生きてるだけで儲けもの。幸福とは何か

kudamonokozou

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良夫の油絵デビュー

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明美はその晩のうちに、この事件の一部始終を孝治に電話で報告した。

「そうかいな。で、良夫君は今どうしてる?え、美術全集を一心不乱に読んでるて。そうか、よっぽど心を奪われるものがあったんやな。とにかく、今度の土曜日にそっち行くわ。それまでに何か異変があったら電話して。」
来訪の約束をして孝治は電話を切った。

明美は心配でたまらず、こっそり良夫の部屋のドアに耳を当ててみた。
低く小さな声ではあるが、うなっているような声が聞こえる。明美は静かにドアを開けて中に入った。

良夫は案の定、机で美術全集を見ていたのだが、その格好を見て明美は驚いた。
良夫の口には手拭で猿轡が噛まされていたのだ。
良夫は自分で猿轡をして、叫び声が外に漏れないようにしていたのである。

良夫の目はぎょろぎょろと獲物を追う獣のように動き、その顔は今まで明美が見た事も無いような恐ろしい形相をしていた。
明美は思わず後ずさりした。
普段大人しい夫からは想像されない、言いようのない迫力を感じたのだ。

明美は夫をそっとしておくしか無かった。

翌朝、明美が朝食に呼びに良夫の部屋に入った時、良夫は昨夜と全く同じ体勢で本を見ていた。明美は良夫が一睡もしていないと直感した。

「あなた、朝御飯を食べてください。あまり根を詰めると体に毒ですよ。」
「ううう・・・」
良夫は何か言ったようであったが、猿轡を噛んでいたので、はっきりと聞き取れなかった。明美は朝食をお盆に乗せて運んで来た。

「お腹が空いたら食べてくださいね。」

良夫は本当にあの鬼気迫る状態で一晩中ずっと絵を見続けていたのだとしたら、計り知れない集中力である。
死ぬ気で頑張ると宣言した税理士の勉強では、そんな集中力なぞ微塵も見せなかったのに、皮肉なものだと明美は思った。

土曜日になり、孝治が訪ねて来た。この日はいつもと違って、夕方頃にやってきた。

孝治はこの度は、何やら大きな荷物を両手に抱えていた。

「ふうっ、難儀やったわ。これな、来る途中で画材屋で買うて来たんや。嵩張るよってに、運ぶのが大変やったわ。」
孝治は前にも増して、汗をびっしょりと顔や首筋にかいていた。

「あらあらお兄さん、済みません。言ってくださったら私が買いに行きましたのに。」
明美は孝治に、随分労をかけて済まないと感じた。

「いやいや、明美では無理や。こういう買い物はやっぱり経験者でないと分からん。」
「あらお兄さん、絵の経験があるの。」
「あれ、おまえ知らんかったんか。わしはこう見えても、高校時代美術倶楽部に在籍しとったんやぞ。」
「へえっ、全然知らなかったわ。」
「へえっとはこれまた挨拶やな。そやな、明美はまだ小さかったから分からんかったやろな。」

明美と孝治は十一、歳が離れていた。七人兄弟の一番上と末っ子の間柄である。

「それにどっちか言うたら、こっちの方に熱を入れとったからな。」
と言って孝治は右手の平を自分の体側から、さっと眉間のところにまで振り上げた。それは卓球の素振りのポーズであった。

卓球のことは明美も覚えている。孝治の卒業アルバムを見せてもらった時に、ころころとした体格で丸坊主の頭に鉢巻きを締め、真剣な素振りのポーズで写真に納まっている兄の姿を発見し、当時小学一年だった明美は笑い転げたのであった。
高校生活の記念の晴れ姿を笑われたのにもかかわらず、孝治はこの無礼な妹と一緒になって笑っていた。

「こんなに大きな荷物、本当に大変だったでしょう。」
居間の椅子に腰掛けた孝治に明美はサイダーを運び、厚手のタオルを二枚渡した。

「暖房止めんでもええよ。汗が冷えて却って風邪引くわ。」
孝治はコートと上着を脱ぎ、シャツの前ボタンを開け、タオルを腋の下に突っ込み汗を拭き始めた。

「夫のでも良かったら、着替え出しましょうか。」
「いやいや、ややこしなるからええて。」
「あらそう。兄さんったら厚かましそうに見えて、本当に遠慮しいなんだから。」
「ええっ、わしそんな風に見られとんのかいな。殺生やなあ。こんな奥床しい兄をつかまえてよう言うわ。」

