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第一話 夢は語らない
第一話 夢は語らない
しおりを挟む夢はある人によっては“見るもの”で、またある人によっては“叶えるもの”だ。
夢を語れば他人に現実を見ろと言われ、現実を語ればもう少し夢を見ろと言われる。
——この世界は不条理だ。
実際に夢を叶えている人間を見ると、誰も彼も輝いていて眩しい。しかしあの輝きは、常人にはちょっとやそっとじゃ出せやしないだろう。
特に私利私欲にまみれた、薄汚れた大人なんかには。
誰かが成功すれば他人はそれを羨んでとやかく言いたがるし、関係ないのに勝手に妬んで、親の仇のように罵詈雑言を浴びせたがる。
だいたいそういう事をわざわざ口にするのは、そもそも自分が"そこ"へ辿り着けていないからだ。
自分を棚に上げて他人を妬んでいるだけの人間が、高みに辿り着ける訳がない。
出来ないからやめておけと言う人間だって、おそらくは親切心で言っているのだろうが、本気の人間からしてみれば余計なお世話である。
でも私はたまにふと怖くなる時がある。
夢は叶えるものだとすれば、叶わなかった夢はいったい何処へいくのだろう——、と。
行き場のない強い思いを胸の奥に無理矢理しまい込んだら、いつの間にか“諦め”が芽生えて、その思いすらなくなってしまう。
そう考えたら私が今抱いている思いは何なのだろうと不安になった。
志半ばで折れていった者達は自分の才能の無さに気付いて、抱いていた夢を手放した者が大半なのだろう。
叶うか叶わないかの不安にずっと囚われるくらいなら、いっそ諦めてしまった方が楽になれる。
理想と現実の狭間で揺られて、それに苦しんだ結果が“諦め”だ。
諦めたのは、理想ではなく現実を取ったから。
現実社会を生きる人間にとっては、それが賢い生き方である。
——私、八重野文恵は夢を語らない。
理由としては色々詮索されるのが面倒なのと、語るほど大それた夢を持ち合わせていないからだ。
若者なら未来を夢に見て語ればいいのにと言われた事があるが、そんな事を言われても正直困る。
職場の若者は揃いも揃って曲者なのだ。
それに、私が語ったところで笑われないという保証はない。
「八重野、はよ」
「あ、香賀さん。おはようございます」
まず香賀智之さんは元ギタリストだ。
香賀さんは付き合っていた彼女さんが亡くなってから作曲が出来なくなって、バンドを脱退したらしい。
今はバイトを掛け持ちしているようで、たまに一緒の勤務になる。
香賀さんは自分の話をあまりしないため、職場では二年の付き合いにはなるが、未だに謎は尽きない。
この人に自分の夢を語ったら、なんとなく傷付けてしまいそうで怖かった。
「おーっす八重野ちゃん。つか智之テメェ俺置いてったろ」
「悪い、煙草吸いたかったから」
「俺だって吸いたかったわ!」
次にこの福田博允さんは、見た目はただの派手めなお兄さんだ。
金髪と両耳の複数のピアスがそれを物語っているし、一見チンピラに見えなくもない風貌だが、はなまる亭では一番コミュ力が高い。
香賀さんとは他のバイトでも一緒なようで、二人は仲良しだ。
福田さんは決して悪い人ではない。
悪い人ではないのだが、私にとっては何を考えているかよくわからない人だ。
「おはよーございまーっす!」
「出た猪娘」
「なんか言いましたヒロ先輩?」
「いや何も」
そして、笠沙也香ちゃん。
沙也香ちゃんは半年前に入ってきた、うら若き女子高生だ。
元気がよくて明るい、福田さんに次ぐ高いコミュ力の持ち主。
自分の可愛さをよくわかっていて、沙也香ちゃんは事ある毎に香賀さんにアタックしているが、その度に香賀さんに上手くかわされている。
それでもめげない沙也香ちゃんは強い。まさに恋する乙女代表だ。
しかしこの年頃の女の子は多感な時期であり、かなりデリケートだから、夢を語る気はない。
「はよーございます」
「はよ」
