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暗闇の追憶
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秒で寝てしまったセシルの寝顔を見下ろし、フレデリックは呆れたように溜め息をつく。
いつもながらとんでもない寝付きの良さだ。
(まあ、無理もないか)
人生すら捧げた最愛の母の不貞を知り、セシルの世界は根底から覆った。
絶対の悪だったダグラス・バートンが実は赤の他人で、今は振り上げた拳の落とし処すら見失っているはずだ。
完全無欠だったあのセシル・バートンの誇りが、ついに地に落ちた。
以前の自分ならざまぁみろと、実に下劣な愉悦に浸れたはずだ。
もっと追い打ちをかけるべく、傷を抉るような罵声を浴びせ追い詰めただろう。
だが……打ちのめされたセシルを見てもちっとも面白くなどない。
むしろフレデリックにすら縋らずにはいられない痛々しさに、思わず抱き締めずには居られなかったほどだ。
更には死ぬまで世間を、セシルを欺き続けた、会ったこともないタニア・バートンに対し怒りの感情が湧く。
タニアが真実を何一つ語らないまま亡くなったのも、セシルのためというより、己の保身のために思えて仕方がない。
(どいつもこいつもクズばかりだな……)
結局セシルも自分も、大人達の私欲に振り回されるだけの哀れな人形に過ぎなかったのだ。
「くだらない……」
これまでこの胸に抱き続けてきた憎悪も嫌悪も時間も人生も何もかも……今のフレデリックには無意味でくだらないものに思えて仕方がない。
先日ヘニングから聞き出し、密かにロイドに裏付けを取ったこと、そして今日のゾフィーの話により、フレデリックには真実の全貌があらかたみえた。
全てはゾフィー・チェスター……あの女の歪んだ盲愛からはじまった出来事だったのだと――
◇◇◇
フレデリックの実母は売れない舞台女優だった。
演技の才はなかったが、その類まれな美貌を見初めたロイドがパトロンとなり、あらゆる方面から援助をした。
そして何の因果か、母とゾフィーは同じ時期に妊娠を果たす。
そして先に生まれたのがフレデリックだった。しかし母は産後まもなく命を落としてしまう。
一方ゾフィーもまた出産を控えていたのだが、折悪く最愛の兄エーリッヒが逝去し、そのショックで流産してしまった。
しかももう子は望めないと診断を下され、どん底に突き落とされたゾフィーは死すら考えた。
そんな彼女に絶望と希望をもたらしたのがタニアの妊娠であり、フレデリックの存在である。
ロイドはゾフィーに全てを打ち明け、フレデリックを二人の実子として迎え入れることを了承させた。
その見返りとしてロイドは異性関係を全て清算し、ゾフィーの手足として生きることを誓った。
たとえ子は望めなくとも、ゾフィーは今や名門ライニガー家のたった一人の直系血族だ。ロイドとしてはどんな犠牲を払ってでも手放したくはなかった。
そして同じ頃、エーリッヒの忘形見の存在を知ったゾフィーは、修道院へ身を隠そうとしていたタニアを屋敷に引き留めた。
当時ゾフィーのみならず国中のレディ達は、戦争英雄であるダグラス・バートンに強い憧れを抱いていた。
だからダグラスの婚約者だったタニアは社交界から疎外されていたのだが、エーリッヒと密かに愛し合う仲となって以後、ゾフィーは二人の仲を応援し、結ばれることを心から願っていた。
しかしエーリッヒの突然の死によりその希望も潰えた。
だが、幸か不幸かエーリッヒはタニアに忘形見を遺してくれていた。
この世でたった一人の、ライニガー家直系の子を。
ゾフィーはタニアと腹の子を全力で守るため、ダグラスと交渉に挑み、タニアとの結婚を条件とした恒久的無償援助契約を取り付けた。
