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Chapter1:死骸人形と欠けた月
第一話:残影の記憶に導かれて
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「う……眩し」
目に飛び込んできた夕陽の光に、男はぐらりとふらついた。手近な木の幹につかまり、なんとか転倒を回避する。
男は一時間以上かけて、どうにか洞窟から脱することができていた。手探りで進み、外の明かりが見え始めればそちらへ向かうだけだ。もっとも暗闇を灯りもなしに進んできたものだから、洞窟の出口の斜面を登りきった頃には肌のあちこちを擦りむき、黒い制服も汚れてしまっていた。
「洞窟を出たのはいいが……これからどうすればいいんだ」
しかし服などはどうでもいい。
めまいが落ち着いても、男はすぐには歩き出せなかった。
記憶がひどく混濁して、ほとんどのことが思い出せない。頭の中はまるで箱の中のケーキだ。それも、子どもがはしゃいでたっぷり振り回した。
「……子ども…………」
ぐちゃぐちゃになった記憶の層に、なにか引っかかるものがあった。
無意識に後頭部に手を添える。そして腕に力を込め、手のひらでぐっと押した。
ぽきり。
首の関節が小気味よい音を鳴らす。
『——兄さま! 見てください、あんなところにアーリアのお花が咲いてます!』
連動するように、記憶の混沌からわずかな瞬間が切り出される。
脳裏をよぎる風景。黒い髪を切りそろえた可憐な少女が、爛漫の笑顔でこちらを見る——
春の陽気をたっぷりと含んだ柔らかな風に、到来する季節を祝うように芽吹く木々。それらのにおい。
「……ミア」
記憶をつなぐ糸の大部分は断線している。心臓は一度確かに鼓動を止め、その前に魂は損なわれた。
それでも、その名前を憶えている。誰よりも大切な妹のことを。
無残に砕け散った石くれの中から、赤く輝く宝石を拾い上げるように、記憶を脳内で反芻する。
あどけない顔ではにかむ赤い瞳の少女を想うたび、胸の奥から形容しがたい温かな感情が湧き出る。
「そうだ——ミアを、助けないと」
自分のことはなにもわからなくとも、すべきことだけは明白だった。
男は小休止を終え、再び歩き出す。向かう方角は漠然とだがわかっていた。
男の倒れていた洞窟は山の麓にあり、そこから南下していく形で進む。道らしい道はなく、ほとんど森に近い木立の中を、時に迂回し時に低木をかき分ける。
そのような場所だったので、野生の生物と遭遇するのはある種の必然だったのかもしれない。
日が沈み切る直前。木の陰からぬっと、男の行く手を阻むように一匹の獣が現れた。
「ゥ————グゥルルル——」
「犬? ......違うな」
ピンと立った耳が特徴的な、真っ黒い毛並みの四足の獣。フォルムこそ大型の犬に近いが、やけに筋張った体躯、ナイフのように鋭い爪、そしてなにより全身から沸き立つような鋭い殺意がただの動物とは一線を画している。
それは野生でありながら、魔性。俗に魔物と総称される、人間と同じく血中に魔力を有する魔導生物の一種だった。
(まずい、なにか武器になるようなものは……くそ、木の枝くらいしか見当たらない!)
