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ルアお従兄さま大好きよ!
大人になっても、ずっとずっと側にいて――
幼い頃クロエに抱いた情は、たったひとつ俺の中に残った人らしき感情。
クロエが力を発現させたあの日、俺はそれまでとは全く異質の存在と成り果てた。
その姿を目にしたアリアは、「可哀想に」と涙を零していた。
――互いを思う心が、あなた達の秘めたる力を呼び覚ましたのね……
――ルーク、これからあなたが歩むのは茨の道。
――私は……母としてその隣にクロエが在ることを望まない。
――勝手なことを言ってごめんなさいルーク……クロエの心身が成熟するまで……成人するまででいい、あなたはこの子に関わらず、皇家からの関心を逸らしてほしいの。
――オルラドの異能を扱えないこの子は、きっと酷く冷遇されるはずよ。
――それでも私は……何よりもクロエを守りたい……だからこの命と引き換えにクロエの記憶と力を封じるわ。
――クロエは私のことも、あなたのことも忘れてしまうでしょう。
――けれど……それでもあなたが心からクロエを望むのなら……私が課す試練を受け入れ乗り越えて欲しい。
――あなた達の絆が本物なら、クロエは必ずあなたを求めるはずだから……
――その時は、どうかクロエのことをお願いね、ルーク……
この時、アリアと俺は魂の誓約を交わした。
クロエが成人を果たすまで皇家の関心を逸らし、決してこちらからは関わらず、クロエが自ら望まない限り封印は解かないという約束事を。
俺はアリアが命をかけたその誓約を律儀に守り通した。
実に煩わしいものだが、今の俺は魂を懸けるほどの約定に抗うことができない。そのことを何故かアリアは正確に把握し、俺にクロエの後を委ねた。
アリア・オルラド……心の底を見通すような不思議な目をした女だった。
彼女はベリア家の秘密を、いったいどこまで認知していたのだろうか。
数百年の昔、ある一人の男が魔族と交わり子を成した。
その行為は神の怒りに触れ、魂に穢れを負い生まれたのがベリア家の始祖だ。
ベリア家の人間が残虐な性状と破綻した倫理観を持つのはそのせいだといわれている。
だからベリア家は常に帝国の裏方に徹し、暗部を掌握し続けてきた。
その力は皇家をも凌駕するほど強大なものだが、怠惰で群れを嫌い、権力に然程も興味のないベリア家は、皇家にとってこの上もなく都合のいい番犬であり続けた。
そんなベリア家の特徴は赤い瞳にあるが、赤みが強いほど穢れが濃いとされる。
穢れとはすなわち魔の種子。
負の感情を餌に育つ種は、やがて身体中に根を張り芽吹くその時、魔の血が覚醒すると一族内では伝えられていた。
その果てに得られる力は人智を超えたものであり、ベリア家の人間が躍起になって切望するものでもあった。
しかし、始祖以来覚醒を遂げられたものは一人も存在しない。
前大公であった父は、子の中で最も赤い瞳を持つ俺を、あらゆる方法で拷問し虐待した。
痛みとは手っ取り早く確実に負の感情に結びつく手段だ。
だが、俺には生まれつき痛覚というものが備わっていなかった。
冷えた心は、どれだけ痛めつけられ辱められようと、常に無風のままだ。
むしろ無駄な努力を嘲笑う余裕すらあったほどだ。
あの女も、父が俺への虐待用に囲っていた加虐愛者の一人だ。
そんなおかしな人間達がどれだけ大公家へ出入りしようと、母は盲目的に父を愛していたし、俺への加害行為も教育の一環と父が言いくるめれば、簡単に信じ黙認した。
母も含め、ベリア家はつくづく狂った一族だ。
そんなある日、父が原因不明の病に倒れた。
父を猛愛していた母は皇帝に泣いて縋り、皇族のみに許されていたアリア・オルラドの力を得ることに成功した。
そうしてアリアと共にやってきたのが娘のクロエだ。
緩く波打つ白銀の髪にオルラドの特徴である紫の瞳を持つ、それは愛らしくも美しい少女だった。
気まぐれに優しく微笑み手を差し伸べれば、容易く懐いて子犬のようにじゃれてくる。
可愛い可愛いクロエ。
はじめは愛玩動物を愛でる程度の気持ちだったように思う。
くるくると表情を変える様は見ていて飽きることはなく、天真爛漫さがこの上もなく愛らしい。
だが……可愛がれば可愛がるほど俺への好意は大きく膨れ上がり、真っ直ぐにぶつけられる曇りなき愛情を眩しく感じはじめたのはいつのことだったか。
『ルアお従兄様大好きよ!』
毎日何十回と飽きもせず、洗脳のように繰り返される全き好意。
初めて聞く言葉でもない。