そしてタニアがダグラスの元へ嫁いだ翌年、セシルはこの世に生を受ける。
契約通りダグラスの実子として。
セシルが女として生まれた瞬間から、フレデリックはゾフィーにとってなくてはならない存在となった。
チェスター家の後継者となり、セシルを得るためだけに存在する駒として。
セシルに相応しい伴侶に仕立て上げるため、ゾフィーはフレデリックに最高の講師を与え、最上の教育を施した。
貴族の誇りを何より尊ぶゾフィーにとって、『混ざりもの』であるフレデリックは軽侮すべき穢れ以外の何物でもなかったが、ゾフィー自身には子を望むことができない。
悔しく、歯痒く、夫の不貞の証に他ならないフレデリックが憎くて堪らない心情も今なら理解はできるが、浴びせられた容赦ない罵倒は、幼いフレデリックの心を切り刻む刃に等しかった。
――セシルが女に生まれなければお前に存在価値などなかった。せいぜい男に生まれたことに感謝なさい。
――卑しいお前が不相応な座を得られる幸運も、全てはセシルが居たからこそよ。
――私の子さえ生きていたら、こんな穢らわしい混ざり物など捨て置いていられたのに……悔しい、口惜しい……
卑しい、穢らわしい、下劣な庶子風情が、身の程を弁えろ……
セシル、セシル、セシル――
物心ついた時から呪詛のように刷り込まれた純血貴族への劣等感。
そして無価値なゴミが唯一価値を示せる完璧な女、セシル・バートン。
フレデリックの中で会ったこともない『セシル』という女への嫉妬と憎悪がヘドロのように堆積してゆく。
フレデリックにとってセシルとは、出会う前から憎むべき悪以外の何物でもなかった。
そうして泥水を這うような日々を過ごす中、フレデリックが九歳になった年に、初めてセシル・バートンとの対面を果たす。
「はじめまして、チェスター公子様。セシル・バートンと申します。お会いできて光栄ですわ」
セシルは八歳の女児とは思えぬ完璧なカーテシーでフレデリックを迎えた。
辺境暮らしを感じさせないほど身なりも、身のこなしも優雅で洗練されており、そのことが無性に癇に障ったことをよく覚えている。
そして何より、そこにいるだけで辺りが光り輝いて見えるほど、セシル・バートンは並外れて美しかった。
そんなセシルを、ゾフィーはこれまで見たこともない、隠しきれない歓喜と恍惚の表情で見つめていた。
まるで崇拝する神を前にした信徒の如く――
その瞳を見た瞬間、フレデリックの中で何かが音を立てて崩れ落ち、沸々と腹の底から激しい怒りが湧き上がった。
くだらない……なんてくだらないのだ。
こんな女一人を得るためだけに、何故フレデリックが貶められ、屈辱に耐え、歪められた運命に従属せねばならないのか。
まるで罪を負った咎人のように蔑まれながら。
生まれたことが罪だというなら、その咎は両親が負うべきもの。
自分は強いられる理不尽に怒るべきだったのだ。
たとえ片親が平民だろうが、フレデリックの父は間違いなくロイド・チェスターだ。
その揺るぎない血縁故、いずれ当主の座はフレデリックのものになる。
その時までだ……その時までじっと耐えればいい。
全てを掌握した暁には、ゾフィーのくだらない思惑もチェスター家も、悉く捻り潰してぶち壊してやる。
誰がセシル・バートンなど娶るものか。
むしろ向こうから逃げ出したくなるよう仕向けてやればいい。
女など冷たく突き放せばメソメソ泣いて離れていくもの――そう、高を括っていたのだが……
セシルという女はあまりにもしつこく手強かった。
フレデリックに媚びろとでも厳命されているのか、無機質な目で愛を語り、どれだけ侮辱しようがベタベタまとわりついて離れない。
婚約破棄を迫れば「捨てないで」と縋り付き、シクシクと嘘泣きまでする始末。
