生きてるだけで儲けもの。幸福とは何か

kudamonokozou

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良夫は絵画の学校に通う

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良夫は、時には運動がてら散歩に出かけた。

近所の公園のベンチに腰掛けて空を眺めるのは、ひどく気持ちのよいものであった。

日差しがそれほどきつくない時間帯には、まだ幼稚園にも上がらない、小さな子供を連れたお母さんたちがやって来る。
その、小さな子供たちが遊んでいる姿を見ているのは、どういうわけか飽きないものである。

枕草子風に表現すると、『いとおかし』と言う情景であろうか。

だが、この風情を台無しにする輩もいた。

その連中は十数名くらいで徒党を組んで押し寄せ、数の多さと強引さに物を言わせて、公園の砂場やすべり台など遊具を占拠し、自分たちだけが楽しめば良いと言わんばかりに、傍若無人に振る舞うのだ。

そしてそのけしからん連中と言うのは、これもまた、小さい子供を連れた若い母親たちやその仲間なのであった。

良夫は興ざめを通り越して、腹立たしさを感じた。

『あのような母親で、子供たちが真っ当に育つはずが無い。』

と、良夫は心の中で叫んだ。そして地面を蹴飛ばすようにベンチから立ち上がり、肩をいからせて公園を後にした。良夫なりの抗議手段であった。

屁の突っ張りにもならないが。

良夫は公園を出て歩きながら、ふと考えた。

『しかし待てよ。世の中って結局、ああいう厚かましい連中が、我が物顔に振舞い、おいしいところを取ってしまって、お人好しや正直者が損ばかりしているじゃないか。俺の勤めていた会社もそうだった。公園はまるで社会の縮図だ。』
と、良夫は評論家気取りの考えを頭に巡らせながら、自宅の近辺を徘徊するのであった。

良夫はパチンコも麻雀もやらなかったので、もっぱら、ごろごろ寝るか、ぶらぶらしながら日々を送った。

しかし一月以上も全く何もしないでいると、流石に手持ち無沙汰を感じるようになった。

そんな時妻の明美が、
「あなた、絵を描くのが好きなんでしょう。絵画の学校にでも通ったら?」
と勧めてくれた。

「よせやい、何百万も取られるんだろう。」

良夫は、素直に行きたいとは言わなかった。
既に退職金の半分以上を住宅ローンの返済に充ててしまっており、道楽に数百万も使うのは流石に許されざる行為だと思ったのだ。

「そんなに高く無いと思うわよ。」

明美は軽い調子で答えた。

明美は良夫より二つ年下であるのだが、若々しい風貌を備えた女性であった。
そのため、老けた良夫と並ぶと、十以上も年が離れているように見えるため、夫婦とは見られないことが多かった。

妻の勧めに後押しされて、良夫はインターネットの検索サイトから絵画スクールを調べてみた。
当時のインターネットは、光ファイバーなど無くスピードは遅く従量制で、用件が終わったらすぐに接続を切らないと、ずいぶんな課金を請求されるのであった。

色々調べてみると、授業料が約五十万円で、本格的な指導を行なっていると謳っているスクールが見つかった。場所は渋谷だ。小田急線一本で通うことができる。

普段なら、趣味に五十万円も使うなど滅相も無いことだが、今は退職金の残りがまだ数百万ある。
良夫の頭の中は言わば退職金バブル状態だった。

さらにそのスクールは、教育訓練給付金の対象校であった。なんと、二十万円が還付されるのである。

『これならいける。』

良夫は結局、絵画スクールに通うことに決めた。

良夫はいそいそと手続きを済ませた。
本格的な油絵ではなく、取っ付きやすいイラストのコースにした。

趣味をするのだから、レッスンは楽しいものであった。
レッスンと言っても、講義形式ではない。個人個人、講師からテーマを与えられて、ある程度の手ほどきを受け、後は自分なりに作品に取り組むのだ。その間、講師は生徒たちの作品の捗り具合を見て、要所要所でアドバイスをしてくれるというものだった。

