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第3章エピローグ 別れと再会の物語
第60話 極北の雪、異邦の風
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「え……どうして、って。空そのものが……動いている、から?」
「星の巡りには周期がある。なぜだ? なぜ星は戻ってくる? どこまでも続くこの地平の頭上を過ぎていく空が、どうやって戻ってきている?」
「それは……そんなの、僕に訊かれても」
イドラはなぜか、ウラシマのことを強く思い出した。
忘れもしない。ウラシマと星を眺めたことがあった。
高い高い夜の藍色。そこに美しくきらめく星々が散りばめられた、星の海。
そう、そこでまたいつものように、旅の話をしてもらったのだ。
——銀の雪原。雲に迫る霊峰。暑さと寒さを繰り返す砂漠。石造りの箱が墓標のように並ぶ街。
最初のひとつくらいは、見ることができた。
「対象を変えよう。ここランスポ大陸の北部は、今こうして見ればわかる通りの寒冷地だ。より北に向かえば、ほとんど極寒と言ってもいい。魔物さえろくに住みつきはしない。不死者どもだけはお構いなしだが」
「だからどうした。僕だって国境を越えたのは初めてじゃない、それは知ってる」
「そう、ここは寒い。だがちょうど我々が向かうさらに北……そう離れてもいない、フィジー大陸の気候を知っているか?」
「え? い、いや。僕はこの大陸を出たことがない。よそのことは、さっぱりだ」
「大半の人間はそうだろうな。フィジー大陸はどこも年中乾燥していて、雪どころか雨さえろくに降らん。気温は日較差が大きいが、ここに比べればずっと暖かい」
雪の降り注ぐ極寒の地のすぐ北に、より温暖で乾燥した地域がある。
そういう話をレツェリはしていた。だがイドラにはそれがどういうことなのか、さっきの星の話との関連性も見出すことはできなかった。
「遠く離れたわけでもないのに、なぜ場所が違うだけでこうも気候に差が生じる? こういったことが、私はどうにも気になって仕方がない」
「学者にでも訊いてみないとわからないんじゃないのか」
「そうだな。だがどうあれ私の目的は不死の探求だ。それにこれらはひどく個人的な、論ずることのできない感覚の問題でしかない。——ただ、違和感が取り除けない」
狂人の戯言だと一蹴するには、イドラもまた彼の疑問に対して的確な答えを持たない。
「霧のように曖昧で、漠然とした話だが。私は……この世で働く法則のようなものに、どうにも納得がいかない。そしてそのことを思うたび、自分が密閉された箱の中にいるような、息苦しい気持ちになる」
「密閉された、箱——」
瞳の中に箱を持つ、仮想の立方によって空間を断裂させるその男は、そんな錯覚を口にした。
レツェリの言葉には実感があった。イドラもまた、同じ息苦しさを共有したような気分を覚える。
同時に、これまで自分が思ってもみなかった、未知の体験や疑問を抱かされるのは——
まるで恩人の女性に、旅の話を聞かされたころのようでもあった。
「イドラさんっ! ……ぁ、えと」
ソニアがぱたぱたと駆けてくる。その橙の目がイドラだけでなく、気付いていなかったのか、そばにいる目と手を拘束された男を捉えると、途端に足を止めて視線をさまよわせる。
ソニアは監獄で再会してから一度も、レツェリの名を呼んだことがなかった。直接的な会話もおそらくは。
自分の人生をねじ曲げた張本人だ。イドラのため、レツェリの出した手紙に乗ることを勧めた彼女ではあったが、それでレツェリへの複雑な思いがなくなるわけではない。
「……フン」
