不死殺しのイドラ

彗星無視

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最終章 忘れじの記憶

第150話 『ソニア最強、世界一』

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 いいはずがない。
 かつて地底世界で、後悔に沈むイドラを引き上げてくれたのはソニアだった。
 故郷の村で、ウラシマが死んだ時。シスター・オルファの凶行を止められなかったイドラは、そのことを自身の罪と思い、それから三年もの間、大陸中を旅して不死の怪物イモータルを殺し続けた。
 山を、平野を、森を、海岸を、沼地を、荒野を——そして雪原を越えて、出会いと別れを繰り返し。
 不死殺しの名が知れ渡る頃には、終わりのない贖罪に心は摩耗していた。
 そんな時、救ってくれたのがソニアなのだ。当時不死憑きの発作に苦しんでいたソニアが、イドラに救われたのだと思っていようとも——イドラにとっては、自身こそが救われたのだ。
 ソニアによって赦されて、罪の重荷を下ろすことができた。
 そんなソニアが今、過去の決断を悔やもうとしている。
 しかし時の流れは一方向で、遡ることも、停滞することもできはしない。どれだけの後悔を重ねても、既にした選択は変えられない。
 だからソニアの行いは、かつての自分と同じく、重い罪を自らに科そうとしているようにイドラには思えてならなかった。

「ソニア……っ!」

——まだこの時間を終わらせてはならない。
 反射的にそう思い、イドラは座ったまま手を伸ばし、ソニアの手をつかみ取る。

「ぇ——えっ? イ、イドラさん?」

 突然のことに、振り向きながらもソニアは目をぱちくりさせる。
 対し、イドラはと言えば、どうしたものかと内心焦った。
 衝動に任せてソニアを止めたのはいいが、言うべき言葉が浮かばないのだ。そもそも言葉を重ねても無駄だと先ほど結論を出したばかりで、今しがたも返答に窮してしまった。
 それなのに今ここで、ソニアの心に差し始めた後悔の影を払拭する気の利いたことを言うのは、それこそイモータルを殺すようなものだ。もちろんマイナスナイフなどという例外的な天恵は抜きで。

(どうする……)

 いくら頭をフル回転させても、そんな魔法のような言葉は出てこない。
 であればどうすべきか。
 イドラは、諦めた。
 無論、ソニアに湧いた後ろ向きな気持ちを晴らしてやることを、ではなく。
 言葉のみで以って、それをすることを諦めた。

「ソニア」
「ひゃいっ!?」

 つかんだ手を強くにぎる。そして上気した顔の、陽の光を受けて輝く宝石のような、橙色の双眸そうぼうをまっすぐに見つめる。

「今日まで、いっしょにいてくれてありがとう。本当に感謝してる」
「あ……」

 目を見て、偽らざる本心を伝える。
 気持ちを伝えるのは言葉だけではない。時には、行動が口よりも雄弁に語ることがある。

「きっと大丈夫だ。ヤナギが言った通り、レツェリのやつを倒しさえすれば、ことはすべて済む。だから——悩まなくていい」

 やはりイドラには、あの聖堂でのソニアの選択が誤りだとは思えない。
 誰かを憎むまいとする心が、命を奪うまいとする慈悲が、間違いであっていいはずがない。
 時間が一方向で、神さえも賽は操れず、時のくびきを逃れられないというのなら。あるいは選択の成否とは、すべて後になって決まるものなのかもしれない。

「……そう、ですね。確かに、今度も勝つことができれば……でも本当にできるんでしょうか。『星の意志』の力まで受け継いで……カナヒトさんも、重い傷を負わされて」
「僕たちなら、大丈夫だ」

 言い切ってみせるイドラに、ソニアは驚いたように目を見開く。

「レツェリのやつがどうなろうと、僕たちなら勝てる。既にいくつか策もある」

 策があるというのは、丸っきり嘘ではなかった。
 ヤナギが渡したアンプルは残り一本。その使い道を、イドラはもう決めている。

「……不思議ですね。イドラさんに大丈夫って言ってもらえると、本当にそんな気がしてきます」
「ソニアは初めからなにも間違えてなんかいない。間違いに見えていたとしても……それはたぶん、後から正解に変えられるんだ」
「過去は、変えられないのにですか?」
「未来を変えれば、過去の解釈は変えられる。この世界で先生とまた会えて、話ができて……今の僕はそう思う」
「過去の——解釈」

