不死殺しのイドラ

彗星無視

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第1章 果ての世界のマイナスナイフ

第12話 冷たくて温かなあの夜を

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 生きているのなら。辛うじてでも生きてくれているのなら、マイナスナイフの刃はそこに届くはずだ。イモータルに腕を壊され、肺を潰された傷が、痛みと引き換えに簡単に完治したように。
 救えるかもしれない。いや、救えるはずだ。救えなくてはならない。
 そのためには——

「お前は、邪魔だ……っ!」
「きゃッ!?」

 邪魔をするこの女を黙らせる必要がある。
 ロングスカートのような形の修道服の下部の上から、踏みつけてくる脚のふくらはぎ辺りをマイナスナイフで斬り付ける。肌に傷ひとつ付かなければ、布地を切ることも叶わない一撃ではあるが、負数の刃も痛みだけはしっかりと与えられる。オルファは反射的に脚を引っ込め、距離を取りつつ鎖を縮めて鎌を手元に引き寄せ直した。

「服も切れないただ痛いだけのギフトで……抵抗するつもりッ? あはっ、ガキが調子付きやがって! 大人しくなぶられてろってンですよ、バカ女と同じ墓に埋めてやりますからさぁ!」
「黙れ! もう喋るな……喋らないでくれよ、オルファさん」

 敵と認識したシスターに、マイナスナイフの刃を向けるイドラ。その頭の中には、村にアサインドシスターズがやってきてからの三年間の記憶の数々が、奔流となって押し寄せてきていた。
 三年前、大陸の端、僻地も僻地であるメドイン村にもようやくと言うべきかアサインドシスターズがやってきた。派遣されてきたシスターはまだ若く明るく綺麗で、おまけにおっちょこちょいなところもあって、すぐに村に受け入れられた。

 特に人柄のよさからかイドラの母、リティとは仲がよかった。
 三人で菓子を作ったこともあった。羊乳を使ったビスケットだ。イドラは生地を混ぜるのを手伝ったくらいだったが、賑やかにテーブルを囲んで食べた甘い味はまだ強く覚えている。
 オルファに貰った美しい花を家に飾ることもあった。ロトコル神とそれが行った大陸創造の偉業について、少しだけ教えてもらったこともあった。一年のうちほとんどで雪が降るのだという、生まれたところの話をしてくれたこともあった。修道院は意外とご飯がおいしいだとか、小さいうちは雑用をやらされるだとか、そういうことも聞かせてもらった。
 そうした数々の記憶を想うたびに、イドラの小さな胸には、それこそ物理的な創傷を伴わない、見えない刃物で刺されたかのような痛みが駆け巡る。

「はン。そんな口を利く子どもだとは思いませんでした、もう墓地になんて埋めてあげません。ぶっ殺したあとはバラバラに細かく切り刻んで、森の魔物にでも食わせてやりますねー」

 同じ思い出を共有しているはずなのに、同じ痛みを、オルファはまるで感じていない。
 そのことがありありと見て取れて、それもまたイドラの胸を締め付けた。かけがえのない宝物を、役に立たないガラクタかなにかだと否定されたような気分だった。
 だからその痛みを、感傷を、イドラは意識して意識外に追いやる。
 オルファにとって、イドラという人間はためらいなく命を奪うことのできる相手だった。もうそれはいい。よくはないが、信じたくはないが、もうそういうものだと理解しよう。
 そうしなければウラシマを助けるより先に、膝を折って泣きたくなる。

「あああああああぁぁぁッ!」

 複雑な感情のすべてを置き去りに、イドラはマイナスナイフを手に走り出す。
 オルファを倒し、急いでウラシマにマイナスナイフを使わなくては。しかし特攻を仕掛けようとするも、またオルファが腕を振るうと音とともに鎌の鎖が一気に伸び始める。

「バカの一つ覚え、ですッ!」
「うっ……!?」

 無理やり突っ込もうとしたイドラは、ぐるりと側面に回り込むような軌道で迫る鎌の刃に晒された。咄嗟に首を逸らしたことで肩口を浅く裂かれる程度で済んだが、避け損なえば頸動脈を切られていたかもしれない。

「魔物のクソにしてやりますよぉ!」

 ジャリリリリリリリリリリリ——
 足を止めたイドラの目に、蛇を思わせる挙動で鎖が舞う。さらに軌道を読ませまいと宙をうねりながら長さを増したその鎖は、直線にすると十五メートル近くはあろうかと思われた。
 鎖の先には、同じ色の鎌がある。単なる腕の動きとは連動しない、不可思議な動きで動く鎌はイドラを翻弄した。

(まずい、このままじゃ……!)

