『秋雨のfantasìa』

彩景色

文字の大きさ
5 / 8

05 掛けられるものは謎

しおりを挟む
 わたしって誰?
 自分って何?
 誰もがそういう爆弾のような問いを抱えている。爆弾のような、といったのは、この問いにとらわれると、いままでせっかく積み上げ、塗り固めてきたことがみな、がらがら崩れだしそうな気がするからだ。あるいは、崩れるとまではいかないにしても、なにか二度と埋められないひびや亀裂が入ってしまいそうな気がするからだ。この問いには、問う者じしんをあやうくするところがある。(略)

『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一


 自分とは何なのか。
 そのようなことは誰も教えてはくれない。
 どうやら、そのようなことを書かれていたのかもしれない。自分なんてものは、自分自身がわからないのであるから、誰にもわかるはずもないのに。自分なんて、端よりないのに。
 ゆく果てのない命題を与えられたことに対し、そんなこと思いながら、悠然と問題を解く。文章を読み、考える真似事をして、取り出したノートに淡々と言葉を書き連ねる。一通り終えば、自身で採点をしてみたりする。大体、結果はそこまで良くない。まあ当たり前だ。
 国語に関していえば、学校の試験もそんなに点数も低くはなかったはずなのに、今は7割ほども解けなかった。至るところで間違いを指摘する解答を見るたびに、問題にあった筆者の言葉を一つ一つ想起させられる。むず痒い思いを我慢しながら繰り返す。

 向かいに座る遥香に「どうだった」と聞かれた。タイミングを図られたのかと思うほどだった。しかし「全然」と、謙遜でもなく事実として言わねばならないことにもまた同じ気持ちだったから、さらにむず痒い。
 そんなやり取りがお互いに繰り返される。お互いに取り組むものは異なるものの、その間は決まって静かである。無言である。ただ、それは互いに無視しているわけではなく、その目の前のことに取り組んでいるのだと、遥香に関しては思った。自分は、まあ、半分ほどであろう。
 そう考えながら読み進めていると、ふと顔を上げれば、あたりはすっかり暗くなっていた。窓から見る景色がもう闇に包まれ、いつの間にか照明が灯っている。時計に目をやると、もう十九時を回りそうだった。 

「そろそろ帰るか」

 そういうと、遥香も同じく気がついていたようだ。時計を今一度確認して、軽く四肢を伸ばす。開いていたノートやペンやらをしまって鞄に入れた。その間に使わせてもらったこの本を、もとに戻してくる。階段を再び降りて、棚を探す。そうしている間、雨の音が優しく館内に響くのをようやく感じている自分がいた。
 片した荷物を持って図書館をあとにする。まだ降る雨を避けようと、入り口前で二人、傘を開いた。左手で傘を持ち、歩き出すのは、同じタイミングだった。

「また明日も、雨降ってたら、来る?」
「勉強するか」

 帰り道、そんな会話をしていた。無愛想に、二人、家路に着く。ちょうど、梅雨入りが発表されていた日付らしい。知ったのは翌日のネットニュースだった。

 その日から、学校が終わりに図書館へ通うことが日課となった。他愛もない自愛ばかりの無常な会話がなされる廊下を抜け、失意と怠惰の蔓延る職員室の前を通り、汚い習慣から成される芳しい下足箱の臭気漂う玄関を通り過ぎてゆく。色のない傘のその柄を右手で掴んで拾い上げ、柄の少し下方を左の手指で押し上げて、優雅に佇む灰色の空へと突き刺した。
 地上の灰色に染み込んでいる余分な湿気が、自分の両足の裏からじわじわと込み上げてくる。一つ二つと歩みを進めるたびに、毛細管現象のような心地で湿気を喰らい尽くしていくのだ。そんなことを数十分ほど繰り返して、古書の香りの方へと足を運ばせていったのだ。

 そこで先に遥香がいることもあれば、自分が待つこともある。先に着いたその時には、重たい荷物だけをいつもの席にしっかり置いて、図書館の本の、学習書以外のコーナーも少しだけ見て回るようになった。知らない本や古すぎるものがずっと並んでいる。名前も知らない。見たことすらないものなど、見つけるなという方が難しいものだ。どうやら人間という存在は心だとか、哲学だとか、それが何かということを探求するのが好きらしいようだ。

 目に止まった一冊だけ手にとって、いつもの参考書と一緒に席に戻る。椅子を引いて腰をかけ、先に取った本をパラパラとページをめくる。まず冒頭のはじめにを読む。そしてすぐさまあとがきへと進める。あとがきがない本は何となく信用ができない。そこまで読んだら、目次へと戻って眺めてみる。大体ここまででちゃんと読むか読まないかがほとんど決まってしまう。

 こんな読み方がいつからか染み付いていた。本編ですら全て読み終えることは難しい。というのも、大抵この段階で読み進められるものが少ないからである。それでも、狭き関門を通って少しばかり読み進めていると、大抵はすぐにスカートに雨水をわずかばかり垂らした姿で遥香はやってきたのだった。
 ポケットに入れてあったハンカチを手にとって差し出す。

