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17話
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リントン邸に忍び込んだジェラルドを静寂な闇が出迎えた。
日中から降り始めた雨は日付が変わる時刻になっても止む気配を見せなかった。
晴れていれば月明かりに照らされていた地上も、今は闇に沈んでいる。絶え間なく地面を叩く雨音はあらゆる音を消してくれ、リントン邸に足を踏み入れた侵入者を誰にも悟らせることはなかった。
使用人を数人雇っているようだが、すべて通いのため、屋敷にはカールとアデリーナしかいない。
「不用心だな……」
中産階級では珍しいことではない。この街は治安もいいから、二十四時間警備を置いているのは貴族くらいのものだろう。ターナー家も夜は家族とブライアンしかいなかった。
だが、かつてその隙をついてターナー家を襲撃したカールが、自分の屋敷の警備には気を払っていないのがなんだか滑稽だった。あの男は自分が狙われるとはつゆとも思っていないのだ。
足音を立てないように慎重に階段を登る。迷うことなく足を進め、辿り着いた部屋の扉を開けた。
室内は微かに明るかった。サイドテーブルに置かれたランプが光源となっており、そのすぐ側にはベッドがある。ジェラルドが近づくと、雨音に混じってかすかな寝息が聞こえた。
部屋の主であるアデリーナはぐっすりと寝入っていた。その傍らには本が転がっている。就寝前に軽く読書をしようとして、そのまま眠ってしまったようだ。
「ちゃんと、あのチョコを食べたんだな」
あのチョコには睡眠薬を混ぜ込んでいる。きっとアデリーナは朝まで起きないだろう。たとえ、何が起こってたとしても。
ジェラルドはアデリーナの首に触れた。細い首だ。このまま力を込めれば、容易く息の根を止めることができるだろう。コンラッドのように何も知らないまま彼女は死を迎える。
「あなたには申し訳ない。……だが、もう決めたことだ」
十年前、カールによってすべてを奪われたあの日に誓ったのだ。父の会社と財産を取り戻し、憎い仇を家族もろとも殺してやると。そのためだけに、ジェラルドは生きてきた。
「今日で、すべてを終わらせる」
その為に敢えてアデリーナに印章を盗ませた。彼女が生きていれば、ジェラルドの犯行だとバレるリスクが増す。だから、彼女を生かす道を断つ選択をした。
ランプの火がゆらりと揺れた。柔らかなその灯りに照らされたアデリーナはひどくあどけない。目を開いていれば印象も変わるのだろうが、あの勝ち気な瞳を見ることは二度とない。
ジェラルドは両手でアデリーナの首を覆う。大きく息を吐き、手に力を込める――ことができなかった。
「っ……ははっ。無理だ、俺には」
そう吐き捨てた口元に自嘲がこみ上げる。
ここまで来て怖気づく己への怒りもあった。だが、どう足掻こうとも自分にはアデリーナを殺すことはできない。そう確信した。
ジェラルドはアデリーナから離れた。自分の命が脅かされていたとも知らず、穏やかに寝入る彼女をじっと見つめ、やがて部屋を後にした。
重厚な扉の隙間から、灯りが漏れている。部屋の中から微かなうめき声が聞こえ、ジェラルドは嘲笑を浮かべながら、扉を開けた。
強い酒の匂いが鼻を突いた。デスクの上に転がる瓶からこぼれたワインの匂いだろう。
部屋に響く醜いうめき声を辿っていくと、そこには床に転がりもがくカールの姿があった。
カールは現れたジェラルドを見て、その表情にわずかな安堵を滲ませた。助けてもらえると思ったのだろう。ジェラルドは常にカールに対して従順だったから。
そのジェラルドが渡したワインで苦しんでいることも忘れて。
「いいざまだな」
目を見開いたカールの顔がすぐに怒りで真っ赤に染まる。何事かを喚いているが、言葉にはなっていない。痺れ薬により、舌がまともに回らないのだろう。
