不死殺しのイドラ

彗星無視

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第2部1章 躍る大王たち

第91話 『願いの代価』

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「昨日言っていた、空間がどうとかいう能力は完全に失われたと見ていいでしょうね。代わりに、傷を治す性質が、欠けたものを補整する能力へと変化した。私はそう考えてる」
「補整。僕のマイナスナイフは、それしかできなくなっちゃったのか?」

 マイナスナイフにとって、イモータルを殺す、傷を治すといった側面は、能力とは関係のない部分だった。そこはあくまでギフトの基礎的なスペック、その中のATKの数値が-65535という異常な負数の値であることに由来する。
 しかし、現実世界へ昇る際の順化により、本来の『空間に触れる』というスキルよりも、そちらが主たる性質として扱われたのだ。
 負数が表れた青の刃は、実存を伴わない地底世界でのみ成り立つために。地底世界のイモータルと違い、現実世界のアンゴルモアが不死を実現できないのと同様の理由だ。

「ええ。そのナイフに、今や負数マイナスの性質はどこにもない。勝手ながら『補整器コンペンセイター』と名づけさせてもらったわ」
「コンペンセイター……」

 マイナスナイフという名はもはや、その赤い天恵にふさわしくなかった。
 青から赤へ。負から正へ。仮想から実存へ。
 反転したギフトを言い表すその名は、つぶやいてみると意外にしっくりくるとイドラは感じた。

「それで、これは先生を助けられるのか? 補整っていうのがどんななのか、いまいちピン来てないんだが」
「その可能性は高いと見ているわ。れいは……彼女は今、身体的にはなんら問題ない。足りてないのは意識だけ。なら、補整のスキルでそのチャンネルをうまくつなぐことができるかもしれない」
「本当か……! なら、すぐにでも——」
「待って!」

 寝たきりの恩人を救うことが叶うかもしれない。気持ちが逸るイドラを、スドウが慌てて呼び止める。
 その表情は、どこまでも真摯なものだった。

「スドウさん……?」

 ただならぬ雰囲気をソニアも感じ取ったのか、不安げに眉を寄せる。

「さっきも言った通り、私たちはコンコンペンセイターが持つスキルの詳細まで明らかにはできなかった。方舟の一員としても、零の友人としても、私としてはあなたにその力を貸してほしい。だけど……」
「なんの懸念があるって言うんだよ。スドウも先生を助けたいんだろ!? なら、ここでためらってる理由なんて……!」
「『欠損の補整』。そんなの、どう考えたって範囲が大きすぎるのよ」

 うめくように、スドウはそう言った。

「コピーギフトと真正のギフトの差、かしらね。あるいはあなたのギフトが特別スペシャルなのか……その力はきっと、あらゆるものを補整できる」
「……僕のギフトはレアリティが1だからな。稀ではあると思うけど、それがなんの問題なんだ?」
「そこまで大きな力となると、なんの代価もないなんて思えないのよ、私には」
「代価?」
「代償、と言うべきかもしれないわね。ともかく、そのギフトのスキルはなにか、前提として消費されるものが存在している気がする。代償があるとしてとして失うものも選べるのか、失ったこと自体を補整できるのかは、まだ検証の余地があるけれど……」

 言葉を尽くした説明も、イドラには具体的なイメージが湧かなかった。
 代価、代償。
 ギフトの能力に、そんなものが存在するのか?
 イドラにはわからない。そんな法則ルールには覚えがない。
 無理からぬことだった。地底世界は仮想の地平、負数すら許容される特例的な箱庭だ。そこで生きてきたイドラの感覚は、スドウのそれとは異なっていた。

「大丈夫だ。傷を治すのもイモータルを殺すのも、なにかと引き換えなんてことはなかった。それより今は先生だ。あの病室に行って、先生を助けないと」
「……そうね。ええ、ごめんなさい」
「わたしはちょっと不安ですけど……止めたってウラシマさんを助けようとしますよね。イドラさんは」
「もちろんだ。僕はあの人に救われた。このギフトで先生を助けられるなら、迷う理由なんてどこにもない」

 手の中の赤い短剣——コンペンセイターを握りしめる。
 そう、迷う理由などあるはずもない。助けられる可能性は高いと、そうスドウは言ったのだ。
 マイナスナイフを手に、多くの傷を打ち消してきた。魔物に腹を喰い破られ、イモータルに肉を深く抉られても、即座に青い負数は傷を治してくれていた。
 同様に、不死殺しと呼ばれ、多くのイモータルを狩ってきた。
 今度も同じことだ。この短剣を突き立てれば、ウラシマを助けられる。
 あの曇天の庭では叶わなかったが。今度こそは——

「わかったわ。私からもお願いする……私はなんとしてでも零を助けたい。たった独りでアンダーワールドへ飛び込み、犠牲になったあの子のことを。イドラ君、力を貸してちょうだい」

