三つの色の恋愛譚

深水千世

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第三部 琥珀色の明日

第2話 カルメンのような人

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 女みたいな顔が嫌だと言った俺に、凛々子さんは「十年後に笑うのはお前だよ」と笑った。
 当時は意味がわからなかったけど、今となれば嫌でもわかる。

「ずっと先輩のこと好きでした。付き合ってください」

 屋上にいる俺の目の前で、顔を真っ赤にしながら言う大人しそうな女の子。
はっきり言って、初めて目にする顔だ。

 うん、嫌いな顔じゃない。可愛いとは思うし、健気な感じもするし、なによりこうして一生懸命伝えようとしてくれるのは嬉しい。このまま付き合っても良さそうだけど......。そう悩んだとき、俺は必ずこう訊くことにしている。

「どうして俺なの?」

 彼女は「え」と短く声を漏らす。

「だって、俺と話したこともないでしょ?」

 俺の言葉に、彼女は戸惑いながらも、ぶつぶつと呟くように答えた。

「......あの、えっと、先輩は優しいし、素敵だと思って」

 残念。それは模範解答であって、俺の望んだ答えじゃない。それじゃあ、俺の心は踊らないんだ。

「気持ちは嬉しいけど、ごめんね。俺には特別な人がいるから」

「......それって、響歌先輩のことですか? 先輩、別れたんじゃないんですか?」

 響歌って......。俺はその名に思わずため息をもらした。

「そうだよ。とっくに別れてる。だから、響歌じゃないよ」

「私じゃ駄目なんですか?」

 大人しそうな顔して、意外と食い下がるんだな。

「悪いけど、これからその人に会いにいくから。ごめんね」

 みるみるうちに女の子の目に涙が溢れ、屋上の出入り口に駆け出して行く。

 ......参った。振られるほうも辛いと思うんだけど、振るほうもしんどいんだぞ。

 俺は女みたいな顔に生んでくれた両親に感謝していいやら、文句を言いたいやら、複雑な気分になった。

「澪、もう終わった?」

 女の子と入れ違いに、ニヤニヤした男が歩み寄って来た。一年の炯人だ。琥珀亭のバーテンダーである志帆さんの息子で、俺とは幼なじみだった。

「なんだ、待ってたのか」

「うん。一緒に帰ろうと思って教室に行ったらここだって聞いた」

 彼は父親似の浅黒い顔から白い歯を覗かせた。

「で、またあの問答したの?」

 炯人が言うのは、俺の『どうして俺なの?』という質問のことだろう。

「なんで、いつもそんなこと訊くんだよ? 今の子、一年の間でも人気あるんだよ。勿体ないなぁ」

「気持ちが動かないのに付き合うなんて、中途半端なことできないよ」

「だからって、あんな質問繰り返すから変なあだ名がつくんだぞ」

「なんて?」

「なぞなぞ王子。もしくはスフィンクス」

 なぞなぞ王子というネーミングセンスには眉根をひそめたけど、スフィンクスにはもっとげんなりだ。ギリシャ神話のスフィンクスは旅人をつかまえてはなぞなぞを出し、間違えたら食い殺す怪物だ。オイディプスが正解を答えたとき、海に身を投げて死んだはず。でも......。

「言っておくけど、ギリシャ神話のスフィンクスって女だぞ」

「いいじゃん、お前、女みたいな顔してるし......いてぇ!」

 俺は炯人の頭を小突き、歩き出した。

「文句なら文音に言えよ。あいつが名付け親だから」

 ぶつくさ言う炯人に、俺はため息を漏らした。凛々子さんのひ孫の文音は、俺の妹みたいな存在だ。本ばかり読んでいるあいつらしいネーミングだよ。

 ......でも、あながち間違っちゃいない。俺は待ってるんだ。彼女が聞かせてくれた、あの答えを。それが聞けるまで、俺は誰かの恋心を食い殺し続けるんだろう。

 だけど、その答えが聞けたとき、きっと俺は恋の海に身を投げるんだ。なんとなくだけど、そう信じていた。

 俺と炯人が電車に乗っているときだった。

「おい、澪」

 炯人がふと、俺に目配せする。彼の視線を追うと、隣の車両で仲睦まじく会話している男と女の姿が見えた。

 その女を見て、俺は思わず目を細める。彼女は琥珀亭の向かいにある古本屋の孫娘で、響歌だ。響く歌と書いてキョウカと読む名前は、凛々子さんも名付けるときに一役かったって聞いた。

 一つ年上の彼女は春から大学生になっていた。情熱的な女で、奔放だった。学校とか部活とか、そういう縛りが嫌いなところがあったっけ。そのくせ勉強はできて、今は医学部に通っている。それが、俺が以前付き合っていた彼女だった。

