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12話:愛飢えし蛇

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 月に照らされて生み出される闇夜の中に、一匹の蛇が紛れ込む。
 染み付いていたその匂いを辿って獲物の元へと這って行く。
 この蛇の恐ろしさは満月でありながらも一度も月の光に当たらないことではない…どれだけ短い時間であろうとも、どれだけ離れていても、獲物の事が分かってしまう嗅覚である。

 蛇は音も立てずに窓辺へと這い寄ると、その双眸で檻の中で眠る小鳥を探す。

「愛とはただ一つしかないものだが、それを表す言葉は幾万と存在している」

 しかし檻の中には半裸の男が窓に向かって足をV字にしたまま寝転がるだけであり、獲物はどこにもいなかった。
 ならばと蛇は薄く離れる匂いを追う、それこそが蛇が蛇たる存在証明なのだから。

「フッ……まぁこんな言葉で理解できてたなら、あそこまで狂うはずもないか」

 部屋に残された男は、持ち主が消えたその部屋の中でひとりごちながらそのまま眠りについた。


 蛇は這う、誰にも見られぬように、姿を晒さぬように、闇夜と影を見張る者はいないのだから。
 しかしその影に光が落ち、足を止める。
 その光の正体は剣であった。
 眼前にて振り下ろされた切っ先ではなく、その光の主に目を向けると、そこには蛇のよく知る男がいた。

「お前の習性なら、絶対にここを通るだろうと思ってた」

 同じく影から出てきたその男は、動きの邪魔となる黒衣を脱ぎ捨てる。

「ナクラ、できれば殺したくない」

 蛇は剣を構える男の名を呼び、説得する。

「……ああ、俺もだよ。だから今すぐ帰ろう」

 しかし、どちらも一歩も退くことはなかった。
 そして両者の諦めの溜息が合図となり、一つの光と二つの牙が交錯した。



「こんな状況だが、自己紹介をしよう」

 早馬で道を駆け抜けながら、大きな弓と矢を持つ男は言った。

「俺はサヴィヤ、街で足止めをしてくれる奴がナクラ。あいつの強さはブリガンテの時に見てたよな?」

 フィルはその問いに戸惑いながらも頷く。
 なにせろくな説明もないまま、荷物も持たずに夜の逃避行をしているのだ、戸惑わない方がどうかしているだろう。

「あの…追っ手が来てるって話でしたけど、何が追ってきてるんですか?」
「あぁ、ちゃんと話すさ。俺達は幼馴染で、いつも一緒だったんだ。村を出てパーティで活動してからもずっとそうだった」

 サヴィヤと名乗った男は思い懐かしむように目を細める。
 一刻も早く追っ手について聞きたいフィルであったが、急かしたりせずにじっと次の言葉を待つ。

「アイツは…メレトは真実の愛って奴を探してた。俺達も仕方がないやつだと思いながら、ずっとつるんでた」

 メレトという単語が出てきたこと、そして彼らが幼馴染だったこと、その事実でフィルの頭は一気に混乱してしまう。
 けれども、それに構わずサヴィヤは言葉を続ける。

「村を出て、パーティでモンスターを討伐して、アイツは真実の愛を探す……それを何年も続けてきた。そして今、アイツはお前を狙っている」

 ここでようやくサヴィヤが追っ手の正体を明かしたのだが、フィルからすれば理解できない内容である。
 なにせ追っ手が来るから逃げろと言われて逃げているのに、その相手が自らのよく知るヒロインの一人なのだ、逃げる理由にはなりえない。

「あの…どうして逃げないといけないんですか?」

 主人公に対して献身的に尽くしてくれているメレトしか知らないフィルからすれば、むしろ願ったり叶ったりといった状況だというのに、それから遠ざけられるのは不本意だと言わざるをえない。

「アイツはちょっと病的でな。今まで何人もの奴が監禁されかけたり、生活の全てを握られたり……まぁ色々とあったんだよ」

 サヴィヤがしみじみと思い出すかのように呟くのだが、その表情とは裏腹に出てくる言葉は物騒なものばかりであった。

「それでも、話し合えばなんとかなるんじゃ!?」
「……今まで三人がアイツに切り刻まれているのにか?」

 それを聞き、フィルは即座に無理だと判断して顔を青くする。
 話し合えば分かり合えるというのは嘘ではない。
 ただ、分かり合った所でどうしようもないという事が浮き彫りになり、争いに発展する場合も多々あるのだ。