「夕樹ビリだからあとでジュース奢ってね!」
「はあ? ざけんな馬鹿女」
最後に北島夕樹くん。
北島くんは沙也香ちゃんと同じ高校生で、所謂不良である。でも不良といっても何処かに所属している訳ではなく、一匹狼らしい。
はなまる亭では沙也香ちゃんより一ヶ月後輩に当たるが、仕事のミスは沙也香ちゃんよりも少なかったりする。
最近は北島くんも慣れてきたのか、表情が少し柔らかくなった。
人を睨む癖と口が悪いのは相変わらずだが、根はいい子なのだ。
しかし自分の夢を語るのは、沙也香ちゃんと同じ理由で無理である。
「せんぱーい? 文恵せんぱーい?」
「……うん?」
「や、ぼーっとしてたから大丈夫かなって」
「ああ……皆若いなあって見てただけだから気にしないで」
「婆さんかよ」
福田さんのツッコミは尤もだった。
でも自分でも年相応の発言じゃない自覚はあるから、放って置いてほしい。
さっきまで私を心配していた沙也香ちゃんは私が何でもない事がわかると、次の瞬間には香賀さんの隣に移動していた。わかりやすい子だ。
「長窪さんは?」
「厨房にいますよ。試作品作ってるみたいです」
香賀さんの問いに答えると、福田さんは目を瞬かせた。
「マジか。じゃあ俺行ってこよーっと」
扉が閉まる音がして、休憩室が静寂に包まれる。
「……俺も行ってくる」
「えっ! 香賀先輩行くならあたしも行く!」
沈黙に耐え切れなくなった香賀さんは福田さんを追って休憩室から出ていったが、香賀さんにつられて沙也香ちゃんも出ていった。
残ったのは私と北島くんで、私は北島くんにそろりと目を向けた。
「……北島くんは行かないの?」
「人混み嫌いなんで」
……十人以下の人数は、人混みと言えるのだろうか。
疑問がよぎったが、マイペースに出勤の準備をする北島くんの姿を見るとなんだかどうでもよくなって、私は頷くだけの返事をした。
しばらく沈黙が続く。
すると突然バタバタと騒がしい足音が近付いてきた。
「やべえ! 長窪さんやべえ!」
「芸術! 天才! てか神!」
「もうちょい静かにしろよ。博允も笠も」
打ち付ける勢いで大きく音を立てて扉が開かれると、それと同時に福田さんと沙也香ちゃんが興奮気味に休憩室に戻って来た。
はしゃぐ二人に香賀さんは呆れている。
どうやら長窪さんの試作品は色々すごかったらしい。
夢があるなら他の人にも語るといいと勧めたのはこの長窪さんだが、残念な事に私の夢を語れそうな人間は此処にはいない。
彼らを信用していない訳ではないが、それとこれとはまた話が別なのだ。
「じゃ、今日もよろしくお願いします」
「はーい」
私は制服のたすき掛けの紐をきつく結び直すと、開店準備に向かった。
はなまる亭は昼の部、夜の部と分かれていて、午後三時から六時までは空き時間がある。
その空き時間の間に買い出しや休憩を済ませて、夜の部の準備をするのがおおまかな流れだ。
店の看板を出していると、茶虎の猫と目が合った。
猫は私を気にする事なく裏路地へ消えていく。
……長窪さん、また野良猫に餌あげたのかな。
あの人は野良猫だろうが飼い猫だろうがお構いなしだからあとでちゃんと確認しようと、私は箒を手に握った。
♢
今日の持ち込みは魚と聞いていたが、まさかマグロを持ってくるなんて思ってもみなかった。
持ってきた人は漁師なのだろうかと思うくらい、スーパーで見る切り身よりずっと大きなマグロの塊だった。どうやって手に入れたのか気になるところではある。
厨房はてんやわんやだったが、混乱半分興奮半分で楽しそうだった。
マグロを持ってきたお客様は優しくて、調理に時間がかかってもいいし、余れば店で使っていいと言ってくれた。
その団体のお客様にはマグロのフルコースを用意した。刺身、漬け、カルパッチョ、サラダ、ステーキ、竜田揚げ、照り焼き……等々だ。
最後は締めにお茶漬けを提供して、お客様達はまた来るとほろ酔い気分で帰っていった。
兎にも角にも、今日も無事にはなまる亭は営業時間を終了した。
