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第一部 第一章 カスガイくんは、魔王と勇者の子どもになりたい
1-23 かろうじて致命傷だけですみました
ちゅ、と。
ユラの額の傷口に、マオがキスをした。
「……………………は?」
本当においしいものを食べると、人は「うめえ」しか言えなくなるように、推しカプの尊いシチュエーションを目の当たりにしたオタクは「は?」しか言えなくなる。亮太も例に漏れない。「は? ん? え?」の三段活用を繰り返すだけの、ただのポンコツマシンと化してしまった。
「終わった」
茫然自失状態の亮太が固まっている間に、マオはとっとと目的を達成してしまったらしい。相変わらずの涼しい顔のまま、ユラの頬をあっさり解放する。そのユラはというと、傷があったはずの額を指先でこしこし擦りつつ、地面を抉るかのような深くて重いため息をついた。
「あーもー、魔王さまはもうちょっと自分を大事にしたほうがいいよ? っていうか、いくら魔力の強い魔物だからって絶対おかしいってこんな能力。回復魔法ってレベルじゃなくない? どういうことなの?」
「企業秘密だ」
「そればっかり。ホント秘密主義なんだからなあ――まあ、いいや。ドーモアリガトーゴザイマシター」
なんだこれ最高か。キスすると傷が治る能力とかあんまりにもあんまりすぎて夢ですら思いつかないわ。ここが現実でよかった、神様本当にありがとう。
「ぐふっ」
「おっと」
煩悩と感謝でぱんぱんに詰まった頭が重すぎるあまり豪快に仰け反ってしまった亮太を、シュバっと飛んできたユラが優しく支える。そのままゆっくりと地面に寝かせてくれるだけでなく、膝枕というオプションまでつけてくれるのだから、五つ星ホテルも真っ青な豪華サービスだ。生きててよかった。いや、死んでたっけ。
「大丈夫? 鼻血は出てないみたいだけど、また貧血かな。あっ、それともやっぱりどこか怪我してた? ちょっとよく見せ――」
「大丈夫です、かろうじて致命傷だけですみました……あれ?」
「ん?」
せっかくのユラの細くて張りのある腿を存分に堪能する暇もなく、亮太の目があきらかな異常を捉えた。仰向けになったことで視界いっぱいに広がる空。夕方を過ぎて夜を迎えようとする、オレンジ色と紫色のグラデーションに、くねくねとした細長い線が横たわっている。
「――虹色の、糸?」
「イリディセント・スレッド。次元の歪みが顕著な結界内で稀に発生する現象だ。……おれも久しぶりに見る」
マオの説明に、思わず「ほえー」という感嘆の声が漏れる。虹よりもさらに限定的で希少な光景ということだろうか。その細い糸はゆっくりと本数を増やして、いつの間にかきしめんのように太くなってきている。
「別の次元と別の次元の架け橋だということで、縁結びの象徴みたいに言われることもあるね。まあ、本来なら絶対に相容れないもの同士をつないでいるんだから、その気持ちもわからなくはないかな」
「縁結びですか!」
思わず全身をバウンドさせながら、ユラの言葉に食いつく。マオユラが同時に存在するこの時間、この場所で、赤い糸ならぬ虹の糸がかかるなんて、もはや運命としか言いようがない。湧き上がる感動に胸を震わせながら、亮太はイリディセント・スレッドの不規則な動きを熱い視線で追いかける。
「イリス」
「えっ?」
不意にユラのテノールとマオのバリトンが綺麗にハモるものだから、亮太は驚いて二人を見上げた。当の本人たちも視線を合わせて、きょとんとしている。
「魔王さまも同じことを思ったってこと?」
「そうなる」
「じゃあ決まりだね。――イリス」
イリス。今度は明確な意図を持って、亮太へと呼びかけられる。
これはひょっとしてそういうことだろうか。こんなに綺麗な虹色から、縁結びのシンボルから、自分に関するものをもらってしまっていいのだろうか。
「俺と魔王さまからの初めてのプレゼント。受け取ってくれる?」
期待に輝きながらも、ほんのわずかな不安を混ぜた瞳が亮太の顔を覗き込んでくる。寝そべったままの角度から見ると、ちょうどユラの小さな頭の向こう側に虹色の帯がかかっていた。なんというコラボレーションだろう。信じられないほど美しい光景だった。そして、喉から手が出るほど欲しい贈り物だった。