その困惑とも恐れともつかないソニアの姿に、レツェリは顔を背けた。それを見て、ソニアもまたなにか言わねばと言葉を探して口をもごもごさせていたのを止める。
やはり会話はなかった。
「やー。村の人はみんな、怪我なかったって。よかったよかった。あんまり長居してもいられないし、そろそろ進もっかー」
ソニアに遅れてベルチャーナがやってくる。明るい口調の彼女は、心なしかイドラの方を見ないようにしていた。
音もなく、ちらちらと雪が降り始める。
四者の頭上から、ゆっくりと、舞うようにして白い色が落ちてくる。
誰もがそれに気が付きながら、しかし言及しなかった。
*
なにかお礼をさせてほしいと言う村の人たちに、イドラたちは食糧だけ分けてもらい、すぐ歩みを再開する。
寒さはより強く、吹雪の日などはろくに進めないことも続いた。
それでも時間を掛け、数日後にはイドラたちは無事に大陸最北の港町であるイムスタンへと到着することができた。
「静かな町ですね。建物も多いから、人がいないってこともなさそうですけど……」
「寒いから家に引きこもってるのかな」
「そだねー、この辺まで来るともう相当に気温も低いから。連邦生まれのベルちゃんでも流石に……うう、ぶるぶる。室内に入りたい」
ベルチャーナは身を震わせながら、口でもぶるぶる言っていた。
「船着き場に行くぞ、運航状況の案内板があるはずだ。早く出られるかは流氷次第だな……あまりイムスタンで足止めはくらいたくないが、そこは運次第か」
「……なんであいつ平気なんだ? 一番薄着なのに」
「やせ我慢でしょ」
長生きしているだけあり、レツェリは町の勝手を知っていた。港へ向かい、ちょうど出航間近の民間船があったため乗せてもらう。
手に枷をはめられ片目に金属の眼帯をさせられたレツェリの風貌は、どう見たって不審そのものではあったが、協会の人間がいれば信用してもらうのは容易かった。
船は貨物の運搬も兼ねたもので、大型の帆船だった。乗り心地は決して快適とは言えなかったが、フィジー大陸まではそう遠くなく、二日半ほどでソサラという町の港へ到着する。
ソサラの町は、ランスポ大陸に近いこともあって、イモータルなどという怪物が跋扈する魔の大地から逃げ出してきた者も多く、それなりの賑わいを見せていた。
だが、町を出れば周囲はどこも荒廃した場所ばかりらしい。
船を降りたイドラがまず驚愕したのは、その空気だった。故郷やつい一昨日までいたランスポ大陸の北部とは明らかに違う、乾いた空気。
この地の風はどこか、ざらついた、無情な暖気を孕んでいるように思えた。
*
「雪の地面はもうたくさんだーって思ってたけど。砂の上ももううんざりしてきちゃった」
「まだハンドク砂漠に入って二日と経っていないぞ、ベルチャーナ君」
「わかってますよぉ~。あと五日はこのまま歩き詰めなんですよねぇ? はー、やだやだ。砂が髪に絡まっちゃうし……!」
ソサラの町に着いた翌日には、北西へ向け、大陸に横たわる広大な砂漠を越えるべく出立していた。
当初から駄々をこねていたのはベルチャーナだ。
曰く、もっとゆっくりしたい。
せっかくよその大陸の町に来たんだから色々見て回りたい。
おいしいもの食べたい。
寝たい。
「監視役が在監者より腑抜けでどうする。それでも協会の誇るエクソシストかね」
「わっ、なんですか? もしかしてまだ司教ヅラしてます? クビになって監獄行きになった犯罪者なのに。おかしいですねぇー?」
「……。中々言ってくれるな……」
凍える吹雪の雪原から、荒涼たる砂の地平へ。寒さに震えていたのが、今度は暑さにうめく道程へと移り変わっていた。
ソサラの町を出てすぐは、赤茶けた、乾いた土が広がっていた。その赤い色を踏んだ時、イドラは初めて自分が遠い地に来たのだと実感できた。実際は、まだロトコル大陸の一番近くにある大陸の端っこに来ただけで、世界にはまだ見ぬ大陸が五つもあるのだと頭ではわかっていてもだ。
