これが恋だというのなら、

池代智美

文字の大きさ
38 / 40
最終話 再出発

最終話 再出発

しおりを挟む


 福田さんの夢が見つかったのを、誰よりも喜んでいたのは福田さんの親友である香賀さんだった。
 福田さんは掛け持ちしていたバイトを辞めて、今ははなまる亭の社員として働いている。
 問題のお父さんは納得はしていないらしいが、一応は息子である福田さんの夢を承認したそうだった。
しかしそれでも結果が伴わないようであれば、すぐにでも会社を継いで貰うと脅されたと福田さんは言っていた。

 やりたい事がなくて将来の夢はお嫁さんだと言っていた沙也香ちゃんも、最近は服飾関係の仕事に興味があると、休憩時間に専門学校のパンフレットを広げるようになった。
卒業してすぐに働くと言っていた北島くんもやりたい職種が決まったようで、建築関係の企業のホームページや必要な資格を調べている。
 香賀さんはもう一度、本格的に音楽の道を目指すらしい。
 香賀さんの作った店内用BGMはなかなかお客様に好評で、香賀さんの自信に繋がったのだ。
 今度デモ音源をレコード会社に送ってみるという話を聞いたから、香賀さんの作った曲が世に出る日もそう遠くはないだろう。
 一方で私は描いた絵をコンクールに送る日々が続いていて、今は結果を待っている状態だ。

「はよ、八重野」
「おはようございます、香賀さん」

——香賀さんは、ますます魅力的になった。

 元々魅力を持っている人だったが、亡くなった彼女さんに対する気持ちの整理がついたからか、表情が以前より穏やかになった。
 私はこれまで香賀さんに何度も助けられている。そしてそんな香賀さんに、私は惹かれ始めていた。
 私の中の感情は、日に日に形を変えて少しずつ大きくなっていった。
 認めてしまえばこの感情は小さくなり、痛みも苦しみも伴わなくなるのだろう。
でもそうすればまた別の痛みや苦しみがあるのを私は知っていた。
 私は沙也香ちゃん達みたいに、まっすぐ人を好きになる事なんて出来ない。
 臆病者だからこの感情と想いに、気付かぬふりをして自分に嘘を付く事しか出来ないのだ。
 傷付かないで済む方法がもうそれしか残されていなくて、私は自嘲した。
 
 香賀さんは荷物を椅子の上に置くと、鞄の中からノートパソコンを取り出して電源を入れた。
 何か作業でもするのだろうかと不思議に思って見ていると、私の視線に気付いた香賀さんが手招きする。
 香賀さんの方へ歩み寄ると、ワイヤレスの小さなヘッドホンを手渡された。

「ちょっとこれ聞いてみて」
「これってどれですか?」
「いいからいいから」

 言われるままにヘッドホンを装着して、流れてくる音に耳を澄ませる。
 アップテンポの曲が流れ始めて、一度聞いたら耳というよりは頭に残るような印象だった。
 特にサビの透明さが際立っている。
 歌詞がまだないのに作曲だけでこれだけのものを作る香賀さんの才能は底が見えなくて、私は畏怖の念を抱いた。
 私は曲が終わっても、しばらく呆けたままだった。

「……どうだった?」
「……どうだったって、もうすごいとしか言いようがないですよ」
「ははは、サンキュ。他には?」
「他って……ええと、これ、歌詞はこれからなんですか?」
「ん、今書いてる途中。で、これ出来上がったらまず動画サイトに上げてみようかなって」
「へえ、いいんじゃないですか?」

 ネットに上げれば不特定多数の人間が視聴出来るから、他人の評価も受けやすいだろう。
 特に近年ではテレビよりもネットの方が若者に需要があるし、これを機にデビューなんて事も充分に有り得る。
実際ネットで話題になって有名になる人もいるくらいだ。
 動画サイトに投稿するという意見に賛同すると、香賀さんは小さく笑った。

