Talking Rain~4月の雨と君の魔法~

雪村穂高

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3時間目・音楽

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 廊下まで届く先生の声の調子で、すでに授業が始まってしまっていることを知る。飼育小屋から早歩きで来たが間に合わなかったようだ。私の駄々のせいで彩に遅刻の記録がついてしまうのは申し訳なく思う。彩が怒っているのではないかと不安になり、隣を歩く彼女の横顔をさりげなく覗く。私の視線に気が付いた彩は、その視線をどういう風に解釈したのか、私を励ますように笑って見せた。 

「後ろのドアからこっそり入っちゃお」 

 いたずらっぽい彼女の笑顔は魅力的だが、提案の方は今一つだ。確かに、彩とそういったスリリングなことをすることに憧れがないわけではない。しかしそれにしても、その思い付きの提案はいささか成功率が低すぎるように思える。 

 音楽の授業は、音楽室内前方に置かれた教卓を囲むように椅子椅子が半円状に並べられていて、生徒はそれぞれ好きな椅子に着席することになっている。しかし前回の授業で、前の方の席を開けていたら「次回からは前の席から詰めて座りなさい」と先生から注意を受けたため、今日は後ろの席が空いている可能性が高い。そのことを頭に入れながら、音楽室後方の引き戸に付いているガラス窓から室内を覗くと、やはり教卓から見て右奥の椅子が数席空いていた。後方に空席があるのなら、比較的潜入はしやすくなる。 

 とはいえ、2人ともが先生からバレずに着席することはあまり現実的ではないだろう。彩か私、どちらかひとりであったならまだ可能性があったかもしれない。 

「こっちのドアの窓から先生を見ているから、私が合図を出したらこっそり中に入って、空いてる椅子までたどり着いて」 

 私が異を唱えるよりも早く、彩は彼女自身が思いついたプランを実行フェーズに移した。 

 まあバレたところで別に死ぬわけじゃない。その時は「お腹が痛くて遅れました」とでも言って先生に謝ろう。私は大人しく彼女の指示に従うことにした。 

 教卓がある方の引き戸から室内の様子を覗いていた彩が口パクで「入って」と合図をくれる。後ろのドアの前でしゃがんでいた私は、目の前のそのくぼみに両手をかけ、音の出ないようにゆっくりとドアをスライドさせる。ノートパソコン一台分くらいの隙間を開けたところで、彩にもう一度視線を送る。先ほどの合図から少し時間が経ってしまっていたため、まだGOサインが出ているかの確認をしたのだ。私を安心させるように微笑んでいる彩は、左手でOKサインを作っている。私は意を決してドアの隙間から教室内を覗き、背中を向けた小太りの中年女性がホワイトボードに板書しているのを確認しながら忍び足で教室に入る。 

 2歩目、3歩目と慎重に歩を進め、気づかれる気配はない。あれ、意外と簡単かもしれない。 

 そう思った次の瞬間、前方のドアが勢いよく開けられた。 

「すみません、遅れました!」 

 ガランッという乱暴な音とともに、彩が前方のドアから豪快に音楽室に入ってきた。唖然とした音楽室内の人々の視線が彼女に集まっている隙に、私は素早く着席する。 

「高岡さんが遅刻なんて珍しいわね。何かあったのかな」 

 先生が怒るというよりも心配そうに彩に尋ねる。例えば私や上原が遅刻してきたら、こんな柔和な対応になるのだろうか。いや、ならない。 

「ちょっとお腹が痛くてトイレに……」 

 第一声とは打って変わって恥ずかしそうに小声で弁明する彩を見て、先生は大変失礼なことを言ってしまったという風に明らかな狼狽を見せた。 

 「ああ、ごめんごめん。いいから席に着きなさい。ほら、あそこの席が空いているよ」 

 そう言って私の隣の席を指さした。あの慌てっぷりだと私が遅れてきたこともたぶん気づいていないのだろう。 

 先生は1つ咳払いをすると、 

「えーそれでは全員揃ったところで、今日は合唱祭で歌う課題曲のパート分けをします」 

 先ほどの狼狽で失われた先生としての威厳を取り戻すように、堂々とした声で授業をリスタートさせた。 

 

