にゃむらい菊千代

深水千世

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マリアの引き出し

流星群

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 ふと気がつけば善七の姿は消え失せ、代わりに悲壮に満ちた面持ちのミサヲと、母親の姿が見えた。
「もう善七さんが来ないってどういうこと?」
 ミサヲの声は掠れていた。母親が躊躇いがちにこう答える。
「伯父さんが隠居することになってね、善七さんが診療所を継ぐの。だから善七さんは今までのようには診療所から動けないのよ。代わりに伯父さんが診察に来てくれることになったのよ。お父様も『兄さんが来てくれるなら問題ない』と仰ってね」
「じゃあ、もう会えないの?」
「そんなわけがないじゃないの。従兄弟なんですから」
 そう言った母親が口をつぐんで視線を床に落とした。この母親は何かを隠している。マリアがそう感じたとき、一人の女性が部屋に入ってきた。
「ミサヲ、入るわね。あら、叔母様もいらっしゃったの」
 そうにこやかに言うと、その女性は柔らかい笑みを浮かべる。
「美彌子お姉様」
 ミサヲがパッと顔を輝かせた。
「こんにちは」
 ミヤコと呼ばれた女性は挨拶をすると、ミサヲの母に向き合った。
「ねぇ、叔母様、これ母から預かってきました。豆大福ですって」
 手にしている風呂敷包みを手渡すと、母親が「あぁ」と顔を綻ばせた。
「姉さんの作る豆大福は格別なのよね」
 この美彌子という女性がミサヲの従姉妹のようだ。会話から察するに善七はミサヲの父の甥にあたり、美彌子は母の姪らしい。
『まるで太陽と月みたいな従姉妹だわ』
 思わずマリアは美彌子とミサヲを見比べる。
 従姉妹というだけあって顔の造りは似ていた。二人ともつぶらな瞳とふっくらした唇で器量はいい。しかし、どうしても美彌子のほうが人目を惹く。美彌子の目は輝き、健やかさが全身にみなぎっていた。一方、ミサヲはどこか幸薄そうで髪の艶もなく、生気がない。もともと俯きがちな性格がその印象に拍車をかけているのだ。
 美彌子は溌剌として、まっすぐな目が利発そうだった。だがそれだけではなく、所作が優雅で、ミサヲにはない大人の艶美さがあった。風にしなる柳のような物腰と唇に色香が宿っている。二人が並ぶと残酷なほど差が際立つのだった。
 しかし、美彌子はそれを鼻にかける様子もなく、ミサヲも彼女を好いているようだ。
「じゃあ、お茶をいれてきましょうね」
 ミサヲの母親がいそいそと部屋を去るのを見届け、美彌子がそっとミサヲに囁く。
「ねぇ、今度の土曜日の夜、遅くまで起きていられる?」
「大丈夫だけど、何かあるの?」
 きょとんとしたミサヲに、彼女は無邪気な笑みを浮かべた。
「あなた、善七さんにいつだったか『流星群が見たい』って言ったでしょう?」
「えぇ。言ったわ」
「その流星群が綺麗に見えるのが土曜日なんですって。それでね、善七さんが庭に出て見ようって」
「本当に?」
 ミサヲが破顔する。
「嬉しい! 覚えていてくれたのね」
「えぇ。みんなで美味しいものを持ち寄って、楽しく過ごしましょう」
「でも、どうして美彌子お姉様も?」
「善七さんに誘われたのよ。みんなで楽しく見ましょうって」
 ミサヲは『本当は二人きりがよかったのだけど、善七さんも鈍い人ね』と恨めしく思ったが、慌ててそれを打ち消す。
『いいの、流星群のことを覚えていてくれただけで嬉しいわ』
 そして景色が流れ、辺りは夜になった。ミサヲに膝掛けを渡しながら、母親が少し苦い顔をした。
「ねぇ、あまり体を冷やさないようにね。少しでも具合が悪くなったらすぐに言うんですよ」
「大丈夫よ、お母様」
 母親はミサヲの襟元を直しながら、ぶつぶつと小言をこぼす。
「まったく善七さんも無茶を言うんだから。でも美彌子にも一緒にお願いされたら何も言えないわ」
 ミサヲの胸が塞がれる。
「ねぇ、お母様。前から一度訊いてみたかったことがあるの」
「なんです?」
「どうしてお母様は善七さんに厳しいの? それに少し冷たいわ」
 それだけではない。善七と自分との間に距離を置くように仕向けているのをうすうす感じていた。しかしそれを口にする勇気が持てず、彼女はじっと母の言葉を待った。
「そう? そんなことはないでしょう」
 一瞬たじろいだあと、母親は笑みを繕った。
「あなたが心配なだけですよ」
「だって、美彌子お姉様には親しげなのに、善七さんにはいつもよそよそしいもの」
「そりゃ、美彌子は私の姉さんの娘ですもの。遠慮もないわ。だけど善七さんはお父様のご実家の家業を継ぐ方ですからね」
 そう言った母が一瞬目を逸らしたのを、ミサヲは見逃さなかった。母親の顔を探るように見つめ、漠然とした不安に駆られる。
 母の言葉に何か含みがあるような気がしてならなかった。けれどそんな気がするだけで、そこにどんな意図があるのか見当もつかない。それでいて強く問いただす勇気も持てなかった。疑問を口にすれば、何かが壊れるような予感がしたのだ。
 二人の間に訪れた沈黙を打ち破ったのは、他ならぬ善七だった。
「こんばんは」
 部屋に入ってきた彼はどこか疲れて見えた。診療所を継ぐと決まってから、寝る間も惜しんで働いているのだろう。以前より痩せたようだ。だが、その声の調子は朗らかで、この日を楽しみにしていたのがうかがえた。
「支度ができましたよ」
 そう言うと、彼はミサヲの母に向かって小さく謝った。
「すみません。冷えないように気をつけますから」
「わかってますよ」
 母は渋々頷き、小さなため息をついた。
「あなたは昔から言い出したらきかないんですからね。仕方ありません」
 善七が笑みを漏らし、ミサヲに向き直る。
「さあ、行こう。美彌子が待ってるよ」
 ミサヲを違和感が襲う。何故、彼は美彌子のことは呼び捨てにしているのだろう。以前は確かに自分を『ミサヲさん』と呼ぶように『美彌子さん』と呼んでいたはずだ。
 ミサヲの薄い胸の奥がちりちりと鋭く焦げ付くように痛んだ。だが、そっと肩掛けを羽織らせてくれる善七の顔を間近で見ると、何も言えなくなる。
「さぁ、おいで」
 善七に促され、彼女は黙って頷き、ゆっくりと歩き出した。
『ずっとこちらを見ていてくれたらいいのに』
 そう思いながらも、いざ目を合わせると息が苦しくなる。ミサヲは肩掛けの裾を握りしめ、傍にある善七の気配に身を固くしていた。