少しもフレデリックのことなど好きではないくせに。
そんなセシルに会うたび、怒りと嫌悪と憎悪が果てしなく膨れ上がってゆく。
理想の花嫁? そんな白々しい称号などフレデリックにとってはクソ喰らえだ。
ただひたすら捨てたい、逃れたい……こんな鬱陶しい女から一日も早く――
ゾフィーの思惑に抗いたいだけではなく、いつしかそれはフレデリック自身の願望となっていった。
だが――
そんなセシルがある日突然、婚約破棄同意書を持って現れたのだ。
これまでとは打って変わって、フレデリックを拒絶する明確な意志と共に。
フレデリックはこの時、ずっとこんなセシルが見たかったのだと気付かされた。
完璧とは程遠い醜い感情を曝け出し、卑しいフレデリックと同じ場所まで堕ちてくる無様な姿を。
初めて向けられた嫌悪の眼差しは実に心地よかった。
だから捨てたくて堪らなかった女とのワンナイトに応じる気になったのかもしれない。
その結果良過ぎた相性からズブズブに嵌り、抜け出せなくなるとは大誤算だったが。
こんなはずではなかった。
薄っぺらな十年より、セシルと過ごした濃密なこの一月はあまりに多くのことを変えてしまった。
だからだろうか……セシルの言動に苛立つあまり、自らの出自まで打ち明けてしまったのは。
だが……セシルは予想に反し軽侮するどころか、それがどうしたと心底不思議がる始末だ。
血筋などで人の価値は計れない――そう言われた気がした。
あまりにも当然のことのように、フレデリックが最も求めていた言葉を。
ああ……本当に愚かだった……
ゾフィーから刷り込まれた忌まわしい呪いに雁字搦めに囚われ、卑屈な劣等感を拗らせた挙げ句、セシルを嫌悪し憎悪することでしか自我を保てなかったこれまでの自分。
もはや出自など関係ない、セシルとフレデリックとではそもそもの器が違ったのだ。
フレデリックがセシルを捨てる?
いや、セシルは自身で築き上げた一切に未練がない。
むしろ捨てられる側は、はじめからフレデリックのほうだったのだ――
「セシル……」
認めたくなどない、だが薄々勘付いてはいた。
溺れたのはその身体だけではなかったという事実に。
フレデリックはセシルの顎を掬い上げ、親指の腹で赤い唇をなぞる。
この唇がどれだけ柔らかく甘いか、フレデリックは既に嫌というほど知っている。
瑞々しい果実に齧り付くようその唇を喰むと、甘すぎる陶酔がジンと脳を痺れさせた。
離さない、離せるわけがない。
今更友達になろう?
馬鹿を言うな、冗談ではない。
フレデリックがセシルに抱く感情は、そんな単純で生易しいものではないのだ。
「お前なんて、嫌いだ……」
首筋に口付け痕がつくほど強く吸い上げると、セシルが小さく呻きながらフレデリックの首根にしがみついてきた。
「嫌いだって言ってんだろ……勝手に甘えてくんな……」
言葉とは裏腹に、フレデリックの腕はセシルの背に回り、華奢な身体を強く抱き締める。
セシルを手放す選択肢だけはとうの昔に潰えた。
三月後、名実ともにフレデリックのものとなるセシル。
長年胸に抱き続けた恨み憎しみは、生涯消えない傷痕となってフレデリックを苛むだろう。
だが、構わない。
フレデリックは狭量だが、一度懐に入れたものは決して手放さない。
たとえ逃げ出そうと地の果てまでも追いかけてやる。
そもそも先にフレデリックの領域へ踏み込んできたのはセシルのほうなのだから。
「帝国一の淑女なら、最後まで責任は果たさないとな?」
ククッと喉を鳴らしながらフレデリックは眠るセシルの肌を甘く齧る。
寝込みを襲い欲を吐き出しても、もはやフレデリックは本当の意味で満たされない。
だから早く起きろと焦れながら、滾りはじめた下肢を擦り付ける。