 あと1か月後に控える合唱祭。私たちのクラスでは『モルダウ』を混声三部で合唱する。 

 女子がソプラノとアルトに割り振られ、男子は主に男声パートを歌う。しかしそれだと男声だけ声量が大きくなってしまいバランスに欠けるので、男子の中で声の高い者はアルトに配属される。そこでまずはクラス全員でモルダウの主旋律を合唱し、みんなが合唱している最中に先生が一人ひとりの生徒に近づき、歌声の高さを聴いて、その生徒のパートを決めることになった。 

 その結果、私と彩はアルトになった。アルトは好きだ。ソプラノよりも目立たないところが良い。それにもう1つよかった事がある。 

「はい、それでは今言ったパートごとに固まって席についてください」 

 これからも彩の隣に座れそうだ。 

  

 席替えが始まり音楽室内はにわかに騒がしくなる。上原やその取り巻きの小川たちはソプラノの方に移動している。一緒のパートでなくて少しほっとした。隣の席の彩はきょろきょろ辺りを見回しながら動かないので、私もまだ自席を立つことができない。もちろん彼女が何を確認しているのかは容易に想像がつく。 

 彩が動き出した。飼い主の帰宅に気が付いた犬のように、機敏な動き出しだった。彩がさっきから目で追っていたのは今朝くしゃみをしていた例の男子だ。その隣の席を狙って素早く人の合間を縫い歩いていく。慌てて私も彩に付いていく。 

 彩が例の男子こと大津の隣の席に着いた瞬間。 

「くしゅん」 

 男子にしては控えめなくしゃみだった。 

 彩はそれを認めた後、私の方に顔を向けると、満足げな面持ちで大きく頷いた。 

 私はそれに対して何も反応できず、ただ間の抜けた顔をしていたと思う。自分の予想が本当に当たっていた驚きもあるが、彩がいきなり私の方を向いたことにびっくりしたのだ。 

 彩が私に顔を向けたのはその一瞬のことで、再び大津の方に首を回すと、心配そうな声音で語りかけた。 

「ごめんね。私が近づいたからくしゃみしちゃったのかな」 

 彩に突然話しかけられて、彼は混乱しているようだ。 

「いや、そんな、高岡のせいじゃ……」 

「もしかして大津くんは動物アレルギーとか持ってるのかな? 私、家で猫飼ってるんだ。だから制服にも猫の毛が付いちゃってるのかも」 

「わ、わからないな。うちでは何も動物を飼っていないし。あんま動物に触ったこともないし」 

 やはり自覚はなかったのか。 

「そういえば今朝、阿部さんが近くにいたときにもくしゃみをしていなかった?」 

「そうなんだよ! あいつの近くによるとなんだか鼻がムズムズしてきちゃって。今みたいに。本当なんだ。あと今日はなんだか体調も普通に悪くて」 

 席替えとは言っても一応授業中だ。いつまでもしゃべっていることはできない。だらだらと言葉を連ねる大津を制して、彩は手品の種明かしをするみたいにゆっくりとした口調で言った。 

「阿部さんは今朝、飼育委員の活動で飼育小屋のうさぎを触ったらしいの。だから阿部さんの制服にも動物の毛がついていたのかもね」 

 いつの間にか音楽室内は静かになっていて、おしゃべりをしている生徒は私の隣に座っている2人の男女だけになっていた。 

「えーと。授業中ですよ、2人とも」 

 先生から躊躇いがちな注意が入り、またもクラス中の視線が彼女へと注がれる。 

「すみません、先生。私がこの席にいると大津くんが動物アレルギーでくしゃみをしてしまうようなので、隣の人と席を入れ替えてもらいます」 

 しんとした音楽室に彩のアルトが綺麗に響いた。
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