魔物の血に飢えた眼に見据えられ、男は戦慄した。
栄えある学院にて魔術を修める肉体が積み重ねた経験か。広い目で見れば同種と言える、心臓に根差す環状生物の本能か。どちらに由来するものかは定かでないが、脳裏に響く警鐘に従い、男は咄嗟に武器を探した。
木の枝では不足だろう。地面に目を向ける。
石……大きなものがあれば十分役立つかもしれないが、足元に散らばるのは、せいぜいが妹のちっちゃな握りこぶし程度。これでは殺傷力は望めまい。
願うような心持ちで制服のポケットを探る。——硬い手応え。
「これは……」
取り出す。手に馴染む木のグリップ。
疑問を覚えるより先に、指はひとりでに側面の小さなレバーのようなものを下げていた。すると柄の切れ込みから、内側に収納されていた刃がくるりと回るように展開される。
世にも珍しい折りたたみナイフ。
柄にはさらに、宝石にしてはやけに地味な、特段美しくもない黒い石が埋め込まれていた。装飾だろうか。気にする間もなく、魔物は男へ飛びかかる——
「くっ!」
「ガァァ——ァァ——ッ!!」
ともかく、木の枝やそこらの石よりはよっぽど上等な得物だ。考える間もなく、男はナイフを振って応戦する。
半ば闇雲に振った刃は、運良く魔物の鼻先を切り裂いた。
「グルァァァァァァァ!」
しかし、折りたたみのナイフは柄に刃を収納する都合上、刀身のサイズは小さくなる。傷は浅く、半端に手傷を負わされた魔物はかえって激昂し、頸動脈を食い破ろうと牙を剥く。
「ぐぁっ、ぁぁぁあああ……!」
「グ——ルルルルルゥッ」
咄嗟に空いた腕で首をかばうと、当然その上から鋭い牙が突き刺さる。深く食らいついた魔物の顎が、腕を無理やり食いちぎろうと万力じみた力を込める。
叫びに変容する直前の、苦悶のうめきが自然と喉奥から絞り出された。
抵抗とばかりにナイフをがむしゃらに突き刺すも、相手は魔物だ。ただの動物とはわけが違う。小さなナイフの刃では、とてもその咬合力を緩めさせるほどのダメージを負わせられない。
(痛い——死ぬ? 嫌だ! オレはまだ、死ぬわけにはいかない...…!)
皮膚が破れ、血管が裂け、骨がきしむ。
神経を激痛が蹂躙する。
しかし男は叫ばない。喉が張り裂けるほど絶叫する代わりに、先ほど反芻した記憶をもう一度思い出す。
自分のことを兄さまと呼んで慕い、幼い頃から後ろをとてとてとついてくる少女。ミア。
『——お前はただ、ミアを助けろ』
場面が移る。記憶の中の風景が、野外から屋内の和室へと転換する。
夏の日。陰影は濃く、外はじりじりと日差しに焼かれ、草葉も青々と茂っている。
少女はおらず。代わりに、床へ伏せる顔の思い出せない誰かが、胸に楔を打つように重苦しく告げていた。
(ああ、そうだ)
無様な死など許されない。
胸の誓いが。それから、血の怨恨が。このような子犬に噛み殺されて死ぬなど許容しない。
痛みが揺さぶる思考の奥から、必要な詠唱が浮かぶ。
——流れゆく血よ、雪がれぬ罪よ。
——串刺す茨の刃となれ。
「『鋭血』」
「ゥ——ブッ」
ごぼ、と魔物が血の塊を吐き出す。
その顔面からは、赤黒く、鋭く長い棘のようなものがいくつも生え出ていた。
これらは男の血だ。血晶魔術——血脈を汚染する呪われた力。それによって凝固し、鋭く形作られた棘が、魔物の顔と頭を内側から突き破って破壊した。
さしもの魔物も頭部を破壊されれば生きてはいけない。顎の力が緩み、死骸となってその場に倒れる。
男は噛まれた腕を引き抜くと、歩みを再開する。棘は既に消え、牙に食い破られた傷口からはまだ血が流れ続けている。
「はぁ、はぁ——、ミア......っ」
男は自分がなにをしたのか、今ひとつ理解し切れていない。血を流しすぎたせいで意識も少し朦朧としている。
