生きてるだけで儲けもの。幸福とは何か

kudamonokozou

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良夫の絵は異常に細かくて子供のように疲れ知らず

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その日、仕事から帰って来て落書きのチェックを行った明美は、最後に良夫の部屋に入って思わず自分の目を疑った。

部屋中の壁の至る所に、隙間も無いほど様々な落書きが描き込まれていたのだ。

鎧武者が刃を交えている姿や、騎馬武者が弓を引いている様子。燃えているお城も描かれている。その他にも相当な数の武士が描かれており、何かの合戦の様子のようである。昨日の義経の話の続きを描いたのだろうか。

そうかと思うと、のどかに釣りをしているぽっちゃりとした男や、空を舞う天女など、平和的な雰囲気を感じさせる絵も描かれている。また亀や象や兎などの動物も描かれており、技巧は拙いが一目見てそれと分かるほど、その生き物の特徴を捉えていた。

驚くべき事は、たった一日でこれだけの絵を描き込んだことである。鎧武者や城など細部までみっちり描き込まれており、並々ならぬエネルギーを感じさせた。

当の良夫はと言うと、パソコンの前に座って目を瞑って下を向いたまま、ひたすら同じ言葉を唱え続けていた。

「よいしょ、よいしょ、よいしょ、よいしょ・・・」

どういう意味だか分からない。明美が声をかけても全く反応しない。
明美は青ざめた。

その晩明美は、都内に住む、歳の離れた実の兄に電話をかけた。

この兄の名は桜井孝治といって、今では工務店を経営している。
小学生の途中までは大阪で暮らし、高校卒業後は、長らく大阪、神戸で働いていた。

それ以来東京に戻って来ても、やたらと大阪弁を使いたがる少しお調子者の男である。しかし面倒見が良く根が正直なので、明美は幼い頃から頼りにしていた。

電話の向こうで孝治の大阪弁が響いた。

「なんやて、良夫君が?よっしゃ、分かった。明日は土曜で仕事が休みやよってに、わしがそっちへ行くわ。」

孝治は次の日、地下鉄とJRとバスを乗り継いでやってきた。

「二時間もかかったよってに、もう汗びっしょりやで。」

すっかり冬だと言うのに、丸い体型の孝治は、まるで夏の世界からやってきたように汗をかいていた。

「ごめんなさい、お兄さん。」

明美は済まなさそうに兄を出迎えた。

「やあ、お義兄さん、ようこそいらっしゃい。」
良夫も玄関まで出て来た。

「すまんな、急に可愛い妹の顔が見たくなったんで、遊びに来たで。」
孝治も挨拶を返したが、その言葉を全部言い終わる前に良夫はぷいと背を向けて自分の部屋に入ってしまった。

「ほんまや、なんかおかしいな。」
孝治は明美に耳打ちした。

明美は孝治を居間に案内した。浩一は部活動で学校に行っており、裕美も友達と遊びに出かけていた。

汗を拭き拭き、孝治は明美が出してくれたサイダーをおいしそうに飲んだ。
この地方名物の炭酸水でできたサイダーは、孝治の好物であった。

「着いて早速で悪いんだけど・・・」
と、明美は低い声で話を切り出した。

「かめへん、じき子供達も帰ってくるやろから、早よして。」

明美は良夫に聞こえないように、低い声で今までの経緯を要領よく話した。

良夫が会社をリストラされたこと。絵のスクールに通ったこと。再就職がうまく行かなかったこと。税理士の資格をとるために、職に就かず勉強生活を始めたこと。にもかかわらず、税理士の試験が全くうまくいかなかったこと。そして奇行が始まったこと。