「それでさ、八重野にお願いがあるんだけど」
「……お願いにもよりますけど、何ですか?」
「この曲に合う、一枚の絵を描いてほしいんだ」
「え?」
「そう、絵」

 驚きから出た声を違う意味で取られてしまったが、私の頭は混乱していた。
 聞き間違いでなければ香賀さんは私に絵を描いてほしいと言ったのだ。それも、あの音楽に合う、一枚の絵。
 動画の絵を数千枚描いてほしいと言われるよりは良かったが、それでもあの完璧な音楽に合う絵を一枚描くというのは今の私にはハードルが高い。
 私の心を知ってか知らずか、香賀さんは視線を逸らさず、ただじっと私の返事を待っている。

「でも、私みたいな素人にわざわざ頼まなくても……」
「八重野がいい」
「……」
「俺は八重野に絵を描いてほしい……駄目か?」

 香賀さんは切なげに、低く掠れた声で問いかけた。
 頷く以外の選択肢がなくて小さく頷く。
すると香賀さんはパッと表情を明るくして、何度も私にありがとうと言った。
 やる前からこんなに喜ばれてしまっては、あの音楽に負けないくらいの絵を描かなければ釣り合いが取れない。 
 今はまだ不安の方が大きいが、描ききった時には達成感を味わえると思うとほんの少しだけ楽しみになった。

「あー、良かった。八重野が嫌がったらどうしようかと思った」
「嫌がりませんよ。ただ、恐れ多いと思っただけで……」
「ははっ、何だそりゃ。恐れ多いって、俺も八重野と同じで夢を追うただの人間だぞ? そんなかしこまる必要ないだろ」     

 香賀さんは同じ存在なんだからという理由で私の言葉を笑い飛ばしたが、それでも私はプレッシャーを感じていた。

——香賀さんの期待に応えたい。

 でもその期待に応えられるだけの技量と力量を持ち合わせていなくて、私は返す言葉に迷った。

「そう、ですけど……でもあんなすごいの聴いたら、畏まりもしますって」
「そうかあ?」

 香賀さんは首を傾げて心底不思議そうな顔をしている。
 私に信頼を寄せてくれているのは嬉しいが、そこまで信頼されてしまうと逆に後ろめたさを感じた。

「……私が上手く描けるかなんてわかりませんよ?」
「上手くなんかやらなくていいって。そうすると絶対失敗するだろ? 俺は八重野が、八重野なりにやってくれたらそれでいいよ」
「でも……」
「心配性だなあ八重野は。大丈夫だって。な?」

 頭を撫でられて、穏やかな目を向けられる。
 私の頭に触れる手も、細められた目も、ひどく優しいものだった。
 こぼれそうになる不安を拭うように、香賀さんは私の頭を撫で続けた。
 しばらくすると香賀さんは撫でていた手を止めて、私の顔を覗き込んだ。

「それに俺さ」
「?」
「——八重野の事信じてるから。絶対最高のもの作ってくれる、って」
「!!」

 香賀さんは真剣な顔で、恥ずかしげもなく私を信じていると口にした。
 声にならない声が出そうになって、寸でのところでこらえる。
 何だってこの人は私の心を乱すのだろう。

「わかりましたよ! やってやりますよ、もう!」
 
 私はふつふつと湧き上がる感情をそのままに、投げやりな返事をした。
 香賀さんは私の反応に不快になるどころか、笑みすら浮かべている。
 私は脱力感に襲われると、作品が完成するまで香賀さんに振り回されそうだと思った。



 香賀さんの音楽の歌詞が完成した。
 私は絵を描いては消して、描いては消してを繰り返して、ひたすらあの音を思い描いた。
 優しくて柔らかくて、でもそれだけではないあの愛おしい音を、絵で表現するにはかなりの時間がかかった。
 完成した絵も自分が納得いかなければ何度だってやり直した。
 香賀さんは急いでいないから私のペースでやっていいと言ってくれたが、そういう訳にもいかなかった。
どれだけ長く見積もったとしても、たった一枚の絵なら精々せいぜいひと月がいいところだろう。
 描いている絵は、完成にはまだ遠かった。



