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第2章 鮮烈なるイモータル
第34話 鮮烈なるイモータル
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一同はなんとかぎりぎり朝のうちに森を抜け、ロパディン渓谷に足を踏み入れることができた。
しかし、渓谷に入ったからといってすぐにヴェートラルが封印されている場所へたどり着けるわけではない。一同はまず、谷底へ降り、そこから底の川の流れに沿って進んでいくことになる。
谷底の幅は、最初は広かった。真ん中に流れる川は一昨日の雨でまだ少し増水していたが、それでもその両側には小型であれば馬車でも通れそうな道幅があった。
ただしそれも次第に狭まっていく。
「まだ雨の翌々日でよかった……かもな。川の水量がもっとあったら、通るのに難儀しそうだ」
「今でも十分に大変ですよぉっ」
「それはそうだ」
歩くうち、いつの間にか谷の幅は両手を伸ばせばぶつかるほどになり、じきに人ひとりがなんとか通れる程度にまで細くなる。そうなれば当然、底に流れる川の中を行かねばならなくなる。
川底がまだ浅いのが救いだった。せいぜいが足首程度、靴の中がびしょ濡れになって気持ち悪いのは仕方がない。これが腿や腰まで水かさがあれば、水流に押されて流されてしまうだろう。そうなれば大事故だ。
「皆さん、焦らずに進みましょう。川の流れに足を取られないよう、ゆっくり着実に!」
先頭のミロウが、後ろを振り返って言う。高く厚い、ごつごつとした岩肌に挟まれた隘路。そこを約三十人が通らねばならないのだから、距離自体は短くとも、所要時間は推して知るべしだ。
特にホルテルムのような大男など、そもそも物理的に通行不可能なのではないか?
イドラはそんな心配をしたが、なんとか通れたようで、点呼を済ませたミロウが再び先導を続ける。
進んでいくと、今度は道が広がってくる。わざわざ川の中を歩く必要はなくなり、歩きやすくなった——
その代わりに、外気の冷たさが増していた。
「なんだか……寒くないか?」
最初は気のせいかとも思った。だが進むにつれ冷気は強くなり、吐く息までもが白くなる。
川の中に足を入れていたさっきより、ずっと寒い。まさか突然季節が変わったわけでもあるまいし、日もまだ落ちてはいない。
不可解で、不自然な気温低下。
それはここ一帯だけに起きていた異常で、エクソシストたちはその正体を知っていた。
「もうすぐです。イドラ、ソニア、手がかじかまないよう気を付けてくださいね」
「気を付けろって言われても」
「あ、手袋を貸しましょうか? どうせ戦闘中は外すことになりますから」
「……いや、それはいい」
「そうですか。まあ、手袋越しだと感覚が違いますものね。マイナスナイフ、でしたか」
「あの……奥になにかありませんか? 岩、にしては色がおかしいような」
谷は深く、見上げれば青い空は遠い。陽の光も差し込まず、冷えた谷底は陰の中に沈んでいる。
その陰の奥。最奥の壁面に、なにかがあった。
異物。あまりにも巨大で、谷底から地表近くまであるそれは、最初は薄暗さから全貌を窺い知ることはできなかった。
近づくにつれ、『それ』がなんなのかわかる。同時に冷気が強くなり、肌を刺す。
体が震える。震えは、寒さによるものだけではなかった。
「……氷?」
「まさか、これが——」
それは、氷塊だった。
大きく、ともすれば小山のような。壁面に半ば埋め込まれる形で、表面の透き通った氷がただそこにあった。
川は別の方向へ逸れている。まるで異質な氷塊から逃れるようにして。
「——ヴェートラル。冷気はこの氷塊のせいで……そうか、これこそが512年前に行われた聖封印の正体か!」
氷の内側には、生物らしきものがあった。
