漂流図書館の料理人

深水千世

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二人は仲良し、三人は仲間割れ

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 記憶の欠片が見せた景色は、夜が迫るアパートの居間だった。真朝が電気もつけず、薄暗い中にへたりこんですすり泣いている。
 見慣れているはずの居間だったが、どこか違和感があった。よく見ると、家具の配置も変わっているし、母の服も見たことがないものだ。

「お母さん」

 声をかけたのは幼稚園くらいの少女だった。それが幼い頃の自分だと気づき、日向は息を呑んだ。
 母が顔を上げる。それは現在の彼女よりも確かに若い頃の姿だ。そしてその唇からこう漏れた。

「……麗」

 母は幼い彼女を抱きしめて泣いた。昔の自分が健気に母にしがみついている。

「泣かないで。私が日向になるから」

 その言葉を聞いた途端、景色は弾けて消えた。
 気がつくと、日向は夕闇の空を悟空に抱えられて飛んでいた。

「ここは?」

 そう言いかけて、やっとそれが自分の住んでいた街だと気がつく。悟空が首を傾げる。

「あんた、お母さんって口走ってたけど母親の記憶でも拾ったのか」

「うん」

 力なく答える日向の脳裏に、文章の「世の中には知らなくていいことだってあると思うけど」という言葉がよぎった。まさにその通りだったのだ。
 日向は自分が真朝の実の娘ではないことを思い出した。同時に、ピーターと一緒にいたときに見た記憶にも納得がいった。喪服を着た真朝と彼女が見送ったのは彼女の実の両親だ。残された彼女は娘としてひきとられ、真朝に育てられたのだ。
 真朝はシングルマザーとして一人娘を育てていたが、あの葬儀の数年前にその娘を亡くしている。その娘の名が『日向《ひなた》』だった。
 ときどき日向を思い出して苦しむ真朝に、本当は麗という名を持つ彼女はこう申し出たのだ。

「私が日向になるから」

 こうして真朝は彼女を二人きりのときだけは、麗ではなく日向と呼ぶようになった。そうすることで、真朝のぎりぎりに張り詰めたものが、壊れずに済んだのだった。
 悟空にそう話しながら、日向は項垂れた。

「もちろん、友達もそんなこと知らないし、学校の書類や戸籍だってちゃんと麗の名前だったけど、せめて二人だけでいるときくらいは、日向でいて欲しいんだろうって思ったの」

 彼らは真朝のスナックのほうへ飛んでいた。一刻も早くそこへ行きたいと願う日向の気持ちが、肩にくいこむ手を通して悟空に嫌というほど伝わってくる。
 やがて、ぽつりと涙が雨粒のように落ちた。日向の声が、弱弱しく悟空の耳をかすめる。

「本当の娘になりたかったのは、私のほうだわ」

 真朝が『日向』と呼ぶとき、その目の奥にある光は自分のものではないとわかっていた。それでもいいから、自分を見て欲しかったのだ。
 母に見てほしくて、褒めてほしくて、安心してほしくて……その一心で背伸びをし、手に職をつけようとし、大人ぶった。
 けれど、ピーターは母を恋しがって泣きじゃくる心のひだに隠れた自分をすぐに見つけてしまったのだろう。決して手に入らないものを欲しがる姿に、自分を重ねたのかもしれない。
 辺りは宵闇色のヴェールに包まれているが、まだ靄の中にいるようだった。行き交う車のライトや家々の照明らしいものが、丸く滲んでいる。
 悟空が日向を掴む手に力を入れた。

「俺には生まれたときからお父さん、お母さんってのはいない」

 日向が顔を上げると、悟空は毅然とした口調でこう続けた。

「俺は花果山《かかざん》から生まれた石猿だからな。他の仲間にいじめ殺されないように、飢えなくてすむように、力を求めた。強くなければ生きてこれなかった。それが原因で俺は怖いもの知らずに育ってしまった。それが正しい道だったとは言わないけれど、必死だった」

