右腕狩りのヨシュア

彗星無視

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第七話 アイラ・スノーボールの報いと祈り 1/2

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 アイラ・スノーボールは、家族を亡くしてからずっと暗闇の中にいた。
 もちろん物理的な意味ではない。当時まだ十二歳という幼い彼女にとって、母と父と弟を一度に失う経験は重すぎた。
 同じ家で、ずっと同じように過ごしてきた家族。何年もずっとそうだったのだから、根拠もなく明日も明後日もそうなのだとばかり考えていた。
 突如として日常を失ったアイラは、同時に生きていく上での標も失った。まだ精神の芯を確立させていない子どもだった彼女には、頼るべき代替が必要だった。
 だからアイラは、信仰に縋った。

「異世界転生者……悪魔によってこの教国に転生させられる、神敵」

 ヨシュアが遠く、第二視野で街並みを見下ろしながら屋根の上を駆け回っている頃。
 ひとりになったアイラは、口の中で探すべき対象の教会における一般的な認識を呟きつつ、街路を歩いていた。
 人通りは、そう多くない。
 人の多い区画はヨシュアが担当した。ヨシュアはその聖寵によって簡単に建物の上に登り、たくさんの人数を一気に視界に収めることができるからだ。
 視界。当然、眼窩を埋める眼球ではなく、ピクシスに移植した奇蹟の眼ピスティスの。

「……ここにも、いない」

 その第二の視野を、アイラはまだ十全に操れてはいない。
 ピクシスも普段、布に包んでいる。そうでないと、顔面上部の眼球とそこから離れた移植眼球の視野の差で頭が混乱し、平衡感覚を失ってしまう。
 とはいえ、異世界転生者を見つけ出すにはピスティスを使うほかない。ピスティスに備えられた烙印透視の力で、潜む転生者の右腕に刻まれた螺旋を感知する。
 そのために街を歩きながら、アイラは時おり立ち止まっては、布をぺらりとめくってピクシスに埋め込まれたかつて自身の右眼だった眼球を晒す。

 彼女も、止まっていれば第二視野の把握くらいは流石にできた。訓練の賜物と言えたが、それでもまだまだヨシュアにしてみれば未熟の一言だ。
 ピクシスの布をめくるたび、しびれるような緊張がアイラの身体を覆った。
——もし、そこに異世界転生者がいたら。
 決して否定できない恐怖が心の底から湧き上がる。それを使命感で塗りつぶし、アイラは立方体に埋め込んだ瞳に集中する。
 ……いない。

「——、ふぅ」

 何度目になるだろうか。道の隅でピクシスを露出し、第二視野の中に転生者であることを示す浮かび上がる螺旋模様がないことを確認すると、アイラは息を吐いてピクシスを再度布で覆う。
 転生者の人相は上がっているから、ピスティスで確認せずとも見ればそれとわかる可能性はある。
 けれど、アイラは怖かった。見落としてしまえば? もし気づけなければ? シスターの情報に誤りがあれば?
 一切の疑いを持たず信用できるのは、烙印を見抜く機能。ピスティスに組み込まれたシステムのみ。

 なにせピスティスは奇蹟の眼。
 全能所有者、唯一神から賜る奇蹟の一端。
 それは信仰の具現でもあった。ゆえに、信仰に縋るアイラはピクシスにも縋らずにはいられない。とりわけ暗闇をはねのける暗視の力に。
 たとえ、才に秀でず鍛錬も足りない自身には、まだ上手く扱えないとしても。

「落ち着いてなんかいられない……転生者を探さなくっちゃ。わたしは、悪魔憑きを倒して烙印を祓う、エクソシストなんだから」

 前を向き、歩みを再開する。
 その足取りは、恐れと迷いを塗りつぶす使命感に満ちている。
 そう、アイラにあるのは使命感だけだった。エクソシストとしての義務、信仰に支えられたそれだけが怖がりな彼女を歩ませている。
 ヨシュアが危惧する、先走る復讐心など彼女にはなかった。
 家族のことは今でも想っている。けれど、それが復讐心につながるかどうかは別の問題だった。

