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29話
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清々しい朝日がルスフォードの街に降り注ぐ。
ジェラルドが寝室を出て一階に降りると、優しいピアノの旋律が耳に届いた。
ジェラルドはその音を辿り、とある部屋の扉を開けた。
そこにはピアノを弾くアデリーナの姿があった。
譜面を買った店員から難しい曲だと聞いていたのに、鍵盤を叩く細い指は難なく奏でていく。微笑みを浮かべた彼女の目は一心に鍵盤に注がれ、ジェラルドに気づいた様子はない。
時折、開け放たれた窓から入り込む風が、庭の甘い花の香りを運んだ。
柔らかな朝の日差しに照らされピアノを演奏する彼女は美しかった。まるで一枚の絵画のようだとジェラルドは思った。
魅入ったようにその光景を眺めていたジェラルドは、やがてゆっくりとアデリーナに近づいた。
ジェラルドに気づいたアデリーナは笑みを向けると、また鍵盤に視線を戻す。
ジェラルドは彼女の隣で、その演奏に聴き入った。
曲を引き終えると、アデリーナはジェラルドを見上げる。
「おはよう。昨日は遅くにルスフォードに帰ってきたんでしょ? せっかくの休日なんだし、もっとゆっくりしてていいのに」
「目覚めてすぐ妻の演奏を聞けるチャンスを逃したくなかったんだよ。売却の手続きに手間取って二週間も離れ離れだったから、余計にね」
アデリーナと話し合い、ふたりはこのルスフォードに居住することに決めた。悪人の娘だと知られていない街の方が暮らしやすいからだ。
両親の会社はこの一年程社長代理として働いてくれていた部下に譲り、リントン邸は売却することになった。
ウルフスタン邸は信頼できるものに維持管理を任せている。もう少しほとぼりが冷めたら、時々あちらに滞在するのもいいだろう。
ジェラルドはウィッグをつけるのを辞め、地毛の濃紫色の髪で暮らすことにした。
『名前も、戻すことはできないの? 今までお父様に正体がバレないために変えてたんでしょ?』
アデリーナは気を使ってそう言ってくれたが、ジェラルドは首を横に振った。
『エルドレッド・ターナーはあの日、家族と共に死んだんだ。俺はジェラルド・ウルフスタン。それ以外の何者でもないよ』
『……そう。そうね。あなたはジェラルドだわ』
そうしてふたりは教会でウルフスタン姓でふたりだけの結婚式をあげた。
「今日はどうしようか」
アデリーナは少し考えながら窓の外を見た。
「いい天気だから遠乗りに行かない? いろいろ慌ただしくて、あれから行けてなかったし」
「そうだな。お菓子を持って出かけようか」
「ええ! ちょうど、昨日買ってきたのがあるの。それを持っていきましょう」
湖面は陽の光を反射してきらめき、吹く風は新緑の瑞々しい香りを運ぶ。
馬を繋ぎ、ジェラルドは湖の畔に建つ小屋の前にアデリーナと共にたった。
「川に手を浸して願い事を言って……あとはここに手を触れたら、魔女の家に招かれたのよね?」
アデリーナを救う術を探していた時、手を差し伸べてくれた恩人の話をアデリーナには話していた。前からお礼に行きたいと思っていたようだが、治療や慣れない屋敷の管理などに追われて来れなかったようだ。
ジェラルドもこちらで新しく立ち上げた仕事の合間、魔女に会いに行こうと何度かここに足を運んでいた。
「ああ。だが、あれから何度来ても答えてはくれなかったが」
「正規の方法で来ても応えるのは気まぐれだって話だったものね。……今日は応えてくれるといいけど」
気合いを入れてアデリーナは扉に触れた。
だが、小屋も周囲の環境も変化は訪れない。しばらく様子を見ていたアデリーナは残念そうにため息をついた。
「ダメみたいね。……一度ちゃんと会ってお礼を言いたかったんだけど」
「願いを叶えることは好きでも、お礼を言われることには興味ないのかもしれないな。魔女は願いを叶える際、楽しめるかどうかを重視するようだったから」
「それなら……私たちのあの夢は楽しめたのかしら?」
「多分。大の男がみっともなく泣くのは面白かっただろうからな」
冗談めいて大げさに肩をすくめるとアデリーナはくすくすと笑った。その頬の火傷はうっすら残っているが、彼女の表情には一遍のくもりもない。
ジェラルドはそんな彼女を眩しいものを見るように目を細めて見ていた。
あれほど傷ついていたアデリーナが、こうして自分に笑顔を向けてくれている。その幸せを噛みしめた。
ふわり、と風が彼女の髪をさらった。
