7 / 12
7
「え、婚姻ですか?」
父から急な呼び出しを受け、何事かと実家へ戻った途端、私は婚姻の話を突きつけられた。
驚く私に父はニンマリと満面の笑みを浮かべる。
この顔は……余程父の意に沿う相手のようだ。
「そうだ、帝国の商人ギルドを牛耳るカトル・マロンド卿だ」
カトル・マロンド――主に悪いほうで名の知れた帝国一の大富豪だ。
こんな借金だらけの落ちぶれた家門の娘を貰い受けようだなんて、どう考えてもこの爵位が目当てとしか思えない。
それに、彼は確か妻を亡くしたばかりのはずだ。
大商人の後妻……そうか、それが父が私に用意した最上にして最善の地位というわけか。
「先方はお前を見たことがあるらしくてな、とても乗り気なんだ。借金も全て無償で肩代わりすると言ってくれている」
「そう、ですか」
父が事業の失敗で抱えた莫大な借金を、無償で肩代わりするなどあまりにも破格な話だ。
これは私の一存で断ることなどできはしない――反抗する気力など一気に削がれ、私はこの婚姻話に対し首を縦に振った。
その瞬間ふとアルセンの顔が頭をよぎったけれど、貴族にとって婚姻と恋愛は別物だ。
皇后陛下の命を遂行し続けるのにしても、この婚姻は障害にはなりえない。
だから、問題はない。
けれどもう、逃げられない――
絶望にも似た諦念がじわりと胸を満たす。
でも、この時いったい何を諦めたのか……私には分からなかった。
それから一週間後、私は宮殿に割り当てられた自室にアルセンを招いた。
最上のもてなしをとこの日のために皇后陛下の助言も頂き、ティーセットから茶葉、茶菓子から食器に至るまで念入りに選び抜いた。
最後の仕上げに全身鏡の前に立ち身だしなみをチェックする。
大丈夫、悪くない。
テーブルセットも完璧だ。
やがて約束の時間通り案内役に連れられやってきたアルセンは、驚くほど大きな花束を抱えていた。
そして少しはにかみながらそれを私に差し出す。
不覚にも可愛いと思ってしまうのだから、私はアルセンのこの表情にどうも弱いらしい。
「よかったら……受け取ってほしい」
「まあ! なんて綺麗……ありがとうございますアルセン。こんな素敵なプレゼント、頂いたのははじめてです」
「花をもらったのがはじめてなのか?」
「はい、親しい男性など今ままでおりませんでしたから」
「花が好きなら、俺がいくらでも贈ろう」
「お気持ちだけで十分ですよ。あなたの大切な誰かに誤解をさせては大変ですから」
早速花を花瓶に生けながら困ったように笑うと、アルセンはむすっと眉根を寄せた。
「そんな相手はいないから、君が気にすることはない」
「そうですか。あ、どうぞこちらにお掛けになってください」
テラスのテーブルまでアルセンを案内して、席をすすめる。
アルセンは大人しく従い、目の前のテーブルセットに視線を巡らせた。
「凄いな、これは全部君が?」
「実は皇后陛下にもご助言を頂きました。アンドレ公爵閣下はお目が高いでしょうから、手が抜けませんもの」
「気持ちは嬉しいが……生憎審美眼のほうは壊滅的なんだ」
アルセンはおどけたように肩をすくめたけれど、彼の目を見ればそんなことは嘘だと分かる。
ここに取り揃えたのは一流の品ばかりで、彼はそれらの価値を全て正確に見抜いている様子だった。
私はアルセンのカップに紅茶を注ぎ入れ、席に着いた。
「アルセン、今日は私なりにできる精一杯のおもてなしをあなたにさせていただきたいのです」
「どういう意味だ?」
「せっかく友達になっていただけたのですけれど……しばらくお会いできなくなりそうなんです」
「……何故」
私はアルセンから貰った鮮やかな花々に目を移し、無理矢理口角を上げた。
「婚姻が……決まりそうなのです」
はっとアルセンが息を呑む音がハッキリと聞こえた。
「相手は、誰だ」
「カトル・マロンド卿と聞いています」
「カトル・マロンドだと……親子ほども年の離れた男ではないか」
アルセンの片眉が不快げに吊り上がる。
「オブリー家の借金のせいだな」
「ええ、お恥ずかしい話ですが……無償で肩代わりを申し入れられ、父は大層乗り気のようです」
「エレイン、君はそれでいいのか」
「私の感情など、問題にもなりませんから」
そう苦笑まじりに告げた刹那、アルセンが勢いよく立ち上がった。
そして驚いて固まっている私の元へツカツカと歩み寄ると、アルセンは私の手を掴みぎゅっと握った。
