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序章
【1】奇病─山下神社にて─
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終わりかけの梅の花が咲く坂道を、山下圭太は登っていく。山から程遠くない田舎町。暖かな日が増えてそこここに春の気配を感じる三月下旬。
山奥の、あの家の庭にも咲いていた紅梅だ。あちらはここより更に花の時期が遅いから、まだ咲き始めかな。
幼い頃しばらくの間暮らした、懐かしい故郷を思い浮かべながら、少しの感傷に浸る。
社務所に向かう途中、神社の参道に何か塊が、と思った時、ハッとして、圭太はそこへ駆けた。浅葱色の袴が泥はねて汚れてしまうのも構わずに、圭太はその蹲っている人物に駆け寄った。
「どうかしましたか?」
「……頭が、痛いんです」
蹲っていたのはこの地域に住む30代くらいの女性で、見覚えがあった。
白く細い手で額を押さえて呻いている。手を避けさせて額を見ると、その異様さに、圭太はゾッとした。額の皮膚を割るようにして、何かが生えかけているのだ。ちょうど乳歯が抜けた後、大人の歯が生える途中のように。
「何だ、これは…」
「この間から…膨らんではいたのです。病院に、明日行こうと思ってて…
痛っ!」
まるで角だ。額からは血が滲んでいる。生え際の周りは紫に鬱血していた。
「とにかく病院へ、歩けますか?」
首を横にふる。足に力が入らないのだそうだ。圭太はその人を抱えると、自宅脇の自分の車へとその人を運んでいく。
「圭太、なんの騒ぎなの?」
社務所の窓から、姉の百合子が顔を出した。
「誰?倒れたの…?って、何それ!」
「姉さん、母さん呼んでくれる?」
圭太の真剣な声に、百合子はハッとして、頷いた。
「車で病院へ運ぶから、姉さんは母さんを裏口で待たせて。あと今日の祭事は別の日に変えてもらうように知らせてくれる?地鎮祭は隣町の神社に代わってもらって?昼からだから都合着くと思うし」
「わかった」
百合子は渡り廊下を走って自宅へ向かった。圭太は車の鍵を開けて、後部席のシートに女性を座らせると、そこにあったひざ掛けをかけてやる。
「夫に、連絡…」
「確か、東堂さんのところの奥さんですよね?自分で電話出来ますか?」
「はぁ、はぁ…はい、何とか」
「痛いのは生え際?それとも中身も痛む?」
「頭全体が痛い…」
エンジンをかけて、裏口の横に乗り付けると、母が既に外に出られる準備をして待っていた。母はもう七十だが、背筋はしゃんとして、頭も耳もまだまだ達者だ。
「圭太」
「母さん、この人…」
圭太は緊張した顔で母親を見る。母の表情から、自分の推測が間違いではないと気がついた。
「やっぱりそうなんだね?」
圭太が言うと、母はうなづいた。
「百合子、漢方薬師のサネさんに連絡寄越すように手配してくれるかい」
「わかった!」
「とりあえず今ある薬湯を飲ませて、病院に行くか。医術ではどうにもできないだろうが、手当するなら設備が整ってる方がええ」
圭太は、母の言葉通りに調合した薬湯を用意すると、東堂美幸と名乗った女性に飲ませる。薬湯のお陰か幾分か痛みが落ち着いたようなので、母を伴って設備の整った病院へ、美幸を運ぶことになった。
その道中、美幸は祖母から聞いていた事を思い出して、と言った。
身体におかしな異変を感じたら、うちの神社を尋ねるようにと言われていたそうだ。病院は今日休みだったので、とりあえず、神社に相談しようと、夫を送り出したあとやって来たのだとか。
母とは昔なじみの医者がいるその病院に着くと、受け入れを待っていてくれた看護師が、美幸の額を見てギョッとし、他の看護師と顔を見合せた。
「この人いちばん酷い…」
一人の若い看護師が漏らした言葉を、老婆は聞き逃さなかった。
「あんた、ほかにも同じ症状の患者がいるんかね?」
「あ…」
「個人情報がどうのって言うなら名前は言わなくてもいい、何人くらいいるんだい?」
「えっと…」
「はぁ……面倒臭いねぇ。吉岡先生に倉田鮎子が来たと伝えてくれるかい?とりあえず私がこの人に付き添うから」
仕方なく旧知の医者の名前を出した。
