魔性の大公の甘く淫らな執愛の檻に囚われて

アマイ

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 その日屋敷へ戻れたのは深夜のことだった。

「お帰りなさいませ、お嬢様」

 馬車を降りるなり、ベンがソワソワと落ち着かない様子で待ち構えていた。

「ただいま、何かあったの?」
「クロード様より数通お手紙が届いております。至急返信を頂きたいとのことです」

 そこでハッとなる。
 連絡をすると約束をしておきながら、今の今まですっかり忘れてしまっていた。
 私は苦々しい気持ちで手紙を受け取り、自室ではなく執務室へ足を向けた。

 クロードからの手紙は全部で三通。
 いずれも私の安否を気遣うものだったけれど、三通目は書き殴ったように文字が乱れていた。
 クロードがどれほど私を心配してくれていたのか……その思いが痛いほど伝わってきて申し訳なさに目頭が熱くなった。

「ごめんなさい……」

 クロードが私を諦めない限り、私は彼に対し誠実ではいられない。
 ごめんなさい、ごめんなさい、大切だったクロード……
 胸の奥から込み上げる熱い塊を飲み込んでペンを握り、感謝の気持ちと、詫びと、嘘を書き連ねクロードに送った。
 ――もう、今日は何も考えたくない。
 ゆっくり湯船に浸かりベッドに潜り込んだところで、レミがホットミルクを持ってきてくれた。

「ありがとう、ちょうど欲しいと思っていたの」

 礼を述べながら受け取ると、レミは労わるように微笑んだ。

「疲れた顔をされていましたから……それにしても大公殿下は本当に素晴らしいドレスを贈って下さいましたね。誂えたようにお嬢様にピッタリですし」
「ええ、サイズをお教えした覚えはないのだけれど……」

 まさか閨で見たり触れたりした感覚だけであのドレスを誂えたというのだろうか。
 そう思い至ったところ、恐らくレミも同じ推測に辿り着いたのだろう。
 二人の間にぎこちない空気が流れた。

「あ! わたくしとしたことが……まだやり残した仕事がありますので一旦戻りますね」
「え、ええ……ありがとうレミ、助かったわ」

 レミは微笑みながら「いいえ」と首を振るなり、そそくさと部屋を出ていった。
 落ち着かない気持ちのままホットミルクを口に含むと、芳醇な蜂蜜の香りがふわりと鼻に抜けた。

「美味しい」

 昔から元気がない時、レミが必ず淹れてくれたものだ。
 これを渡されたということはつまり、今の私はレミから見ても中々酷い有様なのだろう。
 心配をかけて申し訳ない気持ちと、気遣ってくれる優しさとにじわりと胸の奥が温もる。
 幼い頃からずっとそばに居てくれたレミ。

 これからしようとしている全てのことを打ち明けた時、何があっても最後まで信じ見守ると彼女は言ってくれた。
 ルアとの契約も最長で一年だ。
 強い緊張と恐れを抱かせる人ではあるけれど、決して乱暴なことはしないし、身体だけの関係ならばきっと最高の相手に違いない。

 ただし、愛や恋などと湿った感情で繋がるには、ルアには何かが絶対的に欠けている。
 それに気付かず沼に嵌まってしまった令嬢達は、言い知れぬ地獄の苦しみを味わうことだろう。
 圧倒的な華、美貌、身に纏う退廃的で危険な香り――存在だけで罪作りな人だとつくづく思う。
 ゴクリとホットミルクを飲み干すと、底に蜂蜜が溜まっていたようで強い甘味が口の中一杯に広がる。

「う……甘い……」

 眉根を寄せながらサイドテーブルにカップを置き、私は再びベッドに潜り込んだ。すると体がポカポカと温もり、すぐに心地よい微睡みが私を包み込む。
 この日眠りに落ちる寸前眼裏に浮かんだのは、全てを燃やし尽くす業火のような深紅の輝きだった。




「お嬢様、起きてください」
「ん……?」

 翌日、昼過ぎまで寝過ごした私を揺り起こしたのはレミだった。

「ふぁ……レミ、おはよう……どうかしたの?」

 眠い目を擦りながらのそのそ起き上がると、レミは困り顔で洗面器を差し出してきた。

「クロード坊っちゃまがお越しになっています」
「え……約束はしてないはずだけど」
「ええ、お断りしてもお嬢様に会えるまでは帰らないと頑として譲らず……わたくしどもでは埒があきません」

 なるほどと合点がゆく。
 クロードは一見人当たりが柔らかいものの、その実意志が強く頑固だ。
 幼い頃から彼を知るレミにはそのことがよく分かっている。
 私に会えるまで、彼が決して帰らないだろうことを。

「帰国早々困った人ね。分かったわ、すぐに支度しましょう」

 私は薔薇の花弁が浮かんだ洗面器に勢いよく顔を突っ込んだ。キンと冷えた水の冷たさに、頭の芯が急速に冴え渡っていく。
 手渡されたタオルで顔を拭うと、レミはテキパキと侍女達に指示出しをはじめた。
 私はあまりお洒落には明るくないので、こんな時センスの良い侍女達が本当に頼もしい。