澄んだ青い空に燃えるような赤い髪が舞う。ジェラルドは艶やなその髪を一房手に取り、口づけた。
ジェラルドが寝室を出て一階に降りると、優しいピアノの旋律が耳に届いた。
ジェラルドはその音を辿り、とある部屋の扉を開けた。
そこにはピアノを弾くアデリーナの姿があった。
譜面を買った店員から難しい曲だと聞いていたのに、鍵盤を叩く細い指は難なく奏でていく。微笑みを浮かべた彼女の目は一心に鍵盤に注がれ、ジェラルドに気づいた様子はない。
時折、開け放たれた窓から入り込む風が、庭の甘い花の香りを運んだ。
柔らかな朝の日差しに照らされピアノを演奏する彼女は美しかった。まるで一枚の絵画のようだとジェラルドは思った。
魅入ったようにその光景を眺めていたジェラルドは、やがてゆっくりとアデリーナに近づいた。
ジェラルドに気づいたアデリーナは笑みを向けると、また鍵盤に視線を戻す。
ジェラルドは彼女の隣で、その演奏に聴き入った。
曲を引き終えると、アデリーナはジェラルドを見上げる。
「おはよう。昨日は遅くにルスフォードに帰ってきたんでしょ? せっかくの休日なんだし、もっとゆっくりしてていいのに」
「目覚めてすぐ妻の演奏を聞けるチャンスを逃したくなかったんだよ。売却の手続きに手間取って二週間も離れ離れだったから、余計にね」
アデリーナと話し合い、ふたりはこのルスフォードに居住することに決めた。悪人の娘だと知られていない街の方が暮らしやすいからだ。
両親の会社はこの一年程社長代理として働いてくれていた部下に譲り、リントン邸は売却することになった。
ウルフスタン邸は信頼できるものに維持管理を任せている。もう少しほとぼりが冷めたら、時々あちらに滞在するのもいいだろう。
ジェラルドはウィッグをつけるのを辞め、地毛の濃紫色の髪で暮らすことにした。
『名前も、戻すことはできないの? 今までお父様に正体がバレないために変えてたんでしょ?』
アデリーナは気を使ってそう言ってくれたが、ジェラルドは首を横に振った。
『エルドレッド・ターナーはあの日、家族と共に死んだんだ。俺はジェラルド・ウルフスタン。それ以外の何者でもないよ』
『……そう。そうね。あなたはジェラルドだわ』
そうしてふたりは教会でウルフスタン姓でふたりだけの結婚式をあげた。
「今日はどうしようか」
アデリーナは少し考えながら窓の外を見た。
「いい天気だから遠乗りに行かない? いろいろ慌ただしくて、あれから行けてなかったし」
「そうだな。お菓子を持って出かけようか」
「ええ! ちょうど、昨日買ってきたのがあるの。それを持っていきましょう」
湖面は陽の光を反射してきらめき、吹く風は新緑の瑞々しい香りを運ぶ。
馬を繋ぎ、ジェラルドは湖の畔に建つ小屋の前にアデリーナと共にたった。
「川に手を浸して願い事を言って……あとはここに手を触れたら、魔女の家に招かれたのよね?」
アデリーナを救う術を探していた時、手を差し伸べてくれた恩人の話をアデリーナには話していた。前からお礼に行きたいと思っていたようだが、治療や慣れない屋敷の管理などに追われて来れなかったようだ。
ジェラルドもこちらで新しく立ち上げた仕事の合間、魔女に会いに行こうと何度かここに足を運んでいた。
「ああ。だが、あれから何度来ても答えてはくれなかったが」
「正規の方法で来ても応えるのは気まぐれだって話だったものね。……今日は応えてくれるといいけど」
気合いを入れてアデリーナは扉に触れた。
だが、小屋も周囲の環境も変化は訪れない。しばらく様子を見ていたアデリーナは残念そうにため息をついた。
「ダメみたいね。……一度ちゃんと会ってお礼を言いたかったんだけど」
「願いを叶えることは好きでも、お礼を言われることには興味ないのかもしれないな。魔女は願いを叶える際、楽しめるかどうかを重視するようだったから」
「それなら……私たちのあの夢は楽しめたのかしら?」
「多分。大の男がみっともなく泣くのは面白かっただろうからな」
冗談めいて大げさに肩をすくめるとアデリーナはくすくすと笑った。その頬の火傷はうっすら残っているが、彼女の表情には一遍のくもりもない。
ジェラルドはそんな彼女を眩しいものを見るように目を細めて見ていた。
あれほど傷ついていたアデリーナが、こうして自分に笑顔を向けてくれている。その幸せを噛みしめた。
ふわり、と風が彼女の髪をさらった。
澄んだ青い空に燃えるような赤い髪が舞う。ジェラルドは艶やなその髪を一房手に取り、口づけた。
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