「あ、アルセン?」
「……俺でもいいだろう」
「え?」
「オブリー公爵の命なら君は、相手がたとえ俺でも従うんだろ」
「な、なんの冗談ですか?」
「冗談?」
さあっと場の空気が一気に冷える。
これまで見たこともない冷ややかな蒼い瞳に射抜かれ、私は恐怖のあまり身動ぎもできない。
「冗談かどうかは……いずれ分かる」
「そ、それはどういう……」
アルセンはゾッとするような冷笑を浮かべると、私の手の甲に口付けた。
その唇の冷たさを妙に生々しく感じ、ドクリと心臓が鳴った。
彼から醸し出される酷薄な気配が恐ろしく、けれど何故か目が離せない。
「あ……アル、セン……」
唇を震わせながらどうにか名を紡ぐと、アルセンは手の甲に唇を押し当てたまま、目線だけこちらへ向けた。
ひっと息が止まる。
そこにあったのは人心を惑わす魔性のごとき蒼き輝き。
私は瞬きもできないまま、その眼差しに囚われる。
やがてアルセンの手が優しく私の頬を撫でた。
つっと汗が顎から膝に滴り落ちる。
「エレイン……何故そんな目で俺を?」
アルセンは愉しげに瞳を細めた。
今の私は、どんな目でアルセンを見つめているのだろう。
恐怖に怯えているのか、それとも――
蜘蛛の巣に囚われた羽虫のように、この時の私はアルセンの獲物だった。
何が彼の言動を変えてしまったのか、彼はいったい何をするつもりなのか――人の顔色を読むのは得意だと豪語していながら、アルセンの心だけは最後までどうしても分からなかった――
父から急な呼び出しを受け、何事かと実家へ戻った途端、私は婚姻の話を突きつけられた。
驚く私に父はニンマリと満面の笑みを浮かべる。
この顔は……余程父の意に沿う相手のようだ。
「そうだ、帝国の商人ギルドを牛耳るカトル・マロンド卿だ」
カトル・マロンド――主に悪いほうで名の知れた帝国一の大富豪だ。
こんな借金だらけの落ちぶれた家門の娘を貰い受けようだなんて、どう考えてもこの爵位が目当てとしか思えない。
それに、彼は確か妻を亡くしたばかりのはずだ。
大商人の後妻……そうか、それが父が私に用意した最上にして最善の地位というわけか。
「先方はお前を見たことがあるらしくてな、とても乗り気なんだ。借金も全て無償で肩代わりすると言ってくれている」
「そう、ですか」
父が事業の失敗で抱えた莫大な借金を、無償で肩代わりするなどあまりにも破格な話だ。
これは私の一存で断ることなどできはしない――反抗する気力など一気に削がれ、私はこの婚姻話に対し首を縦に振った。
その瞬間ふとアルセンの顔が頭をよぎったけれど、貴族にとって婚姻と恋愛は別物だ。
皇后陛下の命を遂行し続けるのにしても、この婚姻は障害にはなりえない。
だから、問題はない。
けれどもう、逃げられない――
絶望にも似た諦念がじわりと胸を満たす。
でも、この時いったい何を諦めたのか……私には分からなかった。
それから一週間後、私は宮殿に割り当てられた自室にアルセンを招いた。
最上のもてなしをとこの日のために皇后陛下の助言も頂き、ティーセットから茶葉、茶菓子から食器に至るまで念入りに選び抜いた。
最後の仕上げに全身鏡の前に立ち身だしなみをチェックする。
大丈夫、悪くない。
テーブルセットも完璧だ。
やがて約束の時間通り案内役に連れられやってきたアルセンは、驚くほど大きな花束を抱えていた。
そして少しはにかみながらそれを私に差し出す。
不覚にも可愛いと思ってしまうのだから、私はアルセンのこの表情にどうも弱いらしい。
「よかったら……受け取ってほしい」
「まあ! なんて綺麗……ありがとうございますアルセン。こんな素敵なプレゼント、頂いたのははじめてです」
「花をもらったのがはじめてなのか?」
「はい、親しい男性など今ままでおりませんでしたから」
「花が好きなら、俺がいくらでも贈ろう」
「お気持ちだけで十分ですよ。あなたの大切な誰かに誤解をさせては大変ですから」
早速花を花瓶に生けながら困ったように笑うと、アルセンはむすっと眉根を寄せた。
「そんな相手はいないから、君が気にすることはない」
「そうですか。あ、どうぞこちらにお掛けになってください」
テラスのテーブルまでアルセンを案内して、席をすすめる。
アルセンは大人しく従い、目の前のテーブルセットに視線を巡らせた。
「凄いな、これは全部君が?」
