プラスティック・ヴィーナス

時雨虚太郎

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 村上先輩と付き合い始めて、3か月が経った頃。すっかり秋に季節は移り、時折ひんやりとした風が頬を撫でる。首元に風邪が入り込み、ぶるりと震えた私の肩を村上先輩は優しく抱き寄せてきた。

「大丈夫か? 寒いようならどこか入ろうか」

 私は大丈夫です、と笑顔を作る。村上先輩に触れられているというのに私は幸福感など微塵も湧かなかった。ここのところ、こんな風にデートをしていても私は当初のような甘い時間を過ごすことが出来なくなっていた。自分は村上先輩を好きなはずなのに、私はひどく焦りを感じていた。どうして、今が幸せなはずなのに、と。

 そんな風に私の心は弱っていたのだろう。私はふとこんな言葉をこぼした。

「村上先輩。その、私のどこが好きですか?」

 ひどくありきたりな問答ではある。こういう言葉をかけるとき、基本的に恋人は愛情の確認をしたいのだろうが、私は無意識に確信を持ってこの質問をしたのではないか、と今では思う。

「ん……そうだな。健気で、可愛らしい」

「そうですかね?」

「ああ、そうだよ。それに、頑張り屋なところも魅力的だと思うけどね」

「……そんなこと、ないですよ」

 俯いて答えた私に、村上先輩は笑いかけた。

「いいや、そうだよ。まだ一年と経っていないが、君のことはしっかりと見てきたつもりだし、ね。謙遜しなくてもいいんだよ」

 私が俯いたのは、決して謙遜とか照れ隠しのためではない。一種の失望であった。しかしその失望が何から来たかは、その時には分からなかった。なんとなく気分もよくないまま、私は村上先輩に送られながら、家に帰った。化粧も落とさないまま、ベッドに転がり、私はそのまま意識を放した。

 その時に見た夢は、今でも鮮明に覚えている。一種の予知夢か、無意識の具現化かは分からないけど、あれは一種の最悪な啓示となりえた。

 村上先輩と私が腕を組んで歩いている。私もその時ばかりは幸せな気持ちで彼の隣を歩いていたが、ふと足がもつれ、私は転ぶ。腕もその時に解けてしまったので、ごめんなさいと謝ろうと顔を上げる。しかし、そこに村上先輩はいなかった。なんで、と辺りを見回すと村上先輩は女と腕を組んで歩いていた。
 まるで最初からそうであったかのように、彼と見知らぬ女は歩き、笑う。どうして、待って、と声を上げてはみるが、二人は全く意に介さない。私は泣きながら走り、待ってよ、その女の人は誰なの、などと叫んでみるが、反応はない。しかし、腕を組んで歩いている二人には容易に追いつくことが出来た。

 そこまで近づいたとき、私は初めて気づくことが出来たのだ。彼の隣に居た女は、正に私自身であった。しかも私よりも、全く魅力的な、私。

 体を勢いよく起こした。全身に嫌な汗を掻いている。寒気がするわけでもないのに手の震えが止まらなかった。あ、あ、と声が漏れる。ひどい絶望であった。私が彼を好いていなかったわけではない。彼が、私ではなく、偽物の私を好いていたからだ。だから、私は焦った。なにも感じなくなった。愛されている実感を失ったのだ。

 私は止めることが出来ないだろうとこのときに分かった。彼との離れ行く距離を。彼は私を愛しているけど私を愛してない。私が見えていない。彼が見ているのは、私だ。それが私でないと気づきようもない。だってそれは私なんだから。

 あまりにひどい現実に、私は涙をぽろぽろと流した。私は、彼の隣に立ちながら、いずれ愛されなくなるのだ。いや、私という存在自体が認識の外へと消えてしまうのかもしれない。
 どんどん、今この瞬間も彼と私との距離は離れているのだ。どうすれば引き留められるのか。私は小さな子どもがお気に入りの人形を失くしたように、必死で探すように、頭をふるふると振り、やだ、やだと呟きながら、枕に顔を埋めた。


