もしも剣と魔法の世界に日本の神社が出現したら

先山芝太郎

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1巻

1-3

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 多少、覚悟していたとはいえ、応接間に通されたメリッサとアンリエッタは、藤重邸に入って即座にカルチャーショックを受けた。
 家屋の大部分が木製なのにも、靴を脱いで上がるのにも、あちこちで見かける奇妙な家具にも、床に直接座るのにも、戸惑とまどった。

「とりあえず、座っててください。今、弟を連れてきますから」
「私はお茶を入れてきますねー」

 敵とも味方とも判断しきれない相手を残して、二人は部屋を出ていく。
 ぎこちない動きで、座布団の上に並んで座ったメリッサとアンリエッタは、このざっくりとした対応にさらに困惑する。

「やけにあっさり二人きりにするのですね。特にあの男の子――爽悟さんには、警戒されているとばかり思っていたのですけれど」
「ああ、さほど警戒されているわけではないのかも知れない」
「そうですね。じっとわたくしたちの背中を観察していたように見えたのですが――」
「妙に老成しているようにも見えるし、あの人数を相手にあの立ち回り、謎の多い少年だな。透子殿の方はまだくみしやすそうだが」
「管理者代理とおっしゃっていましたね。ただあの二人を見る限り、実権を握っているのは爽悟さんでしょう」
「あら、内緒話ですか。それにしてはお声が大きいようですが」

 おっとりした声で二人の会話に割り込んできたのは、木製のトレイに、持ち手のないティーカップ――まあ、湯呑ゆのみなのだが――を五つ載せた透子だった。

「ごめんなさい。お菓子を切らしていて、お茶だけなんですが――」

 透子は丁寧ていねいな所作で茶の入った湯呑ゆのみを並べていく。香ばしい煎茶せんちゃの香り。メリッサとアンリエッタの二人には馴染なじみのないものだが、質のよいものであることはわかった。

「お気遣い、痛み入ります」
「いいえそれより、この建物は音が筒抜けなので、内緒話ならもう少し声を抑えた方がいいですよ。さすがに、爽悟くんたちのいる二階には聞こえていないでしょうけど」

 にっこり笑ってくぎを刺すと、透子は上座かみざに座った。
 どうやら、きっちり二人の会話を聞いていたらしい。試していたのは、爽悟ではなく、透子の方だったというわけか。意外と食えない女だ。なんにしても、気まずい。

「あ、ええと、爽悟さんたちはまだなんでしょうか」

 メリッサが思いっきり動揺しながら、当たりさわりのないことを言う。

「雷矢くんがちょっと寝起きの悪い子なので。もうそろそろかとは思いますけど。あ、爽悟くんもそうですけど、雷矢くんはもっと変わった子なので、驚かないでくださいね」
「「あれより、ですか」」
何気なにげに失礼ですよね、あなた方」

 メリッサとアンリエッタの反応に少々気を悪くしたらしい爽悟が、いつの間にかジロリとこちらをにらんでいた。怒気はこもっていても殺気はないので、二人とも怖気おじけづくようなことはないが。

「あ、いえ、その、なんといいますか――ねえ?」
「変わっているというか、きょうあ……特殊というか」

 まだ若いのに、歴戦の傭兵ようへいも顔負けの迫力がある。二人は顔を見合わせてあたふたと言い訳をする。

「ああもう結構。西洋の方はもっとはっきりものを言うものだと思っていましたよ。それよりご紹介します。弟の雷矢です」

 そこでメリッサとアンリエッタはようやく気が付いた。爽悟の後ろから、ちらちらとこちらをうかがっている小さな人影。八歳か九歳くらいの男の子だ。
 顔立ちはまるで爽悟のミニチュアだが、爽悟のような強烈な覇気はきはない。
 メリッサのローブやアンリエッタのよろいが珍しいのだろうか。雷矢は好奇心で大きなひとみを一杯にしてじっとこちらを見ている。いや、違う。見ているのはメリッサたちの後ろだ。

「何かいる」

 雷矢少年は、二人の背後を指さして言った。その言葉に、メリッサとアンリエッタは強烈な悪寒おかんを覚えた。

「こら、雷矢、人を指さすんじゃない」

 爽悟が弟の不作法をたしなめる。メリッサとアンリエッタは、問題はそこじゃないと、心の中で突っ込んだ。

「申し訳ない。人見知りの激しい子で。座れ、雷矢」

 言われて、素直に透子の後ろに座る雷矢。爽悟が続いて透子の隣に座った。透子がアンリエッタと、爽悟がメリッサと向かい合う。
 じぃっと、自分の背後に注がれる視線がなんとなく不気味ぶきみで、生きた心地のしないメリッサとアンリエッタ。