心ごと繋がったような、あの充足に満ちた深い交わりに思いを馳せながら――
いつもながらとんでもない寝付きの良さだ。
(まあ、無理もないか)
人生すら捧げた最愛の母の不貞を知り、セシルの世界は根底から覆った。
絶対の悪だったダグラス・バートンが実は赤の他人で、今は振り上げた拳の落とし処すら見失っているはずだ。
完全無欠だったあのセシル・バートンの誇りが、ついに地に落ちた。
以前の自分ならざまぁみろと、実に下劣な愉悦に浸れたはずだ。
もっと追い打ちをかけるべく、傷を抉るような罵声を浴びせ追い詰めただろう。
だが……打ちのめされたセシルを見てもちっとも面白くなどない。
むしろフレデリックにすら縋らずにはいられない痛々しさに、思わず抱き締めずには居られなかったほどだ。
更には死ぬまで世間を、セシルを欺き続けた、会ったこともないタニア・バートンに対し怒りの感情が湧く。
タニアが真実を何一つ語らないまま亡くなったのも、セシルのためというより、己の保身のために思えて仕方がない。
(どいつもこいつもクズばかりだな……)
結局セシルも自分も、大人達の私欲に振り回されるだけの哀れな人形に過ぎなかったのだ。
「くだらない……」
これまでこの胸に抱き続けてきた憎悪も嫌悪も時間も人生も何もかも……今のフレデリックには無意味でくだらないものに思えて仕方がない。
先日ヘニングから聞き出し、密かにロイドに裏付けを取ったこと、そして今日のゾフィーの話により、フレデリックには真実の全貌があらかたみえた。
全てはゾフィー・チェスター……あの女の歪んだ盲愛からはじまった出来事だったのだと――
◇◇◇
フレデリックの実母は売れない舞台女優だった。
演技の才はなかったが、その類まれな美貌を見初めたロイドがパトロンとなり、あらゆる方面から援助をした。
そして何の因果か、母とゾフィーは同じ時期に妊娠を果たす。
そして先に生まれたのがフレデリックだった。しかし母は産後まもなく命を落としてしまう。
一方ゾフィーもまた出産を控えていたのだが、折悪く最愛の兄エーリッヒが逝去し、そのショックで流産してしまった。
しかももう子は望めないと診断を下され、どん底に突き落とされたゾフィーは死すら考えた。
そんな彼女に絶望と希望をもたらしたのがタニアの妊娠であり、フレデリックの存在である。
ロイドはゾフィーに全てを打ち明け、フレデリックを二人の実子として迎え入れることを了承させた。
その見返りとしてロイドは異性関係を全て清算し、ゾフィーの手足として生きることを誓った。
たとえ子は望めなくとも、ゾフィーは今や名門ライニガー家のたった一人の直系血族だ。ロイドとしてはどんな犠牲を払ってでも手放したくはなかった。
そして同じ頃、エーリッヒの忘形見の存在を知ったゾフィーは、修道院へ身を隠そうとしていたタニアを屋敷に引き留めた。
当時ゾフィーのみならず国中のレディ達は、戦争英雄であるダグラス・バートンに強い憧れを抱いていた。
だからダグラスの婚約者だったタニアは社交界から疎外されていたのだが、エーリッヒと密かに愛し合う仲となって以後、ゾフィーは二人の仲を応援し、結ばれることを心から願っていた。
しかしエーリッヒの突然の死によりその希望も潰えた。
だが、幸か不幸かエーリッヒはタニアに忘形見を遺してくれていた。
この世でたった一人の、ライニガー家直系の子を。
ゾフィーはタニアと腹の子を全力で守るため、ダグラスと交渉に挑み、タニアとの結婚を条件とした恒久的無償援助契約を取り付けた。
そしてタニアがダグラスの元へ嫁いだ翌年、セシルはこの世に生を受ける。
契約通りダグラスの実子として。
セシルが女として生まれた瞬間から、フレデリックはゾフィーにとってなくてはならない存在となった。