 時間ばかりが過ぎていって、既に描き始めてから三週間が経とうとしている。
 口から自然とこぼれた溜息は思っていたよりも重くて、私はますます自分に嫌気が差した。
 学校での課題の方がまだ簡単だった。
 一人で作品を描く分には他人の評価が課せられるが、その評価は自分のものだ。
しかし今回の場合は共同作品となる。
つまり他人の評価が、香賀さんと私の二人分になるのだ。
均衡を保たなくては作品として成立しなくなってしまう。
 下手な絵を描けば釣り合いが取れなくなって、私が香賀さんの可能性を埋もれさせてしまう事になる。
 香賀さんが上手く描こうとしないで私なりに描いてほしいと言ってくれたのは有難いし嬉しかったが、私はどうあっても上手く描きたいと思っていたから負のループだった。

 結局何が良いのかわからなくなって、描いた絵を全部ボツにして公園にやって来た。
 もはや溜息しか出ない。
 スケッチブックを持ってきたが、真っ白のままで、手は動かなかった。
 公園のベンチで黄昏れる私ははたから見ればさぞ滑稽だろう。

「おーい、八重野」

 幻聴まで聞こえる。
 私はもうおしまいかもしれない。

「八重野ってば」

 背後から肩を叩かれて、反射で飛び上がる。
 慌てて後ろを振り返ると、何故か香賀さんがいた。

「えっ香、賀さん……?」
「声かけてんのに返事しないって、どんだけ上の空なんだよ」
「すみません……でも、どうしてここに?」
「八重野っぽい後ろ姿が見えたから気になって来てみた」

 香賀さんは答えになっていないような答えを返すと、当然のように私の隣へ腰掛けた。
 古いベンチがギシリときしむ。
 遠くで遊んでいたはずの子供達は、いつの間にかいなくなっていた。
 柱時計を見ると既に針は夕方の時刻を指している。
 気分転換に外に出たのに、気付かない間に公園で長い時間を過ごしていたようだ。
 何も描かれていないスケッチブックが恥ずかしくて、私は慌てて裏返した。
 冷たい風が吹き抜けていく。

「あの、香賀さん、私——」
「知ってるよ」
「え」
「まーた一人で悩んでたんだろお前は」
「あ痛っ」

 香賀さんは私の額を指先で小突くと、悪戯っぽく笑った。
 私が言おうとした事を香賀さんは察したらしい。
 優しく頭を撫でられる。
 そんなに優しくされると勘違いしてしまいそうだから、何やってんだと叱り飛ばしてほしかった。
 私はあふれそうになる感情を必死にせき止めると、香賀さんを見つめた。
 香賀さんが真剣な眼差しで私を見つめ返す。
 不意に頭を撫でていた香賀さんの手が離れていった。

「もっと単純に考えろよ。お前の好きなもん描いていいんだって」
「好きなものって言われても……」
「あー……んじゃあ質問。八重野があの歌で好きなところは?」
「好きなところ……」

 ここ最近、毎日のように聴いているあの音楽を思い返した。
 柔らかなメロディーに“君”と“僕”が存在した世界で、いなくなった“君”が“僕”を、外の世界に連れ出そうとする物語。
それが香賀さんがつくった音楽だった。
 好きなところと改めて聞かれると、あの歌の全てが私は好きだが、一番好きなのは三番の歌詞とメロディーだった。
 
「私は、三番の歌詞とメロディーが一番好きです」
「じゃあそれで」
「それ?」
「八重野の一番描きたい場面を描いたらいいと思うんだけど。どう?」

 そう香賀さんに言われて、私はようやく腑に落ちた。
 香賀さんは満足そうな笑みを浮かべている。
 今まで真っ白だった頭の中が、香賀さんの一言で色を取り戻したようだった。

「……なんだかイメージが湧いてきました。ありがとうございます、香賀さん」
「俺は何もしてねえよ」
「それでも、香賀さんのおかげなので」
「……相変わらず律儀だよな」

 香賀さんは何とも言えないような目を私に向けた。
 御礼を言われるような事はしていないと香賀さんは言っていたが、私はどうしても香賀さんに感謝を伝えたかった。
 もう一度御礼を言うと、もういいよと香賀さんに笑われた。

 一瞬のイメージが浮かぶ。
 私は消えてしまいそうなそれを、慌てて瞼の裏側に焼き付けた。

「あの、今描いていいですか?」
「え? ああ、いや、それはいいけど……俺見てていいのか?」
「あ……あんまり凝視しないでくだされば大丈夫です」
「何だそりゃ」
「とにかく気にしないでください」

