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第一話 姫と呼ばれる私。絶賛臨死体験中?

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 「ありがとうございます!」

 駆け出しそうになる気持ちを抑え、私は来たときと同じくらい丁寧に頭を下げて扉を閉めると、やった!と書類を抱きしめた。
 大口の、商談成立。
 この会社に就職して5年目、大した成果も挙げられず肩身の狭い思いをしつつも歯を食いしばって頑張ってきた努力が報われた気分だった。
 同期に比べたらまだまだ私の成績なんて微々たるものだ。でも、でも。笑った数より泣いた回数のほうが多いこの仕事を初めてしていて良かったと思えた瞬間だった。
 後日改めて詳細な見積書を持って上司と伺います。そう言って交換した名刺を宝物のように天に掲げる。
 このとき、私は人生で一番アドレナリンが出ていたのかもしれない。
 まだ陽の高い午後、よく晴れた空から少し強い紫外線を感じながら、私は背の高いビルを背にすると向かいの交差点に目を向けた。
 大通りを行き交う車は多い。点滅し始めた歩道の信号をこのヒールで走る気にはなれず、次の青を待とうとゆっくりと歩を進める。
 ふとその隣を小柄な体が駆け抜けていった。
 ガッチャガッチャと黒いランドセルを鳴らすまだ低学年の男の子。視界の端には右折してくるにはスピードが速すぎる大型車、全てがスローモーションに見え、心臓がドクリと一度嫌な音を立てた後、私はヒールのことなんて忘れて一目散に走りだした。
 子供は車なんて見えていない。車はスピードを緩める気配すらない。こちら側に引っ張る?ランドセルに届くか?そんなことが一瞬のうちに駆け巡りながら、私の本能が導き出した結論は思いっきりの、体当たりだった。
 綺麗に吹っ飛んでいった小さな体を見ながら、次の瞬間横から衝撃が襲う。
 ああ、友達から勧められたゲームを返せていない。私が人生の最期に考えたことは、そんなことだった。





 ーーさま、
 ーーー姫さま

 んん、
 日差しが眩しい。
 起き抜けにこんな日光を浴びせないでほしい。
 強制的に目覚める頭と体をゆっくりと伸ばしながら私は体を起こした。
 素足に絡むシルクの感触が心地いい、身体はこれまたなんの素材で出来ているのか着ているだけで気分が上がる気持ちの良い肌触り。
 そしてそこからまっすぐ伸びる真白な手足。
 ーーーん?
 ここでようやく違和感に気がついた。
 私にかかっている羽のように軽い布団をうやうやしく持ち上げる人物を見上げる。ーー誰だ、これ。
 メイドのような、いや間違いなくメイド服を着ている年若い女性、髪は丁寧に結われそれを包み込む白いキャップはとても上品だ。

「おはようございます、姫さま」
「…おはようございます」

 私の声にびくりと体を震わせたメイドに私もびくりと揺れる。もしかして、私に言ったんじゃ無かったんだろうか。慌てて周りを見回すと、私が横になっていたのは5、6人は寝られるんじゃないかという広いベッドだった。ご丁寧に、天蓋付き。ベッドの先は何十畳あるのかも分からない広い広い部屋。中央に猫足の小さなテーブルと端っこにドレッサーが置かれているのが見える以外は、豪奢な扉があるだけの眩い部屋。あ、上にはシャンデリアがある。初めて見た。
 呆然とする私に、先ほどのメイドが恐る恐る話しかけてくる。

「…あの、姫さま?」

 勢いよく顔を上げた私に気圧されたように少し身を引く。

「姫?」
「はい」
「さま?」
「…はい」

 なぜこの人は私を姫と呼んでいるんだ?
 頭を抱え出した私に心配を含んだ声が落ちてくる。

「あの、お加減が悪いようでしたらお休みになられたほうが」
「いえ、体は元気なんです」

 そう、体は元気なのだ。それもすこぶる。
 最近休みの日に休んでも疲れが取れなくなってきたアラサーの体には久しく感じていなかった軽さだ。いつまでも眠気の取れない重い頭も、万年凝っている肩や腰も、運動不足で筋肉の落ちている足の怠さもない。
 キングサイズをゆうに超えたベッドからひらりと着地する。大理石の床が裸足の足をヒヤリと迎えた。