 この世界に来るまで、イドラはウラシマと会うことなど永遠に叶わないと思っていた。
 当然だ。彼女はなにせ、死んだのだから。
 しかしイドラがいたのは実存を持たない、地底にして地平の世界。無意識に象られたフラットワールドに過ぎない。
 ウラシマは確かに、この現実世界で生きていた。植物状態ではあったが、補整器コンペンセイターの力が及び、彼女は意識を取り戻した。
 今でもイドラは、そのことを奇跡のように考えている。
 三年前——あの曇天の庭で恩師との別離に嘆き、不死を狩る贖罪の旅に出た。
 だが今のイドラは、それさえ大切な過程だったと思っている。失意と後悔に沈んでイモータルを殺し続けた日々は、方舟にしてみればコピーギフトの抽出を害する外乱の排除であり、結果的にこの世界の助けとなっていたのだから。

「この世界に来なかったらそんな風には思えなかった。ここまで来れたのは間違いなく、ソニアがそばにいてくれたおかげだ。改めて、ありがとう」
「そんなっ、お礼なんて……! わたしの方こそ、イドラさんに助けられてばっかりで……この間も足を引っ張ってしまって」
「いいや、そんなことない。今回なんてあのベルチャーナに勝ったんだろう? ミロウに並ぶエクソシストに勝るなんて、本当にすごいことだ。僕には到底できそうにない」

 ウラシマとの特訓があったとはいえ、そこから技を会得できたのはソニアの努力の賜物にほかならない。特にイモータル由来の力が減じた今の状態でベルチャーナに勝つことができたのは、大金星と言っていい。
 
「そ——それなら、あの」
「ん?」
「がんばったって、思ってくれてるなら」

 頬を赤くしたまま。ソニアは上ずった声で、視線をさまよわせながら、おずおずと言った。

「褒めて……くれますか?」

 にぎったままの手からこわばりが伝わってくる。緊張の表れだ。

「褒める? ソニア最強……ソニア世界一、とか?」
「あっ、いえ、そういうのじゃなくって……! 頭! 頭をなでる感じとかでお願いしますっ」
「なんだ、そのくらいならお安い御用だ」

 イドラが快諾すると、ソニアははにかんでその場に屈む。イドラはにぎった手を放し、そのまま絹のような白い髪に覆われた頭頂部へと伸ばした。
 柔らかな毛髪に触れ、優しく頭をなでる。
 イドラは長椅子に腰掛けているため、床に屈んだソニアの頭の位置はちょうどよかった。

「えへ……えへへ……」

 なでりなでりと手を動かすと、ソニアはへにゃりと脱力したような表情を浮かべる。
 どうして急にこんなことになったのか、とイドラは疑問に思う。

(でも、喜んでくれてるならいいか)

 これもまた、言葉ではなく行動でしか示せないことだ。せめてより多く感謝が伝わればと、イドラは丁寧に頭をなでる。
 ソニアは目を閉じ、どこかくすぐったそうに身を任せていたが、しばしするとゆっくりまぶたを開いた。
 イドラを見つめる橙色の濡れた瞳は、静かな熱を帯びている。
 おそらくはずっと前から、イドラを見る目はそうだったのだろう。

「ありがとうございます。おかげでなんだか、吹っ切れました」
「……そんなになでられるのが好きだったのか? このくらいならいつでもしてあげられるのに」
「えッ、じゃあもっと——ではなくて! 過去の解釈は変えられるって、さっき言いましたよね。それってつまり、あの聖堂での決断もそうだってことですよね?」
「ああ。ソニアがもし間違った決断を下したと思ってても、誤りだったかどうかが決まるのはこれからだ。これから、変えられるんだ」
「はい。なにも間違えてないって、イドラさんが言ってくれたから……わたしも、そう思えるような結果にしてみせます」

 そう笑ってみせたソニアに、もう憂いの様子はなかった。

「それに、思い出したんです」
「——? 思い出したって、なにを?」
「胸を張って過ごすって、ベルチャーナさんにも言いましたから。負けた時のことばかり考えてたらダメですよね」

 一体どんなやり取りがあったのか、イドラには知る由もなかったが、ベルチャーナとの一件がソニアにとって大きな成長につながったのは確かだった。
 イドラはうなずきを返して椅子から立つ。ソニアも、少し名残惜しそうにしながら立ち上がった。
 雨音が止んでからしばらく経った。いい加減、雨宿りも終わりにするべきだろう。
 ふたりは睦まじく並び、建物を出る。
 そして、その空に言葉を失った。

「……なんだ……これは?」

 一拍遅れ、イドラの喉から絞り出すような驚愕が漏れる。
 二者の視線の先、遠い空で、流れる雲が渦を巻く。

「いつの間にこんな……だって、さっきまで——」

 雨の止んだ暗雲。それがまるで意志を持つなんらかの生物のように、彼方の一点を中心に蠢いている。ゆっくりではあるが、そうとわかる速度で。
 雨上がりでありながら、なおも不吉に薄暗く——
 天変地異の前触れ、あるいは神の怒り。そんな荒唐無稽なことを思ってしまうほどの光景。
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