生きてるだけで儲けもの。幸福とは何か

kudamonokozou

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こんな落書きをしたのは誰だ!?

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それから数日後、勤めから帰って来た明美は驚きの声をあげた。

「だあれ、こんな落書きしたのは!ちょっと裕美、いらっしゃい。」
裕美は素直に飛んできた。

「なあに、お母さん。えっ、何これ?変なの。」

明美は和室の一枚の襖を指差していた。裕美はその襖を見て吹き出しそうになった。そこには幼児のいたずら書きのような絵が、一面に描かれていたのだ。

「あら、裕美じゃないの?それもそうよねえ、もう五年生だし。ところで浩一は?」
「お兄ちゃんはまだ帰ってないよ。クラブの後、友達と買い食いでもしてるんじゃない。」

今朝にはこんな落書きは無かったから、浩一の仕業でもない。

はっとして、明美はあらためて落書きを見直した。

襖一面の落書きの真ん中に大きく描かれたあぐらをかいた人物のようなものは、奈良の大仏ではないだろうか。その回りに鹿のような動物や、天の邪鬼を踏みつけている四天王らしき物が描かれている。奈良と言えば、新婚間もない頃に良夫と二人で京都と奈良に泊まりがけで旅行に行ったことがある。

旅の終わり頃に良夫が漏らした言葉を明美は思い出した。

『みんな京都の方がいいって言うけど、僕は奈良の方が好きだな。あの古びた感じが魅力的じゃないか。それに、やたらと何でも大きいのがいいよ。』

この落書きの犯人は、奈良への強い印象を忘れられないでいる良夫に間違いないと明美は確信した。

明美は裕美の両肩をぐいとつかんで、彼女の目を見据えながら言った。

「このことは、よその人には絶対言っちゃだめよ。」

裕美は母の真剣な眼差しに事の重大さを呑み込んだようで、何度も頷いた。

裕美が子供部屋に戻るのを見届けて、明美は良夫の部屋に入った。

「あなた、いくら試験がうまくいかなかったからって、あんな憂さ晴らしをするなんて、大人気無さ過ぎるじゃありませんか。」

良夫は明美の言葉が聞こえないかのように、知らん振りをしていた。

「あなたでしょ、襖にあんな落書きをしたのは。」
明美は強い口調で良夫を詰問した。

「落書き?僕は知らないなあ。」
良夫は白を切った。

その言い方がいつもの神経質な良夫と違って、ひどくぶっきらぼうな感じだったので、明美は異様な雰囲気を感じ、ぞっとしてしまった。そしてそれ以上何も聞かず部屋を出た。

明美はすぐに襖を張り替えたが、第二の事件はそれほど日を置かずに起こった。

今度の落書きは廊下の壁に描かれていた。襖のときと同じような絵だった。明美はこらえきれず、良夫を引っ張って来て壁の前に立たせた。

「あなたでしょう。これを描いたのは。」

ところが良夫は真顔でこう言ってのけた。

「ふうん。なかなか上手じゃないか。三歳にしては、裕美はなかなかうまい絵を描くなあ。」

そして良夫は両手を後ろに組んで顔を突き出し、うん、うん、と頷きながら壁の絵を眺めまわした。

この時明美は良夫の異常を確信した。

明美は悩んだ。頭が割れそうだった。

『まさか、自分の夫がおかしくなるなんて。精神科医に連れて行くべきだろうか。いやいや、まだ下手に刺激しない方が良いかも知れない。それに夫を外に連れ出せば、異常な様子を近所の誰かに見られて、噂はすぐに広まってしまうであろう。それだけは絶対避けたい。そもそも夫が大人しく病院に行ってくれるはずがない。何とか家庭内で直す方法はないだろうか。しかし、子供たちにどう説明すれば良いのだろう。』

この時ばかりは、良夫の出不精が幸いしたと明美は思った。

結局明美は事を荒立てる手段を選ぶ事ができず、もう少し様子を見るという安直な決断をして、次の日も仕事に出かけた。しかし頭の中は良夫のことでいっぱいで、仕事が全く手につかなかった。