「それでは、お聞きしましょう。今、俺たちが置かれている状況について」

 口火を切ったのは、やはり爽悟だった。……そういえばこの少年も、さっきからちらちらとメリッサとアンリエッタの背後を見ている。

「ええと……端的に申しますと、あなた方がいた世界から見ると、ここは『異世界』ということになります」
「い、異世界ですか」
「それはまた、事実は小説よりも奇なりといったところでしょうか」

 目を見開いて驚く透子と、ました顔をして驚いた風もなく言う爽悟。雷矢は相変わらず、二人の背後にいる何かを見ている。
 視線の不気味ぶきみさを追い払うように空咳からぜきをすると、メリッサは再び口を開いた。

「あくまでわたくしたちに伝わっている範囲ですが、少なくともアルティス聖教会の聖典においては、『この世』と『あの世』、二つの世界が存在するとされています。こちらで死した者はあちらへ、あちらで死した者はこちらへ。忘却ぼうきゃくの大河に立つ審判者アルティスの裁定を受け、魂は永遠に巡り続ける――」

 メリッサは、そこで少し冷めた湯呑ゆのみに口を付けて、「う、いい香りなのにしぶいです」と、どうでもいいことを言った。

「二つの世界はコインの裏と表であり、そこには死という大きな境界線があるわけです。ここまではよろしいでしょうか?」

 メリッサが話を区切り、異世界人三名の顔を見渡す。三者三様のリアクションだが、三人ともうなずいた。

忘却ぼうきゃくの大河、死の境界線を超えたとき、魂はその記憶の全てを失うのですが、例外もあります。ごくまれに、ではありますが、生きたまま忘却ぼうきゃくの大河を超え、この世界に現れる人がいるのです。それを、アルティス聖教会では《迷い子ストランジェ》と呼び、アルティスの祝福を受けたものとして、丁重に保護しているのです」
「保護、ですか」

 透子が、その言葉をみしめるように反芻はんすうした。顔には複雑な色が宿っている。

おっしゃりたいことはわかります。彼らの持つ知識は、わたくしたちにとって革命的なものであることが多く、その、世間に混乱を招くことが」

 言いよどんだメリッサの言葉を、アンリエッタが引き継いだ。

「まあ、要は保護という名目で、《迷い子ストランジェ》を軟禁なんきんしてきたわけだ」
「アンリエッタさん!」

 あえて過激な言葉を選んだアンリエッタを、メリッサがとがめる。

「メリッサ。爽悟殿はそのような物言いは好かんだろう。はっきり言った方がいい。『教会の権威を守るために協力してくれ』とな」
「わ、わたくしは決してそのような!」
「と、本人はこう言っているが、現実は違う。無論、私個人としては、軟禁なんきんなどということはしたくない。私も全力でそういう事態を避けるつもりだ。だが、そんな言葉、信じてくれ、と言っても信じられんだろう?」

 アンリエッタは、ちらりとメリッサの顔を見る。これは、藤山春日神社の三名よりも、メリッサを諭しているような調子だった。
 向かい合う三名は、やはり三者三様の表情をしているが、言葉の続きを、促すでもなく待っている。
 メリッサも腹をくくった様子で、声をしぼり出した。

「生きながら忘却ぼうきゃくの大河を超えた《迷い子ストランジェ》は、審判者の祝福を受けた者とされています。そうでなければ生きながらこの世界を訪れることはできないでしょう。ましてや、言葉を誰にも教えられず、いつの間にか身につけているなどあり得ません。間違いなく神の恩寵おんちょうでしょう。しかし《迷い子ストランジェ》は例外なく、異教徒なのです」

 それは、ある種当たり前のことである。むしろ異世界で同じ神があがめられているほうが不自然だ。

「異教徒が、わたくしたちの神の祝福を受けている。アルティス聖教会でも《迷い子ストランジェ》に祝福を施しているのが審判者であると、確かめた者はおりません。ただ、真実がどうであったとしても――」

 もし《迷い子ストランジェ》への祝福が審判者によるものならば、敬虔けいけんさと神の恩寵おんちょうとが無関係であることの証明になり、祝福が審判者以外の手によるものであるなら、審判者の力が絶対でないことの証明となる。
 教会が信仰を集めているのは、つまるところ『利』によるところも大きいので、些事さじと言えばそれまでだ。
 それでも信心深い者はいる。アルティスの教えは、なんだかんだ言っても人々の世界観のいしずえ。混乱を避けるためには完全に隠すことができずとも、《迷い子ストランジェ》もまたアルティス聖教徒であることにしておかなくてはならない。
 だから、アルティス聖教会は《迷い子ストランジェ》を保護という名目で軟禁なんきんするしかないのだ。

「でも、この度の事態は――異教徒の宗教施設が、まるごと『この世』に現れるというこの事態は――もし、これが審判者の意思だとしたなら」

 メリッサは、刑の執行しっこうを待つ死刑囚のような口調だった。深くうつむき、瓶底びんぞこ眼鏡をかけている彼女の表情は、他の者にははっきりとうかがい知れない。

「わたくしたちの信仰のあり方に対する、審判者アルティスの警告――わたくしはそう考えるのです」

 沈黙のとばりが下りる。しばしののち、爽悟が口を開いた。
「――《掛けまくもかしこき、藤山春日ふじやまかすがの神社かみやしろ大前おおまえ
 かしこかしこみもまをさく
 今日の朝日の豊栄登とよさかのぼり
 日別ひごと御食みけもの献奉たてまつりて
 拝奉をろがみまつさま
 たひらけくやすらけくうべな聞食きこしめして
 天皇すめらみこと大御代おおみよ
 弥遠永いやとほなが立栄たちさかまつらしめたま
 御氏子みうぢこ崇敬者まめびとはじ
 あまね人々ひとびと
 負持おひも職業わざいそしはげみつつ
 家内安いへぬちやすおだひ
 身健みすこやか心正こころただしく
 らしめたま守恵まもりめぐさきはたまへと
 かしこかしこみもまをす》」
 神職に携わる者が、毎朝神饌しんせんとともに捧げる祝詞のりと――日供詞にっくしである。

「《神聖語セレスチュア》……」

 これを聞いて愕然がくぜんとしたのは、メリッサもアンリエッタも同じだ。
 これまでの文献に、《迷い子ストランジェ》が《使徒アンジュール》の言葉である《神聖語セレスチュア》を解したという記録はない。
 だが、目の前の少年は、清水のせせらぎのように美しい声と発音で、アルレシャ大陸の言語とは異質で文法も複雑な《神聖語セレスチュア》による文句を、そらんじてみせた。

「今日も朝日が昇ったように、世の中の全ての人々が勤勉に、安寧に、心正しく過ごせるよう、見守ってくださるよう、恐れ多くも申し上げます――大まかに言うと、こういう意味です」

 それだけ言うと、爽悟は黙って立ち上がった。

「そ、それはどういう――」

 メリッサも反射的に立ち上がって、その意味を問いただそうとした。

「あなたも宗教家なら、後は自分で考えてください」

 爽悟は、そのまま出ていってしまった。弟も彼の後を追う。残されたメリッサとアンリエッタは、訳がわからず呆然ぼうぜんとする。
 立ち去っていく二つの背中を見送ってから、透子がおかしくてたまらないという風に、くすくすと笑いはじめた。

「まったく偏屈へんくつよねぇ。もう少し、わかりやすく言えばいいのに」
「「は、はあ……?」」

 楽しげな言葉に、メリッサもアンリエッタもそう答えるしかない。

「まあ、私も爽悟くんと同じ気持ちです。あなたたちの誠意は確かに受け取りました」

 よろしくお願いします、と透子は頭を下げた。

「あ、あの、わたくしたちはむしろお願いする側なのですからっ、頭をお上げください。それより、さっきのは一体どういう?」
「あなたも宗教家なら、ご自分で考えなさい――なんてね、冗談じょうだんよ」

 わたわたと立ち上がるメリッサに、透子は面白そうに笑いながら言った。
 思わずドキリとするような、大人の女性の笑みだった。

「私たちにできることはさせてもらうわ。それに、そうしないと元の世界に帰れそうにない気がするのよねぇ」

 あまりに軽い調子に、メリッサもアンリエッタも呆気あっけにとられるしかなかった。

「とりあえず協力は、まあ、主に爽悟くんがするから、ここでの生活の面倒を見てほしいのよね」
「は、はい。それはもちろん!」
「警護についても、聖騎士の誇りにかけて、今日のような不埒者ふらちものは寄せつけないと誓おう」

 二人の力強い返答に、透子はにっこりと笑った。

「ああ、良かった。正直どうしようと思ってたのよね。ほら、一応私、この子たちの保護者じゃない?」

 ――この女、これが目的だったのか。やっぱり食えない。
迷い子ストランジェ》というのは、どうも皆一筋縄ひとすじなわではいかない相手のようだ。メリッサとアンリエッタは、自分たちの手には余る務めだったのではないかと、心の中で重いため息をついた。