しかし、クロエの口から紡がれる『好き』という言葉は、いつしか俺の心を厭わしいほど揺るがしはじめる。
クロエは不思議な子だ。
他人など煩わしいばかりのこの俺が、嫌がりもせず、いつの間にかまとわりつくことを許してしまっている。
存在への興味と、俺の心を惑わせることへの嫌悪――それは不快でありながらひどく心躍る感情だった。
この相反する感情の芽生えは、俺の生に彩りを与え、見える世界が著しく変わりはじめた瞬間でもあった。
あれはクロエとの日々も三月目に差し掛かった頃のことだ。
父の容態が少しずつ好転し、もうすぐ帰ることになるかもしれないとアリアから告げられた日、クロエは目に見えて沈んでいた。
オルラド家では厳しい後継者教育を受けているというクロエ。
これほど帰ることを嫌がるとは、彼女にとってよほど辛いものなのだろう。
慰める俺に、ポツリとクロエが零した。
「ずっとお従兄様の側にいられたらいいのに……」
「クロエ……」
ずっとクロエと共にいられたなら――それは俺こそが望む未来。
だが……ごめんねクロエ。
君のような純粋無垢さが俺には皆無だ。
壊れ穢れた俺の世界に巣食うものは、どす黒い思慕と悍ましいほどの執着。
この頃には俺も自身の心を正確に把握し受け入れていた。
クロエ……君へと向かうこの感情は、なんと醜くも甘美なのだろう。
俺はね、君の世界を、全てを滅茶苦茶に壊してしまいたいくらい愛しているんだ。
いつかその瞳が俺だけを映すようになったなら……考えただけで歓喜のあまり身の内が震える思いがする。
こんな汚い俺でも、君は好きだと言ってくれる?
「約束しようクロエ、君が望んでも望まなくても……俺は必ず君の側にいるよ」
「お従兄様……」
俺を見上げるつぶらな瞳がみるみる潤んで、眦に宝石のような雫を浮かべる。
そんな顔も君はなんて愛らしいのだろう。
「本当? 約束よ? 破ったらひどいことするんだからね!」
「ひどいことってどんなこと?」
「えと……それはね、その……んー……と、とにかくお従兄様が泣いてしまうくらいひどいことなのよ!」
ああ、本当に可愛いねクロエは。
無垢な君にはひどいことなんてひとつも思いもつかないのだろう。
そんな愚かな無邪気さすら、君ならば愛おしくて仕方がない。
俺はほんの子供の口約束だなんて流してしまわないよ。
君から囚われに来たんだ……決してその手を離さないと約束するよ、クロエ――
父は好転するとのアリアの見立ては外れ、容態が一進一退を繰り返す中、ここでの生活も半年が過ぎようとしていた。
オルラド母娘の滞在中は父が控えさせていた俺への加害行為だったが、ここに来て父は痺れを切らし、女に再開するよう命を下した。
昼夜問わず俺の部屋へやってくるクロエに、万が一にもそんな姿を見せてはいけない。
だから夜に部屋を出てはいけないと釘を刺したのに、クロエはその約束を破ったのだ――
クロエの異能が発現したその瞬間は、今も脳裏に濃く焼き付いている。
白銀の髪が大きく宙を舞い、命を燃やし尽くすような真白き輝きが小さな全身から放たれ、俺の体に慈雨の如く降り注いだ。
肉を断つほどの傷跡が瞬時に消え失せ、俺を戒める手枷すら砂のように脆くも崩れ去った。
この時の感情は、とても言葉では言い表せられない。
心身の成熟と共に発現するというオルラド家の異能。
まだ幼いクロエは、起こりえない奇跡を起こした。
ひとえに俺を救いたい、その一心のみで。
君がどれだけ俺を思い愛しているのか……それを魂の奥底に刻みつけられた――そんな感覚が俺の心をたっぷりと満たし、ゾクゾクと身の内から湧き上がる震えが止まらなかった。
愚かで愛おしい俺のクロエ。
この世で最も醜いベリアの血を継ぐ俺を愛した可哀想なクロエ。
君の愛はなんと憎らしくも美しいのだろう――
そのとき、俺の目から二粒の涙が零れ落ち、やがて赤い結晶となって掌に零れ落ちた。
そのうちの一粒がクロエの元へ飛翔し、そのまま左胸に吸い込まれるようにして消えた。
その刹那――眼前に紅蓮の炎を纏った獣が現れて、俺の心に、体に、赤き牙を突き立てる。
かつて『ルーク・エル・ベリア』だったものは獣に粉々に食い千切られ、赤い結晶を核に全てが創り替えられてゆく。
それは永遠にも思える一瞬の出来事だった。
あまりにもあっけなく、俺の中の魔の血は覚醒を遂げていた。
歴代でも始祖のみが為し得たという、あの覚醒を。
「くくっ……は、はははっ……!」
狂気じみた笑いが喉奥から込み上げる。
だって、これが笑わずにいられるか?