「あの、鏡ありますか。全身鏡」

 慌てて私の足に柔らかな毛で覆われたルームシューズを履かせ、メイドは不思議そうな顔をしながらこちらです、と私を案内する。すぐに床は分厚い絨毯へと変わり、これも何十畳あるんだと回らない頭で見回した。
 私が鏡の前に立つと、メイドは恭しく、という言葉がぴったりの所作で数歩下がる。こうべを垂れる姿も目も入らず、私は呆然と目の前の姿見を見つめた。
 なんだ、この美少女。
 白に近いプラチナブランドの髪は腰をゆうに超える長さで緩やかに波打っていて、ネグリジェから伸びる手足は発光しそうなほどの白さが際立っている。真ん中で分けられた前髪から覗く髪と同じ色の綺麗な眉、瞬きをしたらパチリと音がしそうなほど大きな瞳は宝石の色が輝いていた。バサバサの睫毛に通った鼻、ツンとした唇は何か塗ってるとしか思えない鮮やかな朱色をしている。
 いつまでも見ていても飽きない、非の打ちどころのない美しさに見惚れていると、姿見の奥で頭を下げていたメイドが様子を伺うように顔を上げたのを視界の端で捉えた。

「あの、変なことを聞いてもいいですか?」

 ごくり、と唾を飲み込む。
 張り付いた喉が震える声を絞り出した。

「ここはどこで、今は何年ですか?」

 私の質問に一瞬訝しげな顔を見せるもさすがはプロ、なのだろうか。すぐに頭を下げ淀みなく言葉を紡いだ。

「ここはアルマナ国、皇紀687年でございます。アルマナ第一王女、レア様」

 あるまなだいいちおうじょれあさま。

 新たな情報に頭をガツンと叩かれるような衝撃を感じる。ふらつく足元を、姿見にへばりついた腕が支えた。

「…少し休ませてください…」

 震える声でなんとか伝えると、彼女はすぐに下がっていった。何かありましたらこちらをお鳴らしください。そうベッド横のベルを掲げながら。

 待ってくれ。
 力の入らない身体でベッドへと腰掛ける。サラサラと指の間を流れる、とんでもなく金と時間をかけているんだろうと思われる髪をガッと掴むと、考えすぎて熱くなった頭を掻き毟った。
 なんだこれ。どういう状況だ。
 そもそも私は、事故にあったはずだ。
 冷静に働き出し始めていた頭があの日の情景を思い出す。決まった商談に浮かれ、その先で見た男の子を車から庇った私はーーー。
 間違いなく轢かれたはずだ。痛みすら感じる暇もなく意識は途切れたが、あの衝撃は間違いない。

「もしかして、臨死体験ってやつ?」

 ハハ、と乾いた笑みを浮かべる。もしかすると私は病院に担ぎ込まれ、死の淵で戦っているのかもしれない。それが見せている、夢?
 そう考えるのが一番腑に落ちた。
 それにしても、何かが引っかかる。
 先ほどのメイドが言っていたアルマナ国、レア姫。どこかで聞いたことがある気がしてうんうんと頭を悩ませるが何も出てこない。
 はあ、と体中から吐き出すように息をつくと、私は仰向けになって天蓋を見つめた。素人目でも分かる繊細な造りのレース。こんなのが、私の頭で作り出せるのだろうか。

 それよりあの男の子無事だったらいいな
 とっさに庇ってしまったのはきっと幼い弟に似ていたから。一人残してしまった弟を想って、私は少しだけ泣いた。



 どれくらい経っただろうか。こうして一人考えていても夢も覚めなければ何も変わらない。
 銀で出来たベルをそっと持ち上げ控えめに鳴らすと、扉の前で待ち構えていたのだろうか、先ほどのメイドが綺麗に一礼をして入ってきた。後ろには、もう一人の年嵩のメイドを連れて。

「お加減はいかがですか、姫」

 きつい顔立ちのメイドは、歳の頃5、60代だろうか。ピシリと伸びた背筋はまるで定規でも入っているようで、あつらえたメイド服は若いメイドのものと変わらないのにまるで彼女のためにあるようだった。