当然動いてはいない。氷漬けだ。動くはずもない。生物が活動できるはずもない。
なのに——氷越しの、その、見開かれた黄金の眼を視認した瞬間、イドラは中にいるものがまだ死んではいないと理解した。
それは蛇だった。白く白く、透明な氷の色とも似た、透き通るような表皮。鱗。
イドラの身長よりもはるかに高い位置に、頭部がある。顔には眼が三つあった。右目と左目の間。そこに、ぎょろりと今にもイドラたちを睨みつけそうな、第三の瞳が存在する。
三つの眼はどれもが黄金色。白と黄金の鮮烈なコントラストは、その存在が紛れもなく不死の怪物であると示している。
また、頭上には頭頂部と一体化した、黒い輪のようなものがあったが、イドラの位置からではよく見えなかった。
「なんてこった。聖封印って言うからどんなすごいことしてるのかと思ったら、氷漬けにしてるだけかよ!」
「だけ、とは言わないでほしいですね。512年、大陸の平穏が保たれてきたのは古い英雄の犠牲と、葬送協会と名を改める前の当時の教会のおかげです。あなたのナイフのようにイモータルを殺しきれるわけではないですが、このギフトによって創られた分厚い氷が災厄を今日まで閉じ込めてきたんですのよ」
「う……そりゃあ確かに、こんなでっかい氷を生み出せるなんてさぞかし英雄さまのギフトはすごかったんだろうけど。相手は不死だ、いくら氷に閉じ込めたって死にはしない。前例なんて見たことないが、海中でダメなら氷中もダメだろ。魚じゃあるまいし」
「ええ。ですからこれは時間稼ぎですよ。不死殺し——イモータルを本当に殺しきれる存在が現れるまでの、偉大なる時間稼ぎです」
ミロウの青い目が、氷像の蛇を険しく見上げる。
その瞳には硬い意志が宿っていた。人々を脅かす災厄を退け、平和な世を保つという正義の意志。
(……高尚なこって)
嫌味なしに、立派だと思った。
イドラにそこまでの信念はない。不死殺しとして各地を回っていた理由のそもそもが、現実逃避じみた贖罪だ。自己満足の罰則だ。
そして今、ヴェートラルを殺そうとしているのも、その延長と、協会の保有するビオス教の禁書を閲覧する許可をもらうためだ。
自分本位。そう言われれば、返す言葉がない。事実そうだ。だから——
——無辜の人々を死なせずに済んだのは、紛れもなくイドラ殿のおかげだ。ありがとう、そしてすまなかった。
そんな風に、誰かから感謝を伝えられるなど、思ってもみなかった。
すべて自分のための行い。もちろんそれで他人のためになれば、とは思っていたが、上辺だけだ。本質は自己の救済でしかないと、あの夜に宿ではっきりと自覚した。
……そのうえで嬉しかった。そのこともまた、事実のはずだった。
「そっか。なら——始めよう。指示をくれ、ミロウ。僕はなにをどうすればいい」
一度、息を吸って吐き。マイナスナイフを取り出す。手の内で半回転させた刃は、眼前の氷塊よりもずっと澄んだ、水晶の青を湛えていた。
長い旅。三年、贖罪のため彷徨った。救いなどどこにもなく、過去に手は届かないのだと知りながら。
この作戦が終わればなんらかの答えを見出せる。あてのない彷徨を終え、停滞から一歩を踏み出せる。そんな気がしていた。
「焦らずとも大丈夫です、あなたの出番は一番最後。まずは谷を破壊し、聖封印を解いてもヴェートラルが身動きを取れないよう四方を岩石で囲みます。次に遠距離攻撃を得意とする者で集めたペローを崖上に、ローバルクを除く残った部隊は聖水と——」
——ぴしり。
前触れなく。空間がひび割れるような音が響いたのは、その時だった。
「——ッ! 総員、下がりなさい!!」
荒げる声。直後、それを容易に消し飛ばす轟音。氷塊——512年保たれた封印と、ついでにその周囲の岩壁を崩落させる、悪夢の音が轟いたのだ。
「一体なにが……」