だから「はい!」と、何の迷いもなく大きく頷く。そんなイリスの声が届いたかのように、イリディセント・スレッドがいっそう眩しい光を放った。
***
「やっぱりちょっと展開が早すぎると思う」
ぽつりと、ユラが週刊少年漫画の編集者みたいなことを言い出した。けれど、やっていることは中居さんだ。三人目のシーツを手際よく広げては、意外に丁寧な手つきで布団に敷いていく。
「魔王さまも、さっさとひとりでアパートに戻ったと思ったら、お泊まりセット持参ですぐに戻ってくるし。服くらい貸しますけど?」
「どう頑張ってもサイズが合わない」
「腹立つわあ」
幻獣を倒したことを調停騎士団に報告してから、亮太たちはブレンゼルのカフェに戻ってきた。滑り込みセーフで間に合った夕食に舌鼓を打ち「三人で暮らすとかどうとかはもう少し相談するとして、とりあえず今夜は俺とイリスだけ上で寝ようね」というユラの提案を「パパも一緒じゃなきゃ嫌です!」とイリスが一蹴して――今に至る。
狭い狭いとは聞いていたが、実際本当に狭かった。店の二階の一角にあるユラの部屋はベッドすらないほど殺風景で、三人分の布団を床に敷き詰めてしまえば、それだけでいっぱいになってしまった。どうやらもともとは物置だったところを無理やり部屋にしたらしい。イリスくらいのサイズならともかく、大人一人が生活するにはさすがに不便なものを感じる。ブレンゼルがユラを店から追い出そうとする背景には、こういう現実もあるのかもしれない。
そんな部屋で、三人はこれから一緒に寝る。
「パパはこっち、ママはこっちです。あ、もしなら二人仲良く並んで寝てもらってもぜんぜん、むしろ逆に推奨というかそっちのほうがありがたいまであるので、ぜひともご検討のほどよろしくお願いします!」
「うん、とりあえずきょうのところは遠慮させてもらうね。俺と魔王さまでイリスを挟むように寝ればいいのかな? 魔王さま、そっち狭くない?」
「問題ない」
いつの間にか布団に入り込んで仰向けになり、胸の上で両手を組んだマオが目を閉じながら答える。その順応性の高さにびっくりするが、一周回って実は何も考えていないだけかもしれない。我がパパながら底の知れない人――もとい、魔物である。
「じゃあ、はい。そろそろ寝ようね。明かり消しちゃっても平気? 怖くない?」
「大丈夫です!」
怖いことなんてあるはずがない。
左を向けば美丈夫。
右を向けば美青年。
テンションが上がりすぎて眠れなくなる心配はあっても、不安なんて何もなかった。
自分がすでに死んでいると知ってしまった今でも――まだ実感がないだけで、のちのち取り乱すようなことがあるかもしれないが――不思議と心は穏やかだ。
(……こんなふうに川の字になって寝たことなんてあったっけ)
馴染みのない天井を見上げながら探すのは、もう二度と会えない家族の面影。
勝手に死んでしまったことは率直に申し訳ないと思う。妹とも、あれが最後になってしまった。気に病んでいないといい。兄のほうは何とも思ってないから。家族みんなで、どうかいつまでも幸せに――。
「……っ」
ツンと鼻の奥が痛くなって、慌てて寝返りを打つ。暗闇に慣れた目が、こちらに顔を向けていたユラの赤い目と出会った。ふわりと微笑まれて、鼻の痛みがさらに強くなる。思わず伸ばした手を、ユラが優しく握ってくれた。だいじょうぶ、と優しく囁いてくれた。
ああ、好きだなあと思う。
推しキャラが死んだことに動揺して妹に蔑まれて家を飛び出して事故に遭って死んでしまったけど、それでも腐男子じゃなければよかったとは思わない。後悔なんてない。
ちゃんと好きなものを、ちゃんと好きでいられた人生だった。
それはきっと、生きる世界が変わっても変わらないだろう。
春日井亮太はイリスとして、また自分らしく生きていく。
「……あ」
(そういえば『子はかすがい』っていうことわざがあったっけ)
確か、子どもの存在が夫婦の縁を取り持つというような意味だった。まさしく、イリディセント・スレッドのように。
天啓を得た気がして、イリスの全身がびりびりと震える。これはもうただの偶然とは思えない。自分はマオユラのいちゃいちゃを見るために、いや二人をくっつけるために異世界召喚されたのだ! そうだ、そうに違いない!
