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第十五話 刻まれた記憶

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「————っ! エ——、様——!」
「ん……この声、シンジュか」
「どうやらお仲間が探しておるようじゃの。鉢合わせても説明が面倒じゃ、吾輩はここで去ることにする」
「もう行くのか? 色々と助かった」
「礼を言われる筋合いはない、それに遠からずまた会うじゃろう。吾輩は、おぬしらタカイジンを利用するために呼んでおる。裏目に出ることも……吾輩が憤る筋は本来、どこにもないのじゃ」
「そいつが誰のことを言ってるのか知らないが、オレはこの世界に来れて、不死の力を得て今、心からよかったと思ってるよ。おかげでもしかしたら、オレは後悔を取り戻せるかもしれない」

 なにがしかの決意を宿した永一の黒い目を見て、パードラはわずかに驚いたように眉を上げた。

「まさか……失ったものが、おぬしの手に戻るわけではないのじゃぞ」
「わかってる。それでもだ」
「……不思議な男じゃな。苛烈なようで穏やかなようでもある。おぬしはきっと、自分で思うほど心ない者ではないよ」

 パードラは振り向き、路地の先へと歩き去っていく。歩くのに合わせ、緩く彼女に巻きついた黄金色の鎖がじゃり、と音を立てる。

「――む。そうだった、言い忘れておった」

 数歩したところで彼女は、思い出したかのようにはたと振り返り。

「くれぐれも、冒険者ギルドには気をつけるのじゃぞ」

 そんな警句を残して、今度こそ去っていった。
 入れ替わるように、路地の入口から小走りの足音が近づいてくる。

「……! いた、姉さん。こっち」
「見つけたのですか!? あ——エーイチ様っ! すみません、はぐれてしまい……あら? あの小さな方は」

 永一のそばに駆け寄ってきたシンジュは、ちょうど反対側から路地を出ようとする細い背に目を止める。白い髪をなびかせるその少女は、マリンブルーの双眸をもう一度こちらに向けてくることはなく、そのまま見えなくなっていった。
 なにがあったのかと、シンジュの顔には疑問符がありありと浮かんでいる。それをすぐ口に出さない慎ましさは、訊いてよいものなのか判断がつかないからだろうか。

「別に、なにかあったわけじゃない。ただ……」

 言えない話をしたわけでもない。しかし、なんと説明をしたものか——
 永一はわずかにだけ考え、やがて言った。

「神はサイコロを振らないと言うが、ガチャは引くらしい」



 想定外の出来事はあったものの、永一たちはその後、当初の予定通りに永一の使う武器を購入した。選んだのはいわゆるククリナイフに近い、両刃かつ内側に反りのある、ナタのような形状をした短剣だった。
 魔石を換金した硬貨の残りは、大仰な剣を買えるほどはなかったが、短剣であれば不足はない。もとより長い獲物は取り回しが難しく、自殺もしづらい。

「利便性の高そうな刃物です。なにが起こるかわからない迷宮に適した、良いチョイスだと思います。流石ですエーイチ様」
「ああ。先端も鋭くて、これだけ刃が大きければ自殺もしやすそうだ」
「……やっぱりそこなのですね」

 清淑せいしゅくさから若干の呆れが漏れ出ていた。
 永一はシースに入れたククリを左腰に下げ、姉妹を連れて店を出る。それから今度は騒ぎにならないよう、あえて大通りを避けながら遠回りで、大通りの先にある場所へと向かう。

「ともかくこれで、コハクにクナイを借りなくて済む。大事なものみたいだったからな、あれ」
「え……どうして……おわかりに?」
「見ればなんとなくわかる。ずいぶん使い込まれてたが、入念に手入れされていた」

 刃物に詳しいだなんてことはなかったが、それでも見て、使いもすれば誰でも気が付く。雑に扱われていればああはならない。
 永一の言葉に、コハクは返事を見失ったように黙り込み、代わりに口を開いたのはシンジュだった。

「コハクのあのクナイは、里のある種の習わしで受け取ったものなのです」
「でも……本当は……姉さんのもの、だから……」
「とまあ、このように少々いきさつが複雑ではあるのですが」
「本当はシンジュのもの? どういうことだ、そりゃあ」

 そんなつもりはなかったのだが、結果的にクナイについて深く訊くことになる。
 遠回りをしているおかげで、話す時間はたくさんあった。歩きながらコハクはそっとクナイを取り出し、その黒く、細かい傷の無数に刻まれた表面に目を落とす。

「これは……長子苦無ちょうしくないと言います。……長男ないし長女が……十歳になると、成長の証として渡されるのが……古くから、里に伝わる習慣です」
「長女? 姉はシンジュの方だよな」
「はい。ですが、ワタシはどうにも運動が得意ではなかったので。より上手く扱えるであろうコハクに譲ったのです」
「——」