「体調は、悪くないです」

 私の言葉に釣り上がった眉がピクリと動く、それ以上の変化は見られなかったが、横に控える若いメイドが伺うように年嵩の彼女を見やった。

「なるほど」

 短く咳払いをすると、若いメイドに視線を飛ばしテキパキと指示を出す。

「まずは何かお腹に入れましょう。その後に、念のため医師を」

 吐き気はありませんね、の言葉にコクコクと頷く。それではただいま、とすぐに下がっていこうとする二人を慌てて呼び止めた。

「その前に、名前を教えてもらえませんか」

 私の言葉に、とうとう年嵩のメイドも鉄壁の仮面を崩して私を見下ろしたのだった。



 静かな部屋に、カチャカチャと食器の音だけが響く。
 先ほど目に入った猫足の丸テーブルは、よく見ればサイドに花の透かし彫りがされていて、一脚しか用意されていない椅子にも同じような細工が施されていた。
 一人で使うには大きめテーブルに、所狭しと皿やカップが並べられている。一つ一つ高そうなそれを慎重に扱うが、目の前の皿が空になるとすぐに横に控える給仕が自然な動作で下げていった。
 どれも美味しいが、皿の大きさからすると小さい。見たこともない料理に舌鼓をうって臨死体験ってリアルなんだな。そんなことを考えながら周りを窺い見る。先ほどから私の食事に合わせて出したり下げたりしてくれるのは黒いベストに身を包んだ壮年の男性。
 後ろには椅子を引いたきり静かに控えている若いメイドーー先ほど名前を教えてもらった、サラという女性。そして扉の横には同じく名前を教えてもらったベラ。メイド長らしい。
 どうせなら、一緒に食事をしたらいいのに。美味しいけれど、味気ない。朝から食べるには十分な量の食事を終えると、ご馳走様、美味しかったです。私の言葉に大袈裟に肩を震わせた給仕がフォークを取り落とし、慌てて拾い上げると失礼しましたと深々と頭を下げた。自分も拾おうとしてテーブルの下にやったが空ぶった手と頭をゆっくり持ち上げると、給仕の男性と目がかち合う。驚き半分と、怯え半分。そんな瞳の色に「いえ」と短い言葉しか返せずにいるといつの間にか皿は全て下げられていた。



「すぐに主治医が参りますのでお待ち下さい」

 扉の前で一礼したベラが姿を消す。なんだか変な気分だ。体調は悪くないのに、気持ちが悪い。そんな気分を少しでも晴らそうとよく陽が当たっている窓辺へと近寄った。
 格子やガラスが嵌められているが、向こうにあるバルコニーから出ればさらに気持ちがいいだろう。そう窓の外へ目を向け、既視感に固まった。

 あれ?
 あの庭にある噴水、見覚えがある。
 色とりどりの花々が植えられた美しい庭の中央にある、大きな池。覗き込めば透き通った姿を映し、夏は涼しさを夜には幻想的な雰囲気を醸し出す綺麗な噴水。輪が二段重なった中央の頂からは高く水が放出されていて、一番下にはぐるっと囲むように小さな天使たちが彫刻されていた。

 『知っているか?』
 『ここで想いを伝えると、この天使たちが願いを聞き届けてくれるんだーー』
 そう歯の浮くような台詞を言った男は美しい黄金の髪を靡かせてイチカの顎を取るとゆっくり顔を近づけーーーーーー

「あーーーーー!!!!!」

 突然叫んだ私に、窓の外を眺めていた主をそっと伺っていたサラがびくりと肩を揺らす。そんな彼女の様子に構っている余裕もなく、私はもう一度姿見の前にズカズカと近づくと枠を掴んで上から下まで何度も見た。

 ーーーレアだ。

 レア姫だ。

 仕事で疲れ切った私にこれ、癒してくれるから!と押し付けていった友人。車に吹っ飛ばされて意識が途切れる直前、返さなければと頭によぎったのはつい昨日の夜までプレイしていた乙女ゲーム。
 やっと全員分のエンディングを見終わってさあ全てのスチルを集めなければと意気揚々とセーブをして電源を落とした、あの、ゲーム。
 さっきの噴水はこの国の第二王子、ルシフが主人公に告白をする際に使用した場所、回収されたのは噴水の前で見つめ合うルシフと主人公のスチル。

 そしてーーーゲームの中で主人公を最後までいびり続けたライバル役の悪役王女。それが、今の私の姿、まさしくレア王女だったーーー。
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