生きてるだけで儲けもの。幸福とは何か

kudamonokozou

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家族それぞれの思惑

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「兄さん、ところで、心理学の好きなお友達はなんて言ってたの。」
孝治は明美の質問に一瞬きょとんとしたが、この間持って帰った絵のことだと悟った。

「ああ、あれかいな。えーとやな、やっぱり、長年鬱積した感情のはけ口を求めてるんやろう、言うてたで。」
「あら、そう。」

明美の口から思わず気の抜けた返事が出た。心理学の専門家のアドバイスを期待していたからである。

その後孝治は、まるで逃げるようにさっさと帰って行った。

次の日、良夫の部屋のドアに張り紙がしてあった。それにはこう書かれていた。

『入るな、ボケ』

やはり良夫の頭は正常では無かったと、明美は落胆した。まるで出来の悪い悪戯小僧だ。

浩一は、父親を一層軽蔑した。

それから良夫は夕食の席にも顔を出さなくなった。
明美が食事を運んで行っても、様子を見に部屋に入っても、何も喋らず、ひたすら絵を描いている。

「最近、パパ部屋に籠りっきりね。」
良夫が油絵を描くようになってから数日経ったある日の夕食時に、裕美が心配そうに言った。

「もういいよ、あんな親父。いなくなった方がせいせいする。」
浩一はすっかり父親に愛想を尽かしている。

「浩一、そんな事言うものじゃありません。」
「何、常識ぶったこと言ってんだよ。母さんだって、父さんの事、厄介者だと思ってるんだろ。」

明美は思わず浩一を怒鳴りそうになったが、できなかった。
浩一に指摘された事を、百パーセント否定できない気持ちを自分の中に感じたからだ。

「それに伯父さんだっておかしいよ。治すどころか、どんどん親父、変になっていってるじゃないか。」
この意見には明美も同感だった。

「あなたたちは余計な事を心配しないで、しっかり勉強してちょうだい。」

明美は、もう浩一を戒める元気も無くしていた。
その母の様子にすっかり気勢をそがれた浩一は、さっさと子供部屋に行ってしまった。

「お母さん、大丈夫だよ。何とかなるよ。」
裕美が母を励ました。

「私、お金持ちの人と結婚するの。そしてお母さんを楽にさせてあげるわよ。」
「まあ、この子ったら。」
明美は思わず吹き出したが、すぐにその目に涙が溢れた。

その晩、明美はなかなか寝付けなかった。将来の事を考えると不安で仕方がなかった。
夜の静寂と闇が、明美の不安をいっそう駆り立てた。

『不幸だ。夫が職を失っただけでなく、働けないような精神状態になってしまって、この先どうすればよいのだろう。浩一には大学に行ってもらいたい。そうすると、最短でも就職するまでには後八年以上かかる。それまでの生活費や学費は私の薄給では賄いきれない。それにもし、夫が入院にでもなったら、もう耐えられない。』

明美の目から涙が自然に溢れ出て来て、目尻からこめかみを伝った。涙はしばらく止まらなかった。体が熱くなるのを感じた。
さんざん泣いた後、ふと孝治の顔が浮かんだ。

『そうだ、兄に援助をしてもらおう。兄なら、工務店を経営しているし、二人の息子さんももう社会人なのだから、浩一が大学を卒業するくらいまでは、面倒を見てくれるのではないかしら。』

そう思いつくと、明美は気が楽になった。だが、それも束の間だった。

『だけど、実の兄妹とは言え、そんな簡単に他所の家計の援助などできるだろうか。だいたい義姉さんが素直に許すわけが無い。』

すぐにまた、不安が込み上げて来た。再び体が熱くなった。

ゴトゴトと朝刊が玄関の新聞受けに入れられる音を聞いた。
それからも明美は、うとうととしては目が覚め、不安で体が熱くなり涙を流すといった動作を繰り返した。
明美は疲れた体で朝を迎えた。

その後も明美は、度々不安で眠れない夜を過ごすことがあった。精神的にも、肉体的にも辛さは募るばかりであった。

前回の来訪から二週間経った土曜日、孝治がひょっこりやってきた。

「どや、良夫君の具合は。」
そう言いながら、孝治はまるで自分の家のように、ずかずかと上がり込んできた。そして明美が案内する間も与えず、良夫の部屋に入って行った。明美も慌てて続いた。