「実は皇后陛下にもご助言を頂きました。アンドレ公爵閣下はお目が高いでしょうから、手が抜けませんもの」
「気持ちは嬉しいが……生憎審美眼のほうは壊滅的なんだ」
アルセンはおどけたように肩をすくめたけれど、彼の目を見ればそんなことは嘘だと分かる。
ここに取り揃えたのは一流の品ばかりで、彼はそれらの価値を全て正確に見抜いている様子だった。
私はアルセンのカップに紅茶を注ぎ入れ、席に着いた。
「アルセン、今日は私なりにできる精一杯のおもてなしをあなたにさせていただきたいのです」
「どういう意味だ?」
「せっかく友達になっていただけたのですけれど……しばらくお会いできなくなりそうなんです」
「……何故」
私はアルセンから貰った鮮やかな花々に目を移し、無理矢理口角を上げた。
「婚姻が……決まりそうなのです」
はっとアルセンが息を呑む音がハッキリと聞こえた。
「相手は、誰だ」
「カトル・マロンド卿と聞いています」
「カトル・マロンドだと……親子ほども年の離れた男ではないか」
アルセンの片眉が不快げに吊り上がる。
「オブリー家の借金のせいだな」
「ええ、お恥ずかしい話ですが……無償で肩代わりを申し入れられ、父は大層乗り気のようです」
「エレイン、君はそれでいいのか」
「私の感情など、問題にもなりませんから」
そう苦笑まじりに告げた刹那、アルセンが勢いよく立ち上がった。
そして驚いて固まっている私の元へツカツカと歩み寄ると、アルセンは私の手を掴みぎゅっと握った。
「あ、アルセン?」
「……俺でもいいだろう」
「え?」
「オブリー公爵の命なら君は、相手がたとえ俺でも従うんだろ」
「な、なんの冗談ですか?」
「冗談?」
さあっと場の空気が一気に冷える。
これまで見たこともない冷ややかな蒼い瞳に射抜かれ、私は恐怖のあまり身動ぎもできない。
「冗談かどうかは……いずれ分かる」
「そ、それはどういう……」
アルセンはゾッとするような冷笑を浮かべると、私の手の甲に口付けた。
その唇の冷たさを妙に生々しく感じ、ドクリと心臓が鳴った。
彼から醸し出される酷薄な気配が恐ろしく、けれど何故か目が離せない。
「あ……アル、セン……」
唇を震わせながらどうにか名を紡ぐと、アルセンは手の甲に唇を押し当てたまま、目線だけこちらへ向けた。
ひっと息が止まる。
そこにあったのは人心を惑わす魔性のごとき蒼き輝き。
私は瞬きもできないまま、その眼差しに囚われる。
やがてアルセンの手が優しく私の頬を撫でた。
つっと汗が顎から膝に滴り落ちる。
「エレイン……何故そんな目で俺を?」
アルセンは愉しげに瞳を細めた。
今の私は、どんな目でアルセンを見つめているのだろう。
恐怖に怯えているのか、それとも――
蜘蛛の巣に囚われた羽虫のように、この時の私はアルセンの獲物だった。
何が彼の言動を変えてしまったのか、彼はいったい何をするつもりなのか――人の顔色を読むのは得意だと豪語していながら、アルセンの心だけは最後までどうしても分からなかった――
あなたにおすすめの小説
【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
三年分の涙を飲み込んで離婚を決めた私に、今さら愛してると言わないでください
まさき
恋愛
「別れてください」
笑顔で、声を震わせずに、澄花はそう言った。
三年間、夫の隣に立ち続けた。残業続きの夫を待ち、不満を飲み込み、完璧な妻を演じた。幼なじみの麗奈が現れるまでは、それが愛だと信じていた。
嫉妬も、怒りも、とうに泣き尽くしていた。残ったのは、静かな決意だけだった。
離婚届を差し出した翌朝、夫・誠は初めて泣いた。
――遅すぎる。三年分、遅すぎる。
幼なじみに夫を奪われかけた妻が、すべてを手放す覚悟をしたとき、夫はようやく目を覚ます。泣き終わった女の強さと、取り戻せないものの重さを描く、夫婦の崩壊と再生の物語。
【完結】私の事は気にせずに、そのままイチャイチャお続け下さいませ ~私も婚約解消を目指して頑張りますから~
山葵
恋愛
ガルス侯爵家の令嬢である わたくしミモルザには、婚約者がいる。
この国の宰相である父を持つ、リブルート侯爵家嫡男レイライン様。
父同様、優秀…と期待されたが、顔は良いが頭はイマイチだった。
顔が良いから、女性にモテる。
わたくしはと言えば、頭は、まぁ優秀な方になるけれど、顔は中の上位!?
