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愛は時が許す限りに
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六時起床、八時出社……駅前のコンビニでコーヒーとパンを買い、あってもなくても変わらないような昼休みにそれらを流し込む。私のルーティーンは変わらない。私の会社は大手の家具メーカーであり、名前を知らない人はほとんどいないだろう。この会社に勤めて三年、若手でありながらも順調にキャリアを積み、私の生活は充実していた。それもこれもこの会社の社長である九条社長のおかげだろう。九条仁さんは新卒で右も左もわからない私に社会の生き方を教えてくださった方だ。こんな私に一体なぜ……。
彼には今年で二十歳になる娘さんがいるらしい。彼女はいわゆる社長令嬢だ。彼女は体が弱く、ここ最近病院通いらしい。そんな娘を気の毒に思い、父親である九条社長は昔からかなり甘やかしているらしい。
「母親を五年前に亡くし、私も働き詰めでなかなか相手にしてやれなかった。だからこそできる限り願いは叶えてやりたかった」だそうだ。よくある話だとあまり気に留めなかった。九条社長は大手の会社を統べる方だ。そんな人でも娘にはここまで弱くなるものなのか。
「君と娘は歳も近いし、仲よくなってくれると嬉しいのだが」
確かそんなことも言われていたっけ。子供同士でもあるまいし、彼女も社会慣れしてないだけで大人の女性だ。私はまだまだ仕事に打ち込んでいたい。働き時だというのに、色恋にふける暇などない。
雪がちらつく十二月、師走の時期はどこも大忙しだ。顧客のリストの整理、年末調整……頭がパンクしそうだ。もう何日残業しているかわからなかった。今日も時計の短針が指す十の数字を見てパソコンを閉じる。椅子の上で背中を反らし、帰る身支度をしていると急に女性の声がした。
「あの……」
私以外誰もいないはずのオフィスに声が響き、柄にもなく声を出して驚いた。
「あ、驚かしてごめんなさい。父が見当たらなくて困ってるんです。」
「……はい?」
父?
「この会社を経営している九条仁の娘の九条咲良です。父に社内を見学させてもらってたんですけど、途中はぐれちゃって」
「あ、あぁ、九条社長のお嬢様でしたか。失礼いたしました」
彼女は小柄で、格好はとても質素なものだった。甘やかされたお嬢様ならブランド物を着飾って高慢ちきなものだと勝手に想像していたが、意外とそうでもないらしい。彼女は特別美人というわけでもないが、寒さで震えているせいか小動物のように愛らしく見えた。
「お嬢様だなんて、かしこまらないでください。父のところに連れて行ってくれませんか」
「社長なら社長室にいらっしゃると思います。案内いたしますので少々お待ちください」
そういって身支度を進める。そんな私を彼女はじっと見ている。立っている場所からは微動だにせず、目線を私から外さずに。気味の悪い時間だ、さっさと案内して帰ろう。
「お待たせしました、行きましょうか」
「ありがとうございます。あの、少し寒いので自販機に寄ってもいいですか?」
……まあ確かに、そんな格好じゃあ寒くて当然だろう。彼女は何も羽織らず、長そでの薄手のワンピース一枚だった。ワンピースは淡い桃色で、可愛らしいものだった。小柄な彼女に良く似合う、社長令嬢であることを忘れてしまいそうだ。
「えぇ、かまいませんよ。」
「ありがとうございます。優しいんですね」
「……そういえば、こんな時間まで会社の見学をしていたんですか?携帯などで連絡とかは取れなかったんですか?」
「えへへ、携帯の充電切れちゃって」
照れくさそうに笑いながら彼女は答えた。本当に聞きたいことはそこじゃないのだが。
「まぁ、社長があなたを置いて帰るわけはないですから、とりあえず社長室に向かいましょう」
「そうだといいんですけどね」
なんだ、どうにも気味が悪い。
「お父さんは、きっと私を置いて帰っちゃったんですよ」
「そんなわけないですよ、社長はあなたをとても大切にしていらっしゃいます」
「そうですよね、父親は娘を大切にするものですよね」
引っかかる物言いだな。反抗期が変な方向にひねくれているのか?
「社長と何かあったんですか?」
「……」
だんまりとしてしまった。機嫌を損ねてしまったのか。何とか次の話題に切り替えようとしたとき、社長室の文字が見えた。
「着きましたね、ここからは大丈夫です。ありがとうございました」
「え、あぁ、はい……」
彼女は淡々とそう言うと社長室の中に入っていった。社長室の中はよく見えなかったが明かりはついていた。きっと社長が中にいるのだろう。挨拶をしようと思ったが、どっと疲れが私を襲い、そんな気力は奪われた。ふと腕時計を見る、終電に間に合うだろうか。
「……え」
時計の短針の先には、十の数字……。
六時起床、八時出社、いつものコンビニでパンとコーヒーを買い、デスクに戻る。……昨日のことは忘れよう。社長令嬢と関わる機会なんて今後ないだろう。出会いから別れまで気味が悪かった。絶対に三十分は経っていたはずなのに、なぜ時間が進んでいなかったのだろう。……いや、いいんだ。忘れるんだ。
「一ノ瀬、社長が至急社長室に来てくれとのことだ」
「え、あ、はい!」
悪いことが起こる、確信して言える。体は鉛を飲んだように重く、社長室に近づくにつれ汗が止まらない。扉の前に来た、もう戻れない。
「失礼します」
中には社長一人だけだった。
「あぁ、すまないね。まぁそこに座って」
「いえ、失礼します」
言われたとおり長いソファに腰を下ろした。質の良い我が社自慢のソファであるはずなのに落ち着かない。早く帰りたい。しばらくすると前に座っていた社長が口を開いた。
「君がこの会社に入ってもう三年か、早いものだね」
「はい、ここまでやってこられたのは社長のおかげです」
もしかしたら、昇進の話かもしれない。そんな期待は次の社長の言葉で打ち砕かれた。
「君は、まだ若いけれど私が心から信頼する人間の一人だ。もし君にお相手がいないなら、どうかな私の娘と食事でも」
「え……」
なぜ、私なのか。心当たりは昨日のことしか思いつかない。彼女と会ったのは昨日が初めてのはずだ。信頼を置いているとはいえ、こんなぽっと出の男と大切な娘を会わせるだろうか。理解が追い付かない私を置いて社長は話を続けた。
「最近、やけに娘の体調がよくてね、医者にも病気が回復傾向にあると昨日連絡があったんだ。長時間の外出も最近増えてきてね、まぁ、寒い日はあまり外出させないようにしてるのだが」
「それは何よりです。しかし、どうして私などを?」
社長は会うたびにお嬢様の話を聞かせてくださる。近況報告ならしょっちゅう聞いているのに、色っぽい話は聞いたことがない。てっきり娘を嫁に出したくないタイプの人だと思っていた。
「先ほども言った通り、君は若手ながらも実績を確かに残し、我が社に貢献してくれている。私は君が今日まで血のにじむ努力をしていることもよく知っている。社員としても人としても信頼がおけているんだ。君は息子も同然だ」
ありがたいお言葉だ。昨日の一件さえなければどんなに素直に感動できただろうか。
「どうだろうか、まぁもし君にお相手がいるのなら無理にとは言わない」
そんな相手、いるわけがない。学生の頃から勉学に打ち込み、周りが青春を彩る中ただひたすらに机に向かっていた私だ。
「私には恋人はおりません。ありがたいお話ですが、お嬢様のご容態がよくなっている今は、お嬢様がされたいことをして差し上げてください。きっと私のような男と食事など望まないはずです。お嬢様と社長のお二人だけで食事をされてみてはいかがでしょう。お嬢様にとってはそれが何よりの楽しみではないでしょうか」
頭をフル回転させ当たり障りのない断り文句を並べる。しかし言ったことは本心だ。一度会っただけの男と食事など何が楽しいのだ。
「そうか、ところで一つ聞きたいのだが」
しばらくの沈黙の末、社長が口を開いた。
「君は、娘と会ったことがあるのかい」
は?