穢れは負の感情を餌にする――この前提から誤っていたのだ。
存在を揺るがすほどの深愛、そして魂が定める伴侶……悪辣なベリア家の人間に最も縁遠い感情であり存在が覚醒に求められていたなど、誰が想像できただろう。
クロエの心臓に吸い込まれた俺の半身ともいえる結晶。あの瞬間、クロエは無意識下で俺の伴侶たることを受け入れてしまったのだ。
もはや俺の目に映る世界は変わり、かつて人間であった頃の乏しい感情すら消え失せた。
そんな俺にたったひとつ残された情こそが、クロエへの愛……それだけだ。
――助けて!
不意に頭の中にクロエの悲痛な声が響き渡る。
「ひっ……!」
つと視線を向けると、汚らわしい女が俺の最愛に鞭を振り上げる様が目に入った。
「……ゴミが」
女の体を握り潰すよう魔力を込める。
たったそれだけで、女の体は肉片となって千切れ飛んだ。
何から何まで不愉快なほど醜い。
単なる肉塊となってもこの女はなんと醜悪で汚らしいのだろう。
こんなつまらないものをクロエに見せてしまうとは一生の不覚だ。
「クロエ!?」
クロエが衝撃のあまり気を失う間際、何か異変を察したか息を切らしたアリアが部屋に飛び込んできた。
そうして崩れ落ちるクロエを慌てて抱き留める。
「クロエ! いったい何が――」
部屋の惨状に蒼褪めながら俺の顔を見たアリアは、大きく目を見開き血溜まりの中にくずおれた。
「覚醒、したのね……ああ、可哀想に」
クロエを抱きしめながらさめざめと泣くアリア。
この時何故アリアは俺の覚醒を見破ったのか……それは今でも分からない。ただ、アリアが常人には見えざる何かを見通せる目を持っていたことだけは確かだ。
そして可哀想とは、人の情を失ったことへの憐憫だろうか。
だが、アリアが泣こうが憐れもうが、俺にはなんの感情も湧かなかった。
気がかりなのは最愛の女の身ひとつのみ。
俺はベリア家の特殊部隊を招集し、目障りな肉片を犬小屋へ運ばせ、部屋の処理を任せた。
そしてクロエを抱いたまま離さないアリアを別室へと導き、俺達は誓約を交わすに至った。
この時の誓約は、アリアが命をかけクロエを救うことが代償となった。
そうしてアリアが課した誓約という名の試練により、俺はクロエが成人を果たすまで会うことを禁じられた。俺の伴侶たる印が刻まれたクロエが俺と会えば、必ずや記憶と魂とが揺さぶられてしまうからだ。
だが、期限を一生と定めなかった点は唯一アリアの温情なのだろう。
その間クロードが側にいることを許したのは、クロエが立ち直るため記憶の隙間を埋める存在が必要だったこと、そして彼がクロエの実兄だったからだ。
それにクロエは既に俺の伴侶だ、万が一クロードが関係を持とうとすれば、即座に灰となって存在ごと消え失せる。
それでも、消してやりたいと思ったことは一度や二度どころではない。だが、この上もなく都合のいい大切な駒だと思えば寛容にもなれた。
面白くはないが、クロードはクロエの全てを取り戻すために欠かせない、唯一最大の鍵となる男だ。
それに、実に滑稽で哀れではないか。
クロードがどれだけ愛そうと、クロエが俺のものでなかった瞬間など存在しないのだから――
影からひっそりとクロエを見守りながら、誓約通り皇家の関心を逸らし、父の死後は兄達を排除し、クロードを間諜としてアスローザへ送るよう皇帝を動かし……俺はひたすら誓約が切れる時を待った。
そして漸くクロエが成人を迎えた年、アリアの呪いが発動し、クロエの父とカッセル夫人が腹上死を遂げ、オルラド家は一躍醜聞に塗れた。
しかし、俺はすぐにクロエには会わなかった。