チェスター家の後継者となり、セシルを得るためだけに存在する駒として。
セシルに相応しい伴侶に仕立て上げるため、ゾフィーはフレデリックに最高の講師を与え、最上の教育を施した。
貴族の誇りを何より尊ぶゾフィーにとって、『混ざりもの』であるフレデリックは軽侮すべき穢れ以外の何物でもなかったが、ゾフィー自身には子を望むことができない。
悔しく、歯痒く、夫の不貞の証に他ならないフレデリックが憎くて堪らない心情も今なら理解はできるが、浴びせられた容赦ない罵倒は、幼いフレデリックの心を切り刻む刃に等しかった。
――セシルが女に生まれなければお前に存在価値などなかった。せいぜい男に生まれたことに感謝なさい。
――卑しいお前が不相応な座を得られる幸運も、全てはセシルが居たからこそよ。
――私の子さえ生きていたら、こんな穢らわしい混ざり物など捨て置いていられたのに……悔しい、口惜しい……
卑しい、穢らわしい、下劣な庶子風情が、身の程を弁えろ……
セシル、セシル、セシル――
物心ついた時から呪詛のように刷り込まれた純血貴族への劣等感。
そして無価値なゴミが唯一価値を示せる完璧な女、セシル・バートン。
フレデリックの中で会ったこともない『セシル』という女への嫉妬と憎悪がヘドロのように堆積してゆく。
フレデリックにとってセシルとは、出会う前から憎むべき悪以外の何物でもなかった。
そうして泥水を這うような日々を過ごす中、フレデリックが九歳になった年に、初めてセシル・バートンとの対面を果たす。
「はじめまして、チェスター公子様。セシル・バートンと申します。お会いできて光栄ですわ」
セシルは八歳の女児とは思えぬ完璧なカーテシーでフレデリックを迎えた。
辺境暮らしを感じさせないほど身なりも、身のこなしも優雅で洗練されており、そのことが無性に癇に障ったことをよく覚えている。
そして何より、そこにいるだけで辺りが光り輝いて見えるほど、セシル・バートンは並外れて美しかった。
そんなセシルを、ゾフィーはこれまで見たこともない、隠しきれない歓喜と恍惚の表情で見つめていた。
まるで崇拝する神を前にした信徒の如く――
その瞳を見た瞬間、フレデリックの中で何かが音を立てて崩れ落ち、沸々と腹の底から激しい怒りが湧き上がった。
くだらない……なんてくだらないのだ。
こんな女一人を得るためだけに、何故フレデリックが貶められ、屈辱に耐え、歪められた運命に従属せねばならないのか。
まるで罪を負った咎人のように蔑まれながら。
生まれたことが罪だというなら、その咎は両親が負うべきもの。
自分は強いられる理不尽に怒るべきだったのだ。
たとえ片親が平民だろうが、フレデリックの父は間違いなくロイド・チェスターだ。
その揺るぎない血縁故、いずれ当主の座はフレデリックのものになる。
その時までだ……その時までじっと耐えればいい。
全てを掌握した暁には、ゾフィーのくだらない思惑もチェスター家も、悉く捻り潰してぶち壊してやる。
誰がセシル・バートンなど娶るものか。
むしろ向こうから逃げ出したくなるよう仕向けてやればいい。
女など冷たく突き放せばメソメソ泣いて離れていくもの――そう、高を括っていたのだが……
セシルという女はあまりにもしつこく手強かった。
フレデリックに媚びろとでも厳命されているのか、無機質な目で愛を語り、どれだけ侮辱しようがベタベタまとわりついて離れない。
婚約破棄を迫れば「捨てないで」と縋り付き、シクシクと嘘泣きまでする始末。
少しもフレデリックのことなど好きではないくせに。
そんなセシルに会うたび、怒りと嫌悪と憎悪が果てしなく膨れ上がってゆく。
理想の花嫁? そんな白々しい称号などフレデリックにとってはクソ喰らえだ。
