漂流図書館の料理人

深水千世

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禁断の実はうまい

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 靄を抜けた日向がつぶっていた目を開けると、かぐや姫の車は飲み屋街の上空を飛んでいた。スナックから百メートルほど離れた角でタクシーがハザードランプを点灯して止まっている。

「おつりはいいから!」

 そう言いながら慌てて飛び出したのは真朝だった。彼女は前につんのめりそうになりながら足早にスナックに向かう。それは悟空と帰り際に見た景色でもあった。
 日向が首を傾げる。

「どうしてこんな離れたところに止めるのかな?」

 すると、かぐや姫が扇の向こうで呟いた。

「店に戻るところを運転手に見られたくないのであろう」

「あ、なるほど」

「お主、文章とは違って頭の回転は鈍いのだな」

 かぐや姫の車はあっという間に真朝に追いついて隣をゆっくりついていく。
 まさかすぐ隣で自分が見ているとは夢にも思っていないだろうと思い、日向は複雑な心持ちで御簾の向こうにある母の横顔を見つめた。眉間に深い皺を寄せ、唇はきつく噛みしめられている。
 店の鍵を開けようとするものの、手が震えて鍵穴にうまく鍵が入らないらしかった。荒い呼気の間から小さく漏れる舌打ち。
 やがて店に飛び込んだ真朝を待っていたのは、相変わらずカウンターにもたれる健司と、その横で悠然と煙草を吸っている笑子だった。

「おかえり、ママ。うまく処分できた?」

 余裕さえ滲む口ぶりで紫煙を吹く。真朝とは対極の姿だ。

「ねぇ、エミちゃん、本当にこんなことまでしなくちゃ駄目だったの?」

 震える声で真朝はカウンターに戻り、流しに手をついてため息を漏らした。低く、長く、そして重いため息だった。

「健司さんだって話しあえばきっと……」

「無理よ、ママ」

 笑子が真朝の言葉を遮る。

「お金と性の癖ってね、死んでもなおらないのよ」

 まだ二十代の笑子がまるで自分が酸いも甘いも噛み分けた顔をするのに、日向が眉を寄せた。彼女の強気な顔がどうにも好きになれそうにない。
 だが、次の瞬間、日向の目が丸くなる。口紅のついた煙草を指で揺らし、笑子がこう言ったのだ。

「健司さんに盗撮されていたなんて知ったら、麗ちゃんだって傷つくし、その画像が出回ったらどうするの?」

 愕然とする日向の横で、かぐや姫が「おやまぁ」と呟きを漏らした。だが、その響きはまるで「これは見物だ」とでも言いたげなものだったが。
 健司が自分を盗撮? いつ? どこで? 何故? ぐるぐると頭の中で疑問符が回り、言葉が出てこない。
 おどおどする真朝が訝しい目で笑子を見ている。

「そりゃそうだけど……ここまでしなくても。それに、どうしてエミちゃんはそれを知ったの? あのカードはどうやって手に入れたの? 第一、さっき健司さんから取り上げたカードはどうするのよ?」