音と衝撃と振動。全身を打ち付けるそれらに目を細めながら、イドラはなんとか前方に目を向ける。悠然ととぐろを巻いていたのは、全長でイドラが何十人分あるか数えることすら馬鹿らしくなるような死の災厄だ。
氷の封印から解き放たれた大蛇が、その三つ目を大地に向ける。その黄金色を直視したイドラは、世界が停止したような錯覚に陥った。
実際に止められたのはイドラの身体だ。思考も、足も、根を張って動けなくなる。
視る者を畏怖の鎖で縛り付ける、圧倒的な存在感。それはまるで異界の伝説、視たものを石へと変えてしまう蛇の怪物じみていた。
呼吸も忘れて立ち尽くす。けれど時は滞らず、呆けた報いはすぐにイドラを襲った。
頭部に衝撃が走り、視界が暗転する。
「イドラさん!」
「————、っ」
一秒か、二秒。意識が飛んでいた。
脚に力を入れ、崩れ落ちかけた体を支える。頭が濡れている感覚がする。視界の上から、どろりと赤いものが被さってきた。
頭が痛い。頭蓋骨をハンマーでぶっ叩かれている。
血で見えづらくなった視界には、惨憺たる光景が広がっていた。
周囲には砕けた岩と砕けた氷がごろごろと転がっている。地面に当たって割れてなお、人の頭ほどはあるサイズだ。そんなものがいくつもいくつも飛び散り、それらは当然のように周囲を襲った。
「間に合わなかった……のか」
痛みで鈍った思考が、遅すぎる結論に達した。
あとわずか。ついに聖殺に取り掛かるという最悪のタイミングで、ヴェートラルは蘇った。
その衝撃でヴェートラルを閉じ込めていた氷塊が吹き飛び、また崖の一部が崩落を起こした。イドラは落石で頭を打ったらしい。
負傷したのはイドラだけではなかった。ざっと見渡しただけで、三割程度の人間が地面に倒れたりうずくまったりしていた。
「怪我の軽い者は重傷者を後送し、ローバルクからの手当てを! 無傷で腕とギフトに覚えのある者は場に残り、そうでない者も負傷者を連れて下がりなさい!」
そんな中、微塵も気圧されることなく指示を叫ぶのはミロウだった。彼女の姿を見て、イドラはすぐに目の血をぬぐい取った。
——まだ終わってない。
ミロウは続ける気だ。聖殺を。行うはずだった綿密な準備はできず、数百年前の災厄は見事に蘇り、この場に残るエクソシストなど十人にも満たない。
それでもミロウは、瓦解した作戦を遂行しようとしている。ならば、その要であるイドラが奮起しないわけにはいかない。
「ベルチャーナ、あなたも下がりなさい。これだけの負傷者……いくらローバルクが王国軍の精鋭だとしても、ヒーリングリングの助けがなければ危うい。優秀な彼らを失うことは協会の大きな損失です」
「でも——それだと、ミロウちゃんが」
「わたくしは心配要りません」
「でもっ!」
「大丈夫です。なにせ、この場には五十以上のイモータルを葬った不死殺しがいますから。あんな蛇の一匹、この精密十指もいるとなればすぐに退治できますわ」
「それならせめてベルちゃんも……わたしも!」
「いいえ、あなたは救護を。これは命令です」
「——っ」
ぴしゃりと言い放つ。ベルチャーナはまだなにか言いたげだったが、口を開きかけたところで言葉を呑み込み、くるりと踵を返した。
「……またあの子は、戦闘に役立てない自分のギフトを悔いるのでしょうね。わたくしのせいで」
「やるんだなミロウ。こうなってしまっては作戦もなにもないが……頼りにしてるぞ、エクソシストの筆頭さま」
「ええ……イドラも無事でなによ——イドラっ!? 頭から血が出てるではありませんか!」
「ぁ? ああ、治すの忘れてた」
傷になっているところにマイナスナイフをざくりと差し込む。あんまり奥にまで突っ込むと、脳にまで刃が届きかねないので、控え目にしておいた。
「本当、デタラメなギフト……」
それこそイドラのマイナスナイフこそ、後方の医療部隊にうってつけだ。痛みと引き換えでいいのであれば、どんな怪我でも即座に完治させられる法外の効力がある。