ただひたすら捨てたい、逃れたい……こんな鬱陶しい女から一日も早く――
ゾフィーの思惑に抗いたいだけではなく、いつしかそれはフレデリック自身の願望となっていった。
だが――
そんなセシルがある日突然、婚約破棄同意書を持って現れたのだ。
これまでとは打って変わって、フレデリックを拒絶する明確な意志と共に。
フレデリックはこの時、ずっとこんなセシルが見たかったのだと気付かされた。
完璧とは程遠い醜い感情を曝け出し、卑しいフレデリックと同じ場所まで堕ちてくる無様な姿を。
初めて向けられた嫌悪の眼差しは実に心地よかった。
だから捨てたくて堪らなかった女とのワンナイトに応じる気になったのかもしれない。
その結果良過ぎた相性からズブズブに嵌り、抜け出せなくなるとは大誤算だったが。
こんなはずではなかった。
薄っぺらな十年より、セシルと過ごした濃密なこの一月はあまりに多くのことを変えてしまった。
だからだろうか……セシルの言動に苛立つあまり、自らの出自まで打ち明けてしまったのは。
だが……セシルは予想に反し軽侮するどころか、それがどうしたと心底不思議がる始末だ。
血筋などで人の価値は計れない――そう言われた気がした。
あまりにも当然のことのように、フレデリックが最も求めていた言葉を。
ああ……本当に愚かだった……
ゾフィーから刷り込まれた忌まわしい呪いに雁字搦めに囚われ、卑屈な劣等感を拗らせた挙げ句、セシルを嫌悪し憎悪することでしか自我を保てなかったこれまでの自分。
もはや出自など関係ない、セシルとフレデリックとではそもそもの器が違ったのだ。
フレデリックがセシルを捨てる?
いや、セシルは自身で築き上げた一切に未練がない。
むしろ捨てられる側は、はじめからフレデリックのほうだったのだ――
「セシル……」
認めたくなどない、だが薄々勘付いてはいた。
溺れたのはその身体だけではなかったという事実に。
フレデリックはセシルの顎を掬い上げ、親指の腹で赤い唇をなぞる。
この唇がどれだけ柔らかく甘いか、フレデリックは既に嫌というほど知っている。
瑞々しい果実に齧り付くようその唇を喰むと、甘すぎる陶酔がジンと脳を痺れさせた。
離さない、離せるわけがない。
今更友達になろう?
馬鹿を言うな、冗談ではない。
フレデリックがセシルに抱く感情は、そんな単純で生易しいものではないのだ。
「お前なんて、嫌いだ……」
首筋に口付け痕がつくほど強く吸い上げると、セシルが小さく呻きながらフレデリックの首根にしがみついてきた。
「嫌いだって言ってんだろ……勝手に甘えてくんな……」
言葉とは裏腹に、フレデリックの腕はセシルの背に回り、華奢な身体を強く抱き締める。
セシルを手放す選択肢だけはとうの昔に潰えた。
三月後、名実ともにフレデリックのものとなるセシル。
長年胸に抱き続けた恨み憎しみは、生涯消えない傷痕となってフレデリックを苛むだろう。
だが、構わない。
フレデリックは狭量だが、一度懐に入れたものは決して手放さない。
たとえ逃げ出そうと地の果てまでも追いかけてやる。
そもそも先にフレデリックの領域へ踏み込んできたのはセシルのほうなのだから。
「帝国一の淑女なら、最後まで責任は果たさないとな?」
ククッと喉を鳴らしながらフレデリックは眠るセシルの肌を甘く齧る。
寝込みを襲い欲を吐き出しても、もはやフレデリックは本当の意味で満たされない。
だから早く起きろと焦れながら、滾りはじめた下肢を擦り付ける。
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そして、新たな地で手にした 「愛される結婚」。
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