 街並がぐんぐんと迫ってくる。彼は話しながら高度を下げていた。

「子どもなりに、必死になることがあるのは、俺にもなんとなくわかる気がするよ」

 そう言い終わったとき、悟空は真朝のスナックの前に降り立った。
 そのとき初めて、さっきまで靄《もや》だと思っていたものが、実はひどい霧《きり》だったと気づく。
 おそるおそるスナックの中をのぞくと、着飾った母が冷蔵庫からお通しのタッパーを取り出して、中身をつまみ、満足げに頷いていた。蓋の隙間から見えるのは、うどの酢味噌和えと厚揚げの煮物だ。
 これは漂流館に迷い込んだ日だと気づき、日向は固唾を呑んで母を見守った。
 彼女はさきほどから、ちらちらと壁にかかっている時計を気にしている。

『ちょっと人が来るのよ』

 あの日、母はそう言っていた。おそらく、そろそろ約束の時間なのだろう、ひどくそわそわしていた。
 そして時計が五時半を指したとき、開店前の扉が開いた。真朝は何も言わずに入ってきた者をただただ見つめていた。そこに立っていたのは笑子だった。

「お久しぶりです、ママ」

 先に口を開いたのは笑子のほうだった。にやにやと唇の端を吊り上げ、ゆったりした足取りでカウンターに寄る。

「エミちゃん、あんた……」

 真朝が明らかに苦い顔で笑子を見つめている。

「ママ、話はあとよ。すぐに健司さんが来るはずだもの」

「本当に? 電話で言ってたこと、本当なの?」

「健司さんがここに来たら、本当ってことよ。ママはいないことになっているから驚くでしょうけど、うまく話をあわせてね」

 日向は小首を傾げた。真朝は何故かひどく狼狽しているが、笑子は余裕綽々といった顔つきをしている。
 そもそも、記憶の中の笑子はのほほんとして穏やかな女性だと思っていたのに、どうも様子がおかしい。いつになく強気で、真朝を見下しているような目つきをしていた。
 日向はそっと隣にいる悟空に囁く。

「なんだか優しい人だと思ってたんだけど、猫でもかぶっていたのかしら?」

 すると、悟空がぽりぽりと頭をかいた。

「妖怪よりも人間のほうが怖いから、ありえるね」

 二人のやりとりなど露知らず、笑子がハンドバッグから小さな包みを取り出した。

「これを」

 真朝が受け取ったのは、白い紙を折りたたんだ包みと、何か小さな黒い物体だった。それを包む込む真朝の指に戸惑いが見える。

「エミちゃん、考え直さない? もっと他の方法が……」

「だって、じゃあどうすればいいの? ママのためでもあるのよ」

 真朝が唇を噛み締めたとき、扉が開いて一人の男がやってきた。
 日向の眉間に皺が寄る。

「……やあ」

 そこに立っていたのはスーツに身を包んだ痩せ型の男だった。厚みのある涙袋と唇で、浅黒い肌の優男だ。
 日向がどうにも好きになれない、岩田健司という母の恋人だった。健司は真朝を見て目を丸くし、口元をひきつらせた。

「……ママ、すまないね。その、ずいぶん早くに。急に飲みたくなったものだから」

 そう言うと、笑子にとってつけたような「久しぶり」という挨拶をした。

「笑子ちゃんも来てたのか。また店に戻ることにでもしたの?」

 すると、先ほどまで強かな顔をしていた恵美子が、柔らかい表情を浮かべた。それこそが日向の中にあるいつもの彼女の姿だったのだが、このときばかりは不気味に思えた。

「いいえ、今日は私も飲みたくなっちゃって。偶然ですね、健司さん」

 三人の間にぎくしゃくした空気が漂う。真朝が「あの、とりあえず座って」とおしぼりを二つ取り出した。

「まだおしぼり冷えてないけど、ごめんね。あ、何を飲む?」

「ありがとう、ママ。私、焼酎の水割りで。健司さんは?」

 微笑んでいる笑子と裏腹に、健司の表情は固い。

「あ、あぁ。じゃあ、ハイボールにしようかな」

 まるで何かの芝居でも観ているようだった。さっきの会話からいって、真朝は笑子と組んで健司を呼び出したらしいが、健司はそうと知らないらしい。
 何が起こるのかと、眉をひそめたときだった。
 思わず日向が息をのんだ。真朝がカウンターのかげで、先ほど受け取った白い包みをそっと開け、健司を盗み見ながら中身をグラスにあけた。それを笑子がじっと見つめ、その唇にひっそりと笑みを浮かべているのだ。