「ママ! ぼく頑張ります!」
「うん、そっか。イリスはすごいね。でも頑張りすぎなくていいよ。いつでも俺と魔王さまを頼ってね」
布団越しにとんとんとお腹を叩かれて、反射的に「はあい」と返事を返した。そんな些細なやり取りが、愛おしくてたまらない。遠足前夜のワクワクなんて比べものにならないほど胸が躍り狂う。
だって推しカプが存在する世界なんて、毎日が楽しいに決まっている。怖いことがあっても、悲しいことがあっても、三人が一緒なら絶対に大丈夫なのだと信じている。
「いろんなマオユラがたくさんたっくさん見られますように!」などと、神様も思わず「お、おう」と怯むような願いをかけながら、イリスは幸せが約束されたあしたに向かって目を閉じた。
ユラの額の傷口に、マオがキスをした。
「……………………は?」
本当においしいものを食べると、人は「うめえ」しか言えなくなるように、推しカプの尊いシチュエーションを目の当たりにしたオタクは「は?」しか言えなくなる。亮太も例に漏れない。「は? ん? え?」の三段活用を繰り返すだけの、ただのポンコツマシンと化してしまった。
「終わった」
茫然自失状態の亮太が固まっている間に、マオはとっとと目的を達成してしまったらしい。相変わらずの涼しい顔のまま、ユラの頬をあっさり解放する。そのユラはというと、傷があったはずの額を指先でこしこし擦りつつ、地面を抉るかのような深くて重いため息をついた。
「あーもー、魔王さまはもうちょっと自分を大事にしたほうがいいよ? っていうか、いくら魔力の強い魔物だからって絶対おかしいってこんな能力。回復魔法ってレベルじゃなくない? どういうことなの?」
「企業秘密だ」
「そればっかり。ホント秘密主義なんだからなあ――まあ、いいや。ドーモアリガトーゴザイマシター」
なんだこれ最高か。キスすると傷が治る能力とかあんまりにもあんまりすぎて夢ですら思いつかないわ。ここが現実でよかった、神様本当にありがとう。
「ぐふっ」
「おっと」
煩悩と感謝でぱんぱんに詰まった頭が重すぎるあまり豪快に仰け反ってしまった亮太を、シュバっと飛んできたユラが優しく支える。そのままゆっくりと地面に寝かせてくれるだけでなく、膝枕というオプションまでつけてくれるのだから、五つ星ホテルも真っ青な豪華サービスだ。生きててよかった。いや、死んでたっけ。
「大丈夫? 鼻血は出てないみたいだけど、また貧血かな。あっ、それともやっぱりどこか怪我してた? ちょっとよく見せ――」
「大丈夫です、かろうじて致命傷だけですみました……あれ?」
「ん?」
せっかくのユラの細くて張りのある腿を存分に堪能する暇もなく、亮太の目があきらかな異常を捉えた。仰向けになったことで視界いっぱいに広がる空。夕方を過ぎて夜を迎えようとする、オレンジ色と紫色のグラデーションに、くねくねとした細長い線が横たわっている。
「――虹色の、糸?」
「イリディセント・スレッド。次元の歪みが顕著な結界内で稀に発生する現象だ。……おれも久しぶりに見る」
マオの説明に、思わず「ほえー」という感嘆の声が漏れる。虹よりもさらに限定的で希少な光景ということだろうか。その細い糸はゆっくりと本数を増やして、いつの間にかきしめんのように太くなってきている。
「別の次元と別の次元の架け橋だということで、縁結びの象徴みたいに言われることもあるね。まあ、本来なら絶対に相容れないもの同士をつないでいるんだから、その気持ちもわからなくはないかな」
「縁結びですか!」
思わず全身をバウンドさせながら、ユラの言葉に食いつく。マオユラが同時に存在するこの時間、この場所で、赤い糸ならぬ虹の糸がかかるなんて、もはや運命としか言いようがない。湧き上がる感動に胸を震わせながら、亮太はイリディセント・スレッドの不規則な動きを熱い視線で追いかける。
「イリス」
「えっ?」
不意にユラのテノールとマオのバリトンが綺麗にハモるものだから、亮太は驚いて二人を見上げた。当の本人たちも視線を合わせて、きょとんとしている。
「魔王さまも同じことを思ったってこと?」
「そうなる」
「じゃあ決まりだね。――イリス」
イリス。今度は明確な意図を持って、亮太へと呼びかけられる。
これはひょっとしてそういうことだろうか。こんなに綺麗な虹色から、縁結びのシンボルから、自分に関するものをもらってしまっていいのだろうか。
「俺と魔王さまからの初めてのプレゼント。受け取ってくれる?」
期待に輝きながらも、ほんのわずかな不安を混ぜた瞳が亮太の顔を覗き込んでくる。寝そべったままの角度から見ると、ちょうどユラの小さな頭の向こう側に虹色の帯がかかっていた。なんというコラボレーションだろう。信じられないほど美しい光景だった。そして、喉から手が出るほど欲しい贈り物だった。