後に戻ってきた看護師から聞いた話によると、数日のうちに病院には似た症状の患者が数名いたそうだ。いずれも額から角が出そうな腫れがあるという。頭痛に吐き気、倦怠感。気の毒だが食べられない人にだけは栄養剤の点滴をし、痛み止めを服用させるくらいしか処置が出来ないそうだ。
「倉田さん」
廊下の向こうから五十過ぎの医師が青ざめた様子でやってきた。吉岡康介という。鮎子とは昔なじみで遠縁にあたる。
「女ばっかりか?」
「ええ、女性ばかりです」
「やっぱり…」
ため息混じりに言った老婆はその隣の椅子に座り込んで額を抑えた。
「祟りだ」
「祟り?」
吉岡は眉をひそめた。
「いや、あれは昔話で…」
吉岡も何となく事情に通じているようだ。
「あんたの娘は大丈夫なのか?」
「小夜が?」
「あんたの祖母はあの村の出だろう。少なくとも血は引いてる」
吉岡はギョッとして、外に出て家へ電話を入れた。
「ああ、康介さん、どうしたの?」
妻の声と電話の向こうで水道をとめたような音がした。家事の途中だったのだろう。
「小夜、小夜から連絡ないか?」
「え?ああ、なんか今日頭が痛いから会社休んだとかで…」
妻からの言葉に、一瞬怯んだ。恐れていることが起こりつつある。
「これから迎えに行ってやれ、家に連れて帰ってこい、その病は下手な病院ではダメだ」
「病?ただの頭痛でしょ?」
「いいから、……頼むよ、言う通りにしてほしい。この後問診をメールするから、小夜をとにかく迎えに行って家で見てやってくれ」
「なによ……まあ、あなたがそういうなら。わかった」
妻は不審がりながら電話を切った。問診票を写真に撮って送る。スマホの画面を閉じた吉岡は、後ろにいた倉田鮎子を振り返った。
「倉田さん、本当にこれは…」
「ああ、竜人様の祟りだよ。言われの通りじゃないか」
重々しい空気が互いの間にのしかかる。二人は苦い面持ちで、立ちつくした。やがて窓の外に雨が降ってきた。鮎子は窓越しに曇天を見上げる。
(私は、何をどう動けばいいのか……)
ため息をついて目を閉じた鮎子の眼裏には、雨に白くけぶった山々が、幻想的で美しい里がうかんでいた。
軒先で、折り紙やあやとりをしたり、幼なじみのあの子といれば、薄暗い雨の日も心細くなかった。あの子が幸せであって欲しい。離れた後もそう願ってきた。
(だけど、もう、知らない顔は出来ない)
鮎子は一人ひっそりと覚悟を決めた。
山奥の、あの家の庭にも咲いていた紅梅だ。あちらはここより更に花の時期が遅いから、まだ咲き始めかな。
幼い頃しばらくの間暮らした、懐かしい故郷を思い浮かべながら、少しの感傷に浸る。
社務所に向かう途中、神社の参道に何か塊が、と思った時、ハッとして、圭太はそこへ駆けた。浅葱色の袴が泥はねて汚れてしまうのも構わずに、圭太はその蹲っている人物に駆け寄った。
「どうかしましたか?」
「……頭が、痛いんです」
蹲っていたのはこの地域に住む30代くらいの女性で、見覚えがあった。
白く細い手で額を押さえて呻いている。手を避けさせて額を見ると、その異様さに、圭太はゾッとした。額の皮膚を割るようにして、何かが生えかけているのだ。ちょうど乳歯が抜けた後、大人の歯が生える途中のように。
「何だ、これは…」
「この間から…膨らんではいたのです。病院に、明日行こうと思ってて…
痛っ!」
まるで角だ。額からは血が滲んでいる。生え際の周りは紫に鬱血していた。
「とにかく病院へ、歩けますか?」
首を横にふる。足に力が入らないのだそうだ。圭太はその人を抱えると、自宅脇の自分の車へとその人を運んでいく。
「圭太、なんの騒ぎなの?」
社務所の窓から、姉の百合子が顔を出した。
「誰?倒れたの…?って、何それ!」
「姉さん、母さん呼んでくれる?」
圭太の真剣な声に、百合子はハッとして、頷いた。
「車で病院へ運ぶから、姉さんは母さんを裏口で待たせて。あと今日の祭事は別の日に変えてもらうように知らせてくれる?地鎮祭は隣町の神社に代わってもらって?昼からだから都合着くと思うし」
「わかった」
百合子は渡り廊下を走って自宅へ向かった。圭太は車の鍵を開けて、後部席のシートに女性を座らせると、そこにあったひざ掛けをかけてやる。
「夫に、連絡…」
「確か、東堂さんのところの奥さんですよね?自分で電話出来ますか?」
「はぁ、はぁ…はい、何とか」