「え、あ、あぁ、はい。昨日二十二時ごろに社内でお会いしました。なんでも社長と一緒に社内を見学されていたようではないですか。お嬢様は私が社長室までご案内しました」
……あれ、待てよ。なぜ私は昨日のことを受け入れている。よく考えろ、何もかも辻褄が合わない。医者から病気の回復傾向にあると連絡を受けた日に、夜遅く、そしてかなり肌寒い日に娘を連れだすだろうか。しかもあんな薄着で。
「何を、言っているんだね、君は」
社長はたじろいだ。汗が止まらない。
「何を、と申されますと。私は確かにお嬢様を名乗る人物に会いました。確かに、九条咲良と名乗る女性に」
九条咲良、その名前を口にした瞬間、酷い目眩がした。目の前が真っ暗になり最後に見たのは社長室の壁掛け時計だった。
やけに十の数字だけが、鮮明に見えた……
目が覚めた時、私は病院のベッドに横になっていた。機械音だけがリズミカルに響き渡る。私はなぜこんなところに……
「一ノ瀬さん、一ノ瀬さん、お身体はいかがですか」
いつのまに看護師が横にいたのだろうか。目覚めたばかりであるせいか感覚が働かない。言葉が出ない。
「点滴を変えますね、一ノ瀬さん、かなりの貧血で倒れられたんですよ」
貧血……?あのようなタイミングで?
「そうそう、病院に連絡してくださった九条様から、しばらく休養するようにと申し伝えられました」
「あ、ありがとうございます」
社長にお詫びをしなければな……
「それでは失礼いたします」
看護師が病室から出て行った。また私一人だけ。
「一ノ瀬さん、ですか?」
ふとどこからか愛らしい女性の声が聞こえた。しかし周りには誰もいない。どこかで聞いたことのある声だ。声の主を探そうと体を起こそうとするが、言うことを聞かない。
「そのままで結構です。またお会いしましたね。」
「どちら様ですか、姿を見せてください」
右からも左からも聞こえる声に問いかけた。
「九条です。九条咲良ですよ。前に一度お会いしたではないですか。忘れちゃったんですか?」
九条……?
「社長のお嬢様ですか?」
「そんなかしこまった呼び方はやめてください。咲良で結構ですよ」
内容が頭に入ってこないまま、彼女の話は続いた。せめて姿が見えればいいのだが。
「ここ最近、奇妙なことが続いていますよね」
主にあなたが原因なのだが。
「実は……あなたの助けが必要なんです」
助け……?
「私とあなたが初めて会った時と同じ場所、時間にもう一度私と会っていただきたいんです。そうすればお互いの姿を確認できます」
「恐れ入りますが、ここですべてを話してください。もうこれ以上モヤモヤしたまま仕事をしたくありません」
「……分かりました」
しばらくの沈黙が続き、不満そうに彼女は答えた。私にだってキャリアがかかってるのだ、こんな訳のわからない現象に捕らわれている暇はない。
「私の、姉を、見つけてほしいのです」
姉?社長には一人しか子供はいないはずだが……
「ある日私の姉は父の会社で姿を消しました。十二月の夜に」
「いやいやいや、待ってください。姉?会社で姿を消したって、そんな話は聞いたことがありません」
倦怠感の波がやまぬ中、必死に声を発した。
「それは、父がそうなるように仕組んだというだけです。……父は、娘に完璧を求めすぎている」
九条社長が……?