だから「はい!」と、何の迷いもなく大きく頷く。そんなイリスの声が届いたかのように、イリディセント・スレッドがいっそう眩しい光を放った。
***
「やっぱりちょっと展開が早すぎると思う」
ぽつりと、ユラが週刊少年漫画の編集者みたいなことを言い出した。けれど、やっていることは中居さんだ。三人目のシーツを手際よく広げては、意外に丁寧な手つきで布団に敷いていく。
「魔王さまも、さっさとひとりでアパートに戻ったと思ったら、お泊まりセット持参ですぐに戻ってくるし。服くらい貸しますけど?」
「どう頑張ってもサイズが合わない」
「腹立つわあ」
幻獣を倒したことを調停騎士団に報告してから、亮太たちはブレンゼルのカフェに戻ってきた。滑り込みセーフで間に合った夕食に舌鼓を打ち「三人で暮らすとかどうとかはもう少し相談するとして、とりあえず今夜は俺とイリスだけ上で寝ようね」というユラの提案を「パパも一緒じゃなきゃ嫌です!」とイリスが一蹴して――今に至る。
狭い狭いとは聞いていたが、実際本当に狭かった。店の二階の一角にあるユラの部屋はベッドすらないほど殺風景で、三人分の布団を床に敷き詰めてしまえば、それだけでいっぱいになってしまった。どうやらもともとは物置だったところを無理やり部屋にしたらしい。イリスくらいのサイズならともかく、大人一人が生活するにはさすがに不便なものを感じる。ブレンゼルがユラを店から追い出そうとする背景には、こういう現実もあるのかもしれない。
そんな部屋で、三人はこれから一緒に寝る。
「パパはこっち、ママはこっちです。あ、もしなら二人仲良く並んで寝てもらってもぜんぜん、むしろ逆に推奨というかそっちのほうがありがたいまであるので、ぜひともご検討のほどよろしくお願いします!」
「うん、とりあえずきょうのところは遠慮させてもらうね。俺と魔王さまでイリスを挟むように寝ればいいのかな? 魔王さま、そっち狭くない?」
「問題ない」
いつの間にか布団に入り込んで仰向けになり、胸の上で両手を組んだマオが目を閉じながら答える。その順応性の高さにびっくりするが、一周回って実は何も考えていないだけかもしれない。我がパパながら底の知れない人――もとい、魔物である。
「じゃあ、はい。そろそろ寝ようね。明かり消しちゃっても平気? 怖くない?」
「大丈夫です!」
怖いことなんてあるはずがない。
左を向けば美丈夫。
右を向けば美青年。
テンションが上がりすぎて眠れなくなる心配はあっても、不安なんて何もなかった。
自分がすでに死んでいると知ってしまった今でも――まだ実感がないだけで、のちのち取り乱すようなことがあるかもしれないが――不思議と心は穏やかだ。
(……こんなふうに川の字になって寝たことなんてあったっけ)
馴染みのない天井を見上げながら探すのは、もう二度と会えない家族の面影。
勝手に死んでしまったことは率直に申し訳ないと思う。妹とも、あれが最後になってしまった。気に病んでいないといい。兄のほうは何とも思ってないから。家族みんなで、どうかいつまでも幸せに――。
「……っ」
ツンと鼻の奥が痛くなって、慌てて寝返りを打つ。暗闇に慣れた目が、こちらに顔を向けていたユラの赤い目と出会った。ふわりと微笑まれて、鼻の痛みがさらに強くなる。思わず伸ばした手を、ユラが優しく握ってくれた。だいじょうぶ、と優しく囁いてくれた。
ああ、好きだなあと思う。
推しキャラが死んだことに動揺して妹に蔑まれて家を飛び出して事故に遭って死んでしまったけど、それでも腐男子じゃなければよかったとは思わない。後悔なんてない。
ちゃんと好きなものを、ちゃんと好きでいられた人生だった。
それはきっと、生きる世界が変わっても変わらないだろう。
春日井亮太はイリスとして、また自分らしく生きていく。
「……あ」
(そういえば『子はかすがい』っていうことわざがあったっけ)
確か、子どもの存在が夫婦の縁を取り持つというような意味だった。まさしく、イリディセント・スレッドのように。
天啓を得た気がして、イリスの全身がびりびりと震える。これはもうただの偶然とは思えない。自分はマオユラのいちゃいちゃを見るために、いや二人をくっつけるために異世界召喚されたのだ! そうだ、そうに違いない!
「ママ! ぼく頑張ります!」
「うん、そっか。イリスはすごいね。でも頑張りすぎなくていいよ。いつでも俺と魔王さまを頼ってね」
布団越しにとんとんとお腹を叩かれて、反射的に「はあい」と返事を返した。そんな些細なやり取りが、愛おしくてたまらない。遠足前夜のワクワクなんて比べものにならないほど胸が躍り狂う。
だって推しカプが存在する世界なんて、毎日が楽しいに決まっている。怖いことがあっても、悲しいことがあっても、三人が一緒なら絶対に大丈夫なのだと信じている。
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