 裏返したスケッチブックを戻して、握っていた鉛筆を走らせる。
 浮かんだ一瞬をそのまま真っ白なスケッチブックに移していく。
 イメージが消えてしまわないように必死だった。

 描き終えると、今まで私が描いてきたものとは全く違った系統の一枚が出来上がった。
だがこれはまだ下書きの段階だ。
 おかしな部分はないか探していると、不意に肩を掴まれて前後に揺さぶられた。

「すげぇな八重野!! この臨場感といい躍動感といい……! 何つーか、とにかくすげぇよこれ!! 俺これ気に入った!!!」
「っわ、わかったから揺らっ! 揺らさないでください!」
「あっ悪ぃ!」

 揺れる視界の端で、香賀さんはきらきらと子供のように目を輝かせている。
 私は頭を手で押さえると、空いたもう片方の手で絵の中心に触れた。

——配色は青を軸にしたグラデーション。外側は暗くして、光は淡くぼかして。

 次々と湧いてくるアイデアに、私は思わず口角が上がった。
 こんなにワクワクした気持ちになるのは久しぶりだ。
 配色とそのイメージをスケッチブックの余白にメモすると、黙ってそれを見ている香賀さんに今更気付いて気まずくなった。

「えっと…… あの、ごめんなさい。私一人で盛り上がっちゃって」
「いや、俺も盛り上がってたからおあいこだろ」
「ならいいんですけど……あ、香賀さん時間大丈夫ですか?」
「まだ六時だろ? 大丈夫だよ」

 香賀さんはそう言ったが、辺りは暗くなっていた。
 私は鞄の中にスケッチブックと鉛筆をしまうと、ベンチから立ち上がった。

「でも暗いから、そろそろ帰りましょう。香賀さん、今日はありがとうございました」
「ちょい待ち」
「?」
「いや何普通に帰ろうとしてんだよ。送ってくって」
「えっ、でも香賀さん逆方向でしたよね? いいですよそんな。私夜道慣れてますし」
「慣れんな。とにかくお前に拒否権はなし! 長窪さんが心配すんのが今のでよーくわかったから」
「何ですかそれ。長窪さん何か言ってたんですか?」

 ベンチから立ち上がった香賀さんに問いかけても、香賀さんは話をはぐらかして答えらしい答えをくれなかった。
 結局私は家の近くまで香賀さんに送られる事になった。
 家に着くまでの間、香賀さんと色んな話をした。
 別れ際にもう少し話したかったと、隠すつもりだった自分の本音がこぼれて焦ったのに、香賀さんが俺も同じなんて返事をするものだから、私の心臓は変な音を立てた。



——ついに絵が完成した。

 私が描いた絵は、香賀さんのつくった音楽と共に動画サイトへ投稿された。 
 多くの人の目に触れるインターネットの世界は他人からの評価を多く得られるのが利点ではあるが、その中には心無い言葉を向けてくる人間もいる。
 しかし作品は緩やかに再生数を増やして、悪意や敵意が向けられる事は今のところなかった。
 一抹の不安はまだ残っている。
 ふと私を心配性だと笑う香賀さんの顔が目に浮かんだ。
 私が心配しているのは自分ではなく、香賀さんだ。
私の絵のせいで再生数が伸びなかったら、香賀さんに申し訳が立たない。
 私はしばらくの間、その動画サイトへ通い続けた。

 毎日何かないかと変化を探したが、変わるのは再生数だけだった。
 評価もあまりされていないようで、私は少し落ち込んだ。
 やはり物語のようには上手くいかないらしい。
 香賀さんにどんな顔をして明日会えばいいかわからなくて、その日の夜はなかなか寝付けなかった。

 翌週の日曜日。
 はなまる亭に出勤すると、一番最初に香賀さんに会ってしまった。
 香賀さんはいつも通りで落ち込んだ様子は見られない。
反対に私の方がギクシャクして、香賀さんが怪訝けげんそうな顔をした。