しかし同時に、この負数の刃こそはイモータルを殺す唯一の手段。イドラが前線を離れた時点で、作戦は絶対に失敗が確定する。戦略の要とはそういうことだ。
「—————ゥ、ゥゥ」
白い蛇が動き出す。頭を持ち上げ、地を這う者らを蟻でも見るかのように三つの黄金で見下す。
ほとんどは後退している。だというのに、なおも立ち向かおうとする蟻が十人弱。その無謀さを嘲笑うかのごとく、蛇の口が浅く裂け、鋭い牙をむき出しにする。
「イドラさん、大丈夫なんですかっ?」
「ソニア。そっちこそ、崩落に巻き込まれたりしなかったか」
「はい、すんでのところで避けられて……」
——自力で避けたのか。
無様に落石が脳天直撃したイドラとは違うらしい。
「なら動けるな、ここでヴェートラルを殺しきる。今度は下がってろなんて言わない、僕を助けてくれ」
「……! はい! がんばりますっ」
気合十分、ソニアはワダツミを抜き放つ。構えもなにもない、両手でぎゅっと柄を握りしめただけの形だが、ただ振り回すだけでそのエネルギーは脅威的だ。
もっともそれも、尋常の生物を相手にするならの話——
ヴェートラルに相対するのは、わずか八名。
当初の作戦ではその三倍以上の人数で、状況についてもより有利になるよう様々な準備をするはずだった。聖封印から解き放たれたヴェートラルの身動きを封じ、殺せずともギフトと聖水でなるべくの自由を奪い、イドラのマイナスナイフが十全に確実に届くようにするはずだった。
既に作戦は瓦解した。前提は裏切られ、数百年前の悪夢が再現されようとしている。
聖封印を行った英雄はとうに死に、同じことはできない。しかし——この場には代わりに、ついに世に現れた不死を断つ刃が存在する。
状況は最悪に近く、それでもか細い勝機をつかみ取ろうとするのなら。マイナスナイフの刃を、再誕の災厄に届かせようとするのなら。
「長くは持たないでしょう。決死のサポートを約束します、ですからイドラ——」
「ああ。短期決戦だ、手足がもげても殺してやる」
不死を相手に持久力では競えない。存在の大きさからしてスケールが違う。
なればこそ、必要なのは押し寄せる波濤のような一瞬の攻撃。後に残るものを考慮しない、燃え尽きる流星めいたオーバーヒート。
持ちうるすべてを賭さなければならないと、この場の全員が理解していた。
しかし、渓谷に入ったからといってすぐにヴェートラルが封印されている場所へたどり着けるわけではない。一同はまず、谷底へ降り、そこから底の川の流れに沿って進んでいくことになる。
谷底の幅は、最初は広かった。真ん中に流れる川は一昨日の雨でまだ少し増水していたが、それでもその両側には小型であれば馬車でも通れそうな道幅があった。
ただしそれも次第に狭まっていく。
「まだ雨の翌々日でよかった……かもな。川の水量がもっとあったら、通るのに難儀しそうだ」
「今でも十分に大変ですよぉっ」
「それはそうだ」
歩くうち、いつの間にか谷の幅は両手を伸ばせばぶつかるほどになり、じきに人ひとりがなんとか通れる程度にまで細くなる。そうなれば当然、底に流れる川の中を行かねばならなくなる。
川底がまだ浅いのが救いだった。せいぜいが足首程度、靴の中がびしょ濡れになって気持ち悪いのは仕方がない。これが腿や腰まで水かさがあれば、水流に押されて流されてしまうだろう。そうなれば大事故だ。
「皆さん、焦らずに進みましょう。川の流れに足を取られないよう、ゆっくり着実に!」
先頭のミロウが、後ろを振り返って言う。高く厚い、ごつごつとした岩肌に挟まれた隘路。そこを約三十人が通らねばならないのだから、距離自体は短くとも、所要時間は推して知るべしだ。
特にホルテルムのような大男など、そもそも物理的に通行不可能なのではないか?