   間章一



 セロン=ウル=ランシードとセファス=ウル=ランシードは、お互い複雑な縁故えんこであったが、仲の良い兄弟だった。二人は騎士上がりの地方貴族の息子で、セロンは正妻の子、セファスは正妻が身籠みごもっている間に、夫が他所よそで作ってきた子供であった。
 セファスの母親は産後の肥立ひだちが悪く、セファスが生まれて間もなく亡くなった。後の火種にしかならぬであろうこの赤ん坊を、二人の生家であるランシード家は進んで引き取った。セロンが生まれつき足が悪く、生涯しょうがい満足に歩くことができない、とわかったからだ。
 セロンは次代の当主として、セファスはそれを支える右腕として、幼い頃から教育を受けた。セロンは内向的だが文にけ、セファスは社交的で武にけていた。
 たとえ足が思うように動かなくとも、セロンには領主を務めるだけの器量があった。だからセファスは、セロンが次期当主となることに何ら疑問を抱いていなかったし、庶子しょしである自分をいとうことなく受け入れてくれたランシード家に深い感謝の念を抱いていた。
 セファスは表を歩けないセロンの代わりに、よく外に出かけた。街の人々と話し、野の花や獣や鳥を見て、セロンに話して聞かせた。セファスは端整な顔立ちと明るく人好きのする性格とも相まって、誰からも好かれた。
 だがこれがよくなかった。いつの頃からか人々は、足の不自由な出来損ないの嫡子ちゃくしより、健康で明るい庶子しょしの方が、跡継ぎとして相応ふさわしいのでは、とうわさするようになった。市井しせいでの噂話うわさばなしは、領主の屋敷にも広まっていった。使用人たちも、口々にセロンを悪く言った。どんなに文にけていようとも、器量にすぐれていても、彼らは出来損ないのセロンを次期当主とは認めなかった。
 市井しせいでの話はともかく、使用人までそのような話をしていて、セロンの耳に入らないはずがない。というより、地獄耳でなければ、まつりごとは務まるまい。
 セファスはセロンを悪く言う者を許さなかった。跡を継ぐべきはセロンであって自分ではないと公言してはばからなかった。年の数が十を超えた頃には、領地経営を行うに必要な頭と器が自分にはないのだ、と既にセファスは自覚していた。
 二人の内、どちらが欠けていても、不完全なのだと彼らは知っていた。彼らのきずなは血よりも濃く、恋慕れんぼよりも深かった。彼らは互いを愛していたし、必要としていた。
 しかし日の当たる場所に立ち、人々から好男子と称される弟と、出来損ないと、陰気くさい男とさげすまれる兄が、同じ思いであるはずがない。セファスが兄を思う以上に、セロンは弟に執着していた。
 その心の内を知ったなら、誰もが異常だと言う程度には。


       ***


 それは、二人が十三歳のときのこと。

「おいセフ、ノックもせずに入ってくるなっていつも言ってるだろう」

 いつものように、車椅子の上で書物に目を通していたセロンは、ノックもせずに私室に入ってきた弟にまゆをひそめつつも、口元にはやわらかな微笑を浮かべて言った。

「硬いこと言うなって。俺とセロンの仲だろ? なんだ、見られちゃまずい本でも読んでたのかよ?」
「近頃のセフは発想が下品でいけない。そんなもの、父上や母上が許すわけがないじゃないか」

 そりゃあそうだと言うと、セファスはケラケラと笑った。理屈っぽくて陰気な兄と違って、セファスは根本から明るい。ちょっとでも面白いことがあれば、ケラケラと笑うことを我慢しない。ましてやさじが転がってもおかしい年頃である。
 もちろん社交の場では良いことではないから、セファスが歯を見せて笑うたび、両親や家庭教師にキツいおしかりを受けるのだが、セロンは弟のこうした性分を愛していた。

「それで? 今日は何をやらかして来たんだ、セフは」
「なんだよそれ! それじゃまるで、俺が悪ガキみたいじゃないか!」
「だから、そう言ってるんだよ」

 やれやれ、と物わかりの悪い弟に嘆息する。いつもならここでぎゃんぎゃんとわめき散らす短気な弟だが、今日ばかりは皮肉を言われても反発することなくへらへらと笑っている。