 右から左から、上から下から、あるいは後ろから。長さを活かして四方八方から迫りくる鈍色の蛇に、既に疲労ののしかかったイドラの体は対応しきれない。致命傷こそマイナスナイフで辛うじて防いでいたが、腕や脚に当たるのを避けられず、次第に傷が増えていく。
 強引に突っ込んでも無駄だ。ジリ貧は目に見えていた。
 いつか深手を負わせられるか、それとも長い鎖に絡め取られて動きを止められてしまうだろう。
——広い場所では駄目だ。
 ウラシマのことを思うと、やはりあれこれ考えずすぐにでも突っ込んでいきたくなるのを抑え、イドラはオルファから背を向けた。

「あ……!? 待って、逃がしませんよぅ!」

 イドラが逃げ込んだのは、すぐそばのオルファの家だ。広い外に出ていては縦横無尽のあの鎖に敵わない。それならいっそ屋内に誘い込むべきだと考えた。
 数メートル先の花壇に飛びつきたい気持ちをこらえ、厚い木製のドアを開け放つ。イドラは遠慮なく家の中へと上がり込んだ。

「——」

 初めて見るオルファの家の内装は、外装と同じく、よくできたものだった。柱は頑丈そうで、大きな窓は今日のように空が曇っていなければ日の光をいっぱいに通してくれるはず。広さも申し分なく、窓枠や二階への階段の欄干には、村の家にはない凝った装飾が施されている。
 そして、それらのすべてを台無しにするかのように、あまりに物に溢れかえっていた。
 入ってすぐのリビングから、奥の部屋に続く廊下、階段まで、至るところに物がある。それはまだ使えそうな食器だったり、脱ぎ散らかされた服だったり、開きっぱなしの本だったり、まるで役に立たなさそうな汚いゴミだったりした。

「なんだ、これ……?」

 足の踏み場もない……とまではいかないが、下を見なければ歩けない。陶器の皿でも踏み砕こうものなら、イドラの簡素でボロくなった靴の底ごと足の裏を傷つけかねないし、おまけに掃除も大変だ。

(机の上もすごい散乱具合だ。あの本はええと……バイナリ? ああ、ロトコル教の聖水のレシピ集かな? あっちは食器、しかもパンとスープが残ってる。摘んだ花の束に聖水のビンも……ってご飯食べながら聖水作ってるのか? オルファさん)

 テーブルの真ん中には、雑多な物に囲まれた、開いたままの本がページを下にして置かれてある。その表紙に書かれた文字をイドラは、問題なく読み取ることができた。
 読み書きはしばらく前からリティに教えてもらっていた。が、勉強は好きではなく、身の入らない毎日だったが、ウラシマにも時折見てもらうようになってからは真面目に取り組むようになり、その甲斐が出ていた。現金なことだが、憧れの先生にまさしく先生役をしてもらうのだから、そりゃあやる気も出るというものだ。

「悪い子ですねー。人の家に勝手に上がるだなんて、殺されたって文句言えませんよぉ」

 面食らっていたイドラだったが、玄関の方から届く声に我に返った。
 自分の家に入られたのだから、当然追ってくる。だがあの鎖の動きを遮るもののない外よりは、屋内の方がまだやりやすいはずだ。こんなに取っ散らかっているのは予想外だったけれど。
 寝室らしき奥の部屋まで逃げ込もうかとも思ったが、それよりも先に追手の女が追い付いた。壁際に無造作に積まれた本の山を蹴倒しながら、じゃらりと鎖の音を立ててオルファがやってくる。

「く……家が汚いのがばれたからって、口封じに殺そうっていうのか!」
「え、そういうのではないですけど」
「いくら家が汚くて恥ずかしいからって……! 恥ずかしい家だからって! いい年して!」
「……前々から言いたかったんですけどぉ。イドラくんもわたしを天然扱いしてましたけど、そっちも大概ですよ、おぉッ!」