「姉は、ずっと父の会社に捕らわれたまま」
涙ぐんだような声で必死に言葉を紡いでいるようだ。よほどその姉とやらを愛しているのだろう。
「とにかく、もう一度だけ私と会っていただきたいのです」
「わ、わかりました」
彼女の必死さについ二つ返事をしてしまった。ふと眠気が私を襲い、そのまま眠りについた。
療養明け、最初の出勤日。いつもの通り六時起床の八時出社。しかし食欲がわかず、コンビニには寄らなかった。社長と仕事仲間にお詫びの菓子折りを買い、会社へ向かった。
「おはようございます。先日はご心配をおかけしました」
オフィスにいる人、一人一人にあいさつをする。社長に一番に菓子折りを持って行こうと一旦オフィスを出る。社長は私にどんな顔をするのだろうか。昨日の問いかけの答えに、妙にたじろいでいたようだが。悶々と答えの出ない悩みを抱え社長室に向かった。
「失礼いたします」
ノックの後扉を開けた。扉は私を拒むような重さだった。椅子に座る社長は私に入室の許可を出したまま、一言も発しなかった。
「社長、先日はご心配をおかけしました。病院に通報していただきありがとうございました。社長は命の恩人です」
社長は何も言わない。
「こちら、つまらないものですが。お詫びの品です。どうか収めていただければと思います」
「……あ、あぁ。体調が回復しているようでよかったよ」
気まずい時間が流れる。昨日の話の続きをするべきだろうか。
「一ノ瀬君、昨日のことはどうか忘れてくれ。ここ最近、働き詰めの君に余計な負担をかけてしまっていたようだ。娘の話はどうか、どうか忘れてくれ」
「え、余計なことだなんて、そんなこと、仰らないでください。私も体調の管理を怠っていた節があります。お気になさらないでください」
社長は深々と頭を下げ、私に昨日のことを忘れるよう懇願した。
「お顔を上げてください。私はお嬢様が元気でおられることが何より喜ばしいのです。どうか社長、今はお嬢様のことを気にかけてください」
もうこの話はやめよう。お嬢様との食事の話は忘れる。そう意思表示をしたものの、私の頭の中は病室での出来事でいっぱいなのだ。
「ありがとう、優秀な部下を持てて私は幸せだ。さあ、仕事に戻ってくれ。これからもよろしく頼むよ」
「はい、今後ともよろしくお願いたします。それでは失礼します」
長い長い時間が終わった。とにかく日中は仕事に集中しよう。この忙しい年末だというのに、無駄にしてしまった時間を取り返さねば。タイムスケジュールを立てようと腕時計を見る。
短針は十を指している。
昼休みを削りテキパキと仕事をこなしていくうちに時間は過ぎていった。ただでさえ忙しい年末に仕事を貯めるなどご法度だ。定時までに今日中の仕事を片付け、残業時間に遅れた分を取り戻す。幸い、同僚の助けもありそこまで負担にはならなかった。今度の飲み会は私のおごりで決定だな。ふと時計を見ると九時を回っていた。帰ってしまおうかとも考えたが、私の脳裏には常にあのときの少女がいた。九条咲良……
「……帰ろう。杞憂に過ぎない」
鞄に荷物を詰め、飲みかけの缶コーヒーを飲み干す。オフィスには私以外誰もいないはずだから、電気を消そうとしたその時、あの可愛らしい嫌な声が耳に届いた。
「帰っちゃうんですか、約束も無視して薄情者」
あぁ、嫌だ。
「元気になったみたいでよかった。会いたかったんですよ」
「確かに、この時間、この場所で会うと約束しましたね。失礼しました」
彼女は最初に会った時と同じ、薄手のワンピースを着ていた。桃色が少しくすんで見える。
「お姉様をお探しする、とのことですが。ここで何があったのか、あなた様が何者なのかをお教えください」
「まるで業務連絡ですね。年も近いんだからフランクに来ていただいて結構ですよ」
「時間は有限です。無駄にはしたくありません」
「大丈夫ですよ、どうせ無限にあります」
話が通じていないのか、やっぱりお嬢様というだけあるのか。
「時間は、どうやら私に味方をするそうで、不思議ですね」
「……話を聞かせてください。さぁ早く」
関係のない話に頭を痛めている暇はない。
「分かりましたよ。まず私の姉というのは、私とは面識がありません」
「なんですって?家族なのに会ったことがないのですか?」
「はい、姉は私が生まれる前にこの会社内にて失踪しました。姉が失踪してから三年後に生まれたのが私です」
知らなかった、社長に娘が二人いたなんて。いや、出まかせかもしれないが。
「お姉様の名前は?」
「九条美鈴、きれいな名前でしょう。名が体を表すように美しい人だったとか」
「会ったこともないのになぜご存じなのですか」
「……そんなこと、どうだっていいでしょう」
彼女は眉を顰め話した。彼女にとって、姉とは一体どんな存在なのだろう。
「なるほど、しかしどうにも奇妙なのはあなたですよ、咲良さん。そもそもあなたはなぜここに来られたのですか?そう易々と抜け出せるほど大学病院の警備は甘くないはずです」
「……私はね、一ノ瀬さん、望まれて生まれてきたはずなの」
は?
「でもね、いざ生まれてきたら体は弱い、頭も悪い、人付き合いも下手。到底姉の代わりなんてなれない」
「そんなの、あなたのせいじゃない。それに代わりって……」
「あとね、なんか私、気持ち悪いみたい。周りはみんなそういうの」
言葉が出ない、社長は一体何を隠しているんだ。
「ここにいる私、そして病室で声をかけた私は概念的なものだって考えてもらっていいですよ」
「概念?」
「思いが集まって生まれた存在、まぁ幽霊みたいなものです」
さらっと理解が追い付かないことばかりを口にされている。
「私がこの会社にいる限り、時間が進むことも戻ることもない。ここ最近気づいたことはそれぐらいです。なぜ十時なのかは分かりませんが」
「その、それはなにか特別な力が働いているということでしょうか。
魔法、のような」
彼女が自分自身を気味悪い、と評するには理由があるはずだ。大変聞きづらいが。
「そうなんですかね。魔法っていうほどキラキラした感じのものじゃない気がします」
「キラキラ……」
「姉のことを見つけられれば、この力のこともわかる気がするんです」
先行きが不安だが、やるしかない。概念体であるらしい彼女の望みを叶えればいつもの日常に戻れるのだ。
「分かりました、よろしくお願いします。咲良さん」
「頼もしいですね、こちらこそよろしくお願いします。一ノ瀬さん」
愛らしい声、ぱっと明るい顔、不思議と鳥肌が立った。
時計は十時を示したまま。
とりあえず会社内をぐるぐると周る。彼女の力は本物のようで、先ほどから時間は進んでいない。
「一ノ瀬さんは父にすごく気に入られているんですね」
「社長には新人時代からお世話になっております。なぜ私なんかに、とも思いましたが」
「……何となくですけど、分かる気がします」
「そうですか?」
彼女はしばらく考えると口を開いた。
「一ノ瀬さん、一ノ瀬さんはどんな女性がタイプですか?」
「……え?なぜ急に……」
「タイプは?」
顔を覗き込み、距離を詰めてくる。聞いてどうするんだ。そんなこと。
「えぇと、そうですね。自分自身に芯を強く持っている人……ですかね」
捻りにひねって答えを出した。就活の面接よりも緊張したような気がする。しかし間違った回答していない。自分を強く持つ人は男性だろうと女性だろうと魅力的だ。