良夫は相変わらずカンバスに向かって描き続けていた。孝治の視線は良夫にではなく、絵の具を乾かすため壁に立てかけられている絵の方に注がれていた。

明美にはその絵が何を描いたものなのか、分からなかった。
植物のような爬虫類のような、あるいはただの模様なのかも知れない。得体の知れないという表現がぴったりの、どうにでも取れるような摩訶不思議な絵だった。

ただ一つ言えることは、その絵はエネルギーを放っていた。
それは、絵画に関して全く目利きの力を持たない、明美にもはっきりと感じ取れた。

不思議な感覚であった。
二週間前、孝治が買って来てくれた時は無地のカンバスであったのだが、良夫が絵具を塗りつけると、そこに生命が宿ったように見えるのである。

「うーむ。」
孝治は深く頷いた。

「悪いけどこの絵、しばらくの間、貸してくれへんか。」
「またですか。今度は何をするつもり?」

明美の口調にはやや刺があった。

「ひょっとしたらやけどな、この絵、売れるかも知れへん。いや、わしのつてを頼ったら、こんな絵でも商売にしてくれる奴がおるねん。ちょっと、わしに預けてくれへんやろか。」

孝治の言葉は明美にとって意外であった。

「兄さん、本当に売れるの。」
明美は興奮して、声が弾んだ。

「そら、やってみな分かれへん。そやけど、売れなくて元々やろ。やってみる価値はあるで。」
「そうね、是非お願いするわ。」

明美も現金なもので、子供のいたずら書きのようなものと思っていた良夫の絵が、お金になるかもしれないと言われると、今までの態度を豹変させ孝治に託すことを即決した。

絵を売りに出したことは、明美が良夫に話をした。良夫はぼんやりと尋ねた。

「僕の絵は、飾られるのかなあ。」
「そ、それはそうよ。わざわざ買うんだから、きっとお部屋の一番目立つところに飾るわよ。」
明美は、自分が嘘を言っているような気がしたが、罪悪感は感じなかった。

「そうかあ。みんな、どう思うだろうなあ。」
良夫はぼんやりと呟いた。

それから二週間して、孝治がやってきた。この度は工務店の軽トラックに乗ってきていた。

「たいしたもんやで、三万で売れたで。あの絵。」
明美の姿を見るなり、孝治は顔を紅潮させて、そう一声を発した。
明美も驚いた。そして喜んだ。

「悪いけど、今までの諸経費で今回は折半にしてもらうわ。ほなこれ、一万五千円。言うとくけど、イーゼルは僕からのプレゼントやで。」
と言って、孝治は封筒を明美に差し出した。

金の額が半減したので、少しがっかりしたが、孝治の言い分ももっともなので、明美は感謝して封筒を受け取った。

「ほな、次のんも見せてもらうで。」
孝治は良夫の部屋に上がりこみ、壁に立てかけてある作品を見つめた。明美も気になって仕方が無く、孝治の顔と絵をしきりに交互に見交わした。

「これもいけるわ。」
と言って、孝治は絵を運び出した。明美はまるで少女のように、何度か小さく飛び跳ねて拍手をして喜んだ。

「じゃあ、それ、新しいカンバス置いていくから、良夫君によろしくな。」

孝治は、絵を梱包してクッションで包み、その用が済むとさっさと引き上げてしまった。

良夫はこの出来事に気付いているのかいないのか、黙々と次の作品を描き続けていた。

翌週、孝治は訪ねてきた。また、三万で売れたと言う。
今回の明美の取り分は二万に増えた。この調子で行くと、月に八万の収入になると、明美は胸のうちで算盤をはじいていた。取らぬ狸の皮算用であるのだが。

良夫はその後も、週に一作品のペースで描き続けた。いつ、睡眠を取っているのか不思議に思うくらい、良夫は描き続けていた。

もっとも、カンバスに向かっていない時間も実際にはあった。それは裕美が目撃していた。
そのとき良夫は、美術全集を眺めているか、窓から空に浮かぶ雲をじっと眺めていたと言う。

出来上がった作品は、相変わらず明美には何の絵だか分からず、とても絵画と呼べるものとは思えなかったが、良夫の絵は毎回売れた。三万で売れることが多かったが、時には四万や五万で売れることもあった。孝治は一万しか取らなかったので、高く売れたときは、明美の取り分が増えた。

明美は良夫の絵がいつまでも売れ続けますようにと、祈った。

毎週、孝治が良夫の絵を引き取りに来て、新しいカンバスと、売上げと言って現金を置いていく。そんなやりとりが定期的に続いて数ヶ月が経った。
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