私達は最後のお客様を見送ると、店じまいを始めた。
後片付けを終えて休憩室に戻ると、テーブルにどんぶりが六つ置かれてあった。
中身は勿論マグロ丼だ。艶々したマグロの赤が食欲をそそる。
「美味そー」
福田さんの一言に全員が頷く。
「皆、わさびはどうする?」
長窪さんは厨房ですり下ろしたわさびが載った小皿を私達に見せた。
すかさず沙也香ちゃんが手を挙げる。
「あたしわさび抜きっ」
「やーいガキー」
「私も抜きで」
「えっ、マジで?」
わさびはいらないと沙也香ちゃんのように長窪さんに伝えると、ガキだと沙也香ちゃんをからかっていた福田さんに驚かれた。
「お揃いですね!」
「そうだね」
最初に手を洗って奥の端っこの席に着く。
私の隣に香賀さんが座ると、その隣に沙也香ちゃんが座った。恋する乙女は速かった。
そして私の前に北島くん、その隣に福田さん、長窪さんが順に座った。
「てめー智之、一人だけハーレム築いてんなよ」
「あはは。両手に花だねぇ」
「片方ゴリラっすけど」
「夕樹殺す絶対殺す」
「やるなら外でやってね」
裏口を指差して言うと、香賀さんは目を丸くした。
沙也香ちゃんは北島くんを威嚇しているけど、北島くんは無反応だ。
「……止めねぇんだな、八重野」
「まあ、本気じゃないでしょうし……店の被害は最小限に抑えたいですから」
香賀さんは私の発言にまた目を丸くすると、小さく笑った。
箸とお茶を皆に配って、全員に行き渡ったところで手を合わせる。
「「「「「「いただきます」」」」」」
自然と声が揃った。
目の前のマグロ丼に、それぞれ舌鼓を打っている。
労働はお腹が空くものだから、うちの店ではまかないがある。
しかし業務時間後にこのメンバーでまかないを食べるのは稀だった。
休憩時間に食べた方が早く帰れると前に私が言ったら皆揃って微妙な顔をしたけど、一緒に食べた方が美味しいからという理由だった。
最近は沙也香ちゃんと北島くんも加わって、終業時間後にまかないを食べる人数が増えて六人になった。
沙也香ちゃんと北島くんは学生だから家でもご飯が出るはずだが、二人とも親の帰りが遅いのとお腹が空いたという理由でまかないを食べている。
一口食べたマグロ丼は、ご飯とマグロの漬けがいい味を出していて、すぐに二口目を口に運んだ。
美味しいからか、皆夢中になって食べている。
「あー……茶漬け食いたくなってきた」
福田さんはこのマグロ丼をお茶漬けにして食べたいようだ。
確かにこれをお茶漬けにすればまた違った味が楽しめて美味しいだろうが、皆疲れて動きたくないからか福田さんを無視して箸を動かしている。
「厨房あっちっすよ」
「動きたくねぇ。……長窪さ~ん」
「んー……じゃあちょっと待っててくれるかい?」
「やった! さっすが長——」
「長窪さんは座っててください。私が作ってきます」
喜ぶ福田さんを遮って、私は立ち上がった。
扉を開けて急いで厨房へ向かうと、後ろから声が聞こえた気がしたが、聞こえないふりをした。
——長窪詠作さんは優しい。
私が長窪さんと出会ったのは十年前、両親を事故で亡くして親戚にたらい回しにされていた時だった。
あの日の私はなんとなくまっすぐ帰りたくなくて、公園に寄り道してブランコを漕いでいた。
すると隣に見知らぬ人が座って、その人は穏やかに私に挨拶をした。それが長窪さんだった。
普段の私なら不審者だと思って口を利かないどころかその場から逃げるのに、何故かその時は長窪さんの世間話に相槌を打っていた。
長窪さんは私の遠い親戚に当たる人らしく、何故か私と妹を引き取って家族になりたいと口にした。
最初は訳がわからなかった。
出会ったばかりの子供を引き取るなんて、両親の遺産目当てだと思った。かつて私と妹を引き取った人達がそうだったからだ。
でも長窪さんはあの人達と全然違っていた。
親戚と長窪さんの会話の内容はよく覚えていないが、長窪さんが子供の私達のために怒ってくれる大人だという事は子供の私でもわかった。