「ありがとう」

 そう言いながら、もう自分のハンカチで先に拭いている。そんなことも恒例になっていた。そういう奴なのだ。二人口元が緩む。
 その日の出来事などを適当に話した。授業のことだとかもそうだが、ニュースとか、気になる出来事、身辺つらつらと適当だ。そんな話を展開しながら勉強道具を取り出している。ここまでが互いの日課になっていた。

 その儀式を終えると、左手に鞄から取り出した参考書を置いて、右手でノートにペンを走らせる。罫線の入っていない5mm方眼のものを愛用していた。大学ノートよりも少し大きいA4サイズである。モレスキンのそれが、リングになっているから使い勝手が悪くない。そこにドイツの4色のボールペンを使う。もう50年も前のものだというのに、その古めかしさを感じさせないあたりが素晴らしく気に入っているのだ。本の臭気が漂うこの空間に非常にマッチする。二人机を挟んでの、このスタイルが基本であった。
 そこから、おおよそ二十時くらいまでそこで勉強する。その間も違いが同じタイミングに一息つくまではほとんど会話はない。時間が迫ると片方が区切りをつけようとするから、それで大抵は判るのだ。帰り支度をして、途中の交差点まで一緒に歩いて帰宅する。

 それの繰り返しだった。反復すること、繰り返したりすることは大いに嫌う傾向があるのだが、これだけはそうはならなかった。そもそも、画一的とは思えないほどに色鮮めいていたのであるのだから、何とも不可思議である。

 その次の日も、また次の日も勉強をしにいった。同じ繰り返し。それが日常なのだろう。習慣なのだろう。ほんの僅か、一瞬感じる永遠なのだろう。誰かが叫んだ借り物の言葉でそう考えた。それが精一杯だった。

 そんな時間の流れない日常もかれこれ数ヶ月ほどが経とうとしていた。季節は夏を過ぎ、秋風が吹き始めている。先日まで振るっていた猛暑という分子の動向は眉をひそめていた。まあ、そんなことはこちらには関係がないが。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない

文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。 使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。 優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。 婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。 「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。 優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。 父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。 嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの? 優月は父親をも信頼できなくなる。 婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

幼馴染

ざっく
恋愛
私にはすごくよくできた幼馴染がいる。格好良くて優しくて。だけど、彼らはもう一人の幼馴染の女の子に夢中なのだ。私だって、もう彼らの世話をさせられるのはうんざりした。

フッてくれてありがとう

nanahi
恋愛
【25th Anniversary CUP】にて、最終ランキング3位に入りました。投票してくださった皆様、読んでくださった皆様、ありがとうございました! 「子どもができたんだ」 ある冬の25日、突然、彼が私に告げた。 「誰の」 私の短い問いにあなたは、しばらく無言だった。 でも私は知っている。 大学生時代の元カノだ。 「じゃあ。元気で」 彼からは謝罪の一言さえなかった。 下を向き、私はひたすら涙を流した。 それから二年後、私は偶然、元彼と再会する。 過去とは全く変わった私と出会って、元彼はふたたび──

隣人の幼馴染にご飯を作るのは今日で終わり

鳥花風星
恋愛
高校二年生のひよりは、隣の家に住む幼馴染の高校三年生の蒼に片思いをしていた。蒼の両親が海外出張でいないため、ひよりは蒼のために毎日ご飯を作りに来ている。 でも、蒼とひよりにはもう一人、みさ姉という大学生の幼馴染がいた。蒼が好きなのはみさ姉だと思い、身を引くためにひよりはもうご飯を作りにこないと伝えるが……。

これって政略結婚じゃないんですか? ー彼が指輪をしている理由ー

小田恒子
恋愛
この度、幼馴染とお見合いを経て政略結婚する事になりました。 でも、その彼の左手薬指には、指輪が輝いてます。 もしかして、これは本当に形だけの結婚でしょうか……? 表紙はぱくたそ様のフリー素材、フォントは簡単表紙メーカー様のものを使用しております。 全年齢作品です。 ベリーズカフェ公開日 2022/09/21 アルファポリス公開日 2025/06/19 作品の無断転載はご遠慮ください。

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

【完結】少年の懺悔、少女の願い

干野ワニ
恋愛
伯爵家の嫡男に生まれたフェルナンには、ロズリーヌという幼い頃からの『親友』がいた。「気取ったご令嬢なんかと結婚するくらいならロズがいい」というフェルナンの希望で、二人は一年後に婚約することになったのだが……伯爵夫人となるべく王都での行儀見習いを終えた『親友』は、すっかり別人の『ご令嬢』となっていた。 そんな彼女に置いて行かれたと感じたフェルナンは、思わず「奔放な義妹の方が良い」などと言ってしまい―― なぜあの時、本当の気持ちを伝えておかなかったのか。 後悔しても、もう遅いのだ。 ※本編が全7話で悲恋、後日談が全2話でハッピーエンド予定です。 ※長編のスピンオフですが、単体で読めます。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...