「ふうん、なんか普通ですね」
彼女はつまらなそうに言った。普通で悪かったな。
「そういうあなたはどうなんですか」
社長が私と彼女を会わせようとしたことを思い出した。この問いかけに箱入り娘はなんて答えるのだろう。
「好みのタイプとかわからないです。恋愛したことないし、できても好きな人と一緒にはなれないから」
……触れてはいけなかったな。
「姉も同じことを考えていたような気がします。私にはわかる」
「社長令嬢というのも楽ではない……ということですか」
「大人は世間体ばかり気にするじゃないですか。姉もそれに嫌気がさしたんですよ」
漫画の世界のような話だな。私自身は親に苦しめられたことなんてなかったから、彼女の気持ちは理解が出来なかった。中途半端に寄り添っても彼女に失礼だと思い、それ以上何も踏み込まなかった。
「それにしても会ったことのないお姉様が会社で失踪したなんて、どうして分かったんですか?」
彼女は姉の気持ちをまるで自分のことのように話す。社長令嬢という立場は同じだが、そのほかの境遇は似ていないような気がする。姉の代わりになれない……その言葉がどうしても引っかかった。
「それは私にもわからないんです。時折私のものじゃない記憶がフラッシュバックするんです。例えばそうですね、ピアノのコンクールで金賞をとった記憶とか。通知表を誉められた記憶とか……どれも身に覚えのないものばかりでした。フラッシュバックする記憶の中では私は美鈴と呼ばれていたんです。次第にその記憶は姉のものだということが分かりました。……記憶が姉のものだと知ってしばらくした後、この会社の映像が流れました。暗い階段を上って重い扉を開いた瞬間の記憶です。記憶はそれを最後に見ていません」
なるほど、血の繋がりが不思議な現象を引き起こしている可能性がある。そんな記憶が頻繁にフラッシュバックするなんてさぞ生きにくい人生だっただろう。病弱なのもそのせいなのではないだろうか。
「でもね、記憶を見ている瞬間はとても幸せなんです。父も母も私に興味を持ってくれるから」
また、彼女はうつむいて呟いた。
「お父様はあなたを大切にしているではありませんか。いつもあなたの話を聞かせてくださいますよ」
「そりゃ、娘を大切にしていないと世間体が悪いですから。大学病院に任せて仕事に逃げているようにしか思えませんよ」
「……あなたの治療費を一生懸命に稼いでいるからではないですか」
相手が誰であれ、恩人を悪く言われるのは気分が悪い。自分勝手なことを言っているのは分かっている。彼女も苦労しているのだろう。しかしこっちだって巻き込まれている身だ。
「所詮、姉の代わりにつくられたんです。私とあなたじゃ九条仁の見方が違うんですよ。私たち、一生分かり合えませんね」
彼女はまた、ぱっと明るい笑顔で私にそう言った。言葉と表情のミスマッチさゆえにまた鳥肌が立った。しかし彼女の言うことは間違いではない。彼女には彼女の世界がある。
「そうですね、この件が終わったらお互いの世界を生きましょう」
九条仁という一人の男を中心に彼女は私の対角線上にある。ならば九条美鈴は何処にいる。
「……ここです」
彼女は非常階段の扉を指さした。彼女は記憶の中でここの階段を上っていたのか。
「行きましょうか、お足元に気をつけて」
彼女と並んで階段を上る。どこまで上るのかわからない。最上階にあるのいくつかの会議室と社長室だ。
「どこまで行くのかまでは分かりませんか?」
「さあ」
社長の話をしてから彼女の返答の歯切れが悪くなった。ほとんど無言のまま階段を上り続けた。不思議と疲労感はなかった。もうどこまで上ったのだろう。
……終わらない夢を見ているようだ。
相変わらず時計の十の数字は変わらない。
これでいいんだ。このまま時が止まればいい。進めば進むほど息があがる、そんな関係はいらない。ここは私が望んだ世界。私のこの力があればこの世界を維持することが出来る。もう、弱くて頭の悪い九条咲良はいない。私が美鈴に取って代わる。父が私に求めたのは社長令嬢としての完璧なんかじゃない、何を勘違いしてるんだか。父には母さえいればよかったんだ。出来損ないの私はいらなかった。
……ねぇ、一ノ瀬さん。私ね、もう父みたいな人を増やしたくないの。あなたは絶対に父のような人になる。失ったものばかりに捕らわれて、大切なものを見失う。父からあなたの話を聞いた瞬間にそう感じたの。碌な人生を生きないくらいなら、私と一生ここにいよう。私だけを大切にしていればいいのよ。私のことさえ考えていればいいのよ。父のように仕事にばかり逃げていないで、ずっとここにいればいい。私が見た幸せな夢をあなたも味わえばいい。何の取柄もない私だけど夢見るくらいは許されるよね。どうかこのまま付き合ってよね、一ノ瀬さん。
午後十時、都内某所の大学病院にて、一人の少女が亡くなった。病室のベッドで少女の手を握り泣き崩れる男が一人。彼は後悔と謝罪、そして愛情を口にしながらただただ涙を流した。少女は三年前からこの病院に入院しており、ほとんど寝たきりだった。しかし体調はここ最近まで回復傾向にあったはずなのだ。それを男は喜んだ。いつしかの退院の日を夢見ながら、一人娘のために仕事に打ち込んだのだろう。その結果がこれだ。少女は生前、頭もよく、ピアノの才能もあり、周りから愛されて育ったらしい。男もまた、彼女を深く愛していた。
「先生、九一〇号室の患者様が…‥」
「あぁ、すぐ行くよ」
あとは看護師に任せて病室を後にした。相変わらず忙しい毎日だ。家にもろくに帰れず、そのせいかこの頃やけに眠い。医者が寝不足で居眠りだなんて笑えないな。ふと携帯を目にすると、妻からのいつ帰ってくるのかというメールが今日も届いていた。健気に私を待つ妻がたまらなく愛おしい。……明日は早く帰ろう、だって結婚記念日なのだから。遅くなったとしても妻なら待ってくれているはずだ。私が妻を愛するように、妻も私を愛しているはずだから。
他者が見る世界を、見られたならば、どんなに良かっただろう。
彼には今年で二十歳になる娘さんがいるらしい。彼女はいわゆる社長令嬢だ。彼女は体が弱く、ここ最近病院通いらしい。そんな娘を気の毒に思い、父親である九条社長は昔からかなり甘やかしているらしい。
「母親を五年前に亡くし、私も働き詰めでなかなか相手にしてやれなかった。だからこそできる限り願いは叶えてやりたかった」だそうだ。よくある話だとあまり気に留めなかった。九条社長は大手の会社を統べる方だ。そんな人でも娘にはここまで弱くなるものなのか。
「君と娘は歳も近いし、仲よくなってくれると嬉しいのだが」
確かそんなことも言われていたっけ。子供同士でもあるまいし、彼女も社会慣れしてないだけで大人の女性だ。私はまだまだ仕事に打ち込んでいたい。働き時だというのに、色恋にふける暇などない。
雪がちらつく十二月、師走の時期はどこも大忙しだ。顧客のリストの整理、年末調整……頭がパンクしそうだ。もう何日残業しているかわからなかった。今日も時計の短針が指す十の数字を見てパソコンを閉じる。椅子の上で背中を反らし、帰る身支度をしていると急に女性の声がした。
「あの……」
私以外誰もいないはずのオフィスに声が響き、柄にもなく声を出して驚いた。
「あ、驚かしてごめんなさい。父が見当たらなくて困ってるんです。」
「……はい?」
父?