良夫は平日の午前中から受講するので、他の受講生は数えるほどだった。そのため、講師も良く見てくれた。

「中谷さん、そこは一息に筆を運ばせたほうが上手くいきますよ。」
「はあ...」

講師にアドバイスをもらっても、良夫は困惑することが多かった。
どうやって描けば良いのか、イメージが掴めないのだ。

「じゃあ、ちょっと替わってみてください。」

そう言って、担当の講師は良夫から絵筆を受け取った。

画用紙の上に筆を走らせる講師の手元を、良夫は真剣に見つめた。
プロの手元を見るのは非常に参考になる。
良夫が何度やってもできなかったことを、講師はいとも簡単にやってのけてしまうのだ。
ああ、これがプロの業なのだなと、良夫はそのたびに感心した。

講師の業を見せ付けられた直後は、何だか自分でも出来るような気分になり、同じように描こうとするのだが、良夫が描いたものは、講師のお手本とイメージがだいぶずれてしまうのであった。

納得がいかないので何度かやり直すうちに、講師が描いてくれた時に得た感触はしだいに消え去って行き、結局は元の自分のレベルに戻ってしまっていた。

そんな調子で、良夫は思ったように上達しなかった。

なにしろ、絵の世界に没頭するのは学校の授業以来である。絵描きを目指す者なら通常は学生時代に修得しているはずの基礎を、良夫は全くできていなかったのだ。

それに小学校の頃は無心で絵を描けていたが、今は長年蓄えた常識や知識が却って邪魔をする。

うまく描こうとすればするほど、つまらない絵が出来上がってしまうのであった。

『俺は小学校の頃より、下手になったのじゃないだろうか。』

良夫は真剣にそう思うほどだった。いや実際、そうなのかも知れない。

それほど大人になった良夫の絵は、ちぢこまってしまって、面白みの無いものになっていた。

後から入ってきた、良夫よりずっと若い受講生たちが、見る見る上達していく。

元々、基礎力が違うせいかも知れなかった。
特にデッサンは、生の画力がストレートに表われるので、良夫の拙さがはっきりする。

そして大変ショックを受けたのは、参考までにと、美大を受験する高校生たちのデッサンを見せてもらった時だった。

良夫が絵画スクールに通い始めてしばらくの間は、デッサンを学ばされたのだが、良夫はデッサンというものをほとんど知らなかったので、例えば円柱のような基礎的な対象物でも、仕上げるのに何時間もかかった。

ところが、今目の前に見せられている、美大志望の高校生たちのデッサンは、透明の瓶だの、ハサミだの、リンゴだの、七種類ほどの複数の対象物が描かれており、しかもそれを2時間以内で仕上げたというのだ。
しかも、デッサンはほぼ狂っておらず、良夫が舌を巻くほど上手い。

『自分はデッサンができていない。』

良夫は焦った。そしてやる気がだんだん減退して行った。

「私は就職活動をしなければなりませんから、絵の勉強にばかり時間を費やしているわけにも行かないのですよ。」

良夫はいつからか、講師や周りの受講生に対して、言い訳とも取れる発言をするようになった。
誰もそんなことを聞いていないのにも係わらず...

良夫は実は、あわよくばイラスト関係の仕事に就けるかもと、淡い期待を持っていたのだ。
だが、無理だと悟った。実力の差が大き過ぎる。もっとも、それだけの覚悟もしていなかった。

また一方現実問題として、そろそろ仕事に就かないと将来の生計が危うくなる時期にさしかかっていた。

失業給付は残り少なくなっていたし、無職の期間があまり長すぎると、再就職の時に不利な材料になると思った。

まだ受講時間のコマは少し残っていたが、良夫はスクールに通うのを一旦休止して、就職活動に専念した。
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