「前から思ってたけど、そうやって一気に質問するのってママの悪い癖よ」

 笑子が冷たい声でそう言い捨てる。隣でかぐや姫が「おや、叔母と姪で変なところが似たのじゃな」と日向を見た。

「どうして知ったって言われてもね。世の中には知らなくていいこともあるけれど……でも、いいわ。教えてあげる」

 すうっと笑子の顔に冷たいものが走っていく。まるで道を這うミミズでも見るような目で、彼女ははき出すようにこう言う。

「私はね、健司さんとセックスする仲だったからよ。ママと健司さんが付き合うよりずっと前からね」

 ひゅっと真朝が息を吸い込む音がした。彼女は凍りついたまま、言葉も出ない。

「あいつが最後に私を抱いたの、いつか知ってる?」

 たたみかけるように笑子がこう囁いた。

「……昨日よ」

「そんなわけない!」

 やっと出た真朝の声は興奮で震えていた。

「別に付き合っているってわけじゃないけど、お互い欲しいときに求めてたって感じ」

 つまり、体だけの仲ということらしい。
 飲み屋街ではよく聞く話だが、それが母の恋人だとなると話は別だ。日向の胸に嫌悪感が溢れた。

「あいつねぇ、あんたと付き合い出した頃によく言ってたわ」

 彼女は真朝をもう『ママ』とは呼ばなかった。その口元に漂うのは優越感だ。

「どうせ抱くならババアより若いほうがいいってね」

 日向はもはや言葉もないと言った顔で、彼女を凝視していた。自分の知っている朗らかな笑子など、どこにもいない。

「ママ、知ってた? あいつね、元々は自分と抱き合う女を盗撮するのが好きだったのよ。ベッドが映るようにこっそりカメラを置いてね」

「それじゃ……」

 わななく真朝に、笑子がふんと鼻で笑う。

「ママのはないわ。ババアの裸なんておさめても面白くないでしょう。だけど前に付き合っていた女たちのデータはきっちりラベルまでつけて保管してあったわよ」

「嘘……」

「だから言ったでしょう? 健司がここに来た時点で嘘じゃないのよ」

 笑子が傍らの健司を見下ろした。

「あいつの目的は麗ちゃんだったのは電話で話したわよね?」

「え、ええ」

「スナックには毎日、麗ちゃんが来ることを知っていたから、まずはトイレにカメラを隠した。それで、麗ちゃんのところだけ編集してあのカードにとっておいたらしいけど、それだけじゃ物足りなくなったのよ、あいつは」

 笑子の口調からはすっかりいつもの様子が消えていた。

「ある日、あんたをたらし込んで家に行けば、カメラを仕込めるって思いついたんだってさ。元々、健司はあんたと本気で付き合うつもりなんてなかったの。あんたは踏み台だったのよ」

 吐き気がこみ上げる。目の前でカウンターにもたれている健司を思いっきり殴ってやりたかった。
 ふと、笑子の顔から余裕が消え失せた。煙草のフィルターをいらだたしげに噛みながら、吐き捨てるように言う。

「そのくせさ……あんたみたいなババアに本気になったからって、私を切ろうとしたのよ」

 真朝が「え?」と、目を丸くした。みるみるうちに笑子の顔に憎悪の色が浮かんでいく。

「ありえなくない? 娘をモノにしようとしたくせに、どの面さげてババアと結婚しようっての?」

 鼻を鳴らし、彼女は煙草を勢いよくカウンターに押しつけて火を消した。

「なんでこの私が、あんたみたいな、もう四十になろうっていうババアに負けなきゃならないのよ?」

 ぐっと真朝の拳がきつく握りしめられた。

「三十九の女が恋愛しちゃいけないっていうの?」

 震える声で、彼女は叫ぶ。

「女はいくつになったって、女なのよ!」

「健司はずっと私に『本気になった女なんて面白くない』って言ってきたのよ。だから私も表だって付き合おうともしなかった。なのになんであんたみたいなバツイチ子持ちのババアに私が負けるのよ」

 笑子は冷たい目で、真朝を睨みつけていた。

「昨日、最後にもう一度話がしたいって彼を呼び出したの。そうしたらあいつ、誘われるままに私を抱くのよ? こんな関係を終わりにしようって言ってる口で私の肌を吸うなんて最低よね。むかついたから言ってやったの。曲がりなりにも市役所の職員の趣味が盗撮なんて知れたら、どうなるのかしらねって」

 ほくそ笑み、彼女はまた新しい煙草に火をつけた。

「ばらされたくなかったら、スナックに設置しているカメラと私の画像が入っているデータをよこせって脅したの」

 長く吐き出された紫煙が天井に昇っていく。

「そしたらこいつ、ものすごく慌てて。なんて言ったと思う? 『真朝には黙っててくれ』よ? 呆れてモノが言えないわ」

 彼女は傍らの健司をあごで指し示す。

「多分、今日ここに来たときにカメラを外すだろうとは思ったから、あらかじめあんたに薬を飲ませてもらったわけ。素直にカメラを渡すとは思えなかったし」

 真朝がきつく唇を噛んでいる。

「エミちゃん、あんた、そのカメラどうする気?」

「もちろん、これから脅しの材料に使わせてもらうわ。あんたも馬鹿だから、健司のところから盗んできた麗ちゃんの画像データを渡すから、薬を飲ませろと言えば引き受けるだろうとは踏んでたしね」

 笑子がスナックに来たときに手渡したカードのことだろうと、日向は合点がいった。日向が手渡されて処分をするよう頼まれたSDカードに、自分の画像が入っていたのだ。なるほど、母が『中身を見るな』と言うわけだ。
 一息ついて、笑子が煙草の煙を吐きながらにたりと笑う。

