忘れたふりのスプモーニ

Nuit et Verre

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第2章:あの夜の香り

第8話 苦味は、過去をなぞる味

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「この店、前に来たことあるの?」

何気ない調子で訊ねたつもりだった。
だが、グラスを傾けていた志穂の手が、わずかに止まった。

「……うん、昔ね。ちょっとだけ」

曖昧に返しながら、彼女は笑ってみせた。
その笑顔は、どこか薄い膜のようなものをまとっている。

「そうなんですね。なんだか初めてって言ってた気がして」

言った瞬間、空気が少しだけ変わるのを感じた。

「……あはは、そうだっけ? うーん、忘れてたかも。ごめんね」

「いえ、別に。ちょっと気になっただけです」

すぐに視線を外し、彼女はもう一度グラスに口をつけた。

カンパリの赤が、グレープフルーツに溶けていく。
まるで“過去”が、“今”の中に溶け込んでいくように。

彼女の反応は、驚くほど自然だった。
けれど、だからこそ――
それが“準備された演技”であるように思えてしまう。

なぜ、ここで“初めて”と嘘をついたのか。
あの夜のことを、なかったことにしたい理由があるのか。

尚也の中で、答えの出ない問いが膨らんでいく。

それでも彼女を責める気持ちは湧かなかった。

むしろ、その矛盾の奥にある「何か」――
言葉にできない理由、触れてはいけない記憶、あるいは彼女なりの優しさ――
それらに触れたくてたまらなかった。

「……ここ、雰囲気いいですね」

「うん。ちょっと静かすぎるくらいだけど、話すにはいいよね」

彼女の目が、ほんの一瞬だけ尚也の目を捉える。

その視線に、懐かしさと、少しの寂しさが混ざっていた。

それはあの夜、尚也が忘れられなかったものと、たしかに同じ色をしていた。
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