「なんかさ、響歌ねえちゃんって、見るたびに男違うよな」

「......あぁ」

 炯人は俺と響歌が付き合っていたことを勿論知っている。まぁ、付き合っていたと言っても、すごく短かったけど。優しいところがある彼は、俺の気持ちを察してか、複雑そうな顔をしていた。

「なんか、大学行ってから綺麗になったなぁ」

「......そうだな」

 内心、苦々しい。俺じゃ、あんな風に輝かせられなかったから。同時に、なんだか他人事みたいな気もする。ふと響歌が言っていた言葉を思い出す。

「あなたって醒めた目をしてるの。それがいつでも、私を惨めにさせるのよ」

 それが、彼女との最後だったな。勝ち気な響歌は物心ついたときから、俺をリードしていた。一つ年上ってせいもあるけど、どちらかというと自分を主張しない俺をぐいぐい引っ張っていってくれたっけ。

 二年生になった夏、俺は響歌に突然キスされた。初めてのキスだった。

「どうして?」

 目を丸くした俺に、彼女は笑った。

「したくなったから」

「......どうして俺なの?」

 いつもの質問を口にすると、彼女は猫が喉を鳴らすように笑う。

「キスしたいって心には勝てないから」

 彼女は半分だけ、俺の待っていた正解を言った。

『心には勝てない』

 それが、俺の待っている答えの半分だ。でも、残りの半分はまだ誰も言ってくれたことがなかった。それでも、俺は彼女にキスを返した。半分だけでも嬉しかったんだ。
 初めて女の子と付き合った俺は、響歌との日々にのぼせた。大人でもないけど、もう子どもでもなかったから。
 彼女の噛み付くようなキスが好きだった。抱き合う響歌が乱れるたびに、俺を満足させた。触れたい気持ちに勝てなかった。

 彼女はカルメンの『恋は野の鳥』みたいな女だ。強気で、男を焦らすような魅惑的な唇で俺を誘う。手の中にいると思ったら、遠くにいて、ままならない小鳥。なだめすかしても、骨折り損。

 秋が来る頃、彼女は言ったんだ。

「あなたっていつも醒めた目をしてるの。知ってた?」

「そう?」

「そうよ。なんでも見聞きはするけど、夢中になれずに『それがどうしたの』って顔をしてる。私にもね」

「そんなことないだろ」

「いいえ、そうよ。澪は私に恋をしてないわ。だから、私は惨めになるの」

 そして、俺たちは別れた。今思えば、彼女の言葉は当たってたんだと思う。遠ざかる背中を追いかける気にもなれなかったから。映画でも観てるみたいに、ただただ黙って彼女の小さくなる姿を見てた。あぁ、あの髪、好きだったな。そんなことをぼんやり考えながら。

 あれが初恋だと思ってたけど、彼女は恋じゃないと言った。じゃあ、俺の初恋ってどこにあるんだろう? 好きだと言ってくれる子もいるけど、嬉しいだけだ。舞い上がりはしない。

 熱中できない性格は若い頃の親父に似たって言われるけど、今や親父はお袋とお酒に夢中だ。俺が本当にスフィンクスだったら、誰にでもいいから訊きたいよ。

『俺が夢中になれるものって、どこにあるの?』

 響歌とこんな話をしていたことがある。

「澪は、琥珀亭を継ぐの?」

「さぁ、どうかな。響歌は古本屋を継ぐの?」

 古本屋を経営していた響歌の祖父はとっくに他界し、今では彼女の母親が引き継いでいる。響歌は静かに首を横に振った。

「私は医者になりたいの。死んだおじいちゃんがよく言ってたから。もう少し医学が進歩してれば、お前におばあちゃんの顔を見せてあげられたのにって」

 俺は、響歌のこういうところが好きだった。彼女は高校生にしては大人びていた。だけど、たまにこういう純粋な顔をちらつかせる。......今思えば、純粋だからこそ、恋愛にも思いっきり身を焦がすんだろうけど。

「そうか。いいな、夢があって」

「澪は何も見つけようとしていないだけよ」

 響歌が肩をすくめた。

「このまま何も考えず琥珀亭のバーテンダーになるつもり?」

 俺は何も言えなかった。正直、それでもいいかって気持ちがあった。けど、俺が本当にやりたいことは他にあるんじゃないかって気もしていたから。

「そこにレールがあるからって、ほいほいその上に乗るなんて、つまらないと思わない?」

「でもさ、俺にできることってわかんないし」

「バイオリンは?」

「それで食っていく自信はないよ」

「つまらない人ね」

「はいはい、響歌のパワフルさをちょっとは分けてほしいよ」

 考えてみると、その頃から響歌は俺に興味がなくなった気がする。でもさ、だからってどうしようもないじゃないか。迷うものは迷うんだよ。俺にはまだ、お前みたいな火がついてないんだ。ただ、それだけだよ。
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