2 / 2
シー・バンクス・ザ・ドラムス
しおりを挟む
「懐かしいな」
ビールが入ったマグカップに口をつけながら彼は嬉しそうに微笑む。
「若い頃よく聞いた」
今日は、祖父がくれた「レコード」というものに、私が初めて針を落とした日になった。ずいぶん昔に流行ったポップソングの、これまた最近では誰も弾かなくなったギターのみずみずしい音色が部屋じゅういっぱいに響き渡る。彼にしては懐かしくとも、私にとっては新鮮だった。あしらわれたレモンの黄色いレコードジャケットも、すぐに好きになった。ここには私の好きなものしか存在しない。
嬉しくなって缶ジュースを右手で持ち上げ、私はテーブルの上に置かれた鏡に向かって乾杯の仕草をした。彼もまた同じようにして私が贈った鏡の中を覗き込む。
「まさか、こんな風に遠くにいる君と酒が飲めるなんてね。君のおじいさんは偉大な魔法使いだ」
鏡に映る彼は、すでにほろ酔いの様子だ。心なしか、髪の毛の白い部分が増えた気がする。
「大袈裟よ。だけど、本当にそう。この鏡は最高。こんな素敵なものをくれたおじーちゃんに感謝しなくちゃ」
古い英語の歌詞が聞き慣れない。それもまた最高な気持ちにさせる、説明できないくらい。
「私ね、こないだ初めて歌ったの」
立ち上がって両手を高く上げたり下げたりして彼に見せた。
「しかもね、踊ったのよ」
「じゃあ、今夜も踊ろう」
お互いにさっき編み出されたばかりの振り付けを鏡越しに見せあった。レコードは次の曲に差し掛かっていた。
「楽しいことは、これからも共有しようね」
鏡の中の彼は目を細めて笑っていた。私はあるはずのない太鼓を両手で叩くそぶりをして見せた。
「私とダンスを踊っていただけますか、お嬢さん」
等身大の彼が差し出した右手に、私の左手をそっと重ねる。もう片方の手も同じようにして、私たちは拡大した鏡越しに微笑みあう。彼のリードに合わせ、ゆっくりと身体を揺らした。右へ、左へ。あまりにも慣れない自分の足取りに笑ってしまった。レコードが回転をやめても私たちはいつまでも鏡の中で揺れ動いていた。まるで飽きることを知らない子どものように。
私はお風呂に浸かっていた。だけど、いつも入るような狭いバスタブではなくて、両腕を広げられるだけでなく、大勢の人間が肩までお湯につかれるほどの巨大なお風呂だった。浴室はガラス張りの窓と、モスグリーンの清潔なタイルに彩られていて、お湯の吹き出し口の周りには青い花が飾ってある。ひと目で彼がデザインしたものだと分かった。もしかしたら、これが噂に聞いていた公衆浴場というものだろうか。だとしても、私のほかに誰もいないのが不思議ではあるのだが……。お風呂の縁取りを手でなぞると、ピカチュウと呼ばれる子供向けアニメーションのキャラクターが現れた。隣にはモグラみたいなキャラクターもいた。私はその仕掛けをすっかり気に入ってしまい、何度も何度もなでつけた。
ガラス張りの向こうに庭園があることに気がついた私は、そこに行ってみようと思った。もしかしたら、露天風呂というものも探せばあるのかもしれない。扉を開けて身を乗り出すと、私の身体は宙に浮いた。ちょっとびっくりしたけど、バランスを保てば転ぶ心配もなさそうだったし、何よりもまた新しい体験が出来そうで嬉しかった。両腕と両足をバタバタと動かしたら、とても軽い力ですいっと前に進めた。空を飛んでいるというよりも、透き通る水中を泳いでいる感覚に近かった。緑の木々も石庭も、クリアな青空も、あの鬱陶しいマスク越しでしか知らなかったのに、目の前に鮮やかに広がっている。
「そうだ、マスク。私、マスクをしていない!」
