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第9話 虚像ハピネス
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アレクシス課長――いえ、アレクシスさんと、結婚を前提としたお付き合いが始まってから、私の世界は一変した。
まず、職場での空気が劇的に変わった。彼が奥さんと別居中で離婚調停中であること、そして私と真剣に交際していることが公になると 、あれほど私に突き刺さっていた軽蔑の視線は、嫉妬と羨望のそれへと変わった。手のひらを返したような同僚たちの態度は滑稽だったが、それでも針の筵に座らされているような息苦しさから解放されたのは気が楽だった。
「ミリア、あなたやるじゃない! まさか、あのイケメン課長を射止めるなんて!」
アンナは、まるで自分のことのように興奮して私の肩を叩いた。でも私は、ただ曖昧に微笑むだけだった。
ルカ君を追いやってしまった罪悪感が、完全に消えたわけではない。時折、ふとした瞬間に彼の絶望に満ちた瞳を思い出し、胸がズキリと痛むこともあった。けれど、その痛みも、アレクシスさんがくれる甘い時間の中で、次第に薄れていった。
アレクシスさんは、本当に完璧な恋人だった。
仕事帰りに私の部屋へ立ち寄り、手料理を振る舞ってくれることもあれば、休日には馬車を借りて、景色の良い湖畔へピクニックに連れ出してくれることもあった。貴族である彼が、私の小さなアパートの部屋で、慣れない手つきで野菜の皮を剥いている姿を見るたびに、私は心が暖かくなり夢でも見ているような気分になった。
「君といると、本当に落ち着くんだ」
彼は、私の髪を優しく撫でながら、何度もそう囁いた。その言葉が、私の心をどれだけ満たしてくれたことか。前世からずっと求めていた、唯一の存在として愛される喜び。私はその幸福感に、文字通り酔いしれていた。
(そうか。これが……普通の恋愛なんだ)
誰にも咎められることのない、公然とした関係。将来を約束された、穏やかで満ち足りた日々。私は、ようやく手に入れた「普通の幸せ」を、失わないようにと必死だった。彼に相応しい女性になろうと、料理や裁縫を習い、貴族社会の作法も必死で勉強した。
けれど、そんな幸せな日々に、ほんの少しずつ、違和感という名の染みが広がり始めていたことに、私は気づかないふりをしていた。
「アレクシスさん、このハンカチ……あなたの刺繍とは違うみたいだけど」
彼のジャケットのポケットから、見慣れない女性もののハンカチを見つけたことがあった。その時、彼は少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべて言った。
「ああ、それは取引先のご婦人からいただいたものだ。少し汗をかいていたからと、貸してくださってね。心配させてすまない」
またある時は、彼の友人だという貴族のパーティーに同伴した時のこと。彼は私を「婚約者だ」と紹介してくれたが、その輪から少し離れた隙に、ある令嬢が彼にやけに親しげに話しかけているのを見かけた。その時の彼は、私には見せないような、親密な空気で笑い合っていた。
胸が、ざわつく……。
けれど、私はその不安を、心の奥底に無理やり押し込めた。
(きっと考えすぎよ。彼は、私を選んでくれたんだから)
彼を疑うことは、この手に入れた幸せそのものを否定することになる。それが怖かった。私は、彼を信じなければならなかった。いや、信じていると思い込もうとしていたのかもしれない。
そんなある日、彼の離婚が正式に成立した。
その夜、ささやかなお祝いをしようと、私は彼の家で腕によりをかけてディナーを準備していた。彼が帰宅し、2人で食卓を囲む。これで、私たちの間には、もう何の障害もなくなったのだ。
「ミリア。これからは、ずっと一緒だ」
彼はそう言って、私の左手の薬指に、美しい宝石のついた指輪をはめてくれた。
「結婚しよう」
正式なプロポーズ。
涙が溢れた。嬉し涙のはずなのに、なぜか、心のどこかが冷たく凍りついているのを感じた。
その夜、彼の腕に抱かれながら、私はふと、ルカ君のことを思い出していた。
彼の、不器用だけど真っ直ぐな愛情。私の全てを受け止めようとしてくれた、あの温かい眼差し。
(もし、あの時、彼の手に取っていたら……)
あり得ない仮定が……考えてはいけないはずの仮定が頭をよぎる。私は、その危険な思考を、慌てて打ち消した。
いま幸せなはずなのに、満たされているはずなのに――。
なぜか空いている心の隙間を、冷たい風が吹き抜けていく。
私は、その正体不明の不安から逃れるように、アレクシスさんの胸に、より一層強くすがりついた。