いつの間にか日も沈みきり、辺りは薄暗い。
夕闇の中、重い足取りを進ませるのは、執念じみた記憶の中の少女への想いだけだった。
そしてやがて、目的の村へとたどり着いた。
村の風景は夜闇に隠されてほとんど見通せなかったが、それでも胸中に温かいような切ないような、そんな感慨じみたものが湧く。
帰ってきた。そう感じる。
フェルゼン村——
ベイン帝国領の東部に位置する、辺境の小さな村。取り立てて珍しいものがあるわけでもなく、人口も少ない、ごくありふれたつまらない村だ。
だがそうであっても、故郷というのは誰にとっても特別で、ほかの場所とは違う気持ちを抱かせる。
記憶の残骸、過去の断片に吸い寄せられるように、男はふらふらと村の中を歩いた。
「ん……? 誰だおめえっ?」
すると、遅くまで農作業をしていた帰りなのか、鉄製のくわを担いだ男性とばったり出会う。
目に飛び込んできた夕陽の光に、男はぐらりとふらついた。手近な木の幹につかまり、なんとか転倒を回避する。
男は一時間以上かけて、どうにか洞窟から脱することができていた。手探りで進み、外の明かりが見え始めればそちらへ向かうだけだ。もっとも暗闇を灯りもなしに進んできたものだから、洞窟の出口の斜面を登りきった頃には肌のあちこちを擦りむき、黒い制服も汚れてしまっていた。
「洞窟を出たのはいいが……これからどうすればいいんだ」
しかし服などはどうでもいい。
めまいが落ち着いても、男はすぐには歩き出せなかった。
記憶がひどく混濁して、ほとんどのことが思い出せない。頭の中はまるで箱の中のケーキだ。それも、子どもがはしゃいでたっぷり振り回した。
「……子ども…………」
ぐちゃぐちゃになった記憶の層に、なにか引っかかるものがあった。
無意識に後頭部に手を添える。そして腕に力を込め、手のひらでぐっと押した。
ぽきり。
首の関節が小気味よい音を鳴らす。
『——兄さま! 見てください、あんなところにアーリアのお花が咲いてます!』
連動するように、記憶の混沌からわずかな瞬間が切り出される。
脳裏をよぎる風景。黒い髪を切りそろえた可憐な少女が、爛漫の笑顔でこちらを見る——
春の陽気をたっぷりと含んだ柔らかな風に、到来する季節を祝うように芽吹く木々。それらのにおい。
「……ミア」
記憶をつなぐ糸の大部分は断線している。心臓は一度確かに鼓動を止め、その前に魂は損なわれた。
それでも、その名前を憶えている。誰よりも大切な妹のことを。
無残に砕け散った石くれの中から、赤く輝く宝石を拾い上げるように、記憶を脳内で反芻する。
あどけない顔ではにかむ赤い瞳の少女を想うたび、胸の奥から形容しがたい温かな感情が湧き出る。
「そうだ——ミアを、助けないと」
自分のことはなにもわからなくとも、すべきことだけは明白だった。
男は小休止を終え、再び歩き出す。向かう方角は漠然とだがわかっていた。
男の倒れていた洞窟は山の麓にあり、そこから南下していく形で進む。道らしい道はなく、ほとんど森に近い木立の中を、時に迂回し時に低木をかき分ける。
そのような場所だったので、野生の生物と遭遇するのはある種の必然だったのかもしれない。
日が沈み切る直前。木の陰からぬっと、男の行く手を阻むように一匹の獣が現れた。
「ゥ————グゥルルル——」
「犬? ......違うな」
ピンと立った耳が特徴的な、真っ黒い毛並みの四足の獣。フォルムこそ大型の犬に近いが、やけに筋張った体躯、ナイフのように鋭い爪、そしてなにより全身から沸き立つような鋭い殺意がただの動物とは一線を画している。
それは野生でありながら、魔性。俗に魔物と総称される、人間と同じく血中に魔力を有する魔導生物の一種だった。
(まずい、なにか武器になるようなものは……くそ、木の枝くらいしか見当たらない!)
