお会いした時とは違うドレスを着た奥様に旦那様が不思議そうに声を掛けた。

「あれ?お前も髪したのか?」

「はい。私もしてみたくて…似合いますか?」

普段は気にしない旦那様が髪型に気付いてくれたのが嬉しかったのか、奥様は頬を染めて笑顔を見せた。

「いいよ。別嬪さんが更に別嬪さんだ」と粗削りな誉め言葉を嬉しそうな笑顔で受け取って、奥様は後ろを振り返ると入って来た扉に向かって手を伸差し出した。

奥様の白い小さな手に、扉の向こうから同じような手が重なった。

奥様にエスコートされるように現れたアンネローゼ嬢の姿に言葉を失った。

淡い紫とピンクのドレスは白い肌を引き立たせて、紗々の布に柔らかく包まれた華奢な肩は女性らしい印象を醸している。

艶めかしく伸びた首元には少し遅れた髪が落ちていて、それが大人の女性らしさに色を添えていた。

綺麗な女性だ…

美しい女性を前に心臓が跳ねた。自分も男なのだと自覚した瞬間に恥を覚え、動揺して彼女から視線を落とした。自分の抱いた感情が汚いように思えて、彼女の顔をしっかり見ることができなかった。

これならヴェールがあった方がまだ話せた…

褒めようと思っていたのに、言葉を忘れてしまったように、気の利いた言葉が見つからない。何を言っても失礼になってしまいそうで良くない…

「…あの」と、奥様のものでは無い、戸惑ったような声が響いた。

その声はどこかで聞いた事があるような気がしたが、おそらく彼女の発したもので間違いないだろう。

「…ごめんなさい…驚かせてしまって…」

アンネローゼ嬢は私の反応を悪いものとして受け取ったようで、落ち込んだような声で謝罪した。

このままでは彼女に恥をかかせてしまうと慌てた。それだけは避けなければならない。

「い、いえっ!と、とてもお美しいです!」

褒めなければ!でもどこを…指?!いや、髪か?!

慌てて彼女に視線を戻して褒める場所を探した。

「目が…星の瞬きのようで…その…すみません…上手く言えなくて…」

中途半端な誉め言葉に自分が恥ずかしくなっていたたまれなくなる。何を言っているんだ私は?

慣れない事はするものじゃないな…

本当に顔を見れなくなってしまった。こんな嘘くさい誉め言葉なんて受け取る女性はいないだろう。自分でも気持ち悪いと思う…

「これはなんとも素敵な誉め言葉ですな。女神にも勝るとも劣らない美しさに似合いの誉め言葉です」

「ですって。今夜の貴方は素敵よ、アンネ」

卿と奥様のフォローで何とかその場は取り繕う事が出来た。

私はというともう頭の中が沸騰しそうなぐらい恥ずかしくて周りの言葉なんて入ってこない…

アンネローゼ嬢は私の無礼を不問にして、「ありがとうございます、アダム」とお声を掛けて下さった。それでようやく顔を上げられた。

情けない話だが、それでやっと少しだけ彼女の顔を見ることができた。

淡い色合いの化粧を施した顔は年齢よりも彼女を幼く見せていた。愛らしい印象の女性はどこか見覚えのある顔だった…

昼間にアンネ様を意識してしまったからだろうか?あの人にどこか似ている…

まさか…もしかして?

自問自答して彼女の顔立ちを記憶の女性と見比べて、一つの結論に達した。そうだとすればなんとなく説明がつくような気がした。

きっと彼女はアンネ様のご親戚なのだ…

それなら、顔が似てるのも、声が似てるのも、名前が近しいのも全部が説明がつくような気がした。親戚の伝手でアンネ様のいるロンメル家に縁談を頼んだんだろう。

全部がすとんと嵌るところに納まったような気がして、少しだけ冷静に戻れた。彼女に抱いた感情は一転して家族に向けられるような感情に変わっていた。

「アダム。彼女をお席にエスコートして差し上げなさい」

幾分か落ち着いた私に、卿が次にすべきことを教えた。席を立って扉に向かい、彼女に腕を差し出すと、彼女ははにかむ様な笑顔でその腕に手をかけた。

アンネ様によく似てるが印象がまるで違う。アンネローゼ様は女性らしいキラキラした顔で私を見上げて微笑んでいる。どこか強がっているような印象のアンネ様とは真逆の印象を覚えた。

それと同時に、アンネ様も本当はこんな感じなのかもしれない、という思いが頭を過った。

私はまだアンネ様をよく知らない。いつも感情を殺しているような、そんな強がっている彼女の姿しか知らないのだ…

その姿がどうも私の心に引っ掛かって、目の前の女性とアンネ様を比べてしまう。

そういえば、彼女はこの見合いを知っているのだろうか?