「この会社を経営している九条仁の娘の九条咲良です。父に社内を見学させてもらってたんですけど、途中はぐれちゃって」
「あ、あぁ、九条社長のお嬢様でしたか。失礼いたしました」
彼女は小柄で、格好はとても質素なものだった。甘やかされたお嬢様ならブランド物を着飾って高慢ちきなものだと勝手に想像していたが、意外とそうでもないらしい。彼女は特別美人というわけでもないが、寒さで震えているせいか小動物のように愛らしく見えた。
「お嬢様だなんて、かしこまらないでください。父のところに連れて行ってくれませんか」
「社長なら社長室にいらっしゃると思います。案内いたしますので少々お待ちください」
そういって身支度を進める。そんな私を彼女はじっと見ている。立っている場所からは微動だにせず、目線を私から外さずに。気味の悪い時間だ、さっさと案内して帰ろう。
「お待たせしました、行きましょうか」
「ありがとうございます。あの、少し寒いので自販機に寄ってもいいですか?」
……まあ確かに、そんな格好じゃあ寒くて当然だろう。彼女は何も羽織らず、長そでの薄手のワンピース一枚だった。ワンピースは淡い桃色で、可愛らしいものだった。小柄な彼女に良く似合う、社長令嬢であることを忘れてしまいそうだ。
「えぇ、かまいませんよ。」
「ありがとうございます。優しいんですね」
「……そういえば、こんな時間まで会社の見学をしていたんですか?携帯などで連絡とかは取れなかったんですか?」
「えへへ、携帯の充電切れちゃって」
照れくさそうに笑いながら彼女は答えた。本当に聞きたいことはそこじゃないのだが。
「まぁ、社長があなたを置いて帰るわけはないですから、とりあえず社長室に向かいましょう」
「そうだといいんですけどね」
なんだ、どうにも気味が悪い。
「お父さんは、きっと私を置いて帰っちゃったんですよ」
「そんなわけないですよ、社長はあなたをとても大切にしていらっしゃいます」
「そうですよね、父親は娘を大切にするものですよね」
引っかかる物言いだな。反抗期が変な方向にひねくれているのか?
「社長と何かあったんですか?」
「……」
だんまりとしてしまった。機嫌を損ねてしまったのか。何とか次の話題に切り替えようとしたとき、社長室の文字が見えた。
「着きましたね、ここからは大丈夫です。ありがとうございました」
「え、あぁ、はい……」
彼女は淡々とそう言うと社長室の中に入っていった。社長室の中はよく見えなかったが明かりはついていた。きっと社長が中にいるのだろう。挨拶をしようと思ったが、どっと疲れが私を襲い、そんな気力は奪われた。ふと腕時計を見る、終電に間に合うだろうか。
「……え」
時計の短針の先には、十の数字……。
六時起床、八時出社、いつものコンビニでパンとコーヒーを買い、デスクに戻る。……昨日のことは忘れよう。社長令嬢と関わる機会なんて今後ないだろう。出会いから別れまで気味が悪かった。絶対に三十分は経っていたはずなのに、なぜ時間が進んでいなかったのだろう。……いや、いいんだ。忘れるんだ。
「一ノ瀬、社長が至急社長室に来てくれとのことだ」
「え、あ、はい!」
悪いことが起こる、確信して言える。体は鉛を飲んだように重く、社長室に近づくにつれ汗が止まらない。扉の前に来た、もう戻れない。
「失礼します」
中には社長一人だけだった。
「あぁ、すまないね。まぁそこに座って」
「いえ、失礼します」
言われたとおり長いソファに腰を下ろした。質の良い我が社自慢のソファであるはずなのに落ち着かない。早く帰りたい。しばらくすると前に座っていた社長が口を開いた。
「君がこの会社に入ってもう三年か、早いものだね」
「はい、ここまでやってこられたのは社長のおかげです」
もしかしたら、昇進の話かもしれない。そんな期待は次の社長の言葉で打ち砕かれた。
「君は、まだ若いけれど私が心から信頼する人間の一人だ。もし君にお相手がいないなら、どうかな私の娘と食事でも」
「え……」
なぜ、私なのか。心当たりは昨日のことしか思いつかない。彼女と会ったのは昨日が初めてのはずだ。信頼を置いているとはいえ、こんなぽっと出の男と大切な娘を会わせるだろうか。理解が追い付かない私を置いて社長は話を続けた。
「最近、やけに娘の体調がよくてね、医者にも病気が回復傾向にあると昨日連絡があったんだ。長時間の外出も最近増えてきてね、まぁ、寒い日はあまり外出させないようにしてるのだが」
「それは何よりです。しかし、どうして私などを?」
社長は会うたびにお嬢様の話を聞かせてくださる。近況報告ならしょっちゅう聞いているのに、色っぽい話は聞いたことがない。てっきり娘を嫁に出したくないタイプの人だと思っていた。
「先ほども言った通り、君は若手ながらも実績を確かに残し、我が社に貢献してくれている。私は君が今日まで血のにじむ努力をしていることもよく知っている。社員としても人としても信頼がおけているんだ。君は息子も同然だ」
ありがたいお言葉だ。昨日の一件さえなければどんなに素直に感動できただろうか。
「どうだろうか、まぁもし君にお相手がいるのなら無理にとは言わない」
そんな相手、いるわけがない。学生の頃から勉学に打ち込み、周りが青春を彩る中ただひたすらに机に向かっていた私だ。
「私には恋人はおりません。ありがたいお話ですが、お嬢様のご容態がよくなっている今は、お嬢様がされたいことをして差し上げてください。きっと私のような男と食事など望まないはずです。お嬢様と社長のお二人だけで食事をされてみてはいかがでしょう。お嬢様にとってはそれが何よりの楽しみではないでしょうか」
頭をフル回転させ当たり障りのない断り文句を並べる。しかし言ったことは本心だ。一度会っただけの男と食事など何が楽しいのだ。
「そうか、ところで一つ聞きたいのだが」
しばらくの沈黙の末、社長が口を開いた。
「君は、娘と会ったことがあるのかい」
は?