愛しい獲物が確実に巣にかかるよう、皇家、アローナ公爵、クロード、アスローザへ潜ませた暗殺者、ベリア家の配下であるギルド……それらの駒を正確に配し、幾重にも糸を張り巡らせ舞台を整えた。
そうして、再び時は巡りはじめる。
完全なる偶然を装ったあの日の再会に、俺がどれだけ心震わせ歓喜したか、君は知らないだろう。
俺が誰かも分からず、ひたすら困惑し怯えるクロエ。
だが、君が俺に感じる恐怖心……それこそ君の魂が俺を覚えている確かな証。
だから君が俺に怯えるたび、愛とも憎しみともつかないドス黒い感情が溢れて堪らなかった。
その恐怖こそが愛であったと思い出した時、君はどんな目で俺を見るのだろう。
そんな姿を想像しながら怯える君を抱くのも堪らなくそそられたけど、欲しいのは体だけじゃない。
クロエ、愛しい俺の運命……
俺を忘れてしまった今の君も、もどかしくて憎らしくて気が狂いそうなほど愛している。
でも足りない、それは君の全てではない。
早く、早くこの手に堕ちておいで。
君がどれだけ俺を愛していたのか、俺がどれだけ君を愛していたのか……全てを受け入れ思い出すその日が、俺は待ち遠しくて仕方がないんだ――
大人になっても、ずっとずっと側にいて――
幼い頃クロエに抱いた情は、たったひとつ俺の中に残った人らしき感情。
クロエが力を発現させたあの日、俺はそれまでとは全く異質の存在と成り果てた。
その姿を目にしたアリアは、「可哀想に」と涙を零していた。
――互いを思う心が、あなた達の秘めたる力を呼び覚ましたのね……
――ルーク、これからあなたが歩むのは茨の道。
――私は……母としてその隣にクロエが在ることを望まない。
――勝手なことを言ってごめんなさいルーク……クロエの心身が成熟するまで……成人するまででいい、あなたはこの子に関わらず、皇家からの関心を逸らしてほしいの。
――オルラドの異能を扱えないこの子は、きっと酷く冷遇されるはずよ。
――それでも私は……何よりもクロエを守りたい……だからこの命と引き換えにクロエの記憶と力を封じるわ。
――クロエは私のことも、あなたのことも忘れてしまうでしょう。
――けれど……それでもあなたが心からクロエを望むのなら……私が課す試練を受け入れ乗り越えて欲しい。
――あなた達の絆が本物なら、クロエは必ずあなたを求めるはずだから……
――その時は、どうかクロエのことをお願いね、ルーク……
この時、アリアと俺は魂の誓約を交わした。
クロエが成人を果たすまで皇家の関心を逸らし、決してこちらからは関わらず、クロエが自ら望まない限り封印は解かないという約束事を。
俺はアリアが命をかけたその誓約を律儀に守り通した。
実に煩わしいものだが、今の俺は魂を懸けるほどの約定に抗うことができない。そのことを何故かアリアは正確に把握し、俺にクロエの後を委ねた。
アリア・オルラド……心の底を見通すような不思議な目をした女だった。
彼女はベリア家の秘密を、いったいどこまで認知していたのだろうか。
数百年の昔、ある一人の男が魔族と交わり子を成した。
その行為は神の怒りに触れ、魂に穢れを負い生まれたのがベリア家の始祖だ。
ベリア家の人間が残虐な性状と破綻した倫理観を持つのはそのせいだといわれている。
だからベリア家は常に帝国の裏方に徹し、暗部を掌握し続けてきた。
その力は皇家をも凌駕するほど強大なものだが、怠惰で群れを嫌い、権力に然程も興味のないベリア家は、皇家にとってこの上もなく都合のいい番犬であり続けた。
そんなベリア家の特徴は赤い瞳にあるが、赤みが強いほど穢れが濃いとされる。