 腕が振るわれ、鈍色をした蛇が舞う。窓の外は既に夜闇が覆い始め、薄暗い室内をわずかな光沢を持った刃が踊る。
 屋内に場所を移したイドラの策は、やはり年相応の稚拙さと言うべきか、誤算が二つあった。
 一つは室内の暗さを計算に入れなかったこと。ただでさえ目で追うのが難しかった鎖鎌の軌道は、この部屋の中ではさらに見えにくくなる。
 それから二つ目は、部屋の中が想像以上に汚くて鎌をかわすための動きにも難儀しそうな点だが、これはオルファの生活態度が悪すぎるだけなので、そのことを知らなかったイドラを責めるのは酷だろう。

「だけど——」

 鎖の動きを制限するという、イドラの狙い自体は死んでいない。空間の限られた室内において、必要以上に鎖を伸ばせば、いかに縦横無尽の軌道を誇ろうとも壁や天井にぶつかってしまう。

(だったら、狙いは簡単に絞れるっ!)

 見えずとも、そもそも見るまでもない。確信を持って、イドラは空の左手で自身の首を庇う。

「どうせ首だろ、芸がない!」
ふせい……ッ、掴んだ!?」

 鋭い痛みを感じたと同時に、その手を握りこむ。手の内に掴んだのは歪曲した三日月の刃。イドラは手のひらと指の皮膚が裂けるのも構わず、オルファの鎖鎌を強引に素手で止めてみせた。
——手なんて、後でいくらでもマイナスナイフで治せばいい。
 とはいえ流石にこのまま綱引きみたいに引っ張り合いになった時、鎖を持つオルファと鎌を持つイドラでは勝負にもならない。マイナスナイフを腰のケースに一度仕舞い、右手で鎌との接合部分の鎖を握り直す。

「くっ……離せッ! 離しなさい、あたしの鎖をォ!」
「嫌だね。お前みたいな残虐な人間を野放しにしていいはずがない! 鎖につながれるべきはお前だ!」
「なにを——、そんなの! 囚われてきたのはあたしの方でしょうがぁ! 手を離しなさいよこのクソガキがぁっ!」

 ぐい、と鎖を強く引かれてイドラは前のめりになる。そのままこけてしまいそうになるが、血の付いた左手で手近な机の縁を掴んで耐えた。その机ごと引っ張り倒されなかったのは、上に本やらビンやら雑多な物が乗りすぎて重量が増していたおかげだ。

「そんなに……この村が嫌いか」
「嫌いですよ、なぁんにもない村なんて大嫌い! イドラくんだってそうでしょう!? だから外に焦がれている!」
「村の外に憧れてるのは否定しない。でも、僕はこの村のことは好きだ! 暖かくて風も柔らかくて、優しい村のみんなも大好きだ! お前と、お前なんかといっしょにするな!」

——昨日まで、その『大好きなみんな』に、目の前のひとも入っていたのに。

「なんですって……!」
「だいたい、村に派遣されるのが嫌ならアサインドシスターズになんてならなきゃよかったじゃないか!」
「————!! 好きでなったわけないでしょうがぁッ、クソガキがぁ!!」
「っ!?」

 さっきとは比にならない力で引かれ、今度こそイドラは机ごと床に横倒しになる。咄嗟に鎖から手を放し、辛うじて床に手をついて立ち上がると、解放された鎖が鞭のように迫ってきていた。が、力任せの一撃は軌道に精度がなく、イドラの頬をかするだけに留まる。
 そんな失態さえどうでもいいとばかりに、オルファはさらに乱暴に腕を振るう。

「生まれた家は貧しくて、あたしはこうするしかなかった! あたしが修道院に入らなければママとお姉ちゃんもいっしょに飢えて死んでた! 無自覚な物言いが、上からの言葉がいちッばんムカつくんだよぉッ!」

 もはや見境なく、蛇は破壊の嵐と化して部屋の中を駆け巡る。散らかった部屋はさらに荒れ、壁や床にも穴が空く。

「さっきあたしのこと、理解できないって言いましたよねぇ。わかるもんですか、小さくとも豊かな村で育ったイドラくんに! わかってたまるかぁッ!!」
「く——」
「優しさも暖かさもいらない! あたしは、あたしは——たきぎも買えず毎晩寒さに震えて、それでもママとお姉ちゃんでくっついて暖を取りあったあの夜を取り戻したいだけ! 冷たくて、だけどあったかい、幸せな夜を!」
「夜……? ふざけるな! 家族が恋しいからって、誰かを殺していい理由になるわけがない!」
 