「だけど、本当馬鹿。あのカードには何も入ってないわよ。ただ健司の携帯電話から私の履歴を消去して、SDカードの中身を確認する時間が欲しかっただけ」

「な、なんですって?」

 愕然とした真朝をよそに、笑子が声を上げて笑う。

「間抜け面ね。あんたたちって本当馬鹿。そのくせ私を差し置いてなぁに? いつまでも幸せに暮らしました、なんて終わり方になると思う?」

「あんた、どうするつもりよ? 健司さんを脅したって、そんなことしたらますますあんたから遠ざかるだけよ?」

「誰が健司を脅すって言ったの? 脅すのはね……あんたよ」

「え?」

「健司はね、もういらないの。私を認めない馬鹿はいらない」

 ぎらつく彼女の目に宿るのは冷たい光だった。

「どうするつもりって? ……こうするのよ!」

 真朝の悲鳴が空気を裂いた。
 かぐや姫は扇でしかめた顔を隠し、日向は突っ立ったままそれを呆然と見た。
 鈍い音が立て続けに響き、どさりと健司が床に倒れ込んだ。頭部からじわりと血だまりが広がっていく。笑子が灰皿で健司を立て続けに殴ったのだ。

「ざまぁないわ! 女をもてあそぶからよ。変態の馬鹿のくせに、自分だけ幸せになろうとするからよ。間抜けなのは私じゃないわ。あんたたちよ!」

「健司!」

 真朝が倒れた健司に駆け寄り、膝をつく。だが、彼の返事はない。

「エミちゃん、あんたなんてこと……」

 すると、笑子が唇をつり上げる。

「何言ってるの? 私は何もしてないわ」

「え?」

「これをしたのは、あんたよ、ババア」

「何を言って……」

「あんたが盗撮に気付いて逆上して彼を殴ったの。そういうことにするのよ」

「ふざけないで! どうしてそんな……」

 怒りをあらわにした真朝の顔が、サッと青くなる。笑子がバッグからカメラとデータを取り出して、掲げて見せたのだ。

「これ、どうなってもいいの?」

 にたりと細められる目が、どこまでも冷たく真朝を見ていた。

「これ、ネットにばらまけば健司の職場どころか世界に発信よねぇ。麗ちゃんもあんたも外を歩けないわよ。一度出回ったら、いつまでも消えやしないんだから、こういうデータは」

「あんたって女は……」

 真朝が健司をかばうように日向と対峙する。

「一体、何をしたいのよ?」

「健司をあんたにみすみす渡して、私がピエロになるなんて許さない。それだけ」

「冗談じゃないわ。殺人犯になるくらいなら、死んだほうがマシよ。あの子だって、人殺しの娘って後ろ指さされるくらいなら、画像が出回ったほうがマシだって言うでしょうよ」

 強い光が真朝の目に宿った。

「この男は変態の馬鹿かもしれないけれど、だからって、手に入らないからって壊していいわけがない。私はね、馬鹿でも間抜けでもいいから、お天道様に顔向けできないことはしないのよ!」

 すっと笑子の顔に赤みがさした。

「……ほざけ、ババア。どこまでも思い通りにいかないなんて、憎たらしい」

 血のこびりついた灰皿を見つめ、真朝に視線を戻した。

「いいわ、シナリオ変更すればいいだけの話だもの」

 日向は息をのむ。笑子が振り下ろした灰皿がまたも鈍い音をたて、真朝が健司におおいかぶさるようにして倒れた。
 それは、まるでスローモーションのように見えた。ガッという音が耳に届くまでの一瞬が、長く、そして無音だった。

「お母さん!」

 やっと口をついて出た悲鳴。だが、かぐや姫が日向の肩をつかんで厳しい一声を放つ。

「落ち着け」

 肩で息をする日向に、かぐや姫が言い聞かせるように繰り返す。

「お主はここにいない。いないのだ。しかと見届けよ」

 日向が悲鳴をあげ、目の前の笑子を睨めつけていた。

「こいつらのせいで! この男も馬鹿だし、この女もおかしいし、お母さんだって何を言いなりになってるのよ! 馬鹿じゃないの!」

 一方の笑子は背中を丸め、一人わなないている。

「ふ……はは……いい気味……はは」

 だが、その目からは先ほどまでの強気な光が消え失せていた。
 ごとりと灰皿が地に落ちる。震えがとまらない指先を、彼女はもう片方の手でぐっと掴み押さえ込んだ。
 かぐや姫が美しい眉をしかめて呟く。