穢れとはすなわち魔の種子。
負の感情を餌に育つ種は、やがて身体中に根を張り芽吹くその時、魔の血が覚醒すると一族内では伝えられていた。
その果てに得られる力は人智を超えたものであり、ベリア家の人間が躍起になって切望するものでもあった。
しかし、始祖以来覚醒を遂げられたものは一人も存在しない。
前大公であった父は、子の中で最も赤い瞳を持つ俺を、あらゆる方法で拷問し虐待した。
痛みとは手っ取り早く確実に負の感情に結びつく手段だ。
だが、俺には生まれつき痛覚というものが備わっていなかった。
冷えた心は、どれだけ痛めつけられ辱められようと、常に無風のままだ。
むしろ無駄な努力を嘲笑う余裕すらあったほどだ。
あの女も、父が俺への虐待用に囲っていた加虐愛者の一人だ。
そんなおかしな人間達がどれだけ大公家へ出入りしようと、母は盲目的に父を愛していたし、俺への加害行為も教育の一環と父が言いくるめれば、簡単に信じ黙認した。
母も含め、ベリア家はつくづく狂った一族だ。
そんなある日、父が原因不明の病に倒れた。
父を猛愛していた母は皇帝に泣いて縋り、皇族のみに許されていたアリア・オルラドの力を得ることに成功した。
そうしてアリアと共にやってきたのが娘のクロエだ。
緩く波打つ白銀の髪にオルラドの特徴である紫の瞳を持つ、それは愛らしくも美しい少女だった。
気まぐれに優しく微笑み手を差し伸べれば、容易く懐いて子犬のようにじゃれてくる。
可愛い可愛いクロエ。
はじめは愛玩動物を愛でる程度の気持ちだったように思う。
くるくると表情を変える様は見ていて飽きることはなく、天真爛漫さがこの上もなく愛らしい。
だが……可愛がれば可愛がるほど俺への好意は大きく膨れ上がり、真っ直ぐにぶつけられる曇りなき愛情を眩しく感じはじめたのはいつのことだったか。
『ルアお従兄様大好きよ!』
毎日何十回と飽きもせず、洗脳のように繰り返される全き好意。
初めて聞く言葉でもない。
しかし、クロエの口から紡がれる『好き』という言葉は、いつしか俺の心を厭わしいほど揺るがしはじめる。
クロエは不思議な子だ。
他人など煩わしいばかりのこの俺が、嫌がりもせず、いつの間にかまとわりつくことを許してしまっている。
存在への興味と、俺の心を惑わせることへの嫌悪――それは不快でありながらひどく心躍る感情だった。
この相反する感情の芽生えは、俺の生に彩りを与え、見える世界が著しく変わりはじめた瞬間でもあった。
あれはクロエとの日々も三月目に差し掛かった頃のことだ。
父の容態が少しずつ好転し、もうすぐ帰ることになるかもしれないとアリアから告げられた日、クロエは目に見えて沈んでいた。
オルラド家では厳しい後継者教育を受けているというクロエ。
これほど帰ることを嫌がるとは、彼女にとってよほど辛いものなのだろう。
慰める俺に、ポツリとクロエが零した。
「ずっとお従兄様の側にいられたらいいのに……」
「クロエ……」
ずっとクロエと共にいられたなら――それは俺こそが望む未来。
だが……ごめんねクロエ。
君のような純粋無垢さが俺には皆無だ。
壊れ穢れた俺の世界に巣食うものは、どす黒い思慕と悍ましいほどの執着。
この頃には俺も自身の心を正確に把握し受け入れていた。
クロエ……君へと向かうこの感情は、なんと醜くも甘美なのだろう。
俺はね、君の世界を、全てを滅茶苦茶に壊してしまいたいくらい愛しているんだ。
いつかその瞳が俺だけを映すようになったなら……考えただけで歓喜のあまり身の内が震える思いがする。
こんな汚い俺でも、君は好きだと言ってくれる?