結果として私達姉妹は、長窪さんに引き取られる事になった。
長窪さんは優しかった。
何があっても私と妹を怒らなかったし、此処に行きたいとかこれが欲しいというワガママにも寛容だった。
それに私達の誕生日に必ずご馳走を作ってくれて、お祝いしてくれた。
——これは後々わかった事だが、長窪さんは私と出会った時、奥さんを亡くして間もなかったらしい。
いつだったか長窪さんに僕の利己心で大事な人生の選択を決めてしまってごめんねと謝られた事があった。
長窪さんは私と妹を引き取った事を、ずっと負い目を感じていたようだった。
私と妹は長窪さんが私達を引き取って保護者になってくれた事に感謝しかなかったが、長窪さんは違っていたのだ。
長窪さんは奥さんを亡くした寂しさから半ば強引に私達を引き取ると決めた事と、男手一つで育てた事を悔いていた。
奥さんが立ち上げた旅館を取り壊すか否かを、悩んでいたのだ。
これは私の勝手な想像だが、多分長窪さんは何でもいいから変わるきっかけが欲しかったのだろう。
私達との出会いが長窪さんにとって良い方に転んだのかはわからない。
でも奥さんの旅館は改修と改装を重ねて、今のはなまる亭になった。
——何度も言うようだが、長窪さんは優しいのだ。
優しいから人を気遣えるし、人に慕われるが、あの人はたまに度が過ぎる。
休憩時間をまともに取らなかったり、暇さえあれば料理の試作品を作ったり、限定メニューを考えたりしてお客様を喜ばせようと多くの時間を費やしている。
休みの日くらい仕事から離れればいいのに、この前は美味しいコーヒーの淹れ方を勉強していた。
こっちは長窪さんがその内過労で倒れやしないかと、心配で気が気じゃないのに。
さっきだって仕事が終わってようやく腰を落ち着けたところだったのに、福田さんのためにお茶漬けの出汁を作りに行こうとしていた。
苛ついてはいないが、どうもモヤモヤする。
私は厨房に入ると、心を落ち着かせようと即席の出汁を作った。
鍋一杯分あれば他の人が食べたいと言った時に対応出来るだろう。
中身を溢さないように気を付けて休憩室へ行くと、扉を開けた瞬間私に視線が集まった。
向けられた目を無視して、黄金色に輝く出汁の入った鍋をテーブルの真ん中に置く。
福田さんのどんぶりを取って出汁を注ぐと、鰹と醤油の出汁のいい香りが鼻をくすぐって、また食欲がそそられた。
「あー、八重野ちゃんごめんな? パシリに使っちゃって」
「大丈夫ですよ。私も食べたかったし」
手を顔の前に置いて謝る福田さんに返事をしながら、今度は自分のどんぶりへと出汁を注ぐ。
熱々の出汁にマグロと白米が沈んでいく様子は、深夜に見ればお腹が余計に空く光景だろう。
食い入るようにどんぶりを見る香賀さんが怖かった。
「……いります?」
「いいのか?」
「まあ……はい。人数分はあるのでどうぞ」
「んじゃ貰う。ありがとうな」
どんぶりを差し出す香賀さんは私より年上だが、小さな子供みたいでちょっと可愛かった。
私は香賀さんのどんぶりにも出汁を注ぐと、おたまを鍋に戻そうと手を動かした。
「先輩!」
呼ばれた声に振り返ると、沙也香ちゃんは鍋に手を伸ばすようにテーブルに突っ伏していた。
「あたしも欲しい……です……!!」
「俺も」
「あ、僕も……」
沙也香ちゃんに続いて北島くん、長窪さんが手を挙げる。
結局私は全員分の出汁を注ぐ事になった。
「あんだよお前らも食いたかったんじゃんかよー。俺だけじゃねーじゃん」
「あたし達はヒロ先輩みたいに図々しく頼んでないですもーん」
「ついでに先輩をパシッたりしてないっす」
「だーっ可愛くねえ後輩! 智之お前これどう思う!?」
「妥当な扱いなんじゃねぇの」
「お前今日冷たくない!? 俺なんかしたぁ!?」
香賀さんの一言に芝居がかった口調で返す福田さんは側《はた》から見ればかなり愉快な人だ。見ていて飽きない。
沙也香ちゃんはケラケラ笑っているし、香賀さんも口元を緩めていた。