イドラはそんな心配をしたが、なんとか通れたようで、点呼を済ませたミロウが再び先導を続ける。
進んでいくと、今度は道が広がってくる。わざわざ川の中を歩く必要はなくなり、歩きやすくなった——
その代わりに、外気の冷たさが増していた。
「なんだか……寒くないか?」
最初は気のせいかとも思った。だが進むにつれ冷気は強くなり、吐く息までもが白くなる。
川の中に足を入れていたさっきより、ずっと寒い。まさか突然季節が変わったわけでもあるまいし、日もまだ落ちてはいない。
不可解で、不自然な気温低下。
それはここ一帯だけに起きていた異常で、エクソシストたちはその正体を知っていた。
「もうすぐです。イドラ、ソニア、手がかじかまないよう気を付けてくださいね」
「気を付けろって言われても」
「あ、手袋を貸しましょうか? どうせ戦闘中は外すことになりますから」
「……いや、それはいい」
「そうですか。まあ、手袋越しだと感覚が違いますものね。マイナスナイフ、でしたか」
「あの……奥になにかありませんか? 岩、にしては色がおかしいような」
谷は深く、見上げれば青い空は遠い。陽の光も差し込まず、冷えた谷底は陰の中に沈んでいる。
その陰の奥。最奥の壁面に、なにかがあった。
異物。あまりにも巨大で、谷底から地表近くまであるそれは、最初は薄暗さから全貌を窺い知ることはできなかった。
近づくにつれ、『それ』がなんなのかわかる。同時に冷気が強くなり、肌を刺す。
体が震える。震えは、寒さによるものだけではなかった。
「……氷?」
「まさか、これが——」
それは、氷塊だった。
大きく、ともすれば小山のような。壁面に半ば埋め込まれる形で、表面の透き通った氷がただそこにあった。
川は別の方向へ逸れている。まるで異質な氷塊から逃れるようにして。
「——ヴェートラル。冷気はこの氷塊のせいで……そうか、これこそが512年前に行われた聖封印の正体か!」
氷の内側には、生物らしきものがあった。
当然動いてはいない。氷漬けだ。動くはずもない。生物が活動できるはずもない。
なのに——氷越しの、その、見開かれた黄金の眼を視認した瞬間、イドラは中にいるものがまだ死んではいないと理解した。
それは蛇だった。白く白く、透明な氷の色とも似た、透き通るような表皮。鱗。
イドラの身長よりもはるかに高い位置に、頭部がある。顔には眼が三つあった。右目と左目の間。そこに、ぎょろりと今にもイドラたちを睨みつけそうな、第三の瞳が存在する。
三つの眼はどれもが黄金色。白と黄金の鮮烈なコントラストは、その存在が紛れもなく不死の怪物であると示している。
また、頭上には頭頂部と一体化した、黒い輪のようなものがあったが、イドラの位置からではよく見えなかった。
「なんてこった。聖封印って言うからどんなすごいことしてるのかと思ったら、氷漬けにしてるだけかよ!」
「だけ、とは言わないでほしいですね。512年、大陸の平穏が保たれてきたのは古い英雄の犠牲と、葬送協会と名を改める前の当時の教会のおかげです。あなたのナイフのようにイモータルを殺しきれるわけではないですが、このギフトによって創られた分厚い氷が災厄を今日まで閉じ込めてきたんですのよ」
「う……そりゃあ確かに、こんなでっかい氷を生み出せるなんてさぞかし英雄さまのギフトはすごかったんだろうけど。相手は不死だ、いくら氷に閉じ込めたって死にはしない。前例なんて見たことないが、海中でダメなら氷中もダメだろ。魚じゃあるまいし」
「ええ。ですからこれは時間稼ぎですよ。不死殺し——イモータルを本当に殺しきれる存在が現れるまでの、偉大なる時間稼ぎです」
ミロウの青い目が、氷像の蛇を険しく見上げる。
その瞳には硬い意志が宿っていた。人々を脅かす災厄を退け、平和な世を保つという正義の意志。
(……高尚なこって)
嫌味なしに、立派だと思った。
イドラにそこまでの信念はない。不死殺しとして各地を回っていた理由のそもそもが、現実逃避じみた贖罪だ。自己満足の罰則だ。