「お母さん? 何をしているのよ」

 日向の声は、彼女たちには届かない。母は震える手でそのグラスにウイスキーを入れ、丹念に混ぜはじめた。
 思わず、悟空に「ねぇ、なんとかならないの?」と詰め寄る。

「お母さんを止めなきゃ!」

 だが、悟空は小さく首を横に振った。

「文章も言っていただろう? あんたが自力で帰ることができていない以上、ここでは俺たちは本来いない存在だ。無理矢理ここにいるんだ。他の世界に干渉するものじゃない。だから声も届かない。そういうものさ。それに、声が届いたとしても、事態は流れるべくして流れるんだから、無駄だよ」

「そんな……」

 真朝はきつく唇を噛みしめたまま、ハイボールを健司に差し出した。
 笑子もグラスを受け取り、目で何事か訴えているように見えたが、真朝は目をそらしてすぐにお通しを盛りつけにかかった。

「健司さん、乾杯」

「あ、あぁ」

 二人がグラスを鳴らすのを尻目に、真朝が二枚の皿にお通しを盛る。その菜箸がわなないているのを、日向が愕然として見ていた。
 そのとき、笑子が今度は健司に意味ありげな視線を送ったのに、悟空が勘づく。

「おい、この女、なんか企んでいるぞ」

 悟空がそう耳打ちしている横で、健司があのハイボールを三口ほど飲んだ。隣では笑子が「今日はひどい霧ね」などと白々しく世間話をしている。
 健司も真朝も浮かない顔で相づちを打っていたが、そのうち健司がそわそわしだした。
 ついに健司が「失礼」と立ち上がる。そして店の入り口のそばにあるトイレに消えていった。
 真朝がそれを見送ると、即座にひそひそと笑子に話しかけた。

「ねぇ、本当にあれって大丈夫なんでしょうね?」

「大丈夫よ、ママ。それよりあの人、やっぱりトイレに行ったでしょ」

「うん……本当なのね」

「だから言ってるじゃない。そのカードには麗ちゃんばっかり映ってるんだから」

 妙な胸騒ぎが日向を襲った。
 トイレから出てきた健司が「お待たせ」と誰に言うでもなく席に座る。
 それから何かが起こるかと思い見守っていたが、彼らは他愛もない会話を繰り返すだけだ。
 だが、そのうち健司の様子がおかしくなった。目がまどろんできて、とうとう肘をついてがくんと項垂れてしまったのだ。

「あれ、こいつぁ大変だ」

 ちっとも大変そうではない声で悟空が言う。だが、日向はすっかり青ざめていた。

「死んだの?」

「違うよ、寝てるだけさ」

 ほっと安堵したものの、それでも犯罪だ。見ると、真朝は化粧をしているにもかかわらず、すっかり青ざめた顔をしていた。

「エミちゃん、私……」

「そう、これでママも共犯ね」

 わななく真朝に、追い打ちをかけるように笑子が鼻で笑う。

「さぁ、今のうちに」

 そして何を思ったか、彼女は健司のスーツの上着や鞄をあさりだした。

「あった」

 彼女が取り出したのは小さな機械とSDカードだった。笑子は機械を真朝に見せびらかし、「ほらね」と勝ち誇ったような表情を浮かべた。一方の真朝は今まで見たこともないような、ひきつった顔をしている。
 笑子はカードと機械を自分の鞄にしまうと、きっぱりと言う。