「どーした八重野? 俺の顔に何か付いてる?」
「あ、いや……」
「ん?」
「動画、あんまり評価されてなくて……その……」
「あーそれな。まあ仕方ないだろ、初歩の初歩なんだし」
「でも、あんなにすごい物なのに……」
「そんなこの世の終わりみたいな顔すんなって。これで全てが終わる訳じゃないだろ?」

 香賀さんは何でもないように笑った。
 悲観するのはまだ早いと言ってくれているのはわかるが、それでも私はあの音楽が日の目を見ずに終わってしまう未来を心配せずにはいられなかった。

 突然大きな音と共に休憩室のドアが開かれる。
 勢いよく中に入ってきたのは、福田さんと沙也香ちゃん、北島くんの三人だった。

「よーっす智之! 八重野ちゃん! 聞いたぜーあの音楽! やっぱ智之お前最高だな!!」
「あたしも聞きましたよ香賀さん!! あれめっちゃいい曲でした! CDいつ発売するんですか!? あたし買いますよ!!」
「二人ともうるせーって。まあでも、香賀さんの曲が良かったのは同意っす」
「お、おお……ありがとな。わざわざ聞いてくれて」

 開口一番に三人はそれぞれ香賀さんの曲の感想を口にした。
 皆の賞賛に香賀さんは照れくさそうに頬を掻いていて、福田さんはそんな香賀さんの肩を抱いてはしゃいでいた。
 きっとあの二人の友情は計り知れないものなのだろう。
女の私にはない友情の形を私は少しだけ羨ましく思った。
するとはしゃいでいた福田さんがふと動きを止めて、思い出したように手を叩いた。

「つかあの絵、プロに頼んだ? すげー綺麗な絵だったけど」
「あ、それあたしも気になる」
「八重野先輩じゃないんすか? あの絵」
「えっマジで?」
「いやいやそんな訳……」

 皆の視線が私に集まる。
 私は居心地が悪くなって視線を床に落とした。
 
「北島ご名答。よくわかったな」
「はあ……まあそりゃなんとなくは。あんたら最近一緒にいる事多かったし」
「え……!?」
「は……!?」
「「ええーーっ!!!!!!」」

 沙也香ちゃんと福田さんの絶叫が響き渡る。
 北島くんはちゃっかり耳を塞いで爆音から逃れていた。
 沙也香ちゃんと福田さんが私に駆け寄って、肩を揺さぶる。

「すごい!! 文恵先輩才能ありまくりじゃないですか!」
「八重野ちゃんその画力で今度俺の似顔絵描いてくんね?」
「福田さんの似顔絵なんか描いたら何か呪われそっすね」
「おいどういう意味だコラァ」

 褒められる事に慣れていない私は、とっさに返事が出来なかった。
そうこうしている間に福田さんと北島くんが口喧嘩を始めている。
 内心おろおろしながら様子を窺っていると、沙也香ちゃんが私の頬をつついた。
 沙也香ちゃんはニッコリと楽しそうに笑みを浮かべた。

「……先輩、もしかして照れてます?」
「っえ、いや、そんな事は」
「え~~っかわよ!! 先輩の照れ顔!! 写真撮っていい!?」
「いや、写真はちょっと……それに沙也香ちゃんの方が可愛いよ」
「ちょっ、ねえ聞いた今の!? あたしが可愛いって!!! もー先輩たらー!! えへへへ」
「出た女子の可愛い合戦」
「そんな事ないって言わない辺り図々しいな」
「うるっさいそこ!! 陰でグチグチ言うな! 陰険! 陰湿! 非モテ! 香賀先輩を見習え!!!」

 沙也香ちゃんは嬉しそうに顔をほころばせていたが、北島くんと福田さんの茶々が入ると般若はんにゃに変化した。
 香賀さんは沙也香ちゃんに名指しされて戸惑っている。
 私はそれがなんだかおかしくてつい笑ってしまった。
 長窪さんが来るまでは、休憩室は賑やかなままだった。

 長窪さんが出勤すると、挨拶ついでに香賀さんに曲の感想を伝えていた。
 長窪さんは私の抽象的な表現とは真逆で、具体的に良かったところや情緒的なところを香賀さんに教えていて説得力があった。
 長窪さんは香賀さんに感想を伝え終えると、私達に小さく頭を下げた。