「痛いのは生え際?それとも中身も痛む?」
「頭全体が痛い…」
エンジンをかけて、裏口の横に乗り付けると、母が既に外に出られる準備をして待っていた。母はもう七十だが、背筋はしゃんとして、頭も耳もまだまだ達者だ。
「圭太」
「母さん、この人…」
圭太は緊張した顔で母親を見る。母の表情から、自分の推測が間違いではないと気がついた。
「やっぱりそうなんだね?」
圭太が言うと、母はうなづいた。
「百合子、漢方薬師のサネさんに連絡寄越すように手配してくれるかい」
「わかった!」
「とりあえず今ある薬湯を飲ませて、病院に行くか。医術ではどうにもできないだろうが、手当するなら設備が整ってる方がええ」
圭太は、母の言葉通りに調合した薬湯を用意すると、東堂美幸と名乗った女性に飲ませる。薬湯のお陰か幾分か痛みが落ち着いたようなので、母を伴って設備の整った病院へ、美幸を運ぶことになった。
その道中、美幸は祖母から聞いていた事を思い出して、と言った。
身体におかしな異変を感じたら、うちの神社を尋ねるようにと言われていたそうだ。病院は今日休みだったので、とりあえず、神社に相談しようと、夫を送り出したあとやって来たのだとか。
母とは昔なじみの医者がいるその病院に着くと、受け入れを待っていてくれた看護師が、美幸の額を見てギョッとし、他の看護師と顔を見合せた。
「この人いちばん酷い…」
一人の若い看護師が漏らした言葉を、老婆は聞き逃さなかった。
「あんた、ほかにも同じ症状の患者がいるんかね?」
「あ…」
「個人情報がどうのって言うなら名前は言わなくてもいい、何人くらいいるんだい?」
「えっと…」
「はぁ……面倒臭いねぇ。吉岡先生に倉田鮎子が来たと伝えてくれるかい?とりあえず私がこの人に付き添うから」
仕方なく旧知の医者の名前を出した。
後に戻ってきた看護師から聞いた話によると、数日のうちに病院には似た症状の患者が数名いたそうだ。いずれも額から角が出そうな腫れがあるという。頭痛に吐き気、倦怠感。気の毒だが食べられない人にだけは栄養剤の点滴をし、痛み止めを服用させるくらいしか処置が出来ないそうだ。
「倉田さん」
廊下の向こうから五十過ぎの医師が青ざめた様子でやってきた。吉岡康介という。鮎子とは昔なじみで遠縁にあたる。
「女ばっかりか?」
「ええ、女性ばかりです」
「やっぱり…」
ため息混じりに言った老婆はその隣の椅子に座り込んで額を抑えた。
「祟りだ」
「祟り?」
吉岡は眉をひそめた。
「いや、あれは昔話で…」
吉岡も何となく事情に通じているようだ。
「あんたの娘は大丈夫なのか?」
「小夜が?」
「あんたの祖母はあの村の出だろう。少なくとも血は引いてる」
吉岡はギョッとして、外に出て家へ電話を入れた。
「ああ、康介さん、どうしたの?」
妻の声と電話の向こうで水道をとめたような音がした。家事の途中だったのだろう。
「小夜、小夜から連絡ないか?」
「え?ああ、なんか今日頭が痛いから会社休んだとかで…」
妻からの言葉に、一瞬怯んだ。恐れていることが起こりつつある。
「これから迎えに行ってやれ、家に連れて帰ってこい、その病は下手な病院ではダメだ」
「病?ただの頭痛でしょ?」
「いいから、……頼むよ、言う通りにしてほしい。この後問診をメールするから、小夜をとにかく迎えに行って家で見てやってくれ」
「なによ……まあ、あなたがそういうなら。わかった」
妻は不審がりながら電話を切った。問診票を写真に撮って送る。スマホの画面を閉じた吉岡は、後ろにいた倉田鮎子を振り返った。
「倉田さん、本当にこれは…」
「ああ、竜人様の祟りだよ。言われの通りじゃないか」
重々しい空気が互いの間にのしかかる。二人は苦い面持ちで、立ちつくした。やがて窓の外に雨が降ってきた。鮎子は窓越しに曇天を見上げる。
(私は、何をどう動けばいいのか……)
ため息をついて目を閉じた鮎子の眼裏には、雨に白くけぶった山々が、幻想的で美しい里がうかんでいた。
軒先で、折り紙やあやとりをしたり、幼なじみのあの子といれば、薄暗い雨の日も心細くなかった。あの子が幸せであって欲しい。離れた後もそう願ってきた。
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