「さあお嬢様、今日も皇都一の美女に仕上げて差し上げましょうね」

 ブラシを片手ににっこり微笑むレミに、自然と体が後退る。

「か、簡単でいいのよ。クロードと面会するだけなんだから」
「手の抜き方を存じ上げませんので、わたくしは常に全力です」
「待ってレミ、早くしないとクロードが痺れを切らして何をするか分からないわよ」

 私の必死の抵抗にレミはふむ、と頷いた。

「それもそうですね……仕方ありません、お嬢様は元の素材が美しいですから薄化粧でも問題ありませんね」
「そ、そう? それじゃ軽く準備をお願い。軽くよ軽く、ね?」

 レミはクスクス笑いながら私の髪を梳かしはじめた。
 夜会の時などは化粧だけで二、三時間もかけられるのだ。頑張ってくれる侍女達には申し訳ないけれど、そんなことに時間をかけるくらいなら溜まった書類を片付けたり、読書に耽りたいのが本音だ。

 レミはそんな私の心をよく理解しつつも、私を飾り立てるのが好きで堪らないらしい。
 いつも身支度の際は必要以上に念入りに仕上げてくれる。
 正直なところクロードに会う程度ならスッピンでも構わないのだけれど。

「本当はもっと手を加えたいところですが……まあいいでしょう」

 一通りヘアメイクが整ったところで、レミが不服そうに完成を告げた。
 私から見れば十分すぎる出来だけれど、レミにはまだまだもの足りないらしい。

「ありがとう! こんな短時間でここまで綺麗にしてくれるなんて流石レミだわ! それじゃ行ってくるわね!」

 レミに反論の隙を与えず、私はそそくさと部屋を後にした。
 背後で聞こえた盛大な溜め息に聞こえないふりをしながら――




 てっきり応接室にいるものと思って飛び込んだら、そこはもぬけの殻で無駄足を踏んでしまった。
 何処にいるのか確認もせず来てしまったことを今更後悔する。
 あと思い当たる場所といえば……ハッとして庭園に足を向ける。

「クロード!」

 案の定、思い描いた大樹の根本にクロードは寝転んでいた。
 具合でも悪いのかと傍らに膝を突き顔を覗き込むと、クロードは器用に片目だけをパチリと開いた。

「昔、よくここで一緒に昼寝したよな」
「もう! ビックリさせないで!」

 むっと膨れる私の頬をクロードは軽く摘んだ。

「クロード?」
「連絡も寄越さず心配しただろ、怒りたいのは僕のほうだ」

 真剣な眼差しにズキリと胸の奥が鈍く痛む。

「……ごめんなさい」
「まあいい、無事は確認できたし。今日少しくらいは時間取れるだろう?」

 私は心を鬼にして首を横に振る。

「いいえ、仕事が溜まっているし暫くプライベートに時間を割く余裕はないわ。それに……こうして好き勝手に来られても困る」

 クロードはムクリと起き上がり、私の腰を抱き寄せた。
 振り解こうと身を捩って胸を叩くも、クロードは力で捩じ伏せ私を抱きすくめた。
 耳朶に唇が触れた瞬間驚愕に体が竦み上がる。

「やめて、クロード!」
「クロエ、香水変えた?」
「知らないわ、身の回りのことは全部侍女達に任せているから。もういいでしょう、離して!」

 早く離れなければと焦るあまり振り回した手が、意図せずクロードの頬を打ってしまった。

「あ……」

 呆然としながら震える手でクロードの頬に触れる。赤くなっている。
 私は大切なクロードになんてことをしてしまったのか――

「ごめ……ごめんなさいクロード……でももう……お願いだから私に関わらないで……」

 溢れる涙もそのままに、私はクロードに心から詫び懇願した。
 クロードはそんな私を宥めるように抱きしめる。

「君は何も悪くないから謝るな。だが君の願いは叶えられない。また来るよ、クロエ」
「ダメよ、クロード!」
「クロエ……君の気持ちは誰よりも分かっているつもりだ。だから僕は僕で好きにさせてもらう」

 青い瞳を切なげに細めると、クロードは私の頭を優しく撫で去っていった。
 その背が見えなくなるまで見送って、私はクロードが寝転がっていた芝生に横たわり目を閉じる。
 庭園の隅に面したこの場所は二人の秘密基地で、よく昼寝をした場所でもあった。

 優しくも懐かしい思い出に再度涙が溢れる。
 立ち止まっている時間はない。
 前だけを見つめ進みたいのに、未だ癒えぬ痛みが足枷となって私を縛り続ける。
 クロード……
 今のあなたは私の枷となるだけ。
 会っても互いを苦しめるだけだと分かっているのに、あなたは私を諦める気がないという。

 どうしたらいいのだろう。
 不甲斐なくも断ち切れない感傷がクロードに付け入る隙を与えてしまっていることは確かだ。
 そこでふとルアの顔が脳裏に浮かぶ。
 彼との仲を見せつければ、クロードは失望して去っていくだろうか。

 いや、ダメだ。
 これ以上ルアに迷惑をかけることなどできない。
 当主となり一人前になったつもりでいても、自力で問題一つ解決できないだなんて――

「ふっ……」

 自嘲の念に苦い笑いが込み上げる。
 私は淡く滲む空をぼんやり眺めながら、爽やかな風を胸いっぱいに吸い込んだ。


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