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訪問者
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彩葉は宣言どおり、何日もの間ずっと部屋にこもってパソコンと向かい合っていた。
部屋から出てくるのは風呂とトイレと夕食の時だけで、朝食と昼食は部屋に持ち込んで執筆作業の合間に食べる、というような日々が続いている。
今までにも彩葉の仕事が忙しくなる時期というのはあったが、これほどまでに根を詰めて働く姿を見るのは初めてのことだった。
ブックライターとして著名人の本を代筆する傍ら、フリーライターとして様々な媒体で記事を書く仕事も請け負っている、という話を彩葉本人から聞かせてもらったことがあるので、たまたま複数の仕事が一度に重なってしまっただけなのかもしれない。
だが、もしそうだとすると少し腑に落ちない。
だらしない私生活とは対照的に、彩葉の仕事に対する取り組みは真面目そのもので、進捗具合の書き込まれたカレンダーから推測するに、普段はかなり計画的に仕事を進めている印象がある。
どうして今回に限って、こんなにも追い込まれているのだろう。
智樹の抱いた疑問は、ある人物が訪ねてきたことにより、氷解することとなる。
その日、久しぶりに朝からリビングへ降りてきた彩葉は、ダイニングテーブルで朝食をとり、食後のコーヒーを飲みながら智樹に話しかけた。
「今日からしばらく、余裕が出来そうだよ。約束してたデートに行こうか。観たい映画はもう決めた?」
デートの約束を覚えていてくれたことが嬉しくて、智樹は自然と笑みがこぼれる。
「仕事の方はもう大丈夫なの?」
「うん。引き受けていた仕事は前倒しで終わらせたし、今後の仕事につながりそうなことは、向こうからの返事待ちの段階までこぎつけた。相手の返答次第でまた忙しくなるかもしれないけど、それまでの間は暇だよ」
それを聞いた智樹は、彩葉がまた忙しくなる前にデートしておかなくては、と気持ちが焦る。
「じゃあ、今日は?」
「今日? 急すぎない? ここしばらくまともに寝てなかったから、今日はこのあと少し横になりたいな……。明日でもいい?」
そう言いながら、彩葉は申し訳なさそうな表情になる。
よく見ると、彩葉の目の下には濃いクマができていた。
「あ……ごめん。そうだよね、疲れてるよね。もちろん明日で大丈夫だよ。今日はゆっくり休んで」
慌てて智樹が答えると、彩葉は空になったコーヒーカップを持って立ち上がり
「ありがとう。明日、楽しみにしてるね」
と、すれ違いざまに智樹の耳元で囁いた。
彩葉はカップをキッチンのシンクに置いて、リビングを出ていく。
その場に残された智樹は、耳に残る彩葉の声に、いつまでも動悸がおさまらずにいた。
午後になり、そろそろ昼食の準備をして眠っている彩葉を起こさなくては、と智樹が考えていると、玄関のチャイムが鳴る。
インターホンに出ると
「青空出版の伊藤です。タチバナミツキ先生はご在宅でしょうか?」
という落ち着いた男性の声がした。
タチバナミツキ?
智樹の頭に疑問符がいくつも浮かぶ。
人違いか?