「じゃあ皆、今日もよろしく頼むよ」
「はーい! あ、今日のまかない何ですか?」
「色気より食い気……」
「おい北島余計な事言うんじゃねーよ。いって! 馬鹿おまっ、俺は何も言ってねーだろ!!」
「まかないは後でのお楽しみだよ。着替えたら出てきてね」
「「はーい」」
「お願いしまーす」

 私達はそれぞれ更衣室へ行くと、制服に着替えた。
 沙也香ちゃんは先に行ってると言って、更衣室を出ていく。
 私は制服のエプロンの紐を結ぶと、ドアノブに手をかけた。
 更衣室のドアを開けると、すぐ横に香賀さんがいてびっくりした。

「よ」
「……待ってたんですか?」
「まあ」

 曖昧な返事をする香賀さんに、今度は私が怪訝な顔をする番だった。
しかし香賀さんはそんな私を見て笑っている。

「さっきので、評価するのが画面の向こう側の人間だけじゃないってわかったろ?」
「……はい」
「ん。八重野はもっと自信持てよ。あとすぐ諦めようとすんな。俺がまだ諦めてないんだから」

 優しい言葉に泣きたくなった。
 私は声が上手く出せなくて、頷くだけの返事をした。

——好きだなあ、と思った。

 友愛か恋愛か、あるいはその両方なのかはまだわからない。
でもみずからそれを認めると、感情はするりと私に馴染んで解けていったような気がした。
 たとえ私の抱いているものが恋愛という名前だったとしても、今の私なら昔のような後悔はしないだろう。
 
 香賀さんは一途に人を想える人だ。
 家族も友達も、その周りの人達も大切にする——そんな人。好きになって良かったと思える人だ。

 私は胸が高鳴った。
 身体の中心にじわじわと熱が集まるような感覚がして、淡いそれに色が付いていく。

「なあ八重野」
「はい?」
「あー……やっぱ何でもない」
「何ですかそれ」
「いつか絶対言うから」
「……じゃあ、待ってますね。私も香賀さんに言いたい事あるんです」
「おう」

 私達はどちらともなく、顔を見合わせて笑った。
 気持ちはとても穏やかだった。

 私は香賀さんにたくさん助けられた。
香賀さんのおかげで一歩前に進めたし、自分を少しだけ変えられた。
 香賀さんにはたくさんのきっかけを貰ったのだ。
だから私は出逢ってくれてありがとうと感謝を伝えたかった。

「おーい遅ぇぞー」
「今行きまーす」

 私と香賀さんは走って皆と合流した。
 勢い余って福田さんにぶつかる。

「す、みませ、ふふ」
「おいおい何楽しそうにしてんのー!? 俺も混ぜてよ!」

 福田さんは私が笑ったのに目敏めざとく気付くと、香賀さんを巻き込んで私を揉みくちゃにした。

「あーっずるい! あたしも入れて先輩!!」
「何やってんすかあんたら……」
「わかんね。くっつき虫?」
「おしくらまんじゅうだろ」
「君達仲良しだねぇ」

 楽しい、嬉しい、愛おしい。
 感情が合わさって、混ざり合って、なんだかとても幸せだった。

 心の奥底に宿った温もりは熱を持ったまま、全身へと巡っていく。
 緩んだ頬は戻りそうになくて、私は誤魔化すように近くにいた沙也香ちゃんを真っ先に巻き込むと、手の届く範囲で皆を抱き締めた。

 温もりがまた広がっていく。
 大事なものはもう既に、そこにあったのだ。













——嗚呼、これが恋だというのなら、

  愛はもっと、

  ずっと。





 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

お好きになさって下さい、私は一切気にしませんわ

Kouei
恋愛
婚約者のクレマンド様は、いつも私との約束を破ってばかり。 理由は決まって『従妹ライラ様との用事』 誕生日会にすら来なかった彼に、私はついに告げた。 「どうぞ、私以外のご令嬢をエスコートするなり、お出かけするなり、関係を持つなり、お好きになさって下さい。私は一切気にしませんわ」 二人の想いは、重なり合えるのだろうか …… ※他のサイトにも公開しています。

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

処理中です...