世界は広い。旅を始めて三年以上が経ち、そんな当たり前のことをようやく感じることができた気がした。
「星の巡りには周期がある。なぜだ? なぜ星は戻ってくる? どこまでも続くこの地平の頭上を過ぎていく空が、どうやって戻ってきている?」
「それは……そんなの、僕に訊かれても」
イドラはなぜか、ウラシマのことを強く思い出した。
忘れもしない。ウラシマと星を眺めたことがあった。
高い高い夜の藍色。そこに美しくきらめく星々が散りばめられた、星の海。
そう、そこでまたいつものように、旅の話をしてもらったのだ。
——銀の雪原。雲に迫る霊峰。暑さと寒さを繰り返す砂漠。石造りの箱が墓標のように並ぶ街。
最初のひとつくらいは、見ることができた。
「対象を変えよう。ここランスポ大陸の北部は、今こうして見ればわかる通りの寒冷地だ。より北に向かえば、ほとんど極寒と言ってもいい。魔物さえろくに住みつきはしない。不死者どもだけはお構いなしだが」
「だからどうした。僕だって国境を越えたのは初めてじゃない、それは知ってる」
「そう、ここは寒い。だがちょうど我々が向かうさらに北……そう離れてもいない、フィジー大陸の気候を知っているか?」
「え? い、いや。僕はこの大陸を出たことがない。よそのことは、さっぱりだ」
「大半の人間はそうだろうな。フィジー大陸はどこも年中乾燥していて、雪どころか雨さえろくに降らん。気温は日較差が大きいが、ここに比べればずっと暖かい」
雪の降り注ぐ極寒の地のすぐ北に、より温暖で乾燥した地域がある。
そういう話をレツェリはしていた。だがイドラにはそれがどういうことなのか、さっきの星の話との関連性も見出すことはできなかった。
「遠く離れたわけでもないのに、なぜ場所が違うだけでこうも気候に差が生じる? こういったことが、私はどうにも気になって仕方がない」
「学者にでも訊いてみないとわからないんじゃないのか」
「そうだな。だがどうあれ私の目的は不死の探求だ。それにこれらはひどく個人的な、論ずることのできない感覚の問題でしかない。——ただ、違和感が取り除けない」
狂人の戯言だと一蹴するには、イドラもまた彼の疑問に対して的確な答えを持たない。
「霧のように曖昧で、漠然とした話だが。私は……この世で働く法則のようなものに、どうにも納得がいかない。そしてそのことを思うたび、自分が密閉された箱の中にいるような、息苦しい気持ちになる」
「密閉された、箱——」
瞳の中に箱を持つ、仮想の立方によって空間を断裂させるその男は、そんな錯覚を口にした。
レツェリの言葉には実感があった。イドラもまた、同じ息苦しさを共有したような気分を覚える。
同時に、これまで自分が思ってもみなかった、未知の体験や疑問を抱かされるのは——
まるで恩人の女性に、旅の話を聞かされたころのようでもあった。
「イドラさんっ! ……ぁ、えと」
ソニアがぱたぱたと駆けてくる。その橙の目がイドラだけでなく、気付いていなかったのか、そばにいる目と手を拘束された男を捉えると、途端に足を止めて視線をさまよわせる。
ソニアは監獄で再会してから一度も、レツェリの名を呼んだことがなかった。直接的な会話もおそらくは。
自分の人生をねじ曲げた張本人だ。イドラのため、レツェリの出した手紙に乗ることを勧めた彼女ではあったが、それでレツェリへの複雑な思いがなくなるわけではない。
「……フン」
その困惑とも恐れともつかないソニアの姿に、レツェリは顔を背けた。それを見て、ソニアもまたなにか言わねばと言葉を探して口をもごもごさせていたのを止める。
やはり会話はなかった。
「やー。村の人はみんな、怪我なかったって。よかったよかった。あんまり長居してもいられないし、そろそろ進もっかー」
