マカオの男 - O Homem di Macau -

ナムラケイ

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愛の力は偉大

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 翌朝、経済産業省のエレベーターで、梨緒とばったり出くわした。
「お疲れ」
「お疲れ。梨緒、動画ありがと」
「どういたしまして」
 他の職員もいるので、夏野は声を落とした。
「あのさ、田村サキさんって知り合いだったりしないよな?」
 梨緒は首を傾げて、小声で応じた。
「全然。彼女の拠点は中国だし。通訳会社に所属してるかもしれないから、ネット検索してみたら?」
「いや、いいんだ。ありがとう」
 夏秀文。
 何度もググってみたい衝動に駆られたが、やっぱりやめた。
 そういうやり方って、なんか違う気がするのだ。古臭いかもしれないけど。

 鳴りやまないキーボードの音。電話対応。テレビから流れる国会中継。走り回る若手職員。
 午前中の執務室はばたばたと騒がしい。
 夏野はパワーポイントを立ち上げて、明後日の総理説明用の資料を作成する。
 見やすく分かりやすく美しく。パワポ技術はもはや職人技だ。
 今は、課員全員、毎日深夜残業しても終わらないほどの繁忙期だ。
 毎月1日は有給休暇を取得するよう奨励されているのは建前で、インフルエンザか冠婚葬祭でもないと休める雰囲気ではない。
 マカオまでは飛行機で5時間弱。
 土日で行かれない距離ではないが、ジーンが留守にしていたらアウトだ。
 動画では香港にいたし、通訳の仕事は外出が多いだろう。

 本当に、アホだな俺。
 こんな思いをするなら、連絡先くらい聞いておけばよかった。
 逃げ出さずに、ジーンの気持ちに向き合っていればよかった。
 後悔先に立たずとはよく言ったものだ。

 完成した資料案をメールに添付して、班長にチェックを依頼する。送信のEnterキーを押すと、夏野は席を立ち、同期の笹川がいる人事課に向かった。
「笹川」
「おう。日向。珍しいな」
 笹川は夏野の表情を見ると、「廊下に出るか?」と腰を上げた。察しが良い男だ。
 どの組織でも、その組織の特性に応じた花形部署はある。が、それ以上に権力を持つのが、ヒトとカネを司る部署だ。
 経済産業省では、大臣官房秘書課と会計課がそれにあたる。前者は全職員の人事を、後者は文字通り全事業の予算を司る。
 忖度や空気を読むのが得意な笹川は、まさに人事課に適任だ。
 使っていない会議スペースに夏野をいざなうと、笹川は腕を組んだ。
「で、何の相談だよ」
「何で相談って分かるんだよ」
「顔見りゃ分かるだろ。おまえ、すぐ顔に出るし」
 そんなに分かりやすいとはショックだが、話しやすくはなったので、夏野は切り出した。
「あのさ、うちの役所、マカオにポストとかないよな」
 笹川は表情を崩さずに即答した。
「マカオにはないが、香港にはあるぞ」
「香港」
「マカオから、フェリーでもバスでも1時間前後だ」
 笹川の指摘に、夏野は瞬く。
「え、そんな近いのか?」
「世界地図くらい見ろよ。ってか、そんなことも知らずにマカオ旅行してたのか」
 その場でグーグルマップを確認すると、確かに近い。すぐそばだ。
「知らないだろ、普通」
「知ってるよ、普通。話が脱線したな。香港なら、日本貿易振興機構(JETRO)の香港事務所と香港総領事館がある。領事館の方は外務省に出向しての赴任だな」
「どっちか、俺が行けるチャンスってあるのか」
 夏野ははやる心を押さえる。どきどきしている。
 週末を使った電撃訪問も考えたけれど、会って思いを伝えたあと、なるべく長く一緒にいられる方法を探しておきたかった。
「ちょっと待ってろ」
 笹川は一旦執務室に戻ると、すぐに戻ってきた。出来る男は仕事が早い。
「香港総のポストが空いてる。今送ってる奴が精神的にちょっとダメになって、後任を探してるところだ。上と話したが、日向は年次が若いがそこはなんとかなる。ただし、条件がひとつ」
「なに?」
「語学だ」
「英語じゃ駄目なのか」
「外務省は、できれば広東語が使える人材を望んでる。前任は12月上旬の帰国を希望しているから、あと3か月か。3か月でモノにできるか?」
 マカオで耳にした広東語が蘇る。
 エネルギーに満ちて歯切れがよく、けれど歌のようにも聞こえる、あの異国の言葉を。
 山ほどの難しい漢字を。3か月で。
 夏野はぎゅっと拳を握った。
「やる」
 笹川は驚いた顔をしたが、眼鏡の奥の目はすぐに和らいだ。
「分かった。上司に伝えておく。後から正式に連絡するから」
「ん、サンキューな。持つべきものは同期だな」
「調子いいな」
 笹川は笑って、付け加えた。
「しかし勉強嫌いの日向が広東語とは。愛の力は偉大だな」
「……は?」
 夏野はフリーズする。
 愛? 
 いや、愛、なんだろうけど。なんで笹川が。
「うまく行ってるんだろ、あのマカオの男と」
 顔に血が昇る。あまりの羞恥に大声を上げた。
「はああ? 違う、違う、ちげえよ!」
「え、違うのか?」
「違う! まだ付き合ってない!」
「まだ? 何やってんの、おまえら」
 夏野の慌てっぷりに、笹川は余裕の表情だ。
「ってか、なんでおまえが知ってんだよ、じゃなくて!」
「まあ、落ち着け」
 混乱する夏野の肩をぽんぽんと叩いた。
「悪かったよ。知ってたわけじゃない。なんとなくそうかなって思ってただけで、おまえが今日マカオのポストを聞いてくるまでは確信もなかったよ。松井も含めて誰にも言ってない。ついでに偏見もない」
「なんで、そうかなって思ったんだ?」
 恐る恐る聞いてみる。
 笹川がジーンに会ったのは、あの朝食の時の一瞬だけだ。
 確かにジーンは運命的な関係とか何とか恋モード全開で夏野に絡んできたが、あんな冗談みたいな戯れだけで、友人が男と付き合っているなどと思うだろうか。
「おまえ、顔に出やすいって言っただろ。帰りの空港で、帰りたくないって顔に書いてた。ずっと泣きそうな顔してたし、機内で寝てる時、その男の名前を何回も呼んでた」
 笹川は静かに言った。揶揄う口調ではなかったが、それでも。
 恥ずかしすぎる。
 同期にそんな姿を見られるとは。
「恥ずい」
 夏野はしゃがみ込んで、両手で顔を覆った。
「うん、だろうな」
「穴があったら入りたい」
「はは、穴はないからなー」
 笹川は軽口を叩きながら夏野を見下ろし、その頭をぽんと叩いた。
「広東語、頑張れよ。で、うまく行くといいな」
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