 三日三晩というのは、一種のボーダーであると思う。私は、散々に泣き、ほとんどの行動を放棄したまま家に籠っていた。村上先輩に拒絶された時よりも動けるのが早かったのは、きっと、解決手段が私の手元にあったからだろう。計画を立てた私は、スマートフォンを手に取った。村上先輩と沙穂からいくつかの通知があった。
 私は村上先輩に電話を掛けた。この三日、全く返信もしなかったからか、村上先輩は私の声を聞いたとき、心底ほっとしたような声を出した。今日も連絡がなければ家に行こうかと、等と彼が言っているのを聞いて、ああ、この人はやっぱり私を愛しているんだな、と思った。

「先輩。その、家に来てほしいです」

「ああ、いいよ」

 村上先輩はそう、快諾してくれた。すぐ行くよ、と言って電話は切れた。ああ、本当に愛しい人。私はあなたのことを愛しています、今でも。

 私はその後、ケアも忘れた外見を直したが、化粧は間に合わないだろうと思って止しといた。ところで、心というものはどこらへんにあるのだろうとネットで軽く調べてみたりしたけども、分からなかったので放棄した。多分、見れば分かるだろう。私がどこにいるかは。

 チャイムが鳴らされた。ドアを覗くと、村上先輩がそこに立っていた。だいぶ急いできたようで息を切らしているのが分かる。こればかりは私を心配してくれたからだろうか、それとも私だろうか。正直言えばこの時にはもうそういう考えはなく、ただただ愛している彼の心を留めることだけを、考えていた。

 ドアを開けると、村上先輩の顔がぱっと明るくなった。

「よかった、元気そう――」

 その顔を離したくなかった。
 私は右手の包丁で、村上先輩の胸を刺していた。村上先輩の口から血が流れる。

「え――」

 彼の顔が苦痛と驚愕に歪む。彼に聞こえているうちに、私を殺した今、伝えなければならなかった。

「愛しています、村上先輩」


 こうして、私は死んで、村上先輩の離れ行く心を引き留めることが出来た、と思う。これ以外に方法があったようには私には思えない。私は彼に、もう一度こちらを向かせたのだ。限りなく正しい選択だ。焦燥感は消えた。

 しかし、私は気が狂っていたのだろう。言われなくとも分かっている。村上先輩を殺したこと、その論理は著しく破綻していたこと。村上先輩の中の私を殺すことは間違いなかった。しかし、先輩から二度と愛を受けることはできない。付き合い始めた時の、あの愛しい施しを、私は二度と得ることはできなかったのだ。

 だけど、彼を殺す以外に、どうやって彼の中の私を殺すことが出来ただろう。私はベッドの下に隠した村上先輩の死体をちらりと見た。私は残念ながら、現実主義者だ。この死体はもはやただの肉の塊である。村上先輩の抜け殻の上、私は寝返りを打った。


 気がつけば、眠っていたようだった。睡眠をした実感もなく、目を開けた私は、まぶしくて一旦目を閉じた。カーテンが開けっ放しの窓から、とんでもない明るさの日光が差し込んでいたのだ。目が痛くなるくらい。悲しくなるくらい。地球はどんなことがあっても回り続けると言うけど、それが今、すごい腑に落ちた。本当にその通りだった。

 私はベッドから起き上がり、時計を確認した。午後の2時。

 心をほとんど失った私は何度も縋るようにスマートフォンを確認した。昨日のようにメールを確認する。新着メールはなく、ずっと沙穂のメールが先頭にある。私はこの数日、沙穂に返信をしないくせに、沙穂からまた新しいメールが来てないか、気になっていたのだ。もしかしたら、彼女になにかを求めているのかもしれない。なにか、なにかを。それがなにかは分からないけど、私はよい知らせを待っているのかもしれない。

「……待つだけじゃあ、駄目だもんね」

 動き出さなければいけないのはよくよく分かっていた。いや、実際はいつでも動けるのだった。でも、私がその決心をするまでに時間がかかったのだ。私は、沙穂へとメールを送った。約束の場所へ、向かうのだ。

 留めた心の距離なんてものはただの単位で、意味を成さない。
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