そして今、ヴェートラルを殺そうとしているのも、その延長と、協会の保有するビオス教の禁書を閲覧する許可をもらうためだ。
自分本位。そう言われれば、返す言葉がない。事実そうだ。だから——
——無辜の人々を死なせずに済んだのは、紛れもなくイドラ殿のおかげだ。ありがとう、そしてすまなかった。
そんな風に、誰かから感謝を伝えられるなど、思ってもみなかった。
すべて自分のための行い。もちろんそれで他人のためになれば、とは思っていたが、上辺だけだ。本質は自己の救済でしかないと、あの夜に宿ではっきりと自覚した。
……そのうえで嬉しかった。そのこともまた、事実のはずだった。
「そっか。なら——始めよう。指示をくれ、ミロウ。僕はなにをどうすればいい」
一度、息を吸って吐き。マイナスナイフを取り出す。手の内で半回転させた刃は、眼前の氷塊よりもずっと澄んだ、水晶の青を湛えていた。
長い旅。三年、贖罪のため彷徨った。救いなどどこにもなく、過去に手は届かないのだと知りながら。
この作戦が終わればなんらかの答えを見出せる。あてのない彷徨を終え、停滞から一歩を踏み出せる。そんな気がしていた。
「焦らずとも大丈夫です、あなたの出番は一番最後。まずは谷を破壊し、聖封印を解いてもヴェートラルが身動きを取れないよう四方を岩石で囲みます。次に遠距離攻撃を得意とする者で集めたペローを崖上に、ローバルクを除く残った部隊は聖水と——」
——ぴしり。
前触れなく。空間がひび割れるような音が響いたのは、その時だった。
「——ッ! 総員、下がりなさい!!」
荒げる声。直後、それを容易に消し飛ばす轟音。氷塊——512年保たれた封印と、ついでにその周囲の岩壁を崩落させる、悪夢の音が轟いたのだ。
「一体なにが……」
音と衝撃と振動。全身を打ち付けるそれらに目を細めながら、イドラはなんとか前方に目を向ける。悠然ととぐろを巻いていたのは、全長でイドラが何十人分あるか数えることすら馬鹿らしくなるような死の災厄だ。
氷の封印から解き放たれた大蛇が、その三つ目を大地に向ける。その黄金色を直視したイドラは、世界が停止したような錯覚に陥った。
実際に止められたのはイドラの身体だ。思考も、足も、根を張って動けなくなる。
視る者を畏怖の鎖で縛り付ける、圧倒的な存在感。それはまるで異界の伝説、視たものを石へと変えてしまう蛇の怪物じみていた。
呼吸も忘れて立ち尽くす。けれど時は滞らず、呆けた報いはすぐにイドラを襲った。
頭部に衝撃が走り、視界が暗転する。
「イドラさん!」
「————、っ」
一秒か、二秒。意識が飛んでいた。
脚に力を入れ、崩れ落ちかけた体を支える。頭が濡れている感覚がする。視界の上から、どろりと赤いものが被さってきた。
頭が痛い。頭蓋骨をハンマーでぶっ叩かれている。
血で見えづらくなった視界には、惨憺たる光景が広がっていた。
周囲には砕けた岩と砕けた氷がごろごろと転がっている。地面に当たって割れてなお、人の頭ほどはあるサイズだ。そんなものがいくつもいくつも飛び散り、それらは当然のように周囲を襲った。
「間に合わなかった……のか」
痛みで鈍った思考が、遅すぎる結論に達した。
あとわずか。ついに聖殺に取り掛かるという最悪のタイミングで、ヴェートラルは蘇った。
その衝撃でヴェートラルを閉じ込めていた氷塊が吹き飛び、また崖の一部が崩落を起こした。イドラは落石で頭を打ったらしい。
負傷したのはイドラだけではなかった。ざっと見渡しただけで、三割程度の人間が地面に倒れたりうずくまったりしていた。
「怪我の軽い者は重傷者を後送し、ローバルクからの手当てを! 無傷で腕とギフトに覚えのある者は場に残り、そうでない者も負傷者を連れて下がりなさい!」
そんな中、微塵も気圧されることなく指示を叫ぶのはミロウだった。彼女の姿を見て、イドラはすぐに目の血をぬぐい取った。
——まだ終わってない。
ミロウは続ける気だ。聖殺を。行うはずだった綿密な準備はできず、数百年前の災厄は見事に蘇り、この場に残るエクソシストなど十人にも満たない。