でも、タチバナミツキという名前には聞き覚えがあるような気がした。
記憶をたどり、ようやく思い至る。
先日、彩葉から借りた本の作者の名前だ。
二冊の渡された本のうち、確か恋愛小説の方の作者の名前が、“橘光希”だった。
それにしても、なぜこの訪問者は鈴木家に橘光希がいると思ったのだろう。
不審に思った智樹が何も答えずにいると、インターホンの向こうから再び声がした。
「……では、鈴木彩葉さんはご在宅ですか?」
「あっ……はい、彩葉ならいますが……今はちょっと部屋で休んでおりまして……」
しどろもどろな返答をする智樹の対応に、このままでは埒が明かないと判断したのか、今度は玄関の扉をコンコンと叩く音がした。そしてインターホンを通さずに、少し大きな声でドア越しに呼びかけてくる。
「彩葉さんから送っていただいた原稿について、直接お話がしたくて参りました。中へ入れていただけませんか?」
どうやら、彩葉の仕事関係の相手らしいと理解した智樹は、急いで玄関のドアを開けて来訪者を迎え入れる。
中へ入ってきたのは、涼やかな目元をした端正な顔立ちの男性で、智樹に向かってにこやかに挨拶した。
「初めまして。佐藤智樹さんですよね? 伊藤悠真と申します。あなたのお話は哲也からよく聞かされていたので、一度お会いしてみたかったんです。今後とも、どうぞよろしくお願いします」
初対面の相手からフルネームで呼ばれて、智樹は面食らう。
「あ、どうも……って、あれ……? どうして僕の名前……。ていうか哲也って、もしかして田中のことですか?」
「そうです。彼とは大学時代からの付き合いで、今は一緒に暮らしています」
田中は、大学の時に知り合った彼氏と同棲していると言っていた。ということはつまり、目の前にいるこの伊藤悠真と名乗る人物が、田中の彼氏ということになる。
「えっと、あの……それじゃあ、田中と伊藤さんは……」
言い淀む智樹の言葉の続きを、伊藤が笑顔で引き取る。
「付き合っています。先日、田中の方から佐藤さんにカミングアウトしたと聞いたので、近いうちにご挨拶したいなと思っていたんです」
「じゃあ、今日はそれでここへ?」
「それもありますが、メインは別件です」
そこへ、階段の上から彩葉の声が降ってきた。
「伊藤さん! どうしたの? 来るなら事前に連絡してよ」
智樹と伊藤の話し声で目を覚ましたのか、起き出してきた彩葉が二階から下りてくる。
「お久しぶりです、橘先生。何度か連絡を入れたんですが、いつまで経ってもメッセージは既読にならないし、電話にも出ていただけなかったので、直接伺いました」
「さっきまで寝てたんだよ。普通は返事が来るまで待つものなんじゃないの? 急に押しかけて来るなんて、どうかしてるよ。あと、仕事じゃない時はペンネームで呼ぶのやめてほしいんだけど」
「今日は仕事で来てますので、ペンネームで呼ばせていただきます。それと、普段ならこんなふうに押しかけたりしませんよ。ようやく橘光希として小説を書く気になったと知って、その決意が揺らがないうちに話を進めておきたかったんです。送っていただいた新作のプロットと第三章までの草稿を拝読しました。編集会議にかける前に内容を詰めておきたいので、お時間をいただけますか?」
「……断っても、いいよって言うまで居座る気なんでしょ? どうぞ上がって。俺の部屋で話そう」
彩葉が溜め息まじりに告げると、伊藤は靴を脱いで家に上がり、二人で彩葉の部屋へと向かった。
部屋から出てくるのは風呂とトイレと夕食の時だけで、朝食と昼食は部屋に持ち込んで執筆作業の合間に食べる、というような日々が続いている。
今までにも彩葉の仕事が忙しくなる時期というのはあったが、これほどまでに根を詰めて働く姿を見るのは初めてのことだった。
ブックライターとして著名人の本を代筆する傍ら、フリーライターとして様々な媒体で記事を書く仕事も請け負っている、という話を彩葉本人から聞かせてもらったことがあるので、たまたま複数の仕事が一度に重なってしまっただけなのかもしれない。
だが、もしそうだとすると少し腑に落ちない。
だらしない私生活とは対照的に、彩葉の仕事に対する取り組みは真面目そのもので、進捗具合の書き込まれたカレンダーから推測するに、普段はかなり計画的に仕事を進めている印象がある。
どうして今回に限って、こんなにも追い込まれているのだろう。
智樹の抱いた疑問は、ある人物が訪ねてきたことにより、氷解することとなる。
その日、久しぶりに朝からリビングへ降りてきた彩葉は、ダイニングテーブルで朝食をとり、食後のコーヒーを飲みながら智樹に話しかけた。
「今日からしばらく、余裕が出来そうだよ。約束してたデートに行こうか。観たい映画はもう決めた?」
デートの約束を覚えていてくれたことが嬉しくて、智樹は自然と笑みがこぼれる。
「仕事の方はもう大丈夫なの?」
「うん。引き受けていた仕事は前倒しで終わらせたし、今後の仕事につながりそうなことは、向こうからの返事待ちの段階までこぎつけた。相手の返答次第でまた忙しくなるかもしれないけど、それまでの間は暇だよ」
それを聞いた智樹は、彩葉がまた忙しくなる前にデートしておかなくては、と気持ちが焦る。
「じゃあ、今日は?」
「今日? 急すぎない? ここしばらくまともに寝てなかったから、今日はこのあと少し横になりたいな……。明日でもいい?」
そう言いながら、彩葉は申し訳なさそうな表情になる。
よく見ると、彩葉の目の下には濃いクマができていた。
「あ……ごめん。そうだよね、疲れてるよね。もちろん明日で大丈夫だよ。今日はゆっくり休んで」
慌てて智樹が答えると、彩葉は空になったコーヒーカップを持って立ち上がり
「ありがとう。明日、楽しみにしてるね」
と、すれ違いざまに智樹の耳元で囁いた。
彩葉はカップをキッチンのシンクに置いて、リビングを出ていく。
その場に残された智樹は、耳に残る彩葉の声に、いつまでも動悸がおさまらずにいた。
午後になり、そろそろ昼食の準備をして眠っている彩葉を起こさなくては、と智樹が考えていると、玄関のチャイムが鳴る。
インターホンに出ると
「青空出版の伊藤です。タチバナミツキ先生はご在宅でしょうか?」
という落ち着いた男性の声がした。
タチバナミツキ?