きっと福田さんはどこに行ってもムードメーカー的存在なのだろう。
私は箸を進めると、お茶漬けを味わった。どんぶりは比較的早く空になった。
長窪さんは今日友人と飲みに行く約束をしていたのにすっかり忘れていたらしく、催促の電話がかかってきた。
私達を残して一人行くのはと断ろうとしていたため、恨みがましい視線を送る。
すると長窪さんはすぐ行くと返事をして電話を切った。
笑顔で長窪さんを送り出して、空になったどんぶりを集める。
ふと時計を見ると、もう夜の十時半だった。
「うわ、沙也香ちゃんも北島くんももう帰りなよ」
「はーい」
「……っす」
集めたどんぶりを厨房に運んでいると、横から手が伸びてきて、あっさりそれを奪われた。
「え」
「俺がしとくって。明日は何も予定ないし」
犯人は福田さんだった。
でも福田さん一人で片付けをして貰うのは気が引けた。
色々言って手伝おうとしたが、言葉巧みにかわされて、最終的に丸め込まれた。
きっとこういうところに女子は惚れるのだろう。
「……じゃあ、お言葉に甘えて帰ります」
「はいよー。まったね~」
誰もいない休憩室のテーブルを拭いてから、更衣室で着替えて、帰り支度を済ませる。
裏口の扉を開けると、誰かが立っていて肩が跳ねた。
「先輩、ちょっといいすか」
悲鳴を上げなかった私を褒めたい。
立っていたのは先に帰ったはずの北島くんだった。
北島くんはどうやら私を待っていたらしい。
「本当は一人で帰ろうと思ってたんすけど、香賀さんがあのバ……笠を送ってくの見たから……先輩も女だから危ねーかなって」
北島くんはそう言うと、決まりが悪そうに頭を掻いた。
こうして心配してくれるところは優しいと思うし、可愛いとも思う。
「家まで近いから大丈夫だよ。そんな気遣わないで」
「や、送ります」
「いや、本当に大丈夫だから」
「送ります」
何度言っても、北島くんは送ると言って話を聞かなかった。
根負けして大人しく夜道を一緒に歩く。
「……先輩は、」
「うん?」
声が聞き取れなくて聞き返すと、北島くんは気まずそうに視線を彷徨わせた。
「その……先輩は、彼氏とか……いるんすか」
「いない、けど……どしたの急に」
突然始まった恋愛トークに目を丸める。
てっきり北島くんは恋愛なんてくだらねぇと言うタイプだと思っていたが、私が思うより北島くんは健全な男子高校生だったらしい。
意外と学校では好きな女の子について友達と話しているのだろうか。
「じゃあ好きな人は?」
「いないよ~」
「……そ、すか」
私の返事に北島くんはそっと息をついた。
嘘でもいると言って話を聞き出した方が良かっただろうかと思ったが、余計な事を言って傷付けるのも嫌だから私は話題を変えて勉強の話をした。
北島くんは理数系が得意で文系が苦手らしい。特に古語はわからなさすぎて、授業中寝ていたいと不満を口にしていた。
話しながら歩いていると、家の屋根が見えてきて足を止めた。
隣を歩く北島くんが私に倣って立ち止まる。
「この辺りだからもう大丈夫だよ」
「本当すか?」
「ホントホント、あそこだから」
指差して答えると、北島くんは一瞬疑いの眼差しを向けた。
「嘘じゃないよ」
「そ、すか。じゃ、また明後日」
「気を付けて帰ってね」
北島くんは小さく頭を下げると、そのまま走って去っていった。
スマホを取り出して、心配だから家に着いたら連絡するようにとトークアプリで北島くんにメッセージを送る。
すぐに母親かあんたはという文字と、呆れた顔の猫のキャラクターのスタンプが送られてきた。
私は音をなるべく立てないよう静かにアパートの階段を上がると、辺りを見回して玄関の鍵穴に鍵を差し込んだ。
ドアノブを回して扉を開く。
「ただいま」
呼びかけても返事は当然なくて、私は玄関を施錠すると、暗い部屋に明かりをつけた。
本当なら四月からここに妹も暮らす予定だったが、妹は長窪さんとまだ一緒に暮らすと言って私と二人で暮らすのを嫌がった。