当初、カールは両親にしたように毒殺するつもりだった。だが、ただあっさりと殺して終わるのではジェラルドの気が済まない。
「ここまで来るのは長かったが、お前の無様な姿が見られて嬉しいよ、カール・リントン。……何故、俺がお前にこんなことをするのか知りたいか?」
己を睨みつけるカールを見下ろしながら、ジェラルドはウィッグを取った。平凡な茶から珍しい濃紫の髪に変わったジェラルドを、カールは化け物を見るような目で見ていた。
カールからすればジェラルドは幽霊同然なのだろう。確実にあの日殺したはずの人間が、目の前にいるのだから。
「この十年、お前に復讐するために生きてきた。俺の家族達を殺し、火まで放ったお前を地獄に叩き落とすためにな」
ジェラルドはカールに近づいた。
殺されると察したのか、カールは懸命にもがいて逃げようとする。見下ろすジェラルドを射殺さんばかりに睨みつけ、つばを飛ばして叫ぶ。
「っあ、……ハロっ! ……ド! ハ……」
ジェラルドは顔をしかめた。カールが痺れる舌をどうにか動かして呼ぶ名は父のもの。この男は今でもジェラルドをハロルドとして見ている。
「はっ、狂人は最後まで狂人ということか」
喚く声があまりに不快で、とっとと終わらせようとしたその時、カールが突然胸を抑えた。短く苦悶の声を発したかと思うと、そのまま動かなくなった。
ジェラルドはカールの手首に触れる。脈がない。心臓発作を起こしたようだ。
自らの手で息の根を止められなかったことに舌打ちをしたが、すぐに気持ちを切り替える。死すべき者は死した。あとは燃やしてしまうだけだ。
だが、この屋敷に火を放つことはできない。アデリーナが眠っているからだ。彼女を巻き添えにするわけにはいかない。
「ああ、ここには別館があったな」
本館であるこの屋敷とは距離があるし、この雨だ。延焼することはないだろう。
ジェラルドはカールの遺体を担ぐと別館に運び、火をつけた。
翌日、雨上がりを喜ぶ街にカールの訃報が流れた。
日中から降り始めた雨は日付が変わる時刻になっても止む気配を見せなかった。
晴れていれば月明かりに照らされていた地上も、今は闇に沈んでいる。絶え間なく地面を叩く雨音はあらゆる音を消してくれ、リントン邸に足を踏み入れた侵入者を誰にも悟らせることはなかった。
使用人を数人雇っているようだが、すべて通いのため、屋敷にはカールとアデリーナしかいない。
「不用心だな……」
中産階級では珍しいことではない。この街は治安もいいから、二十四時間警備を置いているのは貴族くらいのものだろう。ターナー家も夜は家族とブライアンしかいなかった。
だが、かつてその隙をついてターナー家を襲撃したカールが、自分の屋敷の警備には気を払っていないのがなんだか滑稽だった。あの男は自分が狙われるとはつゆとも思っていないのだ。
足音を立てないように慎重に階段を登る。迷うことなく足を進め、辿り着いた部屋の扉を開けた。
室内は微かに明るかった。サイドテーブルに置かれたランプが光源となっており、そのすぐ側にはベッドがある。ジェラルドが近づくと、雨音に混じってかすかな寝息が聞こえた。
部屋の主であるアデリーナはぐっすりと寝入っていた。その傍らには本が転がっている。就寝前に軽く読書をしようとして、そのまま眠ってしまったようだ。
「ちゃんと、あのチョコを食べたんだな」
あのチョコには睡眠薬を混ぜ込んでいる。きっとアデリーナは朝まで起きないだろう。たとえ、何が起こってたとしても。
ジェラルドはアデリーナの首に触れた。細い首だ。このまま力を込めれば、容易く息の根を止めることができるだろう。コンラッドのように何も知らないまま彼女は死を迎える。
「あなたには申し訳ない。……だが、もう決めたことだ」
十年前、カールによってすべてを奪われたあの日に誓ったのだ。父の会社と財産を取り戻し、憎い仇を家族もろとも殺してやると。そのためだけに、ジェラルドは生きてきた。