「約束しようクロエ、君が望んでも望まなくても……俺は必ず君の側にいるよ」
「お従兄様……」
俺を見上げるつぶらな瞳がみるみる潤んで、眦に宝石のような雫を浮かべる。
そんな顔も君はなんて愛らしいのだろう。
「本当? 約束よ? 破ったらひどいことするんだからね!」
「ひどいことってどんなこと?」
「えと……それはね、その……んー……と、とにかくお従兄様が泣いてしまうくらいひどいことなのよ!」
ああ、本当に可愛いねクロエは。
無垢な君にはひどいことなんてひとつも思いもつかないのだろう。
そんな愚かな無邪気さすら、君ならば愛おしくて仕方がない。
俺はほんの子供の口約束だなんて流してしまわないよ。
君から囚われに来たんだ……決してその手を離さないと約束するよ、クロエ――
父は好転するとのアリアの見立ては外れ、容態が一進一退を繰り返す中、ここでの生活も半年が過ぎようとしていた。
オルラド母娘の滞在中は父が控えさせていた俺への加害行為だったが、ここに来て父は痺れを切らし、女に再開するよう命を下した。
昼夜問わず俺の部屋へやってくるクロエに、万が一にもそんな姿を見せてはいけない。
だから夜に部屋を出てはいけないと釘を刺したのに、クロエはその約束を破ったのだ――
クロエの異能が発現したその瞬間は、今も脳裏に濃く焼き付いている。
白銀の髪が大きく宙を舞い、命を燃やし尽くすような真白き輝きが小さな全身から放たれ、俺の体に慈雨の如く降り注いだ。
肉を断つほどの傷跡が瞬時に消え失せ、俺を戒める手枷すら砂のように脆くも崩れ去った。
この時の感情は、とても言葉では言い表せられない。
心身の成熟と共に発現するというオルラド家の異能。
まだ幼いクロエは、起こりえない奇跡を起こした。
ひとえに俺を救いたい、その一心のみで。
君がどれだけ俺を思い愛しているのか……それを魂の奥底に刻みつけられた――そんな感覚が俺の心をたっぷりと満たし、ゾクゾクと身の内から湧き上がる震えが止まらなかった。
愚かで愛おしい俺のクロエ。
この世で最も醜いベリアの血を継ぐ俺を愛した可哀想なクロエ。
君の愛はなんと憎らしくも美しいのだろう――
そのとき、俺の目から二粒の涙が零れ落ち、やがて赤い結晶となって掌に零れ落ちた。
そのうちの一粒がクロエの元へ飛翔し、そのまま左胸に吸い込まれるようにして消えた。
その刹那――眼前に紅蓮の炎を纏った獣が現れて、俺の心に、体に、赤き牙を突き立てる。
かつて『ルーク・エル・ベリア』だったものは獣に粉々に食い千切られ、赤い結晶を核に全てが創り替えられてゆく。
それは永遠にも思える一瞬の出来事だった。
あまりにもあっけなく、俺の中の魔の血は覚醒を遂げていた。
歴代でも始祖のみが為し得たという、あの覚醒を。
「くくっ……は、はははっ……!」
狂気じみた笑いが喉奥から込み上げる。
だって、これが笑わずにいられるか?
穢れは負の感情を餌にする――この前提から誤っていたのだ。
存在を揺るがすほどの深愛、そして魂が定める伴侶……悪辣なベリア家の人間に最も縁遠い感情であり存在が覚醒に求められていたなど、誰が想像できただろう。
クロエの心臓に吸い込まれた俺の半身ともいえる結晶。あの瞬間、クロエは無意識下で俺の伴侶たることを受け入れてしまったのだ。
もはや俺の目に映る世界は変わり、かつて人間であった頃の乏しい感情すら消え失せた。
そんな俺にたったひとつ残された情こそが、クロエへの愛……それだけだ。
――助けて!
