『秋雨のfantasìa』

彩景色

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01 雨の降らない舎の下

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 水は、低い処に流れゆく。


 いつの頃からか、そんな言葉が胸の奥底で、一人でに反芻していたようだ。

 誰の言葉であったか。

 両親で有ったか。

 教師で在ったか。

 友人であったか。


 そんなこと、覚えていない。

 だけれども、確かに誰かがそう言っていたそれを、いつの頃からか頭から離れなくなってしまった事を彼自身は覚えている。

死者や幽霊といった存在のように、非常にぼんやりとしているかもしれないが、その不確定な、言葉、感情があるのだけは確かなのだ。物覚えの悪い子供を諭すかのように硝子戸の中から考えたのは、まるで自身に言い聞かせるような体裁の良いわけだった。


 外は、今日も渇ききっている。雨が降らなくなってから、一体どれほどの時が経ったのだろうか。そのおかげで、というのはいささかの誤謬が介しているかもしれないが、毎晩のように月を見る羽目になってしまっていた。

誰かにいわせれば当然なのかもしれないが、いかなる時に見上げたとしても、月の美しさはいつになっても色褪せやしないのを頭の中で感じていたのだった。


 日が出る時、晴れ間を喜ぶ歓喜の声が、右や左、他方からさざめき合う中で、涸れた砂漠は刻一刻と、向こう三軒両隣の世界までを喰らい尽くそうとしている。枯れ果ての先で行き着く所は何なのか。果たして人間なのか如何なのか。人の世からは離れたいと渇望するも、人で無しの国には引き越したくもない。それをする気さえ起こりえない。行き着く果てが猫であるならば哲学するも、教師なのであるから滑稽として嘲笑われるのがいい落であろう。


 ただ、祇園精舎の鐘の声が呟かれたとしても、なかなか真に学ばせるのは実際難しいと聞く。誰でもできそうだと思っているが、それがひどく骨を折るらしいのだから、何とも言い難い。

ひとの物語が思惑に切り取られ、知らない誰かのバイアスが加重をし、その心情を答えたり、その表現をさも自身の思考と偽るような作業こそが思考というのなら、世界は確かに文学で成り立つのだろう。


 だが、虚構の世界の住人はどんなに努力したとしても、どんなにリアルであったとしても、決してこの世界の住人に迫ることはありえないのだ。

現実と虚構の境目がなくなったとしても、虚構が現実を喰らおうとしたとしても、それが一体何なのか、本当のところは誰も教えてはくれやしない。いや、本当の所は結局、誰もわかりはしないのだ。

だからその事象が何なのか、一体なぜこんなことをしなければならないのかと訪ねたとしても、そういうものなのだ、と思考を停めた汚い答えが来るばかりである。浅薄で、軽薄な思考は客体の時間と主体の感情や思考を奪いとられるだけである。


 それを正面から考えようとするのならば、浅薄な人間たちは重たいとあざ笑う。自身の考えが及ばないもの、知らぬものに関しては知らぬ存ぜぬ。変わってしまうと怖いから、自分に不利益が被るような危険性を0にしててもビクビク怯える小心者たちであるから仕方がない。


 仮に、質量が増えていくことが白々しく感じられる世の中になるならば、もしかすると淑女な女性にとってはこの上なく喜びなのかもしれない。いや、女子だけではなく男子と言われる中年層もまた相等しいのかもしれない。


 重たさが重たさで無くなるとするならば、心身ともに軽くなる。浮かれ始める。 

浮ついた気持ちが占領した心の日本人増えたならば、愛だの、恋だのという言葉が散乱し、浮かれるほどに段々足元はおろそかになって行く。

地に足がついていないから、二足の草鞋を履こうとしていても、真直ぐ歩くことすら侭ならない。それを見た偽善者共はすぐさま食らいつく。

足を引っ張りたくなる。他人は他人に不寛容なのである。他人は許してくれぬ。いわんや自分自身にあるにも関わらず———。



 そんな夢現なのか、半ばなのかも判然としない澆季混濁の世だとしていても、それが一切失われたというのであるから、未だに目をそらし続けているのであるからして、乱世の世であった方が良かったのかもしれないと思わざるを得ない。

そうすれば、一つを失ったとしてもただの数値と化す。乱世でなくとも、天災であればなんとでも良い。人災でも変わらない。ただ流れゆく時間に抗おうとする気力を、無理やりにでも引き裂いてくれれば、何だって良い。


 だが、万が一、いや我ながら有りえないとは思うものの、もし、そうした感情が浮き彫りなってしまったとしたら—————

一体どうすれば良いだろうか・・・・手紙でも認めるのか・・・・。

 そう考えているうちに学校のチャイムがなった。

 訝しく感じはするものの、少し経てば当然のごとく放念してしまうだろうと気にもとめず、終えた時間の準備をし始めようとした。


「H***」


 名前を呼ばれる声が遠く聞こえる。目を開けるか、いや気のせいであろうとそのままでいると、
「もう終わってるのに、何をしているの」と相里が言端に似合わないような色調で声を掛けてきた。


「いや。ただ少し呆けていたようだ」

と返すと、
「何を言っているの」

と只々吐かれた。

 相里は以前からこうである。

旧態依然なこの態度は、よく言えばこの歳にして大人びている。悪く言えば加齢を感じることも否めない。だが、その言葉とは裏腹な無邪気な微笑みに癒されることもまた否定できないのである。


 帰り道、学校の中よりも汚い喧騒が自身の鼓膜を大いに震わせた。行く手を遮る車を数えようものならば、夕刻を何度すぎてしまうだろう。

家に着くまでの間にどれほどの交差点を渡るだろうか。

湿度が限りなく飽和し、上から雫が段々と勢いづけ流れ落ちる状を、我が身が、何の妨げともする事なく、あるがままに感じ受けていたのにも関わらず、それを悟ったのは帰宅後であったあった事は屹度、胸の奥底にしまい込みたい衝動の一つによるものであったのだろう。


 家路につく中の、記憶と言える程のものはなかろうが、脳の海馬に保存されているのは、暗く染め上げる道端に赤い花を手向ける自動車のテールライトと、視界を覆う青い発光物だった。


 帰宅すると、いつものように鍵がかかっている。ドアを開けると雑然とした玄関はここ数年景色を変えない。その風景と打って変わって自室は真白く閑散としている。古くなった机と蛍光管。何十年も使い古したかのような鞄を無造作に投げ捨てて、軋む椅子に腰かける。


 いつの頃かわからないが、椅子にかけると、一つ置かれたハイユニの4Bの鉛筆を、左手指の第一関節で回し始めるのが染み付いていた。それももう数年来変わらない。時たま、手中から剥がれて転がってしまう事もある。

転げた先の水の入ったコップにあたって溢してしまう事も幾度かあった。零れた水が滴って、買ったばかりのゲームや貰った聖書にぶつかり、台無しにしてしまう事も数度である。  


 覆水盆に返らず、とは良く云ったものだ。ふやけてしまった紙は綺麗にならず、失ったものは二度と手に入らず、変わってしまった事象というのは再び戻ることも有り無い。人生にはリセットボタンのようなものもなく、またセーブ機能すらも存在しない。なんと理不尽で酔狂なのか。若し、これが神による仕業と仰るのならば、わが生涯をかけて君に破邪顕正を唱えよう。

 だが存在しない神に対して恨んだとしても、否、誰かに対してこうした感情を抱くこと自体が、愚かで笑止千万だと既に判然としていることは疑いようが無い。かける言葉も無いといった所である。
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