 身を切り刻む嵐に、イドラは一歩を踏み出す。ようやく仮面を捨てきり、露わになったオルファの激情に呼応するように、イドラもまた燃える意志に四肢を突き動かされる。
 本能が、今だと叫んでいた。

「謝らせてやる、みんなに! 先生にッ!」

 一見危険さを増したかのように思える乱打は、かえって精緻さを欠いた隙を生んでいる。イドラの目は空間を裂く縫い目のようなその軌道を見切り、しかし回避までは叶わない。
 それでもいい。致命傷でなければ、どうでもいい。
 嵐がイドラの体を切り刻む。額や肩口、脇腹から血が飛び散る。熱を帯びた傷の痛みを捨て置き、イドラは意にも介さず一気に歩を詰める。

「そんなデタラメなやり方……来るな! こっちに来るな、このぉ!」

 縮まる距離に焦りを浮かべ、オルファの操る鎌にいくらかの精密さが戻る。避ける素振りさえ見せないイドラの左腕に、深々と鎌の刃が突き刺さった。

「やった……ッ!」

 片腕を奪う会心の一撃に、白い歯を剥き出しにして笑う。が、イドラはむしろ好機とばかりに床を蹴る。
 足元に散らばる、食器か、それとも壁かなにかの破片らしき白い屑が散らされる。
 瞬きほどの油断。オルファが気付いた時には、イドラはもう手が触れるほどの近くにまで迫ってきていた。

「え——」
「こんなの、イモータルにやられた怪我に比べればかすり傷にもならない」

 刺さった鎌を逆の手で無造作に抜いて払いのけ、さらにその手を腰のケースに伸ばす。
 瞬間、オルファの表情を彩ったのはさっきまでのほとばしる怒りでも、獲物を仕留める寸前の喜色でもなく、どこか呆然とした面持ちだった。
 敗北を理解した——そうかもしれない。
 イドラの言う通り、オルファの行った暴虐など、あの砂になったイモータルがイドラにしたそれとは比べ物にならない。
 あれほどの暴虐を、破壊を対等に行えるのであれば、オルファという人間はアサインドシスターズにはなっていないのだ。エクソシストとして魔物やイモータルを相手に戦っているだろうし、この村に留まることもなかっただろう。

 それができない実力。それができない、ギフトだった。
 オルファのギフトは、生き物を殺すにあたり、誰の目にも明らかな欠点がある。決定力の不足だ。
 鎌の短い刃では、振り回す鎖の慣性では、モノを殺すには至らない。少なくとも簡単には。そして、その欠点を補うほどの技術もない。
 対するイドラは極論、腹を裂かれようが腕が千切れかけようが、気にしなければいい。マイナスナイフはそれができる。ゼロにさえ至らなければ、命がどれだけ削れようとも一秒あれば元に戻すことができる。即死でなければ、どんな致命傷も無傷と同義でしかない。
 つまるところ、懐に入られた時点でオルファは敗北の二文字を呑み下すほかなかった。

「あたしは……あたしはただ、故郷に帰りたかっただけなのに——」

 血まみれの少年が姿勢を落とす。ポ―チから青い水晶の刃を引き抜く。
 くるり、と。手の内でそのナイフが半回転し、逆手になって収まった。

「はぁ——っ!」

 杭を押し込むように、負の色をした刃が修道服の胸に突き刺さる。
 マイナスナイフは誰も殺さない。死の地点を超越した、白と金の怪物以外は。けれど、胸を刺された痛みとショックに精神が耐えられなかったようで、オルファは声もなくあっさりと倒れこんだ。

「……オルファさんがイモータルじゃなくて、よかったよ」

 倒れたオルファに息があることを確認すると、壁にもたれかかるようにして寝かせてやる。
 このシスターに対して言いたいことは、まだまだたくさんある。生まれて初めて抱いたと言っていい、拳を振り抜きたくなるような怒りもある。
 けれど、今はそれより先に。なによりも優先して、向かわねばならないところがあった。
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