「ママ、今のうちにさっき渡したものを処分してきて」

「え? 今?」

「そう、こいつが気付かないうちに処分しちゃったほうがいいわ。そうね、麗ちゃんにでもお願いしてきたら? ママは何食わぬ顔をしててちょうだい。真夜中くらいまでは目を覚まさないはずだから、それまでになんとしても処理するのよ。店は臨時休業にして、誰も入れないようにして」

「だって、エミちゃん、この人どうするの?」

 おろおろする真朝に、笑子がくっと笑う。

「この人をどうするかよりも、ママがどうしたらいいか考えたほうがいいんじゃないの?」

 真朝はすっかり取り乱していた。カウンターの隅に隠していた何か黒いものに手を伸ばす。それがSDカードだと気付いた日向が眉を寄せた途端、真朝が走り出した。
 ドアを飛び出ると、ガチャガチャと慌てて鍵を閉めているようだった。そしてヒールの音が遠ざかるのを聞いていた笑子がふっと笑う。
 彼女はバッグからノートパソコンを取り出した。起動画面の光がスナックに鈍く散乱する。笑子はその間に彼のスーツのポケットをあさり、携帯電話を抜き取る。

「確認がとれたら料理してあげるわ。さあ、どうしてやろうかしらね」

 それは、ぞくりとするほど冷たい声だった。
 日向は母の後を追うべきか、このままここに残って笑子がどうするのか見ているべきか迷っていた。それに、このSDカードの中身も気になった。
 笑子がため息を漏らして、うつぶせになったままの健司の隣に座る。

「どうしてこんな男のために……こんな男なのに……」

 そう苦々しく呟くと、彼女は鼻で笑う。そして、そのままじっとなにやら思案に暮れていた。
 それを見ていると、なにやら奇妙な胸騒ぎに襲われる。日向はついにじっとしていられなくなった。

「お願い、お母さんを追って」

 悟空は黙って頷くと雲を呼んでくれた。『きんとうん』に乗って外に出ると、ちょうど真朝がタクシーをつかまえたところだった。
 車の上を追うように走りながら、悟空が首をかしげる。

「なぁ、あの黒い小さい物はなんだ?」

「あれはSDカードっていって、画像とか動画をたくさん保存できるのよ」

「妖術の一種か」

 悟空の言葉に返事もせず、日向が考え込む。カードの中身も気になるが、あの健司から奪っていた小さな機械が気になった。

「もしかしてあれは……」

 考えついた考えに思わず身震いする。
 そうしているうちに、タクシーはアパートの前に止まった。真朝が降りてもタクシーが走り去らないところを見ると、彼女は運転手に待たせているようだった。
 日向たちもアパートの中をのぞきに雲の高度を下ろす。

「あぁ」

 思わず日向が声を漏らした。
 狭い玄関、座り心地のいいソファ、あれだけ帰りたいと願った自分の家だ。そして長年立ち続けてきた台所ではあの日の自分が台所で鍋をのぞいている。
 おそらく、お通しを届けたあとなのだろう。彼女はその仕事をこなしてから、自分の夕食と真朝の夜食を一緒に作る。真朝の分は冷蔵庫に入れておいて、仕事から帰ったらすぐに食べられるようにしておくのが日課だった。今作っているのは母の好物の鯖の味噌煮のようだ。
 漂流図書館に迷い込んで数日だというのに、まるで何十年ぶりかに帰ってきたような錯覚に陥った。
 そのとき、ガチャガチャと慌てて鍵を開ける音が響く。
 鯖の味噌煮に煮汁をかけていた日向が手を止めてぎょっとした顔になった。玄関の扉が勢いよく開いて、真朝が駆け込んでくる。

「お母さん、どうしたの?」

 景色の中の日向が目を丸くしていると、真朝がその手に何かを握らせた。
 それはピーターと一緒に見た記憶と同じだが、今は真朝が握らせたものがあのSDカードだとわかっていた。
 真朝は息を乱し、まとめ髪の毛束がほつれていた。そわそわしたのか首の後ろをかきむしったらしく、赤い爪痕が首元に見えた。