終業時間がやっと訪れ、明美は慌てて家に帰った。まず壁や襖をチェックした。次に居間も、子供部屋も、台所も、風呂も、トイレも。落書きは描かれていなかった。

最後に恐る恐る良夫の部屋に入った。ここもどうやら無事のようだ。良夫はじっとパソコンの画面を見つめていた。インターネットで何かを閲覧しているようだ。今日はまともなのだろうか。

「あなた、勉強の調子はいかがですか。」

できるだけ刺激しないように声をかけた。良夫は明美の声が聞こえていないかのように、パソコンの画面をじっと見つめ続けていた。返事もしなかった。

明美はそれ以上良夫を刺激しまいと思って部屋を出、食事の支度にとりかかった。
夕食の準備ができ、子供たちも食卓についた。

「あなた、ご飯ですよ。」

明美が大声で良夫を呼んだ。

しばらく間を置いて、良夫がぬうっと姿を現した。そして出し抜けに、すっとんきょうな声で叫んだ。

「やあ、やあ、遠からんものは音に聞け。我こそは源義経なるぞ。いざ尋常に勝負、勝負!」

それはまるで、下手くそな田舎芝居のような調子であった。

「やだあ、パパったら。」

父親の姿を見た裕美が吹き出した。

良夫は頭に新聞紙で折った兜をかぶり、高く挙げた右手には、浩一が小さい頃それでよく遊んだビニール製の刀が握られていたのだ。

「おもしろくねえんだよ。馬鹿、やめろよ。」
浩一は嫌悪感を露にして、父親を怒鳴りつけた。

子供達は良夫がくだらない冗談をやっていると思っている。しかし良夫には全く照れた様子が無い。真剣な顔つきで刀を正眼に構えなおして、また叫んだ。

「頼朝、卑怯だぞ!いざ尋常に勝負、勝負!」

良夫の異常さを悟った明美は良夫に駆け寄り、夫の肩を両手で押さえつけ廊下に押し戻した。
その際、良夫は相変わらず真剣な顔つきで、「たあーっ」と叫んで明美の肩から胸を袈裟懸けに刀で切る動作をしたが、明美は構わず良夫の両肩を押さえつけた。

「あなた、しっかりして。私よ、明美よ。税理士になるんでしょう!頑張って税理士になるんでしょう!あなた!」

明美は良夫の肩を小刻みに揺さぶりながら正気付けようとした。しかし良夫は目を瞑り顔をそらして、
「もはや、これまでかっ。」
と、またもや芝居がかった台詞を吐いて、へなへなとへたり込んでしまった。

子供たちがあっけにとられ、恐る恐る二人の様子をのぞき込んでいた。

明美は子供たちの方を振り向いた。その表情は恐ろしかった。

「お父さんは勉強のし過ぎでちょっと疲れたのよ。さ、あなたたちは早くご飯を食べてしまいなさい。」

明美は、子供たちに心配させないようにと思う気持でいっぱいだったが、その口調は却って凄みを増していた。

「いやあ、僕はすっかり酔ってしまったようだ。今日はもう寝るよ。」

良夫は妻や子供の心配などどこ吹く風で、まるでふざけたような言葉を吐いた。

明美はもっと良夫の様子を確認したかったが、良夫はその場でぐうぐういびきを掻いて本当に寝てしまった。

『なんてことだろう。不幸だ。夫も不幸だが、自分も子供たちも家族全員が不幸だ。』
明美は時が戻せるものなら戻したいと思った。

波乱の夜が明けた翌朝、明美が良夫の部屋に入った時には、すでに良夫はパソコンの前に座っていた。
どうやら税理士講座のDVDを見ているようだ。明美は少し安心した。

「あなた、朝御飯の用意ができましたよ。」
「いや、僕はもう食べたよ。僕のことはいいから、子供たちの面倒を見てあげなさい。」

良夫の返事は頗るまともであった。一晩寝て、症状が治まったようだ。良夫の奇行は一時的な発作のようなものだったのだろうか。
明美は物事を良いように解釈した。

子供たちを学校に送り出して、明美も仕事に出かけた。
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