ハッとした。どうしてこんなシンプルなことを忘れていたんだろう。私は今、マスクをしていないのに、外にいる! だけど、呼吸は続いているし、何よりも最高な気分だ。死ぬ気配など微塵もない。マスクどころか服すら着ていないのに、これ以上無防備なことはないのに、他に何も必要ない。私はこれまでで一番完璧な状態だと確信した。
ふと公衆浴場の方を見やると、ガラス張りでできたコーヒーショップらしき施設があった。英語で「STARBUCKS COFFEE」と書かれたロゴが飾ってある。私が知っているデリバリー型のコーヒー店とは違って、木目調の床と天井でできた店内はたくさんのお客さんで賑わっている。カウンターでコーヒーマスターが目の前でカフェラテを淹れているのも、出されたばかりのコーヒーを美味しそうにすすりながらソファでお喋りをしている若いカップルも、何もかも見たことがなかった。映画でしかありえない光景だった。私は感動した。何も恐れる必要がないなんて。こんな完璧な世界があるなんて。
スズメが鳴く音で目が覚めた。いつの間にか鏡のそばで突っ伏して寝ていたようだった。私はさっきまでの夢のことを彼に伝えようと鏡を手に取った。すると、彼は消えていた。鏡の中だけでなく、彼の家からも、たくさんの思い出が詰まったこの世界からも。
今まで見ていたものが夢だとしても、どういうわけか私には確信があった。これは近い未来に起こる出来事だと。外の世界でマスクなしで生きられたのは、浄化された水で世界が満たされているためだ。私たちは肺で空気を吸い込んで酸素を取り入れる代わりに、水中でも呼吸ができるようになる。新しい世界に適応するために人類は再び変わるのだ。そうすれば、音楽や映画、ありとあらゆるアイデア、歌うこと、ダンスすることをたくさんの人たちが楽しめる日がきっと来る。
彼がいなくなる5分前に戻ろう。彼に会いに行こう。今度こそ彼を抱きしめてあげよう。そして私は魔法時計を掴み上げるとその針を動かした。
ビールが入ったマグカップに口をつけながら彼は嬉しそうに微笑む。
「若い頃よく聞いた」
今日は、祖父がくれた「レコード」というものに、私が初めて針を落とした日になった。ずいぶん昔に流行ったポップソングの、これまた最近では誰も弾かなくなったギターのみずみずしい音色が部屋じゅういっぱいに響き渡る。彼にしては懐かしくとも、私にとっては新鮮だった。あしらわれたレモンの黄色いレコードジャケットも、すぐに好きになった。ここには私の好きなものしか存在しない。
嬉しくなって缶ジュースを右手で持ち上げ、私はテーブルの上に置かれた鏡に向かって乾杯の仕草をした。彼もまた同じようにして私が贈った鏡の中を覗き込む。
「まさか、こんな風に遠くにいる君と酒が飲めるなんてね。君のおじいさんは偉大な魔法使いだ」
鏡に映る彼は、すでにほろ酔いの様子だ。心なしか、髪の毛の白い部分が増えた気がする。
「大袈裟よ。だけど、本当にそう。この鏡は最高。こんな素敵なものをくれたおじーちゃんに感謝しなくちゃ」
古い英語の歌詞が聞き慣れない。それもまた最高な気持ちにさせる、説明できないくらい。
「私ね、こないだ初めて歌ったの」
立ち上がって両手を高く上げたり下げたりして彼に見せた。
「しかもね、踊ったのよ」
「じゃあ、今夜も踊ろう」
お互いにさっき編み出されたばかりの振り付けを鏡越しに見せあった。レコードは次の曲に差し掛かっていた。
「楽しいことは、これからも共有しようね」
鏡の中の彼は目を細めて笑っていた。私はあるはずのない太鼓を両手で叩くそぶりをして見せた。
「私とダンスを踊っていただけますか、お嬢さん」
等身大の彼が差し出した右手に、私の左手をそっと重ねる。もう片方の手も同じようにして、私たちは拡大した鏡越しに微笑みあう。彼のリードに合わせ、ゆっくりと身体を揺らした。右へ、左へ。あまりにも慣れない自分の足取りに笑ってしまった。レコードが回転をやめても私たちはいつまでも鏡の中で揺れ動いていた。まるで飽きることを知らない子どものように。