不意に頭の中にクロエの悲痛な声が響き渡る。
「ひっ……!」
つと視線を向けると、汚らわしい女が俺の最愛に鞭を振り上げる様が目に入った。
「……ゴミが」
女の体を握り潰すよう魔力を込める。
たったそれだけで、女の体は肉片となって千切れ飛んだ。
何から何まで不愉快なほど醜い。
単なる肉塊となってもこの女はなんと醜悪で汚らしいのだろう。
こんなつまらないものをクロエに見せてしまうとは一生の不覚だ。
「クロエ!?」
クロエが衝撃のあまり気を失う間際、何か異変を察したか息を切らしたアリアが部屋に飛び込んできた。
そうして崩れ落ちるクロエを慌てて抱き留める。
「クロエ! いったい何が――」
部屋の惨状に蒼褪めながら俺の顔を見たアリアは、大きく目を見開き血溜まりの中にくずおれた。
「覚醒、したのね……ああ、可哀想に」
クロエを抱きしめながらさめざめと泣くアリア。
この時何故アリアは俺の覚醒を見破ったのか……それは今でも分からない。ただ、アリアが常人には見えざる何かを見通せる目を持っていたことだけは確かだ。
そして可哀想とは、人の情を失ったことへの憐憫だろうか。
だが、アリアが泣こうが憐れもうが、俺にはなんの感情も湧かなかった。
気がかりなのは最愛の女の身ひとつのみ。
俺はベリア家の特殊部隊を招集し、目障りな肉片を犬小屋へ運ばせ、部屋の処理を任せた。
そしてクロエを抱いたまま離さないアリアを別室へと導き、俺達は誓約を交わすに至った。
この時の誓約は、アリアが命をかけクロエを救うことが代償となった。
そうしてアリアが課した誓約という名の試練により、俺はクロエが成人を果たすまで会うことを禁じられた。俺の伴侶たる印が刻まれたクロエが俺と会えば、必ずや記憶と魂とが揺さぶられてしまうからだ。
だが、期限を一生と定めなかった点は唯一アリアの温情なのだろう。
その間クロードが側にいることを許したのは、クロエが立ち直るため記憶の隙間を埋める存在が必要だったこと、そして彼がクロエの実兄だったからだ。
それにクロエは既に俺の伴侶だ、万が一クロードが関係を持とうとすれば、即座に灰となって存在ごと消え失せる。
それでも、消してやりたいと思ったことは一度や二度どころではない。だが、この上もなく都合のいい大切な駒だと思えば寛容にもなれた。
面白くはないが、クロードはクロエの全てを取り戻すために欠かせない、唯一最大の鍵となる男だ。
それに、実に滑稽で哀れではないか。
クロードがどれだけ愛そうと、クロエが俺のものでなかった瞬間など存在しないのだから――
影からひっそりとクロエを見守りながら、誓約通り皇家の関心を逸らし、父の死後は兄達を排除し、クロードを間諜としてアスローザへ送るよう皇帝を動かし……俺はひたすら誓約が切れる時を待った。
そして漸くクロエが成人を迎えた年、アリアの呪いが発動し、クロエの父とカッセル夫人が腹上死を遂げ、オルラド家は一躍醜聞に塗れた。
しかし、俺はすぐにクロエには会わなかった。
愛しい獲物が確実に巣にかかるよう、皇家、アローナ公爵、クロード、アスローザへ潜ませた暗殺者、ベリア家の配下であるギルド……それらの駒を正確に配し、幾重にも糸を張り巡らせ舞台を整えた。
そうして、再び時は巡りはじめる。
完全なる偶然を装ったあの日の再会に、俺がどれだけ心震わせ歓喜したか、君は知らないだろう。
俺が誰かも分からず、ひたすら困惑し怯えるクロエ。
だが、君が俺に感じる恐怖心……それこそ君の魂が俺を覚えている確かな証。
だから君が俺に怯えるたび、愛とも憎しみともつかないドス黒い感情が溢れて堪らなかった。
その恐怖こそが愛であったと思い出した時、君はどんな目で俺を見るのだろう。
そんな姿を想像しながら怯える君を抱くのも堪らなくそそられたけど、欲しいのは体だけじゃない。
クロエ、愛しい俺の運命……
俺を忘れてしまった今の君も、もどかしくて憎らしくて気が狂いそうなほど愛している。
でも足りない、それは君の全てではない。
早く、早くこの手に堕ちておいで。
君がどれだけ俺を愛していたのか、俺がどれだけ君を愛していたのか……全てを受け入れ思い出すその日が、俺は待ち遠しくて仕方がないんだ――
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