智樹の頭に疑問符がいくつも浮かぶ。
人違いか?
でも、タチバナミツキという名前には聞き覚えがあるような気がした。
記憶をたどり、ようやく思い至る。
先日、彩葉から借りた本の作者の名前だ。
二冊の渡された本のうち、確か恋愛小説の方の作者の名前が、“橘光希”だった。
それにしても、なぜこの訪問者は鈴木家に橘光希がいると思ったのだろう。
不審に思った智樹が何も答えずにいると、インターホンの向こうから再び声がした。
「……では、鈴木彩葉さんはご在宅ですか?」
「あっ……はい、彩葉ならいますが……今はちょっと部屋で休んでおりまして……」
しどろもどろな返答をする智樹の対応に、このままでは埒が明かないと判断したのか、今度は玄関の扉をコンコンと叩く音がした。そしてインターホンを通さずに、少し大きな声でドア越しに呼びかけてくる。
「彩葉さんから送っていただいた原稿について、直接お話がしたくて参りました。中へ入れていただけませんか?」
どうやら、彩葉の仕事関係の相手らしいと理解した智樹は、急いで玄関のドアを開けて来訪者を迎え入れる。
中へ入ってきたのは、涼やかな目元をした端正な顔立ちの男性で、智樹に向かってにこやかに挨拶した。
「初めまして。佐藤智樹さんですよね? 伊藤悠真と申します。あなたのお話は哲也からよく聞かされていたので、一度お会いしてみたかったんです。今後とも、どうぞよろしくお願いします」
初対面の相手からフルネームで呼ばれて、智樹は面食らう。
「あ、どうも……って、あれ……? どうして僕の名前……。ていうか哲也って、もしかして田中のことですか?」
「そうです。彼とは大学時代からの付き合いで、今は一緒に暮らしています」
田中は、大学の時に知り合った彼氏と同棲していると言っていた。ということはつまり、目の前にいるこの伊藤悠真と名乗る人物が、田中の彼氏ということになる。
「えっと、あの……それじゃあ、田中と伊藤さんは……」
言い淀む智樹の言葉の続きを、伊藤が笑顔で引き取る。
「付き合っています。先日、田中の方から佐藤さんにカミングアウトしたと聞いたので、近いうちにご挨拶したいなと思っていたんです」
「じゃあ、今日はそれでここへ?」
「それもありますが、メインは別件です」
そこへ、階段の上から彩葉の声が降ってきた。
「伊藤さん! どうしたの? 来るなら事前に連絡してよ」
智樹と伊藤の話し声で目を覚ましたのか、起き出してきた彩葉が二階から下りてくる。
「お久しぶりです、橘先生。何度か連絡を入れたんですが、いつまで経ってもメッセージは既読にならないし、電話にも出ていただけなかったので、直接伺いました」
「さっきまで寝てたんだよ。普通は返事が来るまで待つものなんじゃないの? 急に押しかけて来るなんて、どうかしてるよ。あと、仕事じゃない時はペンネームで呼ぶのやめてほしいんだけど」
「今日は仕事で来てますので、ペンネームで呼ばせていただきます。それと、普段ならこんなふうに押しかけたりしませんよ。ようやく橘光希として小説を書く気になったと知って、その決意が揺らがないうちに話を進めておきたかったんです。送っていただいた新作のプロットと第三章までの草稿を拝読しました。編集会議にかける前に内容を詰めておきたいので、お時間をいただけますか?」
「……断っても、いいよって言うまで居座る気なんでしょ? どうぞ上がって。俺の部屋で話そう」
彩葉が溜め息まじりに告げると、伊藤は靴を脱いで家に上がり、二人で彩葉の部屋へと向かった。
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