私はお風呂に浸かっていた。だけど、いつも入るような狭いバスタブではなくて、両腕を広げられるだけでなく、大勢の人間が肩までお湯につかれるほどの巨大なお風呂だった。浴室はガラス張りの窓と、モスグリーンの清潔なタイルに彩られていて、お湯の吹き出し口の周りには青い花が飾ってある。ひと目で彼がデザインしたものだと分かった。もしかしたら、これが噂に聞いていた公衆浴場というものだろうか。だとしても、私のほかに誰もいないのが不思議ではあるのだが……。お風呂の縁取りを手でなぞると、ピカチュウと呼ばれる子供向けアニメーションのキャラクターが現れた。隣にはモグラみたいなキャラクターもいた。私はその仕掛けをすっかり気に入ってしまい、何度も何度もなでつけた。
ガラス張りの向こうに庭園があることに気がついた私は、そこに行ってみようと思った。もしかしたら、露天風呂というものも探せばあるのかもしれない。扉を開けて身を乗り出すと、私の身体は宙に浮いた。ちょっとびっくりしたけど、バランスを保てば転ぶ心配もなさそうだったし、何よりもまた新しい体験が出来そうで嬉しかった。両腕と両足をバタバタと動かしたら、とても軽い力ですいっと前に進めた。空を飛んでいるというよりも、透き通る水中を泳いでいる感覚に近かった。緑の木々も石庭も、クリアな青空も、あの鬱陶しいマスク越しでしか知らなかったのに、目の前に鮮やかに広がっている。
「そうだ、マスク。私、マスクをしていない!」
ハッとした。どうしてこんなシンプルなことを忘れていたんだろう。私は今、マスクをしていないのに、外にいる! だけど、呼吸は続いているし、何よりも最高な気分だ。死ぬ気配など微塵もない。マスクどころか服すら着ていないのに、これ以上無防備なことはないのに、他に何も必要ない。私はこれまでで一番完璧な状態だと確信した。
ふと公衆浴場の方を見やると、ガラス張りでできたコーヒーショップらしき施設があった。英語で「STARBUCKS COFFEE」と書かれたロゴが飾ってある。私が知っているデリバリー型のコーヒー店とは違って、木目調の床と天井でできた店内はたくさんのお客さんで賑わっている。カウンターでコーヒーマスターが目の前でカフェラテを淹れているのも、出されたばかりのコーヒーを美味しそうにすすりながらソファでお喋りをしている若いカップルも、何もかも見たことがなかった。映画でしかありえない光景だった。私は感動した。何も恐れる必要がないなんて。こんな完璧な世界があるなんて。
スズメが鳴く音で目が覚めた。いつの間にか鏡のそばで突っ伏して寝ていたようだった。私はさっきまでの夢のことを彼に伝えようと鏡を手に取った。すると、彼は消えていた。鏡の中だけでなく、彼の家からも、たくさんの思い出が詰まったこの世界からも。
今まで見ていたものが夢だとしても、どういうわけか私には確信があった。これは近い未来に起こる出来事だと。外の世界でマスクなしで生きられたのは、浄化された水で世界が満たされているためだ。私たちは肺で空気を吸い込んで酸素を取り入れる代わりに、水中でも呼吸ができるようになる。新しい世界に適応するために人類は再び変わるのだ。そうすれば、音楽や映画、ありとあらゆるアイデア、歌うこと、ダンスすることをたくさんの人たちが楽しめる日がきっと来る。
彼がいなくなる5分前に戻ろう。彼に会いに行こう。今度こそ彼を抱きしめてあげよう。そして私は魔法時計を掴み上げるとその針を動かした。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる