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2巻
2-1
しおりを挟む一人の男の子がおりました。
男の子はとある貴族のお屋敷に住んでおりましたが、ひどくお腹を空かせておりました。
男の子はもう何日も、何も食べておりませんでした。お腹が空いたと口にすれば、頬を叩かれました。そのうち何かを言う気力もなくなって、男の子はただ横になって目を閉じます。
ただひたすら、お腹が空いた、お腹が空いた、と母のことを心の中で思いながら、男の子はもう二度と、目を覚ますことはありませんでした。
男の子が死んだあと、とある下男がその腹を裂いたときのことです。
裂かれた腹から、次々と、夥しい数の蝿が飛び出しました。蝿の群れは屋敷中を飛び回り、ありとあらゆる食べ物を食い尽くしました。
それでも蝿たちは満足しません。蝿たちは貴族のお屋敷を出て、街の、国の、大陸中の食べ物を食い尽くしました。
それでも蝿たちは満足しません。食べ物がなくなったら、今度は人の子らに群がりはじめました。人の子らは飢えに苦しみながら、いつ襲いかかってくるかもしれない蝿の群れにも怯えなくてはならなかったのです。
これを憂えた姫君がおりました。
それはそれは美しい姫君でした。そして心優しく気高い姫君でありました。
姫君はなぜそのようなことが起きたのか知ろうと、最初に蝿が現れた貴族のお屋敷を訪れました。
「此度の出来事は、この屋敷が始まりであると聞いております。なぜこのようなことが起きたのか、偉大なる審判者の怒りを買うような行いがなかったのか、誰ぞ知る者はおりませぬか。正直に申し出なさい」
その厳しくも優しい言葉に、お屋敷の主は何も申しませんでしたが、一人の下男が進み出ました。
「気高くもお優しい姫君様。わたしは罪を犯しました。飢えに苦しむ子供を見て見ぬ振りしたばかりか、その頬を張り、死んだのちは腹を裂いたのです」
そうして、蝿たちが飢えて死んだ男の子の腹から生まれたのだと知った姫君はこう言いました。
「可哀想な坊や、さぞお腹の空いたことでしょう。しかしこの国にはもはや、あなたにあげる食べ物がありません。なれば、わたしのこの身を差し上げましょう。わたしがあなたの飢えに寄り添いましょう。どうか民の命ばかりは、赦してやってくれませぬか」
姫君は服を脱いで裸になり、美しかった髪も短く切って、蝿たちの前で祈りを捧げました。
姫君は、死ぬことが怖くありませんでした。ただ、お腹を空かせて、母を思いながら死んでいった男の子のことが哀れでならず、その魂が救われることだけを偉大なる審判者に願いました。
蝿たちが姫君を襲うことはありませんでした。
まだ夏であるというのに、雪が降りはじめたのです。
雪は蝿の小さな羽根の一対ごとに一粒、降り積もり、彼らを凍てつかせました。
凍てついた蝿たちは地に落ち、もう二度と動くことはなくなりました。
それは《大使徒》ティムソーンの手によるものでした。
ティムソーンは姫君の前に降り立ち、このように仰いました。
「気高くも優しい姫君よ。貴女はいつまでもかくありなさい。あまねく人々のことを第一に思いなさい。幼き子供たちのことを第二に思いなさい。自らのことを第三に思いなさい。貴女の心がそのようにある限り、貴女の美しさが永遠であると、私が祝福を与えましょう」
姫君は感謝の祈りを捧げました。
またティムソーンは下男の前にも降り立ち、このように仰いました。
「愚かではあるが正直な下男よ。貴方はいつまでもかくありなさい。貴方は罪を犯しましたが、正直にその罪を告白しました。いずれ偉大なる審判者が、その罪と、誠実さに見合った正しき裁きをお下しになります。貴方はその日まで、今日のように正直でありなさい」
下男は平伏し、感謝の祈りを捧げました。
――アルティス聖教会聖典『創世の章』より抜粋
序章 ありふれた草の話
その少女がかつてどのような名であったのか知る者は、もはや彼女の他にはいないだろう。
それは誰にも知られる必要のないことだ。名前なんてものは、自他の区別をつけるための記号に過ぎない。ただし、名を与えられて初めて人は世界から認知され、名を失った者はこの世界から消えてしまう。
少女の名を呼ぶ者はもはやこの世にいない。だから名を失ったのと同じだ。貧しさと平穏だけがあった寒村は、双頭の魚を胸に抱く騎士たちによって焼き払われた。そのときに、少女はある誰かではなく、ただの“少女”になった。
――わたしも、もう死んだのと同じ。
少女は胸中でそのように呟く。
ここまで来た道程を、彼女は振り返らない。それは意味のないことだから。無意味な筋肉の動きに体力を割く暇があるのなら、一歩でも遠くまで離れなければ。この国はいかなる場所も教会に監視されている。妹を攫い、家族を、近しい人々を焼き払った奴らに。
少女の生まれた村もそうだった。読み書きができるのは教会にいる司祭だけで、外の世界とのやり取りは常に教会を通してだった。病気や怪我、結婚、出産、葬儀、およそ人生で起こり得るあらゆる出来事を教会に依存している。
それは少女にとってごく当たり前のことだった。教会は、偉大なる審判者は自分たちを守ってくれるのだとごく自然に考えていた。
けれど――そうではなかった。
人は、神になれない。審判者がどうであっても、教えを説くのも、それを実践するのも、所詮は人なのだ。人は、悪いことをする。人は、嘘をつく。人は、人を傷つける。人は、自分のためにならないことを、しない。
聖職者は特別な人々ではない――なかったのだ。十にもならない少女がそれを理解したのは、早かったのか、遅かったのか。死んでしまった大人たちはそれを理解していたのか。理解した上で、ただの人を通して審判者を奉じていたのか。
乱暴に少女の頬を打った司祭の顔を思い出す。そこにはただ虚無があった。幼い妹を拐かし、同胞によってこれまでともに過ごしてきた人々が斬り伏せられ、炎に焼かれていく様を見守る彼の心境がどのようなものであったのか、彼女に理解できる由もない。
――優しい人だった。
司祭様は優しかった。しかし最後はひどく思い悩んでいるように見えた。そう、あれは妹が《使徒》が視えると知られるようになってからだ。
アルレシャ大陸広しといえど、《使徒》を視ることができる人間はごく限られている。一人か二人、いるかいないかだ。とにかく、それができる者だけが教皇となる資格を持つ。そして教皇の座はここ数年の間、空位だ。聖職者の頂点に立つ教皇は、世俗との関わりを断たなければならない。外側より縁を持つ者に干渉されれば、教会内部のパワーバランスは容易に崩れる。そのくらい教皇の言葉というのは絶対的な意味を持つのだ。そして諸侯に対する教会の影響力も教皇の絶対性あってのものだ。
その理屈を少女が理解したのは、しばらく後になってからだ。人は、神になれない。思い通りにならないことは山ほどある。現実と理想の狭間に立たされた司祭、その苦悩が理解できた後は、そう恨む気にもならなかった。
――わたしは、もう死んだのと同じ。
少女は一度だけ、首を巡らせ、後ろを振り返る。
立ち止まった。
少女は漠然と理解していた。自分は生かされたのだと。殺してしまえばよかったものを、司祭様はわたしを匿い、逃がしてくれた。
「司祭様、どうしてわたしを生かしたの」
* * *
少女は意を決して街道に引き返した。あのまま人気のないところを歩いていても、いずれ衰弱して死ぬだけだろう。
農村では子供も貴重な労働力だ。野外で生活するための知恵を彼女も一通りは身に付けていたが、それだけで生き抜けるほどたくましくもない。
――命がある限り救われる日は来る、と司祭様は仰っていたわ。
固い地面を踏みしめて、少女は歩く。重い足取りで。
――滑稽だわ。
あんな目にあったのに、自分はまだ司祭の教えを信じている。なんと間抜けなことか。
もうすぐ日が暮れる。日が暮れては道を行く者もいなくなるだろう。そうなる前に人里に辿り着かなければ。
――言い訳を考えておかなきゃ。
教会に村が襲われたから、などとは口が裂けても言えない。聖騎士団の焼き討ちを受けた村の出身だと知られれば、それだけで異端者と誤解されかねない。
背後から蹄が地面を叩く音、車輪がぎしぎし軋む音が聞こえてくる。
人だ。人が来た。この際人買いでもいい。
これでせめて命だけでも繋がると思えば、少女はもう立っていることもできなくなった。地面の冷たさが膝を通して背筋を貫く。
「停めなさい」
しわがれた、静かな、しかし凛とした女性の言葉。車輪の軋む音が止まる。小さく馬の嘶く声。刑の執行を待つ罪人のような気持ちだった。少女は声のした方を見上げた。
馬車の戸を開けて現れたのは、ゆったりとしたローブを纏った女性だった。一目で聖職者と分かる服装の、痩せた老婆。顔からは確かな年輪を感じるのに、背筋はぴしりと伸び、堂々として威風を感じる。それなりの力がある人なのだと、無知な少女にも分かった。
女性は騎士らしき女を伴っていた。みすぼらしい少女の身なりを見て、女騎士の目が険しくなる。
少女は唾を呑み込もうとした。ああ、飲みくだすものが何もない。口の中がカラカラに渇いている。
女性は手の平だけで女騎士を制し、す――と少女に向けて一歩踏み出した。少女が体を固くすると柔らかく微笑み、跪いて少女と目線を合わせる。
「怯えることはありません」
女性は静かに語りかける。
感情よりも理性に語りかけるような静かな声音だった。
「わたくしはベネトナシュ修道院の院長、クレアと言います。迷える子羊をその事情を問わず受け入れるのが我が院の方針です――もちろん、男性はお断りしていますが」
クレアと名乗った女性は、傍らの女騎士に「彼女に水を」と声をかける。女騎士が差し出した木の器に、数秒躊躇ってから、少女は口を付けた。
渇ききった口を冷たい水が潤していき、同時に頭の中が明晰になる。
修道院の院長。少女に難しいことは分からないが、それなりに地位のある女性なのだろう。教会の人間に縋って、見過ごしてもらえるものか?
シラを切るしかない。わたしはただの浮浪児。親元から逃げてきたただの不幸な子供。
少女は小さく唇を噛んだ。
「貴女は、どこから来たのかしら」
「……遠くから……よく覚えて、いません」
「そう。名前を聞いても?」
静かな声で問いかける女性の目を、少女はじっと見つめ返す。
――ああ、この人はもう既に全部知っていて、知っていてわたしに立ち向かう力があるか試しているのか。
根拠など何もなかった。ただ、為したいことがあるのなら。
――わたしは一度死のう。この世界からいなくなろう。
「……メリッサ」
近い未来、教皇となるであろう妹も、かつての名を奪われ、この世界から消えるだろう。
死んだ人間に会えるのは、死んだ人間だけだ。
第一章 お転婆王女と見習い神主
アル=ナスル王城の訓練場。その一角のさして広くないスペースを、聖騎士のアンリエッタを含む、多くの兵と少しばかりの女中や侍女が取り囲んでいる。
その中心にいるのは、先日王都に出現した強大なる神敵《七大悪魔》レヴィアタンを打倒した教会の若き退魔士、藤重爽悟。本日開催されるセファス・ウル・ランシード――現在はジェイルと名乗っている――の伯爵位授与を祝した夜会に出席するために城に招かれていた。これは、爽悟の活躍を讃える場でもある。彼は主賓なのだ。だが、古株の兵士や使用人の中には、どこの馬の骨とも知れない若者が城を歩き回るのを不安視する者もいるので、このように下々の目に触れる形でもお披露目をしておこうという名目で、ここにいた。
まずグスタヴ近衛隊長が手合せをする。近衛隊長は王国随一の剣士であるが、腕前を衆目に晒すことは滅多にない。それだけでも、兵士たちにとっては一見の価値がある。しかも、その相手というのが、教会聖騎士団が総がかりでも不可能だった《七大悪魔》を打倒した大陸最強クラスの退魔士なのだから、行かない理由がない。
侍女や女中に関しては、容姿端麗と評判の爽悟の姿を見たい、というのもあっただろうが。
まあ、いずれの気持ちも分からないではない。
アンリエッタだって、できればグスタヴと手合せをさせてもらいたい。自ら剣技を封じている隣の男――ジェイルがどう考えているかは分からないけれども、この一戦に興味くらいは抱いているはずだ。
アンリエッタは視線を巡らせる。
しかしこんなことをしている場合なのだろうか?
――数日ほど前、平和だった王都アル=ナスルは滅亡の危機に陥った。ジェイルの生家であるランシード伯爵家とその州都であるアスケラの街を壊滅させた《七大悪魔》レヴィアタンが王都の上空に出現したのだ。
この世界――アルレシャ大陸と対になる異世界(つまり現代の日本)から、『神社ごと召喚されてきた』藤重爽悟の活躍によってレヴィアタンは調伏された。だが、誰がレヴィアタンを引きこんだのかも、王都に蔓延る不正の全貌も未だに明らかになっていない。人身売買の件もそうだ。仲介していた宿は判明した。しかし、首謀者も動機も分かっていない。
これまで「動きづらいから」「死体の一部だから」と敬遠していた革製の防具を侍従――ファルという名前の少年だ――の補助で身に着けている爽悟と、瞑目して椅子に座しているグスタヴ。アンリエッタは二人を順に見やると、そんな内心の疑問を口に出した。
隣にいるジェイルは二人だけではなく全体を観察しながら、その疑問に答える。
「国王陛下直々のお達しだとよ」
「陛下が?」
「お偉方の考えることは分からんが、要はガス抜きだろ。相当ピリピリしてるからな」
ジェイルの言葉にアンリエッタは、ふむと考え込む。
一理あるかもしれない。
城下であれだけの騒ぎがあったが、王家は具体的に何かしたわけではない。内外を問わず、上層部に対して不信や不満を募らせる者は多いだろう。娯楽の提供、そして王家に仕える戦士たちの筆頭に立つ近衛隊長の実力を示す。それが目的に違いない。手間も予算もさしてかからないのだから、火消しとしては上々のはずである。
まあいい、元々政治の話は苦手なのだ。アンリエッタは顔を上げ、鎧の感触を確かめている爽悟に目線を戻す。
「ソーゴ殿は革鎧を割と嫌がっていたように思うが――さすがにグスタヴ卿相手では怪我も免れぬと判断したのか」
「あいつの考えてることはこれっぽっちも分からんよ」
それこそ考えるだけ無駄だ、とジェイルは手を振った。
「グスタヴ卿に本気で打たれたら、それこそあんな革鎧に意味なんてないと思うが――というか、よくあいつの体格に合うのがあったな」
爽悟の骨格は、平均的なエルナト人男性に比べてかなり華奢だ。小柄な男性ももちろんいるが、既製品の革鎧ではぶかぶかだろう。
「――あれは元々女性用ですのよ。胸や腰回りで多少サイズ調整はいたしましたが、急場しのぎとしては上々の出来ですわ」
「確かに下手な女より細いからな、あいつ」
「まるで見て触って確かめてきたような物言いですわね」
「いかがわしい言い方はやめろ……ってどちら様で?」
「あら」
話に割って入ってきたのは女だった。侍女の一人だろう。質の良い服を着ているので、その中でも位は高そうに思えるが、それにしても若い。アンリエッタより少し年上くらいか。
「申し遅れました。わたくしはナタリと申します。第一王女ヴィクトリア殿下の侍女を務めております」
丁寧に一礼をしてみせるナタリには、確かに貴人に侍るだけの風格があるように見える。だが今の言動といい、どうにも胡散臭さの抜けない女性だ。
「……王女殿下の侍女がなぜこちらに?」
聖騎士でありながら気配に気付けなかった――ジェイルにしたって、今は一応要人なのだ――こともあり、アンリエッタは多少警戒しつつナタリから目を逸らさず問うた。
「まあ、そのように熱く見つめられては恥ずかしゅうございますわ……」
頬を赤らめ身を捩らせるナタリ。
「女子修道院ってそういうの多――」
「君は余計なコメントをせんでいい!!」
ジェイルのとんでもない誤解に思わず声を荒らげるアンリエッタ。いけない、ここは人目もある。アンリエッタはただの平聖騎士だが、ジェイルはこれから伯爵になる人間だ。立場が違う。落ち着こう。アンリエッタは小さく息を吸い込み、改めて問いかける。
「失礼だが、王女殿下の侍女殿がなぜこのようなところに?」
「うふふ、可愛らしい方、そう警戒なさることはありませんのよ?」
ねっとりと絡みつく視線に、アンリエッタは多少怯みそうになる。ベネトナシュ修道院で任務についていたときも、この手の視線はあったが……
「……気配を消して近寄ってこられれば警戒もする」
「どうかご容赦を。主の機嫌が麗しくないときは、音も立てずに動くこともありますもの。身についた癖なのです」
「で、お務めを放り出して何してんだ、侍女殿?」
苛立ちが露骨に表れはじめたアンリエッタを制して、ジェイルが本題に切り込む。
「これもお務めのうちですわ。その主の命なのです」
「ああ」
ナタリの返事に、ジェイルは一応の理解を示した。
「未婚の王族がこんな汗臭いところには来れんからな」
「まあ、これはこれで、という臭いではございますが」
「……」
「あらいやですわ、冗談です」
嫌な顔をしたジェイルに、ナタリは胡散臭い笑みを向ける。汗臭いというのは、ものの譬えだ。実際の臭いのことを指しているわけではない。
「お察しの通り、姫様もそろそろ結婚が決まる時期ですから……今更、といったところはありますけれど」
諦めたようなナタリの言葉に、ジェイルとアンリエッタは顔を見合わせた。
エルナト王国の琥珀の姫君、それが第一王女、ヴィクトリア姫の綽名である。亡き王妃マグダレーナ瓜二つの美姫である、ということくらいしか、ジェイルもアンリエッタも知らない。これまで表舞台にまったく立ったことのない人物だからだ。いや、あるいは、表舞台に立てないような理由があったのかもしれない。例えば極端に素行が悪いだとか。
「それはともかくとして、ソーゴ様には実に興味深いものがありますわね。ジェイル卿もアンリエッタ卿も、ソーゴ様と立ち合いをしたことがありますのでしょう? いくら審判者のご加護があるとは言っても、国一番の剣士であるグスタヴ卿に敵うものですかしら?」
一国の王女の侍女という立場の人間が、そういった情報を得ていないはずがないのだ。ジェイルは胡乱げにナタリの顔を見やると――
「……」
突然アンリエッタの腕を掴んだ。
「!?」
「――少なくともアンリエッタよりは細いが、その割には一撃が重いんだ。まあなんかタネがあるんだろうが」
がっしりとした男の手の感触……。アンリエッタはしばらく硬直し、顔を赤くした。
「な、何をする!?」
「は? 別に腕触るくらいいいだろ。つか、あんたも剣やってる割に細いよな。《剣》属性は肉体強化が多いからその影響か――アダレード将軍は俺より大分太かったよな」
「わ、わたしは別に細くなどっ……いや、太くなんて絶対あり得ないが……ッ、いや、いい加減手を離せ!」
「ああ、悪ぃ」
怒鳴られて、ジェイルはあっさりアンリエッタの腕を解放した。アンリエッタの腕は、普通の女と比べれば多少太く筋張ってはいるが、戦士としてはやはり細い。法術によって腕力を補えるので、そこまで筋肉を鍛える必要がないのだ。
「アダレード将軍は月のものが煩わしいからと自ら子宮と卵巣を抉り出したという逸話がありますわね――それ以降殿方に負けないくらい筋肉がつくようになったとかならないとか。本当かどうかは分かりませんが」
「あの御仁ならやりかねんな」
ナタリの言葉に、ジェイルは頷いた。
「将軍閣下にお会いになったことが?」
「ガキの頃にな」
アダレード将軍は大陸全体の歴史を通しても珍しい、女性の将軍だ。有事に備えて別のところに自らの拠点を置いていることが多く、今回もそのご多分に漏れない。
ジェイルは肩を竦める。実際のところ、軍隊を纏める将軍自身がそこまで強い必要はないが、月一で不調や不機嫌が来るのは下につく兵たちにとっても面倒だろう。ジェイルは子供の頃出会った、女と思えないくらい厳つい将軍の立ち姿を思い出す。女としての諸々を棄てていそうではあった。
「こほん――しかし、ソーゴ殿は大丈夫なのか? レヴィアタンと戦ってから三日三晩も眠っていたし、昨夜も体調が優れなかったようだが」
「あいつ体調崩したりすんの?」
「いや、人間なのだからあるだろう、それくらい……」
「――おや、ソーゴ様の支度が整ったようですわね」
爽悟が立ち上がった。手を開いたり閉じたり、体を軽く捻ったりして防具の様子を確認している。侍従のファルといくつか言葉をかわす。ファルは一瞬すごく嫌そうな顔をしてから、観衆に向けて声を張り上げた。
「ソーゴ・フジシゲ殿がグスタヴ近衛隊長との仕合の前に、防具に体を慣らしたいとのことです。どなたか腕に覚えのある方はおりませんか!」
――つまり、本番の前に余興をやってやるということだ。
この華奢な黒髪は、どう見ても強そうに思えない。日頃訓練を積んでいる兵士たちからすれば、片手で手折れそうな見てくれだ。しかし、それなのにあの巨大な《七大悪魔》と戦ったのである。その不気味さに、皆は尻ごみしていた。何よりグスタヴ近衛隊長が仕合う価値がある、と認めた相手である。迂闊に名乗り出て瞬時にひねりつぶされたら、身のほど知らずと恥をかくだけだ。
微妙な空気が場に満ちる。
誰もが動かない中、一人だけ進み出た者がいた。
「んもう、どいつもこいつも情けないわねぇ。アタシがお相手させてもらえるかしらぁ?」
女のように甘ったるい口調だが、声はれっきとした男――深みのあるバリトンだ。
濃い栗色の髪をオールバックにして、顎には口調に似合わぬ短い髭を伸ばしている。目は少しばかり垂れ気味だが、全体に彫りが深く、『甘いマスク』という言葉が似合う顔貌。年のころは三十代半ばで、一見ひょろりとしているが、よく観察すればがっしりとした筋肉が必要なだけついていると分かる。
それを見たナタリが「あらまあ」と呟いている。珍しく少しばかり驚いた様子だ。
「まさかゴードン卿がお出ましとは」
ジェイルは城に出入りするようになって幾日も経っていない。王国の要人の中には、名前は聞いていても実際に会ったことのない者もいるだろう。それでも名前を聞いてすぐにその正体に思い当たったらしい。
「へぇ、あの優男が歩兵隊長――思ったより若いな」
「優男というか……」
ジェイルの声を聞いて、あれはオカマというのでは、とアンリエッタは言いかけたが、失礼にあたるかと一応言葉を呑み込んだ。
エルナト王家が直轄する王国軍の組織は、将軍を頂点に歩兵隊、騎兵隊、弓兵隊に分かれる。この中で最も数が多いのが歩兵隊だ。というより騎馬を扱う者、弓を扱う者を除いたほぼ全員が歩兵隊の所属となる。歩兵隊長であるゴードンは、そのトップに立つ男なのだ。
兵士たちのゴードンの評価は、概ね高い。訓練には手を抜かないが情に厚く、面倒見が良い。規模の大きい歩兵隊の隅から隅まで常に気を配っている。戦士としても実力は十分だ。これという得意分野はないようだが、かなり多彩な武器を、一流と言って良い技術で扱うことができるらしい。
少なくともジェイルやアンリエッタと同等かそれ以上の実力者だ。余興にしては少しばかり豪華な相手に思える。
だが爽悟は静かに頷いた。どうせ彼のことだ、元より誰が来たところで断るつもりなどないのだろう。
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