彼女の事を思って心の奥がざわつくような後ろめたさを覚えた。

✩.*˚

自信は無かった…

きっと私の顔を見たら、彼は私の事を狡いと思うだろう。私だって、正体を隠して彼の反応を見たことを後ろめたく思っていた。

着飾って化粧をしても、中身が私であるのは変わらない。見た目で彼の心を誤魔化せるとは思っていない。彼はそういう人だ…

でも化粧をして、ドレスを着て、少しだけいつもと違う姿なら彼に対して素直になれる気がした。

笑顔も作れたし、差し出された彼の腕に触れることもできた。

「ありがとう」と自分の言葉で素直に言えた。

ずっとなれなかった女の子になれたような気分だ。恥ずかしくもあり、すごく幸せな気持ちにもなれた。

彼は私の顔を見て、少し驚いたような反応をしていたが、怒るでも追求するでもなく、いつもの優しい顔で接してくれた。

彼の引いた椅子に座って、視線はずっと彼を追っていた。

今日、今なら素直になれる…

失礼なお願いも、意地を張っていたことも謝って、貴方が好きだと伝えたい。

そうしたら、彼は許してくれるだろうか?私の気持ちを受け止めてくれるだろうか?私の恋は今度こそ叶うだろうか?

ドキドキしながら始まった会食は談笑を挟みながら問題なく進んだ。

緊張しているのか、アダムはあまり食事が進んでいないようだった。それでも話には相槌を返していたし、質問にも答えていた。

会食は雰囲気の良い感じで進み、卿もご機嫌な様子でアダムに声を掛けた。

「今まで縁談はそれなりに用意してきたが、その中でも似合いの二人だ。どうだ、アダム?急かすつもりはないが、気持ちは固まったか?」

卿は答えを求めて訊ねたのではなかったのだろう。ただ、確認のためにそう言ったに過ぎない。

それまで明るく装っていた彼の顔が、卿の質問を受けて一瞬陰ったように見えた。

すっと胸の奥が寒くなった…

「…申し訳ありません、大ビッテンフェルト卿…私はアンネローゼ嬢のご厚意にはお応えできかねます」

今まで和やかだった場が一瞬で凍り付いた。

彼は誠実な人だから、変に期待を持たせたくなかったのかもしれない。

それまでの浮かれた気分は冷や水を浴びせられたような感覚で言葉を失った。

「ま、まぁ、まだ返事は早いだろう?もう少しお互いを知ってからでも…」

「それではアンネローゼ嬢の時間を無駄にしてしまいます」

言葉を濁そうとした卿の言葉を遮って、アダムはまっすぐな目で私を見つめて詫びた。その目には申し訳なさが滲んでいた。

「申し訳ありません…見合いをする前に、はっきりとお断りするべきでした…

優柔不断でアンネローゼ嬢には申し訳ない事をいたしました。悪いのは全て私です。本当に申し訳ございません…

実はこのお話の前に私を求めて下さった方がいらっしゃるのです。その方へもお返事をきちんと差し上げておりませんでした…

ですので…どうか…」

「…その方が…お好きなのですか?」

妙に冷え切った心で搾り出した声は震えていた。平静を装うのは難しかった。

「好きかはよく分かりません…しかし、私は、彼女に対しても貴女に対しても誠実でありたいと思います」

「そう…ですか…」

彼らしい、その馬鹿正直な答えが憎かった。誠実さより、嘘でも夢を見せてほしかった…

こんなに着飾って、期待して、馬鹿みたい…同じ男に二度振られるなんて、こんな惨めな事ってないじゃない?

一刻も早くこの場から消えてしまいたかった。

何かしら爪痕を残すような捨て台詞が欲しかったけど、残念ながら何も思いつかない。椅子を立つ音が冷めきった場に響いた。

「アンネ!待って!」

奥様の引き留める言葉を無視して逃げ出すようにその場を後にした。奥様の言葉を無視したのはこれが初めてだ…

アダムを叱る卿の怒号が聞こえてきたけど、振り返らずに、スカートを抱えて早足で自分の部屋に逃げ込んだ。涙は部屋に駆け込むまで待ってくれなかった…

ドアをしめ切ってすぐにドアを叩く音が響いた。

「アンネ!ごめんなさい!戻って来て!私たちが何とかするから…アンネ…」

奥様の声と分かっていても今は聞きたくない。

耳を塞いで奥様の言葉を拒否した。期待なんてしなきゃよかった…
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