「え、あ、あぁ、はい。昨日二十二時ごろに社内でお会いしました。なんでも社長と一緒に社内を見学されていたようではないですか。お嬢様は私が社長室までご案内しました」
……あれ、待てよ。なぜ私は昨日のことを受け入れている。よく考えろ、何もかも辻褄が合わない。医者から病気の回復傾向にあると連絡を受けた日に、夜遅く、そしてかなり肌寒い日に娘を連れだすだろうか。しかもあんな薄着で。
「何を、言っているんだね、君は」
社長はたじろいだ。汗が止まらない。
「何を、と申されますと。私は確かにお嬢様を名乗る人物に会いました。確かに、九条咲良と名乗る女性に」
九条咲良、その名前を口にした瞬間、酷い目眩がした。目の前が真っ暗になり最後に見たのは社長室の壁掛け時計だった。
やけに十の数字だけが、鮮明に見えた……
目が覚めた時、私は病院のベッドに横になっていた。機械音だけがリズミカルに響き渡る。私はなぜこんなところに……
「一ノ瀬さん、一ノ瀬さん、お身体はいかがですか」
いつのまに看護師が横にいたのだろうか。目覚めたばかりであるせいか感覚が働かない。言葉が出ない。
「点滴を変えますね、一ノ瀬さん、かなりの貧血で倒れられたんですよ」
貧血……?あのようなタイミングで?
「そうそう、病院に連絡してくださった九条様から、しばらく休養するようにと申し伝えられました」
「あ、ありがとうございます」
社長にお詫びをしなければな……
「それでは失礼いたします」
看護師が病室から出て行った。また私一人だけ。
「一ノ瀬さん、ですか?」
ふとどこからか愛らしい女性の声が聞こえた。しかし周りには誰もいない。どこかで聞いたことのある声だ。声の主を探そうと体を起こそうとするが、言うことを聞かない。
「そのままで結構です。またお会いしましたね。」
「どちら様ですか、姿を見せてください」
右からも左からも聞こえる声に問いかけた。
「九条です。九条咲良ですよ。前に一度お会いしたではないですか。忘れちゃったんですか?」
九条……?
「社長のお嬢様ですか?」
「そんなかしこまった呼び方はやめてください。咲良で結構ですよ」
内容が頭に入ってこないまま、彼女の話は続いた。せめて姿が見えればいいのだが。
「ここ最近、奇妙なことが続いていますよね」
主にあなたが原因なのだが。
「実は……あなたの助けが必要なんです」
助け……?
「私とあなたが初めて会った時と同じ場所、時間にもう一度私と会っていただきたいんです。そうすればお互いの姿を確認できます」
「恐れ入りますが、ここですべてを話してください。もうこれ以上モヤモヤしたまま仕事をしたくありません」
「……分かりました」
しばらくの沈黙が続き、不満そうに彼女は答えた。私にだってキャリアがかかってるのだ、こんな訳のわからない現象に捕らわれている暇はない。
「私の、姉を、見つけてほしいのです」
姉?社長には一人しか子供はいないはずだが……
「ある日私の姉は父の会社で姿を消しました。十二月の夜に」
「いやいやいや、待ってください。姉?会社で姿を消したって、そんな話は聞いたことがありません」
倦怠感の波がやまぬ中、必死に声を発した。
「それは、父がそうなるように仕組んだというだけです。……父は、娘に完璧を求めすぎている」
九条社長が……?