「お願い。これを捨てて。どこでもいい。捨ててくるんだよ」

 真朝は握った手に力をこめ、まるで鬼のような形相で囁いた。

「いいね……麗」

「どうしたの、お母さん。麗なんて家では呼ばないのに。それにその顔。何かあったの?」

 心配そうな声を、真朝が「いいから」と遮り、その手を強く握った。

「いいかい、中身は見ちゃいけない。けれど、誰の手にも渡らないようにしなくちゃいけない。アパートにも残しておけない」

「ゴミに出せば?」

「収集日まで待てないよ。ゴミに出すより、確実に今すぐ自分の手で処分してほしいんだ。今すぐに」

 怪訝な顔をした日向に、真朝が「いいね」と繰り返す。

「それがお前のためなんだ。いいね。すぐに捨ててくるんだよ」

 そして彼女は玄関に走り、鍵も閉めずにまた出て行く。タクシーでまた店に戻ったのだろう。
 取り残された日向が唖然としているのが見えた。

「よし、店に戻ろう」

 悟空がを高く飛ばす。日向は悟空の雲の上で思案に暮れていた。
 真朝が自分に託したSDカードは、漂流図書館にたどり着いたときには持っていなかった。自分はそれをどこかに処分してから迷い込んだことになる。ではどこにあるのだろう。
 そして、昏睡した健司から笑子が機械とともに取り出した別のSDカードの存在も気になった。一体、この二枚には何が入っているのか。
 笑子が持っていたカードを、どうして真朝が必死に処分したがったのか、そして健司が持っていたカードはどうして笑子が手にするのか。
 どう考えても、それがあまりいい話ではないことには違いない。彼女は母親があんなに取り乱した姿を初めて見たことのほうがショックだった。
 一体、あの三人に何があったのだろう。
 真朝と健司の仲はとりたてて悪くもなかった。二人が付き合っているのに気がついたのは数ヶ月前だ。ちょうど笑子が店をやめた頃になる。

「何かあったのかな」

 日向がため息を漏らした。
 飲み屋街では男と女がもめる話も少なくない。ある者は色に溺れ、ある者は金に汚れる。そういう話題ばかりだからこそ、彼女は手に職をつけ地道に生きていこうと幼い頃に誓ったのを思い出した。
 飲み屋街の人々も、そこにある人情も嫌いではない。それでも、母がそういう世界で生きていることが恐ろしく感じることがあったのだ。三人の様子を思い出し、変なことに巻き込まれてなければいいがと願う。
 真朝のタクシーはやはり店のほうへ走っていくようだった。だが、百メートルほど手前で止まり、運転手に何事か声をかけながら真朝が出てくるのが見えた。
 そこから店まで早歩きで行く彼女は、少し項垂れているようにも見えたし、誰にも顔を見られたくないようにも見えた。実際は日曜の夕方という時間帯のせいもあって、通りに人はいない。だが、それでも真朝は背筋を縮めているように映った。
 真朝が店の鍵を開けた瞬間、悟空が「あぁ」と慌てたように声を漏らす。

「どうしたの? 早く店に行こうよ」

 健司と笑子がどうしているか気がかりで急いている日向に、悟空が申し訳なさそうに言った。

「すまん、もう帰らなきゃ」

「えぇ? このタイミングで?」

 非難の口調でねめつけると、彼は小さな肩をすくめた。

「漂流図書館が動き出した」

「えっ?」

「あんたが図書館にたどり着いてからはしばらく止まってたけど、またどこかに流れ出したみたいだ。早く帰らないとあんたの思い出を拾っても追いつけないかもしれない」

 つまり、日向が落としてきた道しるべよりも先に図書館が動き出しそうだということらしい。

「そんな……何があったか結局わかってないのに!」

 もどかしさに泣き出しそうな日向を悟空が慰めた。

「今回は時間もたってるし、一度帰ったほうがいい。あと一度くらいなら行き来できるだろうから、そのときは俺よりももっと早くあんたを連れてこれる人を呼び出してもらえばいいさ」