手に入れたはずの幸せは、どこか歪だった。アレクシスさんが完璧であればあるほど、その下に隠された亀裂が、私を言い知れぬ不安に陥れる。
まず、職場での空気が劇的に変わった。彼が奥さんと別居中で離婚調停中であること、そして私と真剣に交際していることが公になると 、あれほど私に突き刺さっていた軽蔑の視線は、嫉妬と羨望のそれへと変わった。手のひらを返したような同僚たちの態度は滑稽だったが、それでも針の筵に座らされているような息苦しさから解放されたのは気が楽だった。
「ミリア、あなたやるじゃない! まさか、あのイケメン課長を射止めるなんて!」
アンナは、まるで自分のことのように興奮して私の肩を叩いた。でも私は、ただ曖昧に微笑むだけだった。
ルカ君を追いやってしまった罪悪感が、完全に消えたわけではない。時折、ふとした瞬間に彼の絶望に満ちた瞳を思い出し、胸がズキリと痛むこともあった。けれど、その痛みも、アレクシスさんがくれる甘い時間の中で、次第に薄れていった。
アレクシスさんは、本当に完璧な恋人だった。
仕事帰りに私の部屋へ立ち寄り、手料理を振る舞ってくれることもあれば、休日には馬車を借りて、景色の良い湖畔へピクニックに連れ出してくれることもあった。貴族である彼が、私の小さなアパートの部屋で、慣れない手つきで野菜の皮を剥いている姿を見るたびに、私は心が暖かくなり夢でも見ているような気分になった。
「君といると、本当に落ち着くんだ」
彼は、私の髪を優しく撫でながら、何度もそう囁いた。その言葉が、私の心をどれだけ満たしてくれたことか。前世からずっと求めていた、唯一の存在として愛される喜び。私はその幸福感に、文字通り酔いしれていた。
(そうか。これが……普通の恋愛なんだ)
誰にも咎められることのない、公然とした関係。将来を約束された、穏やかで満ち足りた日々。私は、ようやく手に入れた「普通の幸せ」を、失わないようにと必死だった。彼に相応しい女性になろうと、料理や裁縫を習い、貴族社会の作法も必死で勉強した。
けれど、そんな幸せな日々に、ほんの少しずつ、違和感という名の染みが広がり始めていたことに、私は気づかないふりをしていた。
「アレクシスさん、このハンカチ……あなたの刺繍とは違うみたいだけど」
彼のジャケットのポケットから、見慣れない女性もののハンカチを見つけたことがあった。その時、彼は少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべて言った。
「ああ、それは取引先のご婦人からいただいたものだ。少し汗をかいていたからと、貸してくださってね。心配させてすまない」
またある時は、彼の友人だという貴族のパーティーに同伴した時のこと。彼は私を「婚約者だ」と紹介してくれたが、その輪から少し離れた隙に、ある令嬢が彼にやけに親しげに話しかけているのを見かけた。その時の彼は、私には見せないような、親密な空気で笑い合っていた。
胸が、ざわつく……。
けれど、私はその不安を、心の奥底に無理やり押し込めた。
(きっと考えすぎよ。彼は、私を選んでくれたんだから)
彼を疑うことは、この手に入れた幸せそのものを否定することになる。それが怖かった。私は、彼を信じなければならなかった。いや、信じていると思い込もうとしていたのかもしれない。
そんなある日、彼の離婚が正式に成立した。
その夜、ささやかなお祝いをしようと、私は彼の家で腕によりをかけてディナーを準備していた。彼が帰宅し、2人で食卓を囲む。これで、私たちの間には、もう何の障害もなくなったのだ。
「ミリア。これからは、ずっと一緒だ」
彼はそう言って、私の左手の薬指に、美しい宝石のついた指輪をはめてくれた。
「結婚しよう」
正式なプロポーズ。
涙が溢れた。嬉し涙のはずなのに、なぜか、心のどこかが冷たく凍りついているのを感じた。
その夜、彼の腕に抱かれながら、私はふと、ルカ君のことを思い出していた。
彼の、不器用だけど真っ直ぐな愛情。私の全てを受け止めようとしてくれた、あの温かい眼差し。
(もし、あの時、彼の手に取っていたら……)
あり得ない仮定が……考えてはいけないはずの仮定が頭をよぎる。私は、その危険な思考を、慌てて打ち消した。
いま幸せなはずなのに、満たされているはずなのに――。
なぜか空いている心の隙間を、冷たい風が吹き抜けていく。
私は、その正体不明の不安から逃れるように、アレクシスさんの胸に、より一層強くすがりついた。
手に入れたはずの幸せは、どこか歪だった。アレクシスさんが完璧であればあるほど、その下に隠された亀裂が、私を言い知れぬ不安に陥れる。
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