「姉は、ずっと父の会社に捕らわれたまま」
涙ぐんだような声で必死に言葉を紡いでいるようだ。よほどその姉とやらを愛しているのだろう。
「とにかく、もう一度だけ私と会っていただきたいのです」
「わ、わかりました」
彼女の必死さについ二つ返事をしてしまった。ふと眠気が私を襲い、そのまま眠りについた。
療養明け、最初の出勤日。いつもの通り六時起床の八時出社。しかし食欲がわかず、コンビニには寄らなかった。社長と仕事仲間にお詫びの菓子折りを買い、会社へ向かった。
「おはようございます。先日はご心配をおかけしました」
オフィスにいる人、一人一人にあいさつをする。社長に一番に菓子折りを持って行こうと一旦オフィスを出る。社長は私にどんな顔をするのだろうか。昨日の問いかけの答えに、妙にたじろいでいたようだが。悶々と答えの出ない悩みを抱え社長室に向かった。
「失礼いたします」
ノックの後扉を開けた。扉は私を拒むような重さだった。椅子に座る社長は私に入室の許可を出したまま、一言も発しなかった。
「社長、先日はご心配をおかけしました。病院に通報していただきありがとうございました。社長は命の恩人です」
社長は何も言わない。
「こちら、つまらないものですが。お詫びの品です。どうか収めていただければと思います」
「……あ、あぁ。体調が回復しているようでよかったよ」
気まずい時間が流れる。昨日の話の続きをするべきだろうか。
「一ノ瀬君、昨日のことはどうか忘れてくれ。ここ最近、働き詰めの君に余計な負担をかけてしまっていたようだ。娘の話はどうか、どうか忘れてくれ」
「え、余計なことだなんて、そんなこと、仰らないでください。私も体調の管理を怠っていた節があります。お気になさらないでください」
社長は深々と頭を下げ、私に昨日のことを忘れるよう懇願した。
「お顔を上げてください。私はお嬢様が元気でおられることが何より喜ばしいのです。どうか社長、今はお嬢様のことを気にかけてください」
もうこの話はやめよう。お嬢様との食事の話は忘れる。そう意思表示をしたものの、私の頭の中は病室での出来事でいっぱいなのだ。
「ありがとう、優秀な部下を持てて私は幸せだ。さあ、仕事に戻ってくれ。これからもよろしく頼むよ」
「はい、今後ともよろしくお願いたします。それでは失礼します」
長い長い時間が終わった。とにかく日中は仕事に集中しよう。この忙しい年末だというのに、無駄にしてしまった時間を取り返さねば。タイムスケジュールを立てようと腕時計を見る。
短針は十を指している。
昼休みを削りテキパキと仕事をこなしていくうちに時間は過ぎていった。ただでさえ忙しい年末に仕事を貯めるなどご法度だ。定時までに今日中の仕事を片付け、残業時間に遅れた分を取り戻す。幸い、同僚の助けもありそこまで負担にはならなかった。今度の飲み会は私のおごりで決定だな。ふと時計を見ると九時を回っていた。帰ってしまおうかとも考えたが、私の脳裏には常にあのときの少女がいた。九条咲良……
「……帰ろう。杞憂に過ぎない」
鞄に荷物を詰め、飲みかけの缶コーヒーを飲み干す。オフィスには私以外誰もいないはずだから、電気を消そうとしたその時、あの可愛らしい嫌な声が耳に届いた。
「帰っちゃうんですか、約束も無視して薄情者」
あぁ、嫌だ。
「元気になったみたいでよかった。会いたかったんですよ」
「確かに、この時間、この場所で会うと約束しましたね。失礼しました」
彼女は最初に会った時と同じ、薄手のワンピースを着ていた。桃色が少しくすんで見える。
「お姉様をお探しする、とのことですが。ここで何があったのか、あなた様が何者なのかをお教えください」
「まるで業務連絡ですね。年も近いんだからフランクに来ていただいて結構ですよ」
「時間は有限です。無駄にはしたくありません」
「大丈夫ですよ、どうせ無限にあります」
話が通じていないのか、やっぱりお嬢様というだけあるのか。
「時間は、どうやら私に味方をするそうで、不思議ですね」
「……話を聞かせてください。さぁ早く」
関係のない話に頭を痛めている暇はない。
「分かりましたよ。まず私の姉というのは、私とは面識がありません」
「なんですって?家族なのに会ったことがないのですか?」
「はい、姉は私が生まれる前にこの会社内にて失踪しました。姉が失踪してから三年後に生まれたのが私です」
知らなかった、社長に娘が二人いたなんて。いや、出まかせかもしれないが。
「お姉様の名前は?」
「九条美鈴、きれいな名前でしょう。名が体を表すように美しい人だったとか」
「会ったこともないのになぜご存じなのですか」
「……そんなこと、どうだっていいでしょう」
彼女は眉を顰め話した。彼女にとって、姉とは一体どんな存在なのだろう。
「なるほど、しかしどうにも奇妙なのはあなたですよ、咲良さん。そもそもあなたはなぜここに来られたのですか?そう易々と抜け出せるほど大学病院の警備は甘くないはずです」
「……私はね、一ノ瀬さん、望まれて生まれてきたはずなの」
は?
「でもね、いざ生まれてきたら体は弱い、頭も悪い、人付き合いも下手。到底姉の代わりなんてなれない」
「そんなの、あなたのせいじゃない。それに代わりって……」
「あとね、なんか私、気持ち悪いみたい。周りはみんなそういうの」
言葉が出ない、社長は一体何を隠しているんだ。
「ここにいる私、そして病室で声をかけた私は概念的なものだって考えてもらっていいですよ」
「概念?」
「思いが集まって生まれた存在、まぁ幽霊みたいなものです」
さらっと理解が追い付かないことばかりを口にされている。
「私がこの会社にいる限り、時間が進むことも戻ることもない。ここ最近気づいたことはそれぐらいです。なぜ十時なのかは分かりませんが」
「その、それはなにか特別な力が働いているということでしょうか。
魔法、のような」
彼女が自分自身を気味悪い、と評するには理由があるはずだ。大変聞きづらいが。
「そうなんですかね。魔法っていうほどキラキラした感じのものじゃない気がします」
「キラキラ……」
「姉のことを見つけられれば、この力のこともわかる気がするんです」
先行きが不安だが、やるしかない。概念体であるらしい彼女の望みを叶えればいつもの日常に戻れるのだ。
「分かりました、よろしくお願いします。咲良さん」
「頼もしいですね、こちらこそよろしくお願いします。一ノ瀬さん」
愛らしい声、ぱっと明るい顔、不思議と鳥肌が立った。
時計は十時を示したまま。
とりあえず会社内をぐるぐると周る。彼女の力は本物のようで、先ほどから時間は進んでいない。
「一ノ瀬さんは父にすごく気に入られているんですね」
「社長には新人時代からお世話になっております。なぜ私なんかに、とも思いましたが」