ソニアに遅れてベルチャーナがやってくる。明るい口調の彼女は、心なしかイドラの方を見ないようにしていた。
音もなく、ちらちらと雪が降り始める。
四者の頭上から、ゆっくりと、舞うようにして白い色が落ちてくる。
誰もがそれに気が付きながら、しかし言及しなかった。
*
なにかお礼をさせてほしいと言う村の人たちに、イドラたちは食糧だけ分けてもらい、すぐ歩みを再開する。
寒さはより強く、吹雪の日などはろくに進めないことも続いた。
それでも時間を掛け、数日後にはイドラたちは無事に大陸最北の港町であるイムスタンへと到着することができた。
「静かな町ですね。建物も多いから、人がいないってこともなさそうですけど……」
「寒いから家に引きこもってるのかな」
「そだねー、この辺まで来るともう相当に気温も低いから。連邦生まれのベルちゃんでも流石に……うう、ぶるぶる。室内に入りたい」
ベルチャーナは身を震わせながら、口でもぶるぶる言っていた。
「船着き場に行くぞ、運航状況の案内板があるはずだ。早く出られるかは流氷次第だな……あまりイムスタンで足止めはくらいたくないが、そこは運次第か」
「……なんであいつ平気なんだ? 一番薄着なのに」
「やせ我慢でしょ」
長生きしているだけあり、レツェリは町の勝手を知っていた。港へ向かい、ちょうど出航間近の民間船があったため乗せてもらう。
手に枷をはめられ片目に金属の眼帯をさせられたレツェリの風貌は、どう見たって不審そのものではあったが、協会の人間がいれば信用してもらうのは容易かった。
船は貨物の運搬も兼ねたもので、大型の帆船だった。乗り心地は決して快適とは言えなかったが、フィジー大陸まではそう遠くなく、二日半ほどでソサラという町の港へ到着する。
ソサラの町は、ランスポ大陸に近いこともあって、イモータルなどという怪物が跋扈する魔の大地から逃げ出してきた者も多く、それなりの賑わいを見せていた。
だが、町を出れば周囲はどこも荒廃した場所ばかりらしい。
船を降りたイドラがまず驚愕したのは、その空気だった。故郷やつい一昨日までいたランスポ大陸の北部とは明らかに違う、乾いた空気。
この地の風はどこか、ざらついた、無情な暖気を孕んでいるように思えた。
*
「雪の地面はもうたくさんだーって思ってたけど。砂の上ももううんざりしてきちゃった」
「まだハンドク砂漠に入って二日と経っていないぞ、ベルチャーナ君」
「わかってますよぉ~。あと五日はこのまま歩き詰めなんですよねぇ? はー、やだやだ。砂が髪に絡まっちゃうし……!」
ソサラの町に着いた翌日には、北西へ向け、大陸に横たわる広大な砂漠を越えるべく出立していた。
当初から駄々をこねていたのはベルチャーナだ。
曰く、もっとゆっくりしたい。
せっかくよその大陸の町に来たんだから色々見て回りたい。
おいしいもの食べたい。
寝たい。
「監視役が在監者より腑抜けでどうする。それでも協会の誇るエクソシストかね」
「わっ、なんですか? もしかしてまだ司教ヅラしてます? クビになって監獄行きになった犯罪者なのに。おかしいですねぇー?」
「……。中々言ってくれるな……」
凍える吹雪の雪原から、荒涼たる砂の地平へ。寒さに震えていたのが、今度は暑さにうめく道程へと移り変わっていた。
ソサラの町を出てすぐは、赤茶けた、乾いた土が広がっていた。その赤い色を踏んだ時、イドラは初めて自分が遠い地に来たのだと実感できた。実際は、まだロトコル大陸の一番近くにある大陸の端っこに来ただけで、世界にはまだ見ぬ大陸が五つもあるのだと頭ではわかっていてもだ。
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