「今日で、すべてを終わらせる」
その為に敢えてアデリーナに印章を盗ませた。彼女が生きていれば、ジェラルドの犯行だとバレるリスクが増す。だから、彼女を生かす道を断つ選択をした。
ランプの火がゆらりと揺れた。柔らかなその灯りに照らされたアデリーナはひどくあどけない。目を開いていれば印象も変わるのだろうが、あの勝ち気な瞳を見ることは二度とない。
ジェラルドは両手でアデリーナの首を覆う。大きく息を吐き、手に力を込める――ことができなかった。
「っ……ははっ。無理だ、俺には」
そう吐き捨てた口元に自嘲がこみ上げる。
ここまで来て怖気づく己への怒りもあった。だが、どう足掻こうとも自分にはアデリーナを殺すことはできない。そう確信した。
ジェラルドはアデリーナから離れた。自分の命が脅かされていたとも知らず、穏やかに寝入る彼女をじっと見つめ、やがて部屋を後にした。
重厚な扉の隙間から、灯りが漏れている。部屋の中から微かなうめき声が聞こえ、ジェラルドは嘲笑を浮かべながら、扉を開けた。
強い酒の匂いが鼻を突いた。デスクの上に転がる瓶からこぼれたワインの匂いだろう。
部屋に響く醜いうめき声を辿っていくと、そこには床に転がりもがくカールの姿があった。
カールは現れたジェラルドを見て、その表情にわずかな安堵を滲ませた。助けてもらえると思ったのだろう。ジェラルドは常にカールに対して従順だったから。
そのジェラルドが渡したワインで苦しんでいることも忘れて。
「いいざまだな」
目を見開いたカールの顔がすぐに怒りで真っ赤に染まる。何事かを喚いているが、言葉にはなっていない。痺れ薬により、舌がまともに回らないのだろう。
当初、カールは両親にしたように毒殺するつもりだった。だが、ただあっさりと殺して終わるのではジェラルドの気が済まない。
「ここまで来るのは長かったが、お前の無様な姿が見られて嬉しいよ、カール・リントン。……何故、俺がお前にこんなことをするのか知りたいか?」
己を睨みつけるカールを見下ろしながら、ジェラルドはウィッグを取った。平凡な茶から珍しい濃紫の髪に変わったジェラルドを、カールは化け物を見るような目で見ていた。
カールからすればジェラルドは幽霊同然なのだろう。確実にあの日殺したはずの人間が、目の前にいるのだから。
「この十年、お前に復讐するために生きてきた。俺の家族達を殺し、火まで放ったお前を地獄に叩き落とすためにな」
ジェラルドはカールに近づいた。
殺されると察したのか、カールは懸命にもがいて逃げようとする。見下ろすジェラルドを射殺さんばかりに睨みつけ、つばを飛ばして叫ぶ。
「っあ、……ハロっ! ……ド! ハ……」
ジェラルドは顔をしかめた。カールが痺れる舌をどうにか動かして呼ぶ名は父のもの。この男は今でもジェラルドをハロルドとして見ている。
「はっ、狂人は最後まで狂人ということか」
喚く声があまりに不快で、とっとと終わらせようとしたその時、カールが突然胸を抑えた。短く苦悶の声を発したかと思うと、そのまま動かなくなった。
ジェラルドはカールの手首に触れる。脈がない。心臓発作を起こしたようだ。
自らの手で息の根を止められなかったことに舌打ちをしたが、すぐに気持ちを切り替える。死すべき者は死した。あとは燃やしてしまうだけだ。
だが、この屋敷に火を放つことはできない。アデリーナが眠っているからだ。彼女を巻き添えにするわけにはいかない。
「ああ、ここには別館があったな」
本館であるこの屋敷とは距離があるし、この雨だ。延焼することはないだろう。
ジェラルドはカールの遺体を担ぐと別館に運び、火をつけた。
翌日、雨上がりを喜ぶ街にカールの訃報が流れた。
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