「……何となくですけど、分かる気がします」
「そうですか?」
彼女はしばらく考えると口を開いた。
「一ノ瀬さん、一ノ瀬さんはどんな女性がタイプですか?」
「……え?なぜ急に……」
「タイプは?」
顔を覗き込み、距離を詰めてくる。聞いてどうするんだ。そんなこと。
「えぇと、そうですね。自分自身に芯を強く持っている人……ですかね」
捻りにひねって答えを出した。就活の面接よりも緊張したような気がする。しかし間違った回答していない。自分を強く持つ人は男性だろうと女性だろうと魅力的だ。
「ふうん、なんか普通ですね」
彼女はつまらなそうに言った。普通で悪かったな。
「そういうあなたはどうなんですか」
社長が私と彼女を会わせようとしたことを思い出した。この問いかけに箱入り娘はなんて答えるのだろう。
「好みのタイプとかわからないです。恋愛したことないし、できても好きな人と一緒にはなれないから」
……触れてはいけなかったな。
「姉も同じことを考えていたような気がします。私にはわかる」
「社長令嬢というのも楽ではない……ということですか」
「大人は世間体ばかり気にするじゃないですか。姉もそれに嫌気がさしたんですよ」
漫画の世界のような話だな。私自身は親に苦しめられたことなんてなかったから、彼女の気持ちは理解が出来なかった。中途半端に寄り添っても彼女に失礼だと思い、それ以上何も踏み込まなかった。
「それにしても会ったことのないお姉様が会社で失踪したなんて、どうして分かったんですか?」
彼女は姉の気持ちをまるで自分のことのように話す。社長令嬢という立場は同じだが、そのほかの境遇は似ていないような気がする。姉の代わりになれない……その言葉がどうしても引っかかった。
「それは私にもわからないんです。時折私のものじゃない記憶がフラッシュバックするんです。例えばそうですね、ピアノのコンクールで金賞をとった記憶とか。通知表を誉められた記憶とか……どれも身に覚えのないものばかりでした。フラッシュバックする記憶の中では私は美鈴と呼ばれていたんです。次第にその記憶は姉のものだということが分かりました。……記憶が姉のものだと知ってしばらくした後、この会社の映像が流れました。暗い階段を上って重い扉を開いた瞬間の記憶です。記憶はそれを最後に見ていません」
なるほど、血の繋がりが不思議な現象を引き起こしている可能性がある。そんな記憶が頻繁にフラッシュバックするなんてさぞ生きにくい人生だっただろう。病弱なのもそのせいなのではないだろうか。
「でもね、記憶を見ている瞬間はとても幸せなんです。父も母も私に興味を持ってくれるから」
また、彼女はうつむいて呟いた。
「お父様はあなたを大切にしているではありませんか。いつもあなたの話を聞かせてくださいますよ」
「そりゃ、娘を大切にしていないと世間体が悪いですから。大学病院に任せて仕事に逃げているようにしか思えませんよ」
「……あなたの治療費を一生懸命に稼いでいるからではないですか」
相手が誰であれ、恩人を悪く言われるのは気分が悪い。自分勝手なことを言っているのは分かっている。彼女も苦労しているのだろう。しかしこっちだって巻き込まれている身だ。
「所詮、姉の代わりにつくられたんです。私とあなたじゃ九条仁の見方が違うんですよ。私たち、一生分かり合えませんね」
彼女はまた、ぱっと明るい笑顔で私にそう言った。言葉と表情のミスマッチさゆえにまた鳥肌が立った。しかし彼女の言うことは間違いではない。彼女には彼女の世界がある。
「そうですね、この件が終わったらお互いの世界を生きましょう」
九条仁という一人の男を中心に彼女は私の対角線上にある。ならば九条美鈴は何処にいる。
「……ここです」
彼女は非常階段の扉を指さした。彼女は記憶の中でここの階段を上っていたのか。
「行きましょうか、お足元に気をつけて」
彼女と並んで階段を上る。どこまで上るのかわからない。最上階にあるのいくつかの会議室と社長室だ。
「どこまで行くのかまでは分かりませんか?」
「さあ」
社長の話をしてから彼女の返答の歯切れが悪くなった。ほとんど無言のまま階段を上り続けた。不思議と疲労感はなかった。もうどこまで上ったのだろう。
……終わらない夢を見ているようだ。
相変わらず時計の十の数字は変わらない。
これでいいんだ。このまま時が止まればいい。進めば進むほど息があがる、そんな関係はいらない。ここは私が望んだ世界。私のこの力があればこの世界を維持することが出来る。もう、弱くて頭の悪い九条咲良はいない。私が美鈴に取って代わる。父が私に求めたのは社長令嬢としての完璧なんかじゃない、何を勘違いしてるんだか。父には母さえいればよかったんだ。出来損ないの私はいらなかった。
……ねぇ、一ノ瀬さん。私ね、もう父みたいな人を増やしたくないの。あなたは絶対に父のような人になる。失ったものばかりに捕らわれて、大切なものを見失う。父からあなたの話を聞いた瞬間にそう感じたの。碌な人生を生きないくらいなら、私と一生ここにいよう。私だけを大切にしていればいいのよ。私のことさえ考えていればいいのよ。父のように仕事にばかり逃げていないで、ずっとここにいればいい。私が見た幸せな夢をあなたも味わえばいい。何の取柄もない私だけど夢見るくらいは許されるよね。どうかこのまま付き合ってよね、一ノ瀬さん。
午後十時、都内某所の大学病院にて、一人の少女が亡くなった。病室のベッドで少女の手を握り泣き崩れる男が一人。彼は後悔と謝罪、そして愛情を口にしながらただただ涙を流した。少女は三年前からこの病院に入院しており、ほとんど寝たきりだった。しかし体調はここ最近まで回復傾向にあったはずなのだ。それを男は喜んだ。いつしかの退院の日を夢見ながら、一人娘のために仕事に打ち込んだのだろう。その結果がこれだ。少女は生前、頭もよく、ピアノの才能もあり、周りから愛されて育ったらしい。男もまた、彼女を深く愛していた。
「先生、九一〇号室の患者様が…‥」
「あぁ、すぐ行くよ」
あとは看護師に任せて病室を後にした。相変わらず忙しい毎日だ。家にもろくに帰れず、そのせいかこの頃やけに眠い。医者が寝不足で居眠りだなんて笑えないな。ふと携帯を目にすると、妻からのいつ帰ってくるのかというメールが今日も届いていた。健気に私を待つ妻がたまらなく愛おしい。……明日は早く帰ろう、だって結婚記念日なのだから。遅くなったとしても妻なら待ってくれているはずだ。私が妻を愛するように、妻も私を愛しているはずだから。
他者が見る世界を、見られたならば、どんなに良かっただろう。
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