 誰かを恨むこと、怒ることは怖い。なぜならその激情は自分にも返ってくる。
 ただ、関わらずにいたかった。家族を殺し、エクソシストの手からも逃れた悪魔憑き。そんな恐ろしい怪物とは縁もゆかりもない場所で、家族のことは心の中の大切な思い出の箱に仕舞っておいても、家族を殺した相手のことなどできる限りさっぱり忘れてしまいたかった。
 アイラは怖がりで、年相応に弱かった。
 ヨシュアとは違う。
 ヨシュアの家族や村のひとたちを殺めた転生者は既にドルヴォイによって殺されているが、仮にもし生きていればヨシュアは迷いなく復讐に身を捧げたことだろう。わずか十歳で家族を亡くしながら、固い意思で以って機械たれと己を律する彼とは、生まれ持つ心の強度が違うのだ。

「……え?」

 そんな怖がりの彼女の左目に、見覚えのある長身が映った。

「——」

 数メートル先、建物と建物の間にある細い路地。そこから半身だけを出して周囲を窺う男。
 やはりピスティスがなくともアイラはすぐに気が付いた。それは三年前、母と父をどっちがどっちなのかわからなくなるまでバラバラにして血の海で混ぜ合わせ、そのそばに胸と腹に頭ほどの大きさの穴を穿ち、この世で一番の苦痛を与えたような凄絶な表情で息絶える小さな弟の死体をまるで格調高い料理の付け合わせのごとく添えた男の面だった。

「あ……」

 枯れ木を思わせる痩躯。顔には、頬から顎にかけての深い傷の痕。
 男はそのうろのような真っ黒い目で通りをちらと一瞥すると、また路地の中へと戻っていく。

「ま、待っ——」

 見つけた。見つけてしまった。
 異世界転生者。悪魔憑き。殺すべき神敵。
 任務の対象であり家族の仇でもあるその男性を見つけ、アイラはいささかならず動揺したものの、ヨシュアの注意を忘れてしまったわけではなかった。
——交戦は、するな。絶対だ。
——発見しても単独での交戦は避け、可能であれば尾行して住処を確認。

「はい……っ、わかってます、先輩」

 異世界転生者が有する最大の危険性は、言うまでもなくその烙印に宿る、悪魔に与えられた異能だ。
 そしてその異能は、烙印を励起——黒い螺旋のそれを黄金色に輝かせた状態でなければ使用できない。
 つまり、烙印励起をしていない状態の異世界転生者は、ただの人間だ。少し凶暴だったり残忍性が異常に高く度を越えた暴力衝動を抱えるだけの。
 よって効果的なのは不意打ち。戦闘行為にさえならない暗殺だった。
 そのために、まずは尾行によって居住する場所を確認し、算段を立てて殺す。それが最も安全なやり方だ。

 アイラは音を殺し、男の後を追って路地へと入り込んだ。
 直後、その手を強く掴まれた。

「え、ぁ……きゃぁっ!?」

 そうしてアイラは路地の壁に叩きつけられ、咳き込む間もなく喉を締め上げられる。

「うっ……」
「——? なんだ、子どもじゃないか。そうか、まあこういうこともあるんだな。小さくともエクソシストには違いない」

 待ち伏せをされていた。
 そう理解するとともに、喉元を圧迫する手の力が増す。
 喘鳴を漏らしながら自然と涙のにじむ左眼で男を見ると、転生者もまた妙に表情に乏しい顔でアイラを見つめていた。
 アンバランスな目だった。
 顔から表情は抜け落ちている。なのに、その目には昏い殺意が沈殿している。隠しきれない総量で。

「は、な……して!」
「っと」

 アイラはエクソシストであればほぼ例外なく携帯するナイフを腰から抜き放ち、なんとか抵抗とばかりに振るう。転生者は軽く跳び退き、路地の入口側に立った。
 退路を阻んでいるのは明白だった。

(待ち伏せ……路地で。そっか……このひとは、初めから)

——エクソシストを、狙っていた。
 使命感では塗りつぶし切れない恐怖が、胸を裂いて出てきてしまいそうだった。
 未熟であってもアイラは頭の巡りは悪くない。
 点と点がつながるように、状況への経緯が思考の中で結実していく。