「愛がな、足りなくて渇くんだってよ。俺達も小さな頃から注いでやってるはずなんだがなぁ…」

 満たされぬのならば、それは本物ではない。
 彼女は創作で見た本物の愛を信じて、それを追い求めているのだ。
 しかしそれを理解するのは彼らには難しく、同じく愛を追い求める彼女ですら不可能であろう。

「あ、あの……どうして僕が狙われる事になったんですか?」

 フィルは頭を切り替えて尋ねる。
 狙われる理由さえ分かれば、それを切り離す事で逃げられると踏んだからだ。

「アイツが惚れやすいってのもあるんだが、お前に名前を呼ばれて運命ってやつを感じたらしい」
「名前を呼んだだけで!?」

 二人共理解できないといった風に言っているが、彼女からすれば運命だと信じるに足る要素があるのだ。
 ナクラはメレトの惚れ癖を知っているが故に極力喋ることも接触する事も抑えておこうとした。
 だからメレトとフィルはお互いの名前も知らないはずであった。
 だというのに、フィルは原作による知識によって知るはずのない名前を呼んだ……彼女にとってはそれだけで十分であったのだ。
 
 そうして彼らは払暁を迎えてさらに馬を走らせる。
 毒を忍ばせて、執拗に狙い、そして愛に盲目な蛇の牙から逃れる為に。
 もはや生きる道は、海の向こう側にしかなかった。


 蛇は何日も休まずに追い続けていた。
 その執着を見れば皆が驚くだろうが、蛇にとっては当たり前の事であった。
 確かに今までは偽物ばかりであった…もしかしたら本物などは疾うに失われているのではないかと考えた事もあった。
 否…残っていないのであれば、それは偽物だったという事だ。
 逆説的に…"残ってさえいれば、それが本物である"という結論に辿り着いた。
 だから彼女は追う、今までが偽物だったからといって、次も偽物ではないと限らないのだから。

 しかし、その蛇の速度が落ちる…彼女が嫌う潮の匂いが濃くなってきたからだ。
 彼女は獲物の匂いがする港町に着き、大きく息を吸う。
 ありとあらゆる場所から彼の匂いがしている…恐らく時間稼ぎだろう。
 それを見抜いたからこそ、勝利を確信した。
 サヴィヤは頭のいい男だ、何の意味もない事をするはずがないと。
 メレトという蛇は船へと向かった、逃げる為に必要な時間を稼がせる前に。

 出港準備をしている船の甲板に立つと、足元にサヴィヤの矢が突き刺さった。

「馬鹿め、海が苦手だってのに船の上まで誘い出されやがって」
「馬鹿なのはどっち? 逃げ場を失くしたのはサヴィヤの方だよ」
 
 船頭に立つサヴィヤは憐れみの表情を見せるが、それはメレトも同じであった。
 メレトは腰の短剣を抜き、声を高らかにあげる。

「分かる…あたしには分かる……彼が、あたしの運命の人がここにいるって!」

 一見隙だらけのように見えるその姿を晒しながらも、サヴィヤは弓につがえた矢を放たなかった。
 メレトの俊敏性をよく知るからこそ、外せば終わりだという事を理解していたからだ。

「―――だから、邪魔しないで」

 メレトは文字通り眼の色を変えてサヴィヤとの距離を縮めていく。
 距離が縮まれば縮まるほどメレトは矢を避ける難易度が高くなる…それを互いに承知しているからこその駆け引きである。
 そしてサヴィヤまでの距離まで十歩という所で矢が放たれたが、それは極度の興奮状態となっているメレトにとっては十分に避けられるものであった。

 だからこそ、突如自分を吹き飛ばしたその突風に驚いた。

「いつもいつも、目の前の事しか見えてないわねぇ…」

 大柄なサヴィヤの後ろから、ひとりのマジックユーザーが現れ、それを見たメレトから歯軋りの音が聞こえた。

「パァル…ッ!」

 彼女こそがフィルの入る場所にいた本来のマジックユーザーであり、そして幼馴染でもあった。
 まだ体調が不完全ではあるものの、幼馴染であるメレトを嗜める為に無理をしている状態であった。