「……それ、誰?」

「文章にきいてごらん。とにかく、今回は帰ろう」

 そう言うやいなや、有無を言わさず雲がぐんっと上昇する。あまりの動きに息ができずにいたが、一息つく頃にはあっという間に白い靄の世界に戻っていたのだった。
 雲の上で悟空が憐憫の目をした。

「あんたのお母さん、あのあとで誰かに襲われるんだろう? あの男が仕返しでもしたのかな?」

「さあ……でも、健司さんも一緒に倒れていたらしいから、別の人かも」

「じゃあ、あの女の人かい?」

「まったく別の誰かかもよ。だって、お店を離れている間に、誰かが来てもおかしくないもの」

「やれやれ、天竺《てんじく》への道よりも答えが遠いね」

 そんな話をしているうちに、日向がきらりと光るものを見つけた。

「あった、あれよ!」

 そう叫んだ途端、彼女の脳裏にばらまいてきた記憶が戻る。
 浮かんできたのは真朝の店だ。店のカウンターには着飾った真朝と笑子がいる。カウンターに座る日向の隣に健司がいて、目の前にはケーキがあった。そして店の壁は『成人おめでとう』の文字が書かれた垂れ幕で飾られていた。
 日向があの三人が二十歳の誕生日を祝ってくれたのを思い出した。仕事を休めない母には「誕生会なんていらない」と言っていたのだが、健司が「せめて店で、みんなで祝おう」と言ってくれたらしかった。
 あのあとで他の常連客も来ていたが、一番に集まってくれたのが、笑子と健司だった。

「おめでとう。これでやっとお酒飲めるね」

 笑子がケーキを切り分けながら笑っている。チョコレートのプレートに『うららちゃん、おたんじょうびおめでとう』とあるのが見えた。
 自分を日向と呼ぶのは母だけ、しかも二人きりのときだけだ。漂流図書館に戻ったら、やはり文章に『麗』と呼んでもらうべきだろうかと苦笑したときだった。
 カウンターに並んで座っていた健司の手がそろそろと伸び、日向の膝を滑った。
 記憶の中の日向は凍り付き、さっと青ざめた。だが、真朝はカウンターの中でお祝いの花を花瓶にいけている最中で、背を向けている。笑子はケーキをよそうことに気をとられていた。
 日向の唇が何か言葉を漏らしかけたが、すんでのところでそれを飲み込む。そして健司の手をはねのけると、無言で強くにらんだ。だが、健司はにやにやと下品な笑みを唇の端に浮かべているだけで、ちっとも懲りていないようだった。
 次の瞬間、目の前に白い靄が覆い被さった。気付くと、日向は記憶から意識を戻し、白い靄の中にいる。

「どうした、顔色が悪い」

 心配そうな悟空に、彼女はため息を漏らしてから見てきたことを伝える。

「思い出した。思い出したくなかったけど」

 文章の言うとおり、忘れていたほうがよいことも確かにある。

「あの男、下心丸出しの目で私を見ていたの。けれど、お母さんはちっとも気付いてくれなくて」

 吐き捨てるように言う。

「気持ち悪い」

 悟空が「はぁ」と呆れている。

「恋人の娘に手を出すってのかい。まるで出会った頃の猪八戒みたいに見境がないな」

「というより、私に拒まれてからお母さんと付き合いだしたみたいなの。だから、あの人が好きになれなかったんだけど」

 なんとなく好きではなかったと思っていたのは、好きになれなくなった出来事をこうしてばらまいて来てしまったからだろう。思い出してしまった今は、嫌悪感でいっぱいだった。
 もしかしたら、他のもっと色目を使ってきた記憶をばらまいているかもしれないが。