「地上の者というのは浅ましいことよ。『怒りの静まる時、後悔がやってくる』とソフォクレスが申しておったが……まさにじゃの」

 まるで文章のような物言いで、かぐや姫は日向の袖を引っ張った。

「戻るぞ。図書館がまた動き出したようじゃ」

「嫌よ!」

 日向がかぐや姫をにらみつけた。

「このままみすみす帰れって? このまま何もしないで?」

「頭を冷やせ。お主には何もできぬ。承知の上じゃろうが」

 かぐや姫が叱りつけたときだ。
 スナックの扉からガチャッという音がし、びくりと笑子の肩が震える。ドアノブを忙しなく動かす音に続き、鍵の金属音が鳴り響く。

「……誰か来たんだわ」

 そう日向が呟いた途端、笑子が慌てて足をもつれさせながらカウンターに逃げ込んだ。そして、そのまま小さく屈み、身を隠したと同時に、勢いよく扉が開いた。
 入ってきたのは……あの夜の日向だった。
 足を踏み入れた日向の口から「ひっ」と短い悲鳴が漏れた。崩れそうになるのをこらえ、必死に立っているのがわかった。そのうち、わななく唇から「警察……警察呼ばなきゃ」と言葉が漏れる。
 真朝からカードを渡された日向は、胸騒ぎがして母を追いかけてきたのだ。警察官はアパートの鍵があいていたと言っていたが、恐らく慌てた自分がかけ忘れたのだろう。
 スナックに入ってきた日向の手がポケットをたぐる。その中で指先に触れたものを確信すると、「落ち着け」と唱えて踵を返す。やがて、扉の鍵が閉まる音がし、またスナックに静寂が戻った。
 のそりと立ち上がる笑子が目をぎらぎらさせたのを見て、日向は思わずぞっとする。あの日、すぐそこに犯人が潜んでいたのだ。
 笑子は何かにとりつかれたように焦りながら、飛び散った吸い殻を片付け始めた。灰皿を洗うと、布巾で包むように持ち、真朝の手を添える。
 日向は思わず目をそらした。笑子は真朝に灰皿を握らせたまま、もう一度健司を殴り、灰皿に血をつけて離したのだ。
 そして、息を整えてから携帯電話を取り出す。

「……もしもし、警察ですか? あの、人が倒れてて……はい、スナック『ひなた』です。私が来たときにはもう、血が流れてて……」

 日向が目をむく。

「よくも……どの口がそんなこと……!」

 だが、かぐや姫が見かけによらず強い力でぐいっと彼女を車に押し戻した。

「ええい、ここで何をしても事態は変わらぬというのに! はよう、乗れ! ぼやぼやしていると、お主の記憶をたどっても図書館に追いつけるかわからぬぞ!」

 ぐっと押し込まれたと同時に、体が浮いた。車は瞬時に空を駆け上り、あっという間に御簾の向こうは白い靄になっていたのである。
 車の中で、しばし日向が呆然とする。頭にのぼっていた血が落ち着いていくと同時に、言いようのない虚しさと恐ろしさに震えが止まらない。
 あんな理不尽なことで、たった一日で、すべてが狂ったのだと思うと、恨めしい気持ちしか沸き起こらない。

「それにしても、男と女の情は恐ろしくも浅ましいものよ」

 かぐや姫が不愉快そうに呟く声を聞いて顔を上げたとき、日向は御簾の向こうに光を見た。その瞬間、目の前を光が包んだかと思うと、今度はそれを追い払うように闇が取り巻く。彼女の拾った記憶は夜のものだった。
 血走った目で日向は車のハンドルを操っている。車内はひやりとしているのに、彼女の頬は上気していた。車窓は真っ暗で、道はどこまでも真っ直ぐだ。
 やがて、いくつかカーブを過ぎると、窓の向こうに鈍く光る大きなものが見えた。
 それは、月明かりに揺らめく支笏湖《しこつこ》の水面だった。日本最北の不凍湖であり、屈指の透明度を誇る湖だ。
 その水面を見た日向は、慌てて車を路肩に停め、外に飛び出した。月光のみを頼りに、彼女はガードレールを跨ぎ、テトラポットの上までもつれる足で向かった。そして、ポケットからSDカードを取り出し、思い切り湖面に向かって投げた。
 と、そのとき、彼女は勢いあまってぐらりと揺れ、ドボンという音が闇に響く。
 その音を聞いた途端、日向はかぐや姫の車が漂流図書館の屋根の上を飛んでいるのに気付いた。