 わずかに照れながら話すシンジュの笑顔は、普段の淑やかさが嘘のように無防備で、永一は思わず目を奪われる。
 その幼いころの話は、彼女にとって特別な出来事だった。おそらくはコハクにとっても。

「長子苦無を受け取ることは……長子の特権。とても……栄誉なこと、なのに」
「いいじゃないですか。もともと双子なんですから、姉も妹も変わりません」
「……もう、姉さん、当時と同じこと……言ってる」

 コハクもまた、シンジュにつられるようにくすりと笑った。
 輝かしい記憶。故郷が今や跡形もなく壊されていようとも、そこで育んだ思い出までなくなってしまうわけではない。
 姉妹の似た色をした瞳に、郷愁のわびしさが刹那の間だけよぎる。

「そうか、思い出の品なんだな。……コハクお前、そんな大切なの軽々しくあげようとしてたのか」
「下僕ですので……」
「それはやめろっての」

 献身が重い。永一は苦い表情を浮かべ、話題を断ち切った。
 それからしばし、無言で歩く。目的地である町の中心部に近づくにつれ、武装した者の姿もちらほらと視界に入る。身軽な永一たちの見た目はかえって目立つかもしれなかった。

(……ふたりにとって、かけがえない思い出なのは間違いない)

 せめてとばかりに、明るい陽射しの届かない建物の陰を行きながら、永一はさっきのことを思い出す。
 姉妹の絆を象徴するような、美しい記憶。共有された思い出。
 しかし、シンジュとコハクの瞳がそれぞれ黄金色と琥珀色と、似ていながらもわずかに色を違えるように。その想いがまったく同じであるとは限らない——
 くすりと笑ったあと、暗い憂いを帯びたコハクの表情が、自分の気のせいであることを永一は願った。



「準備はいいか?」

 人のまばらな冷えた広間で、永一は石の門を前にして姉妹に問う。
 螺旋迷宮のロビーばかりは、人目を遮るものもない。永一たちは周囲の冒険者ギルドに所属しているのであろう者たちから、昨日と同じようにじろじろと見られていた。
 だがその視線に込められるのは、昨日のような美女をはべらせる嫉妬ではない。
 畏怖。それに近いものだ。

「おい。あの銀髪の女に、額に傷のある男……」
「ああ……間違いねえ、ギルドに所属せずに迷宮に挑む命知らず。39層を突破したって連中だ」
「しかも見ろよあの装備。男は短剣ひとつ、女なんてなにも持ってないぞ」
「バッカ、あの銀の髪はセレイネスの里の——」

 口々に周囲で話されるすべてを、まるで耳に届いていないかのように無視して姉妹は頷いた。事実気にもしていないのだろう。
——無駄な確認だったか。
 永一がなにか言うまでもなく、二人は常に備えている。覚悟などとうに……おそらくはホシミダイを目指す旅路を歩み始めた瞬間からできている。
 真に決意が必要なのは永一の方だ。

「行くぞ。ボス部屋なんてまるでゲームみたいな呼ばれ方だが、お手並み拝見だ」

——40。
 を内含したその数字を頭に強く思い浮かべながら、永一は門をくぐった。
 視界が切り替わり、周囲の人だかりが消失する。移動したのは狭い小部屋で、すぐ目の前にはまたもうひとつ門があった。

「また……扉」
「二重扉って。ファミレスじゃないんだぞ」
「ふぁ……?」

 永一の感想はコハクには伝わらなかった。押してみると扉はあっさりと開いたし、転送装置である先のそれとは違う、ただの扉でしかなかった。
 小部屋の先は、39階層とはまったく異なる、むしろロビーに近い様相の広間だった。相変わらず床と天井は真っ白く、ぼんやりと発光していて、ところどころこぶのような不気味な盛り上がりがあった。

大型種ディソベイ。それも竜……!」
「あれは——」

 体が一度、大きく震える。本能の恐怖から? 違う。脳裏に刻み込まれた景色がそうさせたのだ。
 広間の中心に佇むのは、赤い赤い、炎をまとうような竜だった。
 大きさはゆうに家ひとつ程度はあり、全身は真っ赤な鱗に覆われ、四本の足を地に下ろす。分厚く雄大な一対の翼を備え、引きずる尾は長く、また丸太のように太い。
 まさしく絵本の頁や伝説の中から飛び出してきたかのようなその生き物は、かつて永一の視界に鮮烈に焼き付いた侵略者でもあった。

「エーイチ様……?」
「あの時の、怪獣!」

 地獄の中で意識を失う直前、赤い視界に見た影を思い出す。
 六年前、永一の町に悲劇をもたらした竜。世界で初めて観測された怪獣災害。
 同一の個体ではないだろう。あの夜、瞬く間に町を破壊し、建物を瓦礫に変え、地を燃やし、死と混乱を振りまいた火竜は自衛隊によって討伐されている。
 それでも同じ種というだけで、黒い闘争心が全身にみなぎるのを感じた。世界を越え、何度生死の境界を越えても消えない想い。
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