別に私は長窪さんと距離を置こうとしている訳ではない。
ただ、長窪さんには長窪さんの都合があるから、いつまでもお世話になるのは違うと思って、こうして長窪さんの家の近くにあるアパートを借りて此処に住んでいるのだ。
それなのに妹は私と暮らすのは嫌の一点張りで、自分が独り立ちするまでは長窪さんと一緒に暮らすと言って聞かなかった。
挙げ句の果てには長窪さんを味方につけて、そんなに出ていきたいならお姉ちゃんが出ていけばいいと私に言い放ったのである。
その言葉にカチンときた私は、大人げなくそのまま出ていった。
壮大な姉妹喧嘩に長窪さんを巻き込んでしまった申し訳ないと思っているが、遅かれ早かれこういう結果になっていただろう。
妹は私を毛嫌いしているのだ。
父さんと母さんが亡くなるまでは、どこにでもいる普通の姉妹だった。
両親がいなくなってからだ。妹はやたらと私に喧嘩をふっかけてくるようになった。
売り言葉に買い言葉という言葉があるように、買ってしまえば喧嘩になるとわかっていた私は、妹の言葉をただただ聞いて何の反論もしなかった。
妹は私のその態度が気に食わなかったようだ。
妹の話によれば、私の真顔はただのすまし顔にしか見えないらしい。
私がどんな言葉をかけても返ってくるのは罵詈雑言で、妹が私に優しい言葉をかける事はなかった。しかし私はそれを悲しいと思った事はなかった。
妹が血の繋がった唯一の家族という事もあったが、私は姉らしい振る舞いを妹にしてやれなかったのだ。
葬儀の日も遺体に縋り付いて泣く妹をただ見るだけで、私は妹に慰めの言葉をかける事も、その小さな身体を抱き締める事も出来なかった。
一番辛い時に寄り添ってあげられなかった。
だから、“こう”なってしまったのは、当然の結果だったのだ。
以前、長窪さんに妹に言い返さないのかと聞かれた事がある。
君達は姉妹なんだから喧嘩だってしてもいいはずだと言われたが、私と妹の関係は既に歪なそれで成り立っていた。
今更それを変えたら、妹の捌け口がなくなってしまう。
それに何より、これ以上妹に嫌われたくないというのが私の本音だった。
喧嘩でもしたらそれこそ顔も見たくないと、あんたなんか姉じゃないと言われるのが怖かった。
だから私は妹から何を言われようと享受している。
それがあの日、妹の心を救えなかった私の贖罪なのだ。
——正しい家族の形って、何だろう。
誰かに聞けばその答えは返ってくるのだろうが、聞いたところで何もならない事を知っていた私は、心の中にそれを留《とど》めた。
鞄を置いてお風呂のお湯を沸かすと、歯磨きをしながらスマホをいじる。
トークアプリのメッセージはいつの間にか五件に増えていた。
一番上にあったのは北島くんからのもので、シンプルに着いたとだけ書かれている。
他のメッセージははなまる亭の皆からのもので、気をつけて帰れよとか、おやすみなさいとかそういう内容だった。
長窪さんに至っては、気にしなくていいのに長々と謝罪の文章が綴られていた。
私は皆にそれぞれ返事をすると、歯磨きを終えて口をゆすいだ。
ちょうど良いタイミングでお湯はりが出来た事を知らせる音楽が流れる。
友人から貰った可愛い花型の入浴剤を浴槽に投げ入れると、みるみるうちにお湯が桃色になっていった。甘い苺のような匂いがする。
私は頭と身体を洗った後、湯船にゆっくり浸かった。
心地よさに自然と瞼が下りる。
このまま寝てしまえばさぞ気持ちいいのだろうが、風呂場で溺れる気はさらさらないため、意識がある内にお風呂から上がった。
私は着替えを済ませてドライヤーで髪を乾かすと、スマホのアラームを二重にセットしてベッドに横になった。
明日は世間一般ではお休み、はなまる亭は不定休日だが、生憎私は学校である。
都内へは電車で行くから夜更かしは出来ない。
眠気に誘われて、ふわふわと意識が底へと沈んでいった。
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