「私、あの人があのあとに襲われたとしても、同情はしないわ」

 遠くに漂流図書館の姿を見つけながら、日向が吐き捨てるように呟いた。
 漂流図書館に舞い戻ると、文章は中庭で三蔵と向かい合って茶を飲んでいた。

「お師匠様、ただいま戻りました!」

 悟空が雲から日向を下ろし、三蔵のそばに駆け寄る。なんとも健気な姿に、可愛らしく思えてしまう。
 文章がティーカップを置いて、日向を見た。

「おかえり。昨日よりは早いね」

「昨日より長くいたと思ったんだけど」

「時の流れなんてあてにならないものさ」

 飄々と文章が笑う向かいで、三蔵がにっこり微笑んで悟空をなでている。

「よく戻りましたね。彼女のお力にはなれましたか?」

「それがお師匠様、もう少しだったんですけれど」

 悟空が残念そうに、事の顛末を見届けられなかったことを話す。
 文章が「ふぅん」と細いあごをさすった。

「図書館が動き出したか。今度はいつの時代のどこに行くのかな」

 日向が目を見開いた。

「あなたにもわからないの? だって、この館の主でしょ?」

 いささかむっとしたように、文章が唇を尖らせた。

「確かに主は僕だけれど、どこに行くかわからないから『漂流』する図書館なんだ」

 三蔵が悟空にそっと目を細める。

「悟空や、お前も千歳《ちとせ》様にお祈りなさい」

「はい、お師匠様」

 悟空は言われるままに両手をあわせて少しの間祈っている。

「千歳様?」

 目をぱちくりさせた日向に、文章が肩をすくめた。

「僕の祖母の名だ。悟空たちはずいぶん昔からこの図書館にいるから、おばあ様を知っているんだよ」

 登場人物たちは本の持ち主に似るとディコンが言っていたことを思い出した。そうすると、彼らはそのおばあ様とやらに似ていることになる。
 確かに、彼らは文章のように理屈っぽくはないと苦笑していると、悟空が文章にこう切り出した。

「文章、多分あの世界に行って戻れるのは、あと一度くらいだと思うんだ。俺よりも早く飛べる人はいないかな?」

「ふむ。いることにはいるだろうけれど」

 そう腕組みをする文章に、日向が詰め寄った。

「お願い、文章。もう一度だけ、あの世界で何があったか見届けるチャンスをちょうだい」

 彼のすみれ色の瞳がじっと日向を見据える。その目が怖いと感じていたはずなのに、今の日向は微塵も怯まなかった。ただ、自分の奥底まで見透かされそうな、そんな静かな目だと思った。

「戻れる可能性があるのか、ないのか知るだけでいい。今すぐは戻れなくていい。ただ、母がどうなったかだけでも知りたい」

 返事がない。日向は躍起になって、彼に嘆願した。

「もしここにずっといることになるなら、その覚悟を決めたいのよ。物事を来るがままに受け取るにはね、どんな物事が押し寄せてきたか目をそらさずに見届けなきゃできないと思うの」

「ふむ、『Take things as they come』のことを言っているのかな」

「そうよ。自分に押し寄せたものを知らないと、甘んじて受け入れるなんてできない」

 少しの間、彼は思案していた。だが、やがて三蔵に向かってこう言った。

「ねぇ、三蔵。彼女はおばあ様に似ていると思わないかい?」

「そうですね。開き直ったときの強さが少しだけ」

 にっこり微笑むと、文章が満足そうに頷いた。

「よろしい。夕食までに考えておこう」

「あ、ありがとう!」

「そう思うなら、今日のデザートは桃がいいな」

 悟空が気まずそうに苦笑する。

「それは俺へのあてつけかい?」

 蟠桃園《ばんとうえん》で桃を食い荒らした過去を思い出したのか、彼は「今じゃ反省しているんですよ」と三蔵を仰ぎ見た。彼の師は穏やかな笑みを漏らしている。
 文章がふっと笑った。

「夕食まで悟空も僕の部屋で休むといい。エドガー、彼女の手助けを頼むよ」

 いつの間にかそばに控えていたエドガーが頭を垂れる。こうして日向はまた漂流図書館の厨房に戻ったのだった。
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