自分に釣り合わないと思っているレイラインは、ミモルザの見ているのを知っていて今日も美しい顔の令嬢とイチャイチャする。
*沢山の方に読んで頂き、ありがとうございます。m(_ _)m
戦場から帰らぬ夫は、隣国の姫君に恋文を送っていました
Mag_Mel
恋愛
しばらく床に臥せていたエルマが久方ぶりに参加した祝宴で、隣国の姫君ルーシアは戦地にいるはずの夫ジェイミーの名を口にした。
「彼から恋文をもらっていますの」。
二年もの間、自分には便りひとつ届かなかったのに?
真実を確かめるため、エルマは姫君の茶会へと足を運ぶ。
そこで待っていたのは「身を引いて欲しい」と別れを迫る、ルーシアの取り巻きたちだった。
※小説家になろう様にも投稿しています
貴方に私は相応しくない【完結】
迷い人
恋愛
私との将来を求める公爵令息エドウィン・フォスター。
彼は初恋の人で学園入学をきっかけに再会を果たした。
天使のような無邪気な笑みで愛を語り。
彼は私の心を踏みにじる。
私は貴方の都合の良い子にはなれません。
私は貴方に相応しい女にはなれません。
おさななじみの次期公爵に「あなたを愛するつもりはない」と言われるままにしたら挙動不審です
ワイちゃん
恋愛
伯爵令嬢セリアは、侯爵に嫁いだ姉にマウントをとられる日々。会えなくなった幼馴染とのあたたかい日々を心に過ごしていた。ある日、婚活のための夜会に参加し、得意のピアノを披露すると、幼馴染と再会し、次の日には公爵の幼馴染に求婚されることに。しかし、幼馴染には「あなたを愛するつもりはない」と言われ、相手の提示するルーティーンをただただこなす日々が始まり……?
呪いを受けて醜くなっても、婚約者は変わらず愛してくれました
しろねこ。
恋愛
婚約者が倒れた。
そんな連絡を受け、ティタンは急いで彼女の元へと向かう。
そこで見たのはあれほどまでに美しかった彼女の変わり果てた姿だ。
全身包帯で覆われ、顔も見えない。
所々見える皮膚は赤や黒といった色をしている。
「なぜこのようなことに…」
愛する人のこのような姿にティタンはただただ悲しむばかりだ。
同名キャラで複数の話を書いています。
作品により立場や地位、性格が多少変わっていますので、アナザーワールド的に読んで頂ければありがたいです。
この作品は少し古く、設定がまだ凝り固まって無い頃のものです。
皆ちょっと性格違いますが、これもこれでいいかなと載せてみます。
短めの話なのですが、重めな愛です。
お楽しみいただければと思います。
小説家になろうさん、カクヨムさんでもアップしてます!
王太子殿下との思い出は、泡雪のように消えていく
木風
恋愛
王太子殿下の生誕を祝う夜会。
侯爵令嬢にとって、それは一生に一度の夢。
震える手で差し出された御手を取り、ほんの数分だけ踊った奇跡。
二度目に誘われたとき、心は淡い期待に揺れる。
けれど、その瞳は一度も自分を映さなかった。
殿下の視線の先にいるのは誰よりも美しい、公爵令嬢。
「ご一緒いただき感謝します。この後も楽しんで」
優しくも残酷なその言葉に、胸の奥で夢が泡雪のように消えていくのを感じた。
※本作は「小説家になろう」「アルファポリス」「エブリスタ」にて同時掲載しております。
表紙イラストは、雪乃さんに描いていただきました。
※イラストは描き下ろし作品です。無断転載・無断使用・AI学習等は一切禁止しております。
©︎泡雪 / 木風 雪乃