 葛藤の末、スドウもまたイドラに頭を下げる。
 スドウもイドラも、ウラシマを助けたいと強く願う。ゆえにこそ、この日が来るのは必然だった。
 赤い短剣を手に、あの病室へ出向く。
 処置にはヤナギも立ち会うことになった。方舟の総裁はヤナギだ。いくら職員であるウラシマのためとはいえ、彼の許可なしに行うことは許されない。
 かくしてその日の昼過ぎ、イドラとソニア、そしてスドウとヤナギが、静かな病室に集まった。

「先生……」

 ベッドには、昨日と同じく眠るウラシマの姿。
 呼吸に合わせ、かすかに胸が上下する。手に触れれば温かな体温があり、脈もある。
 けれど、その目が開くことは決してない。

「準備はいいかね? イドラ君」
「……ああ」

 ヤナギの問いかけに、決意を持ってうなずく。
 腰のケースからマイナスナイフ——否、コンペンセイターを引き抜く。
 そして、それをくるりと手の内で半回転させ、逆手ににぎる。
 イドラは唐突に、長い長い今日までの旅が、この瞬間のためにあったような気がした。
 恩人を守れず、失意の中で旅に出て、イモータルを狩り続けた。そんな終わりのない贖罪を止めてくれたのはソニアだった。
 それからレツェリと戦い、やがて大陸を、海を、世界さえ越えてここまで来た。

(長かった……けれど、これできっと、全部うまくいく)

 無論、ウラシマが地底世界にやってきたのは、現実に侵攻するアンゴルモアの脅威が根底にある。よってここでウラシマが目を覚ましたとて、それでアンゴルモアの問題が解決するわけではない。
 だが、きっとなんとかなる。
 ウラシマがいれば。

「————治れ」

 眠るウラシマの傍らに立ち。病衣の上から、その胸へ——
 天恵の刃を降り下ろす。

「これは……!」
「光?」

 ヤナギが瞠目し、スドウが訝しむ。
 ウラシマの胸を貫く刀身が、赤い輝きを帯び、周囲に光を放っていた。
 今のウラシマは異常な状態だ。地底世界にダイブし、その中で死亡したことで、健康のはずの肉体から精神が損なわれている。
 その欠損を。
 欠落を。歪みを。
 コンペンセイターの輝きが補整する。

「——っ、ぁ……」
「零!!」
「ウラシマさんの、目が……開きました!」

——ただし埋め合わせには、保有者の生命力を使用する。

「よもや、本当に——地底世界から、精神を引き戻したというのか!」

 三者が息を呑み、驚愕する。
 その視線の先。ベッドで眠っていたウラシマの目が、すうと開き、自身の胸に突き刺さるギフトの短剣を見つめていた。

「キミ、は……」

 長らく音を発していなかった口が、途切れかかりながらもつぶやく。
 その目線が徐々にコンペンセイターから上に移り、それを逆手ににぎる、使用者の顔へと向けられる。

「……イドラ君。ああ、そうか——本当に、方舟ここまで」

 そして、優しげに目を細めた。
 懐かしい目。懐かしい声。……懐かしい表情。
 三年前、故郷の村にいた時と変わらない、柔らかな雰囲気。
 コンペンセイターを引き抜いたイドラは、声を発せず、瞬きさえもできなかった。
 声を出せば、夢から覚めてしまいそうで。瞬きすれば、その姿が幻のようにかき消えてしまいそうで。
 しかし今は夢ではなく、微笑を浮かべるウラシマの顔は幻でもなかった。

「せんせ——」

 そしてそのことを遅れて理解し、手を伸ばそうとしたところで——

「——っ?」

——視界が傾いで、立っていられなくなる。
 咄嗟にベッドのふちに手をつく。
 失敗した。目測は歪んで誤り、手は空振って、体はそのままリノリウムの床へ勢いよく倒れた。

「イドラさん……っ!?」
「イドラ君——」

 すぐに介抱され、手をにぎられる。
 そのころ既に視界は暗転し、誰がそうしてくれたのか、目ではわからなかった。

(……ソニアか。心配、かけさせることになりそうだな……)

 ただ、手の感触でわかった。ソニアの体温をかすかに感じながら、暗闇に落ちるようにして意識が遠のいていく。耳元ではソニアがなにか喋っているようだったが、それも厚い隔壁に阻まれたように、頭の中に響いてこない。
 脳裏をよぎるのは、先ほど、病室に来る前にスドウに言われた言葉だった。
——代償。
 軽んじるべきではなかった。
 失うものが、確かにあったのだ。ここ現実世界では、かつてのマイナスナイフのように、ただ振るうだけでどんな重傷をも完治させるような力は許されなかった。
 後悔先に立たず。意識を失う寸前、イドラはウラシマを救うことばかりに気を取られ、自分が軽率な行いに走ったことを今さらにして理解した。
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