最後の晩餐を

あやさと六花

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8話 終わりの刻

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 リシャールの屋敷に向けて、馬車は走る。
 マノンは窓とカーテンを閉めて射し入る西日を閉ざし、前に座っているシリルに微笑んだ。

「シリルお兄様、突然の誘いにも関わらず、了承いただき、ありがとうございます」
「いいや。君との茶会はずいぶん久しぶりだしな」
「お姉様がいた頃は、時々一緒にお茶してましたものね。お姉様の用意したものに叶うかはわかりませんが、お茶菓子も用意したんです」

 マノンは隣に置いた籠に目を向ける。その中には、今朝方料理長に焼いてもらった茶菓子が入っていた。
 シリルもその籠を一瞥し、気まずそうに目をそらした。

「お茶菓子って色々あって悩みますね。選ぶ立場になってから、知りました。お姉様が毎回頭を悩ませていた気持ちもわかります」
「……そうか」
「お姉様、シリルお兄様が喜んでくれるか、悩みながらも楽しそうに選んでました。お茶菓子だけではありません。あなたに関することだと、お姉様は目を輝かせていました」

 姉のシリルへの愛はとても深いものだった。
 だから、マノンは姉が吸血鬼に殺されたと知った時、不思議に思っていた。いくら吸血鬼とはいえ、あの姉がシリル以外を愛することなどあるのだろうかと。

「シリルお兄様。……お姉様は、リシャール様を愛していたわけではないんでしょう?」

 確信めいたマノンの言葉に、シリルは重々しく頷いた。

「お姉様がリシャール様を愛しているふりをしたのは、私を守るためですね?」
「……ああ。デボラが彼に血を吸われなければ、マノンが狙われることになると、彼女に言ったんだ。これまで吸血鬼は一度血を吸えば満足して他の都市に行っていたから、デボラの血を飲めばリシャールは立ち去ると思っていた」

 吸血鬼が欲するのは、自身を愛する者の血だ。愛しているふりをしているデボラの血では、リシャールは満足できなかったのだろう。

「何故、お姉様を差し出したのですか? 私でも良かったでしょう?」
「デボラは君のことを、何よりも大事にしていたから。彼女は君を失うことに耐えられない。どちらかを選ぶというのなら、喜んで自分を差し出すだろう」
「ええ。お姉様は自分よりも私を取るでしょう。……そして、それは私も同じです。私も、自分よりもお姉様が大切です。お姉様のためなら、彼女の仇を打つためなら、自分の命など捨てられます」

 シリルが、はっとしてマノンを見る。

「君……まさか、あの薬を……? 菓子に入れたのではなかったのか?」
「彼の口にするものに入れろと言ったのは、シリルお兄様でしょう?」

 以前、メリッサが送ってくれた情報の中に、吸血鬼を殺す毒薬の話があった。娘がその毒を飲めば血に混じり、それを口にした吸血鬼を死に至らしめると。
 シリルが教えてくれたのは、まさにその毒だった。

「あの方は、とても用心深いのです。お菓子はまず食べません。お茶も、執事が入れたばかりのもの以外は口にしません」

 そんな彼が唯一、絶対に口にするだろうと思われるのは、マノンの血しかなかった。

 真っ青になるシリルとは対象的に、マノンは落ち着いていた。淡々と言葉を続ける。

「今日、すべて決着をつけます。シリルお兄様には、後片付けをお願いしたいのです」
「……いいのか、君はそれで」
「これが一番いい選択ですから。そのための準備は済ませました」

 メリッサには、結婚することになったからもう連絡は取れないと別れを告げた。
 ポーリーンたち貴族の友人たちには別れの言葉を告げることはできなかったが、その分、茶会をしたり植物園を見たりと沢山過ごした。
 未練はない。

 馬車がゆっくりと停車する。リシャールの屋敷についたようだ。
 外で、侍女が扉を開けようとする気配がする。

「シリルお兄様、顔色が悪いですね。今日はこのまま帰られたほうがいいでしょう。よろしければ、このお菓子も差し上げます。お兄様の好きなお菓子ですし、リシャール様はお食べにならないでしょうから」
「そうだな。そうすることにする。……リシャールによろしく頼む」

 マノンは頷くと、馬車を降りた。御者にシリルを屋敷に送るように命じてその場を離れようとした時、背後から声をかけられた。

「あれは異質だ。抗えない本能を持つ、俺たちとは違う危険な存在だ。だが……あいつがこれまで俺たちに見せてきた姿も嘘偽りのないあいつだ」
「ええ。……よくわかっています」

 マノンはそれだけ言うと、礼をしてリシャールの屋敷へと向かった。




 夜の帳が下りた空には、煌々と輝く満月があった。
 それを眺めるマノンの前に、湯気の立つカップが置かれる。

「冷えてきましたから、どうぞ」
「ありがとうございます。リシャール様、お茶も淹れられるのですね」
「嗜み程度ですが。夜は執事が休んでいるので、自分で身の回りのことをするしかなくて」

 おそらく、あの執事はリシャールの眷属なのだろう。
 吸血鬼は日中、眷属の蝙蝠を人の姿にして使役していると聞いたことがある。

「リシャール様。良ければ、踊りませんか?」
「今ですか?」
「ええ。舞踏会では踊れなかったでしょう? せっかくダンスの練習をしたので、踊ってみたいのです」

 リシャールと出会った舞踏会では騒ぎになったため、早く帰ることになり、踊ることができなかった。
 
「そうですね。私も不慣れですが……」

 リシャールは微笑み、マノンに手を差し出した。


 ふたりだけの舞踏会は静かに始まった。
 伴奏もなく、言葉もなく、ただ時折衣擦れの音が響く。

 それでも、マノンには十分だった。言葉はなくとも、伝わるものはある。
 マノンは榛色の目を見つめる。穏やかな眼差しがマノンに向けられている。

 いつからだろう、この瞳に恋情が灯り始めたのは。
 初めはただ捕食者として冷めた目を向けていたのに、だんだんと優しい色を湛えるようになった。

 マノンは知っている。これが、恋する人に向ける目だということを。
 だから、彼が本当にマノンを愛していることに気づいてしまった。

 吸血鬼が獲物となる女を愛するなど、滑稽な話だ。
 
『あれは異質だ。抗えない本能を持つ、俺たちとは違う危険な存在だ。だが……あいつがこれまで俺たちに見せてきた姿も嘘偽りのないあいつだ』

 マノンはわかっている。彼は、人を襲う化け物でありながら、人の心も持つ青年だということを。
 だから、マノンはこの結末を選んでしまった。

 リシャールの瞳には、マノンが映っている。瞳の中のマノンは彼と同じように微笑んでいる。
 マノンは恋する人の顔をよく知っている。だから、静かに目を伏せた。

 窓から射し入る月光がふたりを照らす。
 今宵は満月。吸血鬼が狩りをする夜だ。

 突然、リシャールがマノンを抱きしめた。首筋に、彼の吐息がかかる。

 鋭い痛みが首筋に走るのを感じながら、マノンは思う。

 自分に恋する女の血は、吸血鬼にとって格別に甘いのだという。
 それなら、自分の血はどんな味がするのだろうかと。
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