「すごく気持ち悪いよ。一体何があったんだい?」
「ふへへ。俺はセロンより先に大人の階段を上るんだぜ」
「わけわかんないこと言ってないでさ」

 相変わらず阿呆あほうのようにへらへらしている弟に冷たい口調で言うが、当の弟は気にした様子もない。

「セロンさぁ、お前、恋って知ってるか?」
「……陽気に当てられて脳がおかしくなったのか?」

 セロンは異なことを言うセファスの頭を、割と本気で心配して言った。

「ちっげーよ! 本ばっか読んでるからお前は恋もできないんだ。せっかくそんないいのがあるんだから、お前も街に下りればいいのに」
「遠慮しとくよ。それで恋がどうしたって?」
「ふんっ、まあボクネンジンのセロンにわかるとは思えねーけどな! 街にすっげぇ可愛かわいい女の子がいたんだ! ジプシャンの女の子でさ、エルナト語はあまり上手じゃないみたいだったんだけど、それがかえって可愛かわいくてさぁ。笑うとすっごく可愛かわいいんだ」

 夢見るようにうっとりと、異民族の少女の笑顔を思い浮かべながら、セファスはとぼしいボキャブラリで街で出会ったジプシャンの少女のことを話す。

「ふぅん、ジプシャンの女の子ねぇ。初恋はかなわないって常套句クリシェを知ってるかい、セフ」

 心なしか不機嫌な声で、セロンはそんな風に水を差す。

「言ってろっ、身分の差くらい越えて見せるぞ。どのみち俺は、セロンが結婚して世継ぎができるまで結婚しないつもりだからな。誰と恋しようがそのくらいいいだろ?」

 力強く宣言するセファスに、セロンはもう一度書物に目を戻すと、くだらないことを言うな、とばかりにすげなく返した。

「セフがよくてもその子がよくないだろ。ジプシャンは街から街に旅するはぐれ者だよ。ほんの一時いっとき娯楽ごらくを提供するなら街の人も大目に見るだろうけど、あんまり長く居座ればそれこそ針のムシロだ。石を投げられたって文句は言えない」

 セロンが言うのは全くの正論である。エルナト王国でのジプシャンの扱いは、それでもまだマシな方なのだ。けれど若い――というより幼いセファスに、それは受け入れがたい正論だった。

「なんだよ、さっきから意地悪なことばかり言いやがって! 人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまうんだぞ!」
「そうかい。じゃ、せいぜいうまやに近づかないよう気をつけるとしよう」

 どうしたってくち喧嘩げんかでセファスがセロンに勝てることなどありはしないのだ。右から左に反論を受け流されて、セファスは半分涙目だった。これはまあ、いつもの光景であって、微笑ほほえましいと言えば微笑ほほえましいものである。

「ふんっ。理屈っぽいんだよセロンは――そんなんじゃ、美人の許嫁いいなずけに愛想尽かされ――」

 そこまで言いかけて、セファスはセロンの足元にまとわりついている生き物を見て悲鳴を上げる。

「ぎゃあ! ヘビ!」

 思わずセファスは、ドアの方へと後退あとずさった。
 それは大型の、あかひとみの白い蛇だった。
 セファスは蛇が苦手だった。涼しい顔をしているセロンに、壁を背にしておずおずと口を開く。

「おい、セロン。蛇なんていつから飼ってたんだ? 俺は知らないぞ」
「母上がくださったんだ。白い蛇は瑞兆ずいちょうらしいよ」
「それにしたって悪趣味じゃないか!? 俺が蛇嫌いだって知ってるだろ!」

 セファスの大げさな抗議に、セロンは苦笑する。

「蛇なんて怖がってちゃあ、領主軍をまとめられないよ、セフ。それによくご覧よ、すごく綺麗きれいな生き物じゃないか」
「うーん、そう言われてみれば、そう見えなくも――ひっ、こっち見んな」

 蛇が鎌首をもたげ、視線をセファスの方へ向けてきたので、セファスは壁にめり込むんじゃないか、という勢いでさらに後退あとずさろうとする。もっとも、既に壁に張りついていたので、これ以上後退あとずさりようもなかったのだが。

「ま、蛇のことなんていいじゃないか。些細ささいなことさ。なんにしても、その女の子のことはあきらめた方がいいよ。貴族の息子にれられたって、あっちも困るだけだろうさ。時には相手のことを思っていさぎよく身を引くのも、男らしさってもんだとは思わないか?」

 そう言われると、セファスはそれ以上反論することができなかった。男らしさ、という言葉に、この年頃の少年は往々にして弱い。
 わかったよ、と力なく口にするセファスに、セロンは満足げにうなずく。それから二人の話は剣の稽古けいこのこととか、王国や教会政治の諸問題のこととか、メイドたちの中で誰が一番可愛かわいいか、とか、全く違う話題に移っていった。
 その日の夜、街でジプシャンの少女が一人、姿を消したことを知る者は、あまり多くない。


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