 彼が案内してくれたのは、和室に面した縁側だった。座布団が三枚敷かれていて、右端の席には漆塗りのお膳が用意されていた。小鉢に盛られた肴と日本酒が乗っているところを見ると、そこは善七の席のようだ。そして傍らには美彌子が既に待っていた。
「早くいらっしゃい。ミサヲは真ん中よ」
 そう言って微笑む美彌子がミサヲの手を取って中央に座らせる。善七が膳をのぞきこみ「僕の好物ばかりだね」と嬉しそうに言った。
「美味そうじゃないか。酒がすすみそうだな。さすが美彌子だね」
「お酒はほどほどになさいな。ここで酔いつぶれては叔母様に叱られるわよ」
 そう言って笑い合う姿を見たとき、ミサヲはハッとした。二人の間に流れる空気が特別なものに思えたのだ。それぞれ別に会っているときにはわからなかったが、こうして揃ってみると、自分が入り込めない何かが漂っていた。
 善七がミサヲの右隣に座ると、すっと美彌子が傍に寄り、日本酒の入った徳利を手にする。それに応えるように善七は杯を差しだし、酌をする美彌子を見つめている。杯が満たされると、今度は美彌子が日本酒を口に含む善七を見つめる。
 終始無言で交わされたやりとりを見るうち、ミサヲの胸がざわついていた。
『もしかして。まさか。でも』
 あんなに楽しみにしていたはずの流れ星を探そうともせず、ミサヲは彼らの姿に目を懲らす。
 その視線に気づいた善七が照れ臭そうに切り出した。
「実はね、今日はミサヲさんに報告があるんだ」
 ミサヲが肩掛けを咄嗟に握る。
『やめて。言わないで。聞きたくない』
 心の中でわななく声がするのが、マリアには聞こえた。だが、善七には届くはずもなく、彼はこう言葉を続けた。
「実は診療所を継いだら、美彌子と結婚するつもりなんだよ」
 絶句したミサヲに、善七と美彌子は顔を見合わせて笑った。
「驚いた?」
 美彌子は無邪気な笑みで問う。ミサヲは蚊の鳴くような声で「えぇ」と答えるのが精一杯だった。
「本当は来年に挙式をする予定だったんだけど、今年の秋に早めることにしたんだ」
 善七がはにかみながら、ミサヲに言う。
「ほら、ミサヲさんの容態が少しずつよくなっているでしょう? だから是非、君に来てほしくって」
「どうして私に?」
「だって僕たちはミサヲさんが大好きだもの。あなたに僕らの門出を見届けてほしいからね」
 ミサヲは言葉を失う。マリアには混沌とした感情の渦がまざまざと伝わり、泣くのを必死に堪えているのがわかった。
「おめでとう」と、彼女はやっとの思いで呟く。
 それを聞いた美彌子は顔を輝かせた。
「ありがとう。ミサヲが喜んでくれたらとっても嬉しいわ」
「もちろんよ、お姉様」
 ミサヲは懸命に笑みを繕う。だが、その心中は底冷えのする絶望で満たされていた。
 善七が酒で染まった頬を更に赤くして言う。
「さぁ、この話はここまでにして、流れ星を探そうよ。ミサヲさんは何をお願いするの?」
 ミサヲは引きつりそうな口元に無理矢理笑みを浮かべた。そして、消え入りそうな声で呟く。
「もう、叶ったわ」
「え? なぁに?」
 そう問いかける美彌子の目が星空を映したように輝いている。そこにはミサヲの望むすべてがあるような気がした。
「内緒よ」
 ミサヲは空を見上げる。流星群が胸を貫くようで、痛かった。
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