それでもミロウは、瓦解した作戦を遂行しようとしている。ならば、その要であるイドラが奮起しないわけにはいかない。
「ベルチャーナ、あなたも下がりなさい。これだけの負傷者……いくらローバルクが王国軍の精鋭だとしても、ヒーリングリングの助けがなければ危うい。優秀な彼らを失うことは協会の大きな損失です」
「でも——それだと、ミロウちゃんが」
「わたくしは心配要りません」
「でもっ!」
「大丈夫です。なにせ、この場には五十以上のイモータルを葬った不死殺しがいますから。あんな蛇の一匹、この精密十指もいるとなればすぐに退治できますわ」
「それならせめてベルちゃんも……わたしも!」
「いいえ、あなたは救護を。これは命令です」
「——っ」
ぴしゃりと言い放つ。ベルチャーナはまだなにか言いたげだったが、口を開きかけたところで言葉を呑み込み、くるりと踵を返した。
「……またあの子は、戦闘に役立てない自分のギフトを悔いるのでしょうね。わたくしのせいで」
「やるんだなミロウ。こうなってしまっては作戦もなにもないが……頼りにしてるぞ、エクソシストの筆頭さま」
「ええ……イドラも無事でなによ——イドラっ!? 頭から血が出てるではありませんか!」
「ぁ? ああ、治すの忘れてた」
傷になっているところにマイナスナイフをざくりと差し込む。あんまり奥にまで突っ込むと、脳にまで刃が届きかねないので、控え目にしておいた。
「本当、デタラメなギフト……」
それこそイドラのマイナスナイフこそ、後方の医療部隊にうってつけだ。痛みと引き換えでいいのであれば、どんな怪我でも即座に完治させられる法外の効力がある。
しかし同時に、この負数の刃こそはイモータルを殺す唯一の手段。イドラが前線を離れた時点で、作戦は絶対に失敗が確定する。戦略の要とはそういうことだ。
「—————ゥ、ゥゥ」
白い蛇が動き出す。頭を持ち上げ、地を這う者らを蟻でも見るかのように三つの黄金で見下す。
ほとんどは後退している。だというのに、なおも立ち向かおうとする蟻が十人弱。その無謀さを嘲笑うかのごとく、蛇の口が浅く裂け、鋭い牙をむき出しにする。
「イドラさん、大丈夫なんですかっ?」
「ソニア。そっちこそ、崩落に巻き込まれたりしなかったか」
「はい、すんでのところで避けられて……」
——自力で避けたのか。
無様に落石が脳天直撃したイドラとは違うらしい。
「なら動けるな、ここでヴェートラルを殺しきる。今度は下がってろなんて言わない、僕を助けてくれ」
「……! はい! がんばりますっ」
気合十分、ソニアはワダツミを抜き放つ。構えもなにもない、両手でぎゅっと柄を握りしめただけの形だが、ただ振り回すだけでそのエネルギーは脅威的だ。
もっともそれも、尋常の生物を相手にするならの話——
ヴェートラルに相対するのは、わずか八名。
当初の作戦ではその三倍以上の人数で、状況についてもより有利になるよう様々な準備をするはずだった。聖封印から解き放たれたヴェートラルの身動きを封じ、殺せずともギフトと聖水でなるべくの自由を奪い、イドラのマイナスナイフが十全に確実に届くようにするはずだった。
既に作戦は瓦解した。前提は裏切られ、数百年前の悪夢が再現されようとしている。
聖封印を行った英雄はとうに死に、同じことはできない。しかし——この場には代わりに、ついに世に現れた不死を断つ刃が存在する。
状況は最悪に近く、それでもか細い勝機をつかみ取ろうとするのなら。マイナスナイフの刃を、再誕の災厄に届かせようとするのなら。
「長くは持たないでしょう。決死のサポートを約束します、ですからイドラ——」
「ああ。短期決戦だ、手足がもげても殺してやる」
不死を相手に持久力では競えない。存在の大きさからしてスケールが違う。
なればこそ、必要なのは押し寄せる波濤のような一瞬の攻撃。後に残るものを考慮しない、燃え尽きる流星めいたオーバーヒート。
持ちうるすべてを賭さなければならないと、この場の全員が理解していた。
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