「……嘘でしょ」

 日向が項垂れた。
 自分は支笏湖に落ち、そして漂流図書館に迷い込んだのだ。間抜けすぎて、彼女は自分で自分に呆れるしかなかった。

 かぐや姫の車は、油絵の匂いがたちこめた一室で動きを止めた。
 そこはイーゼルや大小様々のキャンバスにスケッチブックなどが整然と並ぶ美術室のようだった。壁はやはり本棚で出来ていて、背表紙を見る限り、画集や画家の伝記がそろえられている。
 嗅ぎ慣れない油絵の具の匂いに顔をしかめながら、日向が車から降りる。部屋の中央のテーブルで栞が花瓶の白いバラとスケッチブックを交互に見つめながら手を動かしていた。文章はその隣で頬杖をつきながら画集をめくっているようだ。

「おや、おかえり。ずいぶんと疲れた顔をしているね」

 文章が画集から日向に目を向ける。よろよろと歩み寄った日向は、そのすみれ色の瞳を見た途端、力が抜けていくのを感じていた。彼女は文章の顔を見た途端、言いようのない安堵を覚え、その場にへたり込んでしまったのだ。

「おや、これはいけない。エドガー、手を貸してあげなさい」

「日向、大丈夫ですか?」

 エドガーに支えられ、彼女は文章の真向かいの椅子に座らされる。すると、衣擦れの音をたてながら、かぐや姫が車から降りてきた。

「文章、まったくどんな余興かと思ったら、とんだ痴れ者ばかりで不快であったぞ」

「それはそれは。しかし、ありがとうございました。よろしければ姫も夕飯をご一緒しませんか?」

 だが、かぐや姫が首を横に振った。

「よい。地上のものを口にするなと、月の世界の住人が煩いのでな」

「そうですか。ではお礼にこれを」

 彼はすっと花瓶から蕾のままの白いバラを一輪抜き取った。

「蕾ですから、これから咲くところがゆっくり楽しめますよ」

「……ふん、皮肉な男よ。白いバラの蕾の花言葉は『愛するには若すぎる』であろうが」

 かぐや姫がそう言いながらも少しは機嫌を直したようだった。

「僕は帝の足下にも及ばないほど若輩者ですし、姫様は口で言うほど僕を望んではおりませんから」

「まぁ、余がお主を気に入っているのは地上の者でありながら、地上の者ではないところじゃからな。では、また余興があったら呼ぶがいい」

 かぐや姫がパチリと扇を閉じた途端、彼女は白い靄となり、消え失せた。
 それを見届けた文章が、日向のそばに膝をついて顔をのぞき込む。彼女はげっそりとした顔で疲れ果てていた。

「日向。こちらを見なさい」

 虚ろな目で文章を見ると、彼がそっと手に手を重ねる。

「何があったのか話してごらん。ゆっくりだ」

「私……私……」

 とめどなく涙が溢れてくるものの、言葉はちっともうまく出てこない。もどかしさにますます頭が真っ白になっていく。指先に文章の骨張った指の温度が溶けていく。やがて、日向は嗚咽を漏らした。

「ああ! うあぁ!」

 叫びにも似た泣き声だった。彼女はあふれ出す感情をもてあまし、言いようのないもどかしさに息が止まりそうだった。
 そんな日向に、彼が囁いた。

「大丈夫。ここは漂流図書館だ。安心しなさい。僕のもとでは、何人たりとも館の住人に手出しさせない。大丈夫」

 しみいるような声色だった。
 日向は泣きじゃくりながらも、文章に一部始終を語る。最後に彼女は項垂れて頭を抱えていた。

「私、なんて間抜けなの……お母さんは私を守ろうとしてくれたのに、何にも知らないで、動転してお母さんを助けることもできず、しかも空のSDカードを捨てに行って、ドジなことに落ちて死ぬなんて」