「自己紹介から始めよう。オレは持木幸雄もちきゆきお、こんな名前だがお前たちエクソシストにこの醜い傷をつけられた、不幸で不遇な男だよ」

 芝居がかった所作で、幸雄と名乗った転生者の男は顎の辺りを指差した。塞がってなお、皮膚の色がそこだけ違う傷の痕。

「自己紹介、なんて要りませんよ。異世界転生者、烙印を宿す悪魔憑き!」
「つれないな、よければお前の名前も聞かせてほしいのだが。名を交換することこそ、互いを理解する一歩だろう?」
「理解なんてできませんっ。人を殺す、獣と変わらない異世界人たちのことなんて!」

 幸雄がシスター・パトゥの前に姿を表したのは、偶然でも失態でもない。
 故意だ。わざと教会の前に姿を見せ、エクソシストを呼ぶための。
 ヨシュアとアイラはそんなことを知るはずもなく、まんまと餌に引き寄せられ——こうして今、アイラの方が罠に掛かった。よりにもよって未熟で実戦経験もない方がだ。

「ひどい言いようじゃないか、エクソシスト! 人殺しはお前たちの方だって変わらないはずだろ? なにせ転生直後の日本人を見つけ出して、ぶち殺したうえで右腕を刈り取ってくのがお前らの職務だものな」
「黙りなさい、神の敵……!」
「オレはその神サマってのに選ばれてここにいる。でも神サマも融通が利かなくっていけない。日本でもこっちでも、オレはまったく運が悪い」
「あなたの言う神とは、神を僭称する悪魔に過ぎませんっ」
「どれほどの違いがあると言うんだよ、そのふたつに」

 幸雄は不気味に、乏しい表情を張り付けながら、その場から動くわけでもなくアイラに向けて語り掛ける。

「聞いてくれよ、オレという男は本当に不幸でさ。日本でもオレぁ若くして無期懲役でね。いや、本当に大して悪いことなんてしてねえんだ。カッとなって難癖付けてきた奴なんかを殺しちまっただけで」

 それはまるで本当に対話を望んでいるようでもあり、かえって気味の悪さを強めた。
 そもそも日本の話などアイラにとってはよくわからないし、どうだっていいことだ。

「そんでまあ、恨みを買いすぎたんだろうな。まさか獄中で人に殺されるなんて思ってもみなかった。だがそしたらどうだ、いきなり神サマが異能なんてくれながら蘇らせてくれた。あの時ぁ本当にラッキーだって思ったね、ようやくオレにもツキってのが来たんだって」
「聞いてもないことをべらべらと……身勝手なひと。それは神ではなく悪魔だと、何度言えばわかるんですか」
「だったら悪魔でもいーよ。いやあ、不幸なのはこっからでさ。ほら、さっきも言ったこの傷。これはお前たちエクソシストにつけられたんだ」

——それはお前がわたしの家族を殺した時につけられたものだ。本当ならその場で殺されているべきだったんだ。
 そう声を荒げて言ってやりたかったが、アイラはぐっとこらえた。ひょっとすると、この男のなんとも言えないねばついた恐ろしさに気圧されただけだったのかもしれない。

「だから、お前たちエクソシストを全員殺してやることにした。できればなるべく不幸な目にも遭わせてから」
「……は? そんな、たかが傷ひとつで?」
「たかがだって? はぁ、子どもってのは無遠慮で想像力がなくて……ムカついてくるな。いいか、散々なんだよこっちは! 三年経って喋る時の痛みはなくなったが、物を噛むと未だにズキズキくる。わかるか? オレぁもう一生、なにを食っても心からおいしいとは思えないんだよ! この顎の傷のせいでなぁ!」
「——、一生?」

 お前がそれを言うのか。人の一生を奪った悪魔憑きが。
 あまりに身勝手な物言いに、恐怖の檻に閉じ込めていた怒りが心を揺らす。
 なぜなら、幸雄のそれは逆恨みだ。
 そして今アイラが受けているのは八つ当たりでもある。
 この男は、自分が身勝手にもアイラの家族を殺し、その場でエクソシストに受けた傷のことを三年も恨み続け、エクソシスト全員に復讐しようと考えている。

 まったく理解ができなかった。復讐に燃えるのは、その権利があるのはどう考えてもこちらの方だとアイラは言ってやりたかった。
 だがそれよりも先に、幸雄が突如アイラの顔に手を伸ばす。
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