「帰りましょう、メレト?」

 パァルは海風を味方につけて、メレトに荒れ狂う風を叩きつける。
 それでも飛ばされぬように必死で甲板に短剣を突きつけて踏ん張るメレトは、少しずつ…少しずつ前へと進む。
 そしてそれを許さないかのように、サヴィヤの矢が放たれる。
 サヴィヤの矢を防ぐ為には両手を使う必要があり、そうなれば強風によってその身体は後ろへ転がってしまい、再び同じ位置へと戻されてしまう。

 何度も何度も甲板を転がりながらも、周囲にあった樽も海に落ちていったというのに、地を這う蛇は近づき続ける。
 そうして再び居られた矢が射られ―――それを片手でいなしてみせた。
 つまり、もうふりだしに戻るという事がなくなったのだ。

「もうあの日々にはイヤだ…欠けたあたしに戻りたくない―――」

 蛇は両親に愛されていたし、蛇も両親を愛していた。
 蛇の世界はそれで完結しており、それに満足していた。
 しかし父はモンスターに襲われ、母は流行病によって命を失った。
 満たされた世界は、スポンジのように穴だらけとなってしまい、惨めなものになってしまった。
 そんな蛇を慰めるべく、一冊の本が手渡された。
 その本には零れるくらいの愛という名の薬毒があふれ出ており、それが欠けていた箇所を埋めるかのように、蛇の隙間を埋めてしまったのだ。
 その結果、蛇は絶対不変の真実として本物の愛を求めるようになったのだ。

「あたしは…あたしは今度こそ運命を手に入れて―――」

 暴風の中でありながらも、確固たる自身を地面に縫い付けたかのようにして、蛇は立ち上がる。

「幸せになってやるんだッ!!」

 蛇が吼え、共に過ごした幼馴染に襲い掛かった。

「私は……今まで貴方と過ごした日々に、その幸せを感じてたんだけどね…」

 まるで自分達と過ごした日々を無価値だと言わんばかりの主張を受けて、パァルは諦めたかのように呟く。
 いいや、彼女は知っている…メレトはとても純粋な女の子であるという事を、周りが見えなくなるくらいに一途になるという事も。
 だからこそ、彼女が本気でそう思っていない事を理解しているのであった。

「教えて、パァル。あたしの運命はどこ?」
「……確かにツライ過去だったかもしれないけど、それでも少しくらいは振り返ってもいいと思うんだけどね」

 地面に押し倒され、蛇の牙が首筋にまで迫っていながらもパァルの表情は変わらない。
 そこでようやく蛇は周囲の違和感に気付いた。
 船は既に出港しており、辺り一面大海原であったのだ。
 それでも運命の人を手に入れられるのであればいいと、逃げられないのであれば好都合だろうと嗅覚を頼りに探すのだが、どこにも見当たらなかった。
 この船に乗ったとき、確かにあったはずの匂いが途切れていたのだ。
 最初からいなかったというはありえないならば何処へ消えたというのか。

「メレト。良い女は過去を振り返らないって言葉があるけど……あれ、嘘よ」

 どうしてこんな状況でそんな台詞を吐くのか?
 その言葉の意味を考え…そして気付いた蛇は急いで甲板から乗り出して後方の海を見る。
 そこには自分達がぶつかった影響で飛ばされた荷物があり、その中には子供が入れそうなくらい大きな樽もあった。

「あ……ぁ…………ああああああああ!!」

 過ぎ去った場所に、戻れぬ場所にある運命を見て、彼女は波の音を掻き消すくらいに大声で泣いた。
 
「ハァ~~…まったく、このお姫様はいつまでも手がかかるもんだ。こんなんで新大陸でやっていけんのかねぇ」

 もう何度目かも分からないこのやり取りを見ながら、サヴィヤは呟く。

「だって仕方がないじゃない。私達、幼馴染(かぞく)なんだもの」

 それを聞き、満更でもなさそうな顔をして二人は泣きじゃくる女の子の頭を撫でた。



「助かった…ってことでいいのかな?」

 フィルは樽によって漂流しながらも、早めに海に落ちたおかげですぐに陸地に辿り着くことができた。
 まさかゲームのヒロインがヤンデレ属性持ちだったとは露知らず、こんな事になるとは夢にも思っていなかった。
 ただひとり、エイブラハムだけが彼女の事を知っており、こんな事なら教えておいてくれよと思うばかりであった。

「さて……それで、ここ何処だろう」

 浜辺に打ち上げられたフィルは、ぼやくようにそう呟いた。
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