魔物の血に飢えた眼に見据えられ、男は戦慄した。
栄えある学院にて魔術を修める肉体が積み重ねた経験か。広い目で見れば同種と言える、心臓に根差す環状生物の本能か。どちらに由来するものかは定かでないが、脳裏に響く警鐘に従い、男は咄嗟に武器を探した。
木の枝では不足だろう。地面に目を向ける。
石……大きなものがあれば十分役立つかもしれないが、足元に散らばるのは、せいぜいが妹のちっちゃな握りこぶし程度。これでは殺傷力は望めまい。
願うような心持ちで制服のポケットを探る。——硬い手応え。
「これは……」
取り出す。手に馴染む木のグリップ。
疑問を覚えるより先に、指はひとりでに側面の小さなレバーのようなものを下げていた。すると柄の切れ込みから、内側に収納されていた刃がくるりと回るように展開される。
世にも珍しい折りたたみナイフ。
柄にはさらに、宝石にしてはやけに地味な、特段美しくもない黒い石が埋め込まれていた。装飾だろうか。気にする間もなく、魔物は男へ飛びかかる——
「くっ!」
「ガァァ——ァァ——ッ!!」
ともかく、木の枝やそこらの石よりはよっぽど上等な得物だ。考える間もなく、男はナイフを振って応戦する。
半ば闇雲に振った刃は、運良く魔物の鼻先を切り裂いた。
「グルァァァァァァァ!」
しかし、折りたたみのナイフは柄に刃を収納する都合上、刀身のサイズは小さくなる。傷は浅く、半端に手傷を負わされた魔物はかえって激昂し、頸動脈を食い破ろうと牙を剥く。
「ぐぁっ、ぁぁぁあああ……!」
「グ——ルルルルルゥッ」
咄嗟に空いた腕で首をかばうと、当然その上から鋭い牙が突き刺さる。深く食らいついた魔物の顎が、腕を無理やり食いちぎろうと万力じみた力を込める。
叫びに変容する直前の、苦悶のうめきが自然と喉奥から絞り出された。
抵抗とばかりにナイフをがむしゃらに突き刺すも、相手は魔物だ。ただの動物とはわけが違う。小さなナイフの刃では、とてもその咬合力を緩めさせるほどのダメージを負わせられない。
(痛い——死ぬ? 嫌だ! オレはまだ、死ぬわけにはいかない...…!)
皮膚が破れ、血管が裂け、骨がきしむ。
神経を激痛が蹂躙する。
しかし男は叫ばない。喉が張り裂けるほど絶叫する代わりに、先ほど反芻した記憶をもう一度思い出す。
自分のことを兄さまと呼んで慕い、幼い頃から後ろをとてとてとついてくる少女。ミア。
『——お前はただ、ミアを助けろ』
場面が移る。記憶の中の風景が、野外から屋内の和室へと転換する。
夏の日。陰影は濃く、外はじりじりと日差しに焼かれ、草葉も青々と茂っている。
少女はおらず。代わりに、床へ伏せる顔の思い出せない誰かが、胸に楔を打つように重苦しく告げていた。
(ああ、そうだ)
無様な死など許されない。
胸の誓いが。それから、血の怨恨が。このような子犬に噛み殺されて死ぬなど許容しない。
痛みが揺さぶる思考の奥から、必要な詠唱が浮かぶ。
——流れゆく血よ、雪がれぬ罪よ。
——串刺す茨の刃となれ。
「『鋭血』」
「ゥ——ブッ」
ごぼ、と魔物が血の塊を吐き出す。
その顔面からは、赤黒く、鋭く長い棘のようなものがいくつも生え出ていた。
これらは男の血だ。血晶魔術——血脈を汚染する呪われた力。それによって凝固し、鋭く形作られた棘が、魔物の顔と頭を内側から突き破って破壊した。
さしもの魔物も頭部を破壊されれば生きてはいけない。顎の力が緩み、死骸となってその場に倒れる。
男は噛まれた腕を引き抜くと、歩みを再開する。棘は既に消え、牙に食い破られた傷口からはまだ血が流れ続けている。
「はぁ、はぁ——、ミア......っ」
男は自分がなにをしたのか、今ひとつ理解し切れていない。血を流しすぎたせいで意識も少し朦朧としている。
いつの間にか日も沈みきり、辺りは薄暗い。
夕闇の中、重い足取りを進ませるのは、執念じみた記憶の中の少女への想いだけだった。
そしてやがて、目的の村へとたどり着いた。
村の風景は夜闇に隠されてほとんど見通せなかったが、それでも胸中に温かいような切ないような、そんな感慨じみたものが湧く。
帰ってきた。そう感じる。
フェルゼン村——
ベイン帝国領の東部に位置する、辺境の小さな村。取り立てて珍しいものがあるわけでもなく、人口も少ない、ごくありふれたつまらない村だ。
だがそうであっても、故郷というのは誰にとっても特別で、ほかの場所とは違う気持ちを抱かせる。
記憶の残骸、過去の断片に吸い寄せられるように、男はふらふらと村の中を歩いた。
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