 鼻水をすすり、彼女がわめく。

「支笏湖に車ごと転落したとか、ボートに乗ってカードを捨てにいったときに落ちたとかならともかく、投げた拍子に勢い余って落ちるなんてあっけなさすぎて情けないわ」

「日向、渡辺淳一の『無影燈』じゃあるまいし」

 文章が肩をすくめる。

「人の死なんて思うよりもあっけなくて情けないものだよ。それに最初に言っただろう? 君は死ぬ手前なんだ。湖岸にしがみついて助けられるかもしれないし、そのまま溺れて死ぬかはまだわからない。だって、君は水に誘われてここに体ごと迷い込んでしまったままなんだから」

 しゃっくりをしながら顔を上げると、文章がふっと笑ってポケットからハンカチを出して差し出してくれた。

「水は異世界をつなぐんだ。君は支笏湖の湖水に連れられてここに来たんだね。もしかしたら元に戻るかもしれないことには違いない。恐らく、真朝を連れてきたのは霧だろう。そういう客人は多いんだよ。君は湖に落ちたからびしょ濡れだったんだね」

 日向がふっと顔を上げる。

「文章、お母さんは? お母さんはどうしてる?」

「よろしい、行ってみよう」

 文章が手を添えて日向を立たせる。彼はエドガーや栞を従え、あの井戸を目指し歩き出した。

「ねぇ、もう元の世界に戻ることはできない?」

 おそるおそる問う日向の声に、文章が先を歩きながら答えた。

「無理だろうね。君が記憶をばらまいてきた辺りからずいぶん離れている」

 背を向けながら、彼はすっと肩をすくめた。

「しかし、日向。君はすべて見届けてきたじゃないか。ここへ来たわけも、母がここへ来たわけも」

「だって、あの人たちがどうなったか知りたいと思うでしょ?」

 笑子が第一発見者の振りをしていたのを思い出し、腹の底に熱いものがたぎった。下手をしたら自分に疑いの目がいくように仕向けられているかもしれない。それに、健司や真朝がどうなったかもわからないままだし、あの盗撮のデータが笑子の手によってどうなったかもわからない。
 だが、文章がしれっと言う。

「しょうがない。それはそれで自然と収まるだろう。君の時代の警察もそんな女に騙されるほど愚かでもないだろうし、その女も男も辿るべくして辿る道がある」

 そしてこう呟いた。

「ニーチェはこう言った。『真の男性が好むものは二つ。それは危険と遊びだ。そして男性が女性を好むのはおもちゃの中で女性が一番危険だからだ』とね。彼らは禁断の果実を味わった報いを受けるだろう」

 やがて、あの苔むした井戸が見えてきた。だが、そこに真朝の姿はなかった。

「お母さん……行っちゃったの?」

 ふるっと涙がこぼれ落ちた。これで本当に二度と会えないのかと思うと、心が縮れていく。

「どこに行ったかは、真朝次第だよ」

 文章が力強く頷いた。

「死後の世界に行ったかもしれない。けれど、ここで君と接して、元の世界を思い出して帰って行ったかもしれない。彼女がどこに向かったかは僕らにはわからない。君が帰り道を見つける日が来るのか誰も知らないようにね」

「……帰れるかしら。帰ることができたとしても、お母さんがいなかったらどうしたらいいの?」

 頬が濡れるまま呟くと、文章が空を仰ぐ。

「さぁてね。神のみぞ知るというところだ。神なんているとは思えないが。僕が水を嫌いなのはね、呼んでもいない客人を招いてしまうからだ。だけど、君は僕が呼んだ客人でもあるからね」

 そして、ふと笑って日向を見つめた。

「もし君が帰る日が来たら、僕は快く君を送り出そう。餞に好きな登場人物に送らせよう」

 今まで見たことのないほど、優しい顔つきだった。

「僕は私利私欲のために登場人物を貸し出すのが嫌いなんだがね、君ならたとえ人斬り以蔵を連れて行って仇討ちしたいと言い出しても快く貸そうじゃないか。だから……」

 ぽつりと、寂しげな声が風に揺れた。

「ここでしばらくは僕とゆっくり過ごしたまえ。さぁ、魂を体に戻してやろう」

 日向は井戸を見つめる。真朝のいない景色は、ひどくがらんとして見えた。
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