孝治の冗談まじりの言葉に、明美は大笑いしながら孝治の傍に寄り、背後にまわった。そしてもう一枚のタオルを手に取り、それを孝治の背中に差し入れて汗を拭き始めた。
孝治は今回は遠慮しなかった。妹のなすままに体を預けた。そしてしばらくの間、気持ち良さそうに恍惚としていた。

「おおきに、おおきに。もうだいぶさっぱりしたわ。」
背中のべとべと感が無くなった快感を、孝治は楽しんだ。

「いつまでもこうしてられへんわ。さて、そろそろ要件に入ろか。」
孝治はシャツのボタンを留めた。そして自分が運び込んだ荷物から木の枠のようなものを取り出し、さっさと組み立てた。

「あら、それ何て言うのだったかしら。」
明美はその木枠の名前を知っているような気がしたのだが、思い出せなかった。

「これはイーゼルというものだよ。明美君。」
明美は名前を聞かされてもぴんと来なかった。結局、端から知らなかったのだった。

孝治はイーゼルを右手に担ぎ、もう一つ別の幅の広い荷物を左脇に抱えて、良夫の部屋へ足を向けた。
まだ一つ、紙袋の荷物が残っていた。

「悪いけど、それ持って来て。」
孝治に言われて、明美は紙袋を一つ持って後に続いた。

「良夫君、調子はどうや。」
孝治の問いかけに良夫は答えなかった。と言うよりも、何も反応しなかった。
彼には西洋の巨匠たちの作品しか視界に入らないようだ。

「それ気に入ってくれたか?その本は僕がプレゼントしたんやで。お礼の一つくらい言うて欲しいなあ。」

やっとその言葉に反応して、良夫は孝治の方を向いた。
明美は、良夫がまたおかしな行動を起こすのではないかと冷や冷やしていたが、孝治はまるで能天気に話を続けた。

「これ見てみい。イーゼルやで。何するもんか知ってるやろ。」
良夫は椅子から立ち上がってイーゼルに歩み寄った。明らかに興味を示したようだった。
孝治はもう一つの大判の荷物を包装から取り出し、良夫に見せながら言った。

「ほら良夫君、カンバスや。ここへ立てるで。」
孝治は取り出したカンバスをイーゼルへ立てかけた。カンバスは他にもう二枚用意されていた。
さらに明美が運んできた紙袋からごそごそと中のものを取り出し、それらの包装紙をびりびりと破った。
それは絵具や木製のパレットや絵筆であった。

「油絵具や、良夫君。今までのガッシュとはわけが違うで。」
孝治は油絵具の箱を机の上に置いた。

良夫はまるでその箱に宝石が入っているかのようにそっと開け、チューブを一つゆっくり取り出してその蓋をはずし、くんくんと絵の具の匂いを嗅いだ。

孝治は油壺をパレットに取り付けて、溶き油を注いだ。そして、油絵具の横に絵筆とパレットを置いた。

良夫は今度は絵筆に目をやり、手に取って穂先を指で撫でて、その感触を確かめた。

「良夫君、これで君もあの本と同じような絵を描けるようになったんやで。どやすごいやろ。素晴らしいやろ。」

良夫の目が輝いた。
まるで欲しくて欲しくてたまらないものをプレゼントされた時の少年のように。

良夫は鉛筆を握ってカンバスの前に立った。そして澱みなく鉛筆を動かし、下書きを見る見る仕上げていった。

良夫の世界に入り込む余地はないと感じた二人は部屋を出た。
居間に戻って、明美は孝治に意見した。

「兄さん、ちょっと刺激が強すぎるんじゃない。」
明美は不安を感じていた。孝治が美術全集を送って来て以来、良夫がどんどん正気から離れて行っているとしか思えないからだ。

「刺激って、油絵を描かすことがか?」
孝治は少しとぼけたような返事をしてから、こう続けた。

「明美、よう考えなあかんで。良夫君がおかしなったんは、ほんまは嫌で嫌でしょうがない、税理士の勉強を根詰めてやったからやろ。そやからそれを直す為には、好きなことをやって、自分を取り戻さなあかんのや。人間、好きなことをやってる時が一番生き生きしていて、脳も活性化するんや。方向性は間違うてないで。」

孝治は前回言ったのと同じような論を繰り返した。
明美は、孝治の態度がいやに強引なところがあるように感じたので、同調する気になれなかった。
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