「そうか、良夫君は本当は絵が好きやったんやな。ちょっと本人と話をしてみよか。」

孝治はそう言いながら立ち上がった。二人は良夫の部屋の前まで行き、明美がドアをノックし、声をかけた。

「あなた、お兄さんがちょっとお話がしたいんですって。開けますよ。」

返事は無かったが、明美は構わずドアを開けた。部屋の中を見渡した孝治は思わず声をあげた。

「これは見事なもんやなあ。」
孝治は壁中に描かれた落書きを珍しそうにしげしげと眺めた。良夫はパソコンの画面をじっと見つめていた。

「良夫君、どや、楽しいか。」
孝治は背後から、バソコンの画面を覗き込んだ。

「僕は山下清ではありません。」
良夫が唐突に意味不明の言葉を発した。

「そら分かっとる、そら分かっとるよ。君は中谷良夫や。」
孝治は少々面食らったが、気丈に会話を繋いだ。

「そして僕は桜井孝治や。君の奥さんの兄やで。」
「やあ、お義兄さん、いらっしゃい。」

良夫はさっき玄関で会ったことなどすっかり忘れてしまったように、再び挨拶をしてにやりと笑った。
孝治は少々薄気味悪さを感じた。

「そやけど良夫君。山下清もスケッチブックに絵を描いたんやで。君は何故スケッチブックに描かんのや。」

良夫はこの言葉を聞くとパソコンの画面から目を離し、孝治の顔を見つめた。良夫の顔には当惑の表情が見えた。
明美は不安を感じた。だが、孝治は機敏に対応した。

「こら悪かった、わしが悪かった。スケッチブックも無いのに、そら無理やわな。ちょっと待っときや。すぐ用意するよってに。」

孝治はそそくさと飛び出して行った。
そして三十分ほどで帰って来たが、その腕にA3サイズのスケッチブックを二册抱えていた。

「はい、良夫君。好きなように描きや。」
孝治はスケッチブックを良夫に手渡した。良夫の目の色が一瞬変わった。

良夫はスケッチブックを机の上に広げるやいなや、サインペンを握って一心不乱に描き出した。
その様子を見て、孝治と明美は黙って部屋を出て居間に戻った。

「お兄さん、どうも済みません。」
「済みませんやて、他人行儀やな。まあ、壁に落書きは描かんようになるやろうけど、ほんまの解決にはなってへんがな。戦いはこれからやで。」

孝治はこれからも力を貸してくれるようだ。明美は兄をいっそう頼もしく感じた。

「良夫君がおかしくなったのは、自分を追い込みすぎたからや。大体、好きでもない税理士の勉強を、家に閉じこもりっきりでずっとやってたら、誰でもおかしなるわ。」

明美は自分が責められているような気がして耳が痛かった。

「仕事にも就かんと打ち込んだのに、税理士の試験があかんかったこと、これが良夫君の神経に耐えきれん重圧になったんやろなあ。」

孝治の話は続いた。
明美は昼食に煮麺を拵え始めた。これも孝治の大好物である。

「良夫君はその重圧から逃れる為に、自分が本当に好きなことの世界に浸ろうとしてるんやないやろか。税理士の道は当分忘れた方がええと思うで。」
「それは私も分かっているわよ。夫が元に戻ってくれれば、税理士になれなくても何とかやって行けると思うわ。」
「好きな絵を描いていたら、徐々に心も落ち着いて正気を取り戻すやろう。今はとにかく、良夫君にプレッシャーを与えんことやで。何、大したことは無い。大丈夫やで。」

孝治のその言葉に、明美は励まされた。
煮麺ができあがったので、明美はテーブルに運んだ。

「子供たちの分はまた後で茹でますから、先に食べてちょうだい。」
「おおきに、おおきに。ほな、良夫君も呼んで来よか。」

孝治は良夫の部屋へ行った。明美も後から続いた。

「良夫君、昼にしよか。」

孝治が声をかけたが、良夫はスケッチブックからペンを離さず返事もしなかった。
孝治と明美は顔を見合わせた。

明美は『話しかけてもだめだわ。』と言わんばかりに首を横に振った。けれども孝治は、良夫の側に寄った。

「うわー、もうこんなに描いたんかいな。こらあ、ものすごい勢いやで。」

先ほど買って来たばかりのスケッチブッックに短時間の間に丹念に描き込まれた絵を見て、孝治は驚嘆した。

「明美、絵の具あるか。用意して。」

孝治は真剣な口調で言った。
明美は子供の絵画道具を出して来た。それは不透明水彩絵具であった。孝治は水入れを受け取って、水を汲んで来た。

「素晴らしい。良夫君、君の絵はものすごく素晴らしい。色を付けたらもっと素晴らしくなるんとちゃうか。ほれ、ここに絵の具があるで。」

良夫はその言葉を聞いてサインペンを走らせるのを止めた。そして絵画道具の方に顔を向けた。
おもむろに絵筆を手に取り、穂先を指で丹念に撫でる仕草をした。それからパレットを広げ、何色かの絵の具をチューブから絞り出し、絵筆で混ぜ始めた。良夫はその間ずっと無言であった。

良夫が画用紙に絵筆